月曜日、パクティア州南東の首都ガルデズで行われた武装解除の儀式に続いて、元戦闘員であるSpingul氏は、友人たちとともに、伝統的なパクティア式ダンスを披露した。
「任意で銃を差し出すことができて幸せだ。今や戦争は終わったのだから、銃は要らない。」と、アフガニスタンの新しい始まりという名のプログラム(ANBM)のDDR(武装解除・動員解除・社会復帰)プロセスに参加する35歳の者は、GardezでIRINに話した。
「厳しい戦闘の世界に再び参加する必要がないことを願っている」と15年間戦闘に従事してきた彼は語った。動員解除され、社会復帰を遂げた今、大工となることを夢見ているとSpingul氏は話した。
「少なくとも私たちは生きるということの真の意味を知ることができるだろう」、満足げにうなずく友人たちにほほえみかけながら、彼は話した。
パクティア州の武装解除はアフガニスタン北東部の北東クンドゥズ州に続く2つめの試行である10月21日に、千人の元戦闘員が武装解除・動員解除され、現在は日本が数百万ドル拠出し国連が支援するキャンペーンを通じて、社会復帰を行っている。
ガルデズでは武器回収は11月9日に始まり、月曜日現在、合計595名が武装解除されたと国連は話す。「これまでは、我々は(ガルデズの)第3軍団第12師団、加えて他の諸大将(Gardezにおける軍分遺団の諸指揮官)のグループから兵士の武装解除を行ってきた。あと数日間続く。」と、ANBP報道官Jim Ociti はGardezでIRINに対し話した。
来年の初夏に始まる予定である-元戦闘員10万人の本格的な武装解除-の前に、クンドゥズ州やパクティア州に加えて、4ヶ所で行われることとなっている、とocitiは話した。「クンドゥズ、ガルデズ(パクティア)マザリシャリフ(バルヒ)、パルワン(カブールl)カンダハール、そしてバーミアンの合計6州で6千人が武装解除される予定である。」と彼は話し、問題の多い北部都市マザリシャリフが次のターゲットで来月中には武装解除が行われる、と付け加えた。
ガルデズの第三軍団の指揮官 Gen Monir Mohammad Ludin、その州における軍でトップの人物であるが、彼は次のようにIRINに話した。
パクティアはすでに南西部の他州より安全であったが、動員解除によってその治安は更に強化されると語った。
「私はこの州内において、さらなる紛争が生じるとは考えていない。人々は戦争にうんざりしている。」と、三等大将は話した。人民のジルガ(会議)は治安を維持してきたし、そして軍分遺団が武装解除となっても治安に穴があく恐れはないと主張した。
「第三軍団には4200人がおり、4つの師団と他の小規模な分遺団があった。全員本格的DDRの時に、武装解除され、社会復帰する」と大将は話した。現在設立中のアフガン国軍が将来、全分遺団を引き継ぐかもしれないと付け加えた。
ANBPによれば、火曜日、武装解除された兵士が動員解除し始める。その間、文民としての生活に戻る過程を助けるため、各人は食糧、文民としての衣服といくらかの財政的援助を受ける。その後、元兵士は社会復帰し始め、その過程で彼らは選択肢から選ぶことになる。
「私たちは一定範囲の選択肢を提供している。農業、地雷除去、商業、賃金労働、職業訓練のような他の諸産業などの選択があり、またアフガン国軍や国家警察に加わりたい者にはその選択もある。」と、Ocitiは説明した。
月曜日の儀式の一部として、兵士らはGardezでパレードに参加した。その行進には、FM Mohammad Qasem Fahim国防大臣ら国防省の補佐が数名、-DDR努力への主要な援助国-日本とカナダの軍関係者や、ANBPの高官らが、参加していた。
戦車や対航空機ミサイル、ロケット推進式手榴弾、AK-47型突撃銃(アソールトライフル)、軽機関銃などの数種類の重装・軽装兵器が、Gardezで兵士より回集されたとANBPは話した。
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アフガニスタン:女性の、政治的権利の躍進
少なくとも64人の女性が、来月、国の憲法を形成する国民議会(ロヤジルガ)に参加する。
クリスチャン・サイエンス・モニターの記者、Ilene R. Prusherの報告
ロガール、アフガニスタン-ある晩、彼らはNafesa Bahaのドアに手紙を差し込んだ。それには「警告。もしあなたが、暫定政権に女性を選出するようなことを続けるのなら、あなたがターゲットになる。」
しかしBana氏は、やりとげなければならないと、戦いに挑むと決心した。このような脅しに直面して、彼女は今週新しい種類の選挙、女性の為だけの選挙を指揮した。来月カブールで開催されるかなり保守的なロガールで、二人の女性がロヤジルガ(アフガニスタンの憲法を形成しその将来を決定するであろう国民大会議)で、地域の代表として選ばれた。この木曜日でイスラム教の原理主義的な解釈から女性や少女たちに対し、家にとどまり、全身を覆うブルカを身につけるよう強要していたタリバン政権が崩壊してから、2年になった。2年の間に、このような制限はゆるくなったが、完全になくなってはいない。首都から1時間半南のこの州では、この厳重に警護された投票所に現れた全ての女性は、ブルカを身にまとっていた。もっとも彼女たちは投票所に入ったとたんポリエステルの青い覆いを、まとってはいたが。中には、選挙に参加するために家族に嘘をついてきた、という者もいた。
ロガール州の憲法制定のためのロヤジルガの女性部門を率いるBahaは、地元の軍事司令官にその脅迫状を持っていったと言っている。彼は彼女にカラシニコフ銃を与え、送り返した。
「私は夜家の周りをパトロールし、安全のためにそれを携帯します。」とBahaは、深い褐色の肌に対して目立つ歯を見せてにっこり笑いながら言う。「私は、たとえ彼らが私を殺そうとしても、これを何としても続けます。」
重要な指標
女性がロヤジルガに選ばれることに直面する明らかな困難を回避することをロヤジルガが女性だけの選挙で女性だけに投票させるという考えを基としている。12月10日に召集されるロヤジルガでは、アフガニスタンの将来の政府や裁判のシステムがどうあるべきかを決定する意義があるという意味で、真の政権交代の重要な指標となる。
先週公表された憲法の草案は、イスラム社会と民主主義の間の調和を見出そうとしたものであるが、女性たちがよりよい地位を得ることを保証するところまではいかない、と人権派は言っている。
「新憲法では、男性はまだ4人の妻を持つことが認められているが、私たちはそれを禁止にしたい。」と、前回のロヤジルガへの代表団であったNijiba Saidは、一部の女性たちが変えたいと思っている問題のひとつとして挙げた。
他には、離婚や相続といった問題に関する平等の権利がある。
500議席のうち少なくとも64議席は、女性のために確保されており、アフガニスタンの32州から女性が2人ずつ選出されることになる。しかし女性は、一般の選挙でも選ばれる可能性があり、更にハミッド・カルザイ大統領によって、50議席指名される。女性は半遊牧のKuchis族や在パキスタン・イラン難民のような少数派のために確保されている、他のカテゴリーでも選出される可能性もあり、100人近い女性たちが参加できるかもしれないという期待が女性グループの間であがっている。
狭い参加層
といっても出馬するものは、むしろ社会の極わずかな人口層である。ロヤジルガに選出されるのは識字者だけかもしれないし、とするとそれはアフガニスタンの女性の約10%に過ぎない。
選挙に登録をすることを依頼された女性は、非政府組織の援助団体のリーダー、あるいは学校の先生や校長だった。彼女らの間でさえ、参加するのに苦労した者や、夫に告げずにその問題を避けた者もいた。
「私はカブールでロヤジルガに参加したい。でも私の家族が許さない。」と、3年生の先生であるRosia Abassyは言う。「彼らは今日ここに私が来るのを許してくれたので、今朝学校に教えに行くふりをした。」
当地の選挙には予想を下回る約60人の女性が参加しただけだった。視察に来た国連の職員によると、200人以上いた州もいくつかあったという。
しかし、タリバン勢力やその他の原理主義のグループが勢力を回復していると言われている地域ほど、女性たちが投票するのは難しい。
はるか南東部のパシュトゥン民族が多数を占めるパクティカ州では、「ここでは、選挙に登録している女性は一人もいない。」と、アフガニスタン全土での女性のための選挙参加をすべて調査しているFirouza Nawabiは言う。「ここでは11月3日に選挙を行う予定だったが、女性は一人も参加しなかった。」
他の地域でも問題が起こっている。委員たちはまだ、カブールの北部のパルワン州で有効な選挙を行うために奮闘している。タリバン勢力の打倒をアメリカが支援した北部連合市民軍の中核地であるパンジシール地区からの女性は、先週の土曜日の選挙には誰も来なかった。
「モスクでムッラーが、女性は選挙に参加できないと宣告したのです。」と、じゅうたんの上に集まった女性に選挙の基本原則について説明する前に、Nawabiはため息をついた。
彼女たちはまだ祝賀のキスをしている中、ブルカがかばんから取り出され、すばやく頭からすっぽりと再び着用された。投票者たちはブルカをはためかせながら、家に帰って行った。
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アフガニスタン:干ばつに苦しむ町、イランに水源を求める
干ばつに襲われた国境地域は生命維持に必要な水の供給源を探し奔走。
アフガニスタン南西部のザランジという国境の街は深刻な干ばつに見舞われており、そこにとどまっている人々はイランからの高価な水に依存するまでになっている。もしその水を買う金がないなら、地元の塩水で洗い物をし、それを飲料水としなければならない。地方当局は清潔な水を供給するためにこれ以上のことはできないと言っている。
ニームルーズ州の首都であるザランジはニームルーズを流れるヘルマンド川の水位が下がって井戸が干上がったために数年間にわたる干ばつに苦しんできた。今年はじめにアフガニスタンの他の地方の干ばつを終息させた雨や雪の恩恵をこの砂漠地帯はほとんど受けなかったようである。水の供給システムが90年代半ばから末期にかけてのタリバン支配下の放置によって崩壊したことによりこの問題は悪化した。
世界保健機構(WHO)の統計によると、ザランジの人口は1997年の10万人から昨年の6万人に急激に減少した。ザランジから車で約三時間のゴールゴーリの町はその人口の半分がこの一年半の間に少しづつ減っていき、ほとんど廃墟で、 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のカブール事務所では昨年ニームルーズ州から他の州へ移動した5000人の避難民を登録した。UNHCRによると国内難民の大半の割合は干ばつに襲われた南部からの人々である。
ザランジに残っている住民はイランからタンク車で運ばれた水を買わなければならない。もし買う金があればである。その水の価格は20リットルが100イラン・トーマーン、約12USセントで、人々は洗濯や料理そして飲料用に使う。タンクで輸送されるため、水は不潔になり人々は度々病気になると地元の役人はIWPRに語った。
「私達のように教育を受けたものは、水を沸騰させなければならないと分かっている。」と地方自治体の女性問題部署で働いているGul Makaiは言った。「しかしそうした知識がなかったり字を読めない人は、皮膚病、伝染病、下痢そして私達が想像すらできないような他の病気も含めてあらゆる病気に苦しんでいる。」
あまりに貧しくて輸入された水を買うことのできない人々は地元の井戸を使わなければいけない。しかしザランジは海抜以下のところにあり、井戸水は新しい井戸からであっても塩分を含んでいる。「人々は飲まなければ仕方ないのでこれを飲むのだ。」とザランジ病院の救急課のAbdu Sakoor医師は述べた。
彼の患者の60パーセントは地元の水を飲んで病気になった人だと言った。
この水は大変塩分が高いので洗浄には向かない。「町の水では衣類を洗うことすらできない。」とザランジの主婦のHabibaは言った。「この水で体を洗ったとしても皮膚はきれいにならないし、乾燥するので、ローションを使う。」彼女の幼い娘の肌は日に焼けた地面のように乾いていた。
Abdu Shakoor医師は国連やアフガン政府に救援を求める嘆願は結果をもたらしていないと述べた。
WHOは1997年に新しい水処理施設、配水システムやヘルマンド川からザランジへ水を引くポンプ場を完成させたが、しかし川が干上がってしまったためこれらの施設は有効でなくなってしまった。
つい最近、地方当局はイランからの25キロメートルのパイプラインの資金援助をした。それは約1カ月のうちに使用を開始し、飲料水を運びいれることになる。しかしこれでは町の必要量の40~50パーセントしかカバーできないだろうと市の行政官であるHaji Mohammed Yaqoubは警告した。そして地元の役人は住民が清潔な水にどれくらいの代金を払うことになるのかをまだ決めていない。
州のレベルでも取り組みがなされてきた。当局は村落地域で幾つか井戸を掘ってきた。しかし、現在ニームルーズに達する手前で、砂の中に潜ってしまうLashkari川からのパイプラインで水を運ぶことに、隣接するヘルマンド州当局から同意を得られていない。
Haji Abdul Karim Barahawi州知事はニームルーズ当局はできうる限りのことをやってきたとIWPRに語った。彼はハミド・カルザイ大統領を含むカブールの政府に、いくらかの援助を配分してもらいたいと嘆願したがこれまで成果は得られていない。
新しい水源を探すことに加え、当局者は現在イランから輸入している水がより手ごろな価格になるようにいっそうの努力をしてきた。地方当局は輸入された水20リットルあたり50トーマーンあるいは6セントという料金上限規制を課そうとしてきたとYaqoubは言った。しかし彼らはこの制限を実施する手段をもっていない。そして水の売り手はこのような価格では利益が得られないとこれを無視している。Zar Gulという一人の売り手はIWPRにこう語った。「50トーマーンで水を売ることは我々にとっては全くの損である。我々は燃料の経費をまかなうのに足る金を得ることもできない。我々の労働と車の維持費はそれ以上に高くつく。」
ザランジの住民の多くは唯一の長期的な解決法はヘルマンド川の上流のカマルカーンにダムを建設する計画を推進させることだと信じている。しかしイラン南東の町ザーボルもこの川に依存しておりイランとの係争はこの計画を何年も引き伸ばしてきた。当面ザランジの住民はこの土地に留まる理由は唯一活発な、合法的な交易や密輸などのイランとのビジネスである。
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アフガニスタン:国連は憲法草案公布を歓迎
アフガニスタンは民主主義へ向けてまた一歩前進した、と同国のUNAMA(国連アフガニスタン支援ミッション)は今日発表した。
UNAMAのスポークスマンDavid Singh氏は、この公布を1年以上におよぶ尽力の産物であると賞賛し、草案は終局的に戦争で荒廃した国における国家の団結と法の支配を強化することになるだろう、と述べた。
「草案は多くの重要で複雑な問題に関してアフガニスタン国民の考えを反映する為に真剣な試みを映し出している。すなわち、個人の権利と自由、本質、統治のあり方、中央政府と地方行政機関それぞれの権力、全国民の平等、イスラム教の役割、アフガニスタンに存在する言語や宗派の地位、などである。」とSingh氏はカブールでの会見で述べた。
草案は首都で5週間後に開かれるロヤジルガ(国民大会議)の会議でその有効性を試される、と彼は言った。そのためこの5週間、草案は討論のために国中に配付されている。
委員会で練られた憲法草案については既に政府内での詳細な討論と同様に、全国で市民協議というプロセスも経てきた。
Singh氏はこれからやるべき事はたくさんある、と釘をさした。「他国の憲法と同じく、アフガニスタン憲法は根本的な問題に取り組んでおり、そうした問題に対する国民の意見は様々だ(必ずしも一致していない)。ロヤジルガ(国民大会議)での成功はリーダーシップと寛容と譲歩の精神が要求される。」と彼は言う。
Singh氏は、アフガニスタン国民が自ら熱望する国家統合のしるしを現すような憲法を採択するにあたって、国連の支援を誓約した。
そして憲法協議事務局局長のFarooq Wardak氏は記者会見で、アフガニスタン国民に草案を配付する為の努力を述べた。「これまで、我々は7000部の公式コピーを作成してきた。」と彼は述べ、様々な形式で追加の10万部以上のコピーを配布する為の計画もある、と付け加えた。
Wardak氏は草案に対するこれまでの反応について質問されると、広範囲に渡る賞賛があった、と述べた。同時に、いくつかの消極的見解や君主制復帰の支持者や連邦主義を支持する他の人々から疑問が挙げられたと述べた。
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女性のための法的救済と安全保障の欠如
情報源:アムネスティ・インターナショナル
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国際社会はアフガニスタンの女性に自由と平等をもたらすという約束を果たせていないと、アムネスティ・インターナショナルは本日出された報告書の中で述べた。
「2年近くの間、差別、暴力、治安の悪さが蔓延している。ブッシュ大統領、パウエル国務長官を含む世界のリーダーによる、アフガニスタンでの戦争が女性に自由がもたらすだろうという約束にもかかわらずである」と団体は強調した。
新たな報告書「Afghanistan:No one listens to us and no one treats us a human beings. Justice denied to wemen(アフガニスタン:誰も私たちに耳をかさない、そして私たちを人間として扱わない。法的救済は女性たちを拒絶した)」には、はびこるドメスティック・バイオレンス、強制結婚、武装集団によるレイプといったアフガン女性の問題が挙げられている。8歳の幼い少女が、年配男性と結婚させられた事例もある。
「この状況は受け入れがたく、緊急行動を必要とする」とアムネスティー・インターナショナルは述べる。
また報告書はアフガニスタンの女性が救済を受けることができない状況についても強調する。移動の自由を制限する規範の廃止にもかかわらず、社会や、多くの地域コミュニティーに存在する障害のために、女性たちは救済を求めることができない。たとえ、女性が警察や裁判所へ訴えることができたとしても、その女性は深刻な差別に直面する。
「現在の刑事法制度は、女性に対する暴力の問題を解決する意志や能力に欠ける」、と団体は述べている。「現在、刑事法制度は女性の権利を保護し向上させるというよりは、むしろ女性の権利を侵害することの方が多い。」
新たな報告書では、アフガニスタンの女性の法的救済を確保する約束を果たすため、アフガニスタン政府と国際社会が直ちにとるべき措置の概略を述べている。法の支配を確立できる環境を創造するため、カブール外への国際平和維持軍拡大を通じて、安全保障を供給することが最優先である。
「女性の権利保護は法の支配なしには、意味あるものとして確立し得ない。」
さらに団体は国際社会に、協働して警察の再建、法律の改正、裁判所の設立などの取り組みに女性の権利保護を取り入れるよう要請した。
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原文 http://www.reliefweb.int/より
インドネシア洪水:OCHA状況報告書NO2
情報源:UN Office for the Coordination of Humanitarian Affairs (OCHA)
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■インドネシア:OCHA状況報告書 No.2
OCHA 状況報告書 No. 2
インドネシア – 鉄砲水
2003年11月3日発生
このレポートはOCHAインドネシア事務所、社会局、赤十字国際連盟(IFRC)、インドネシア赤十字社(PMI)、州政府、スマトラ北部のSatkorlak PBP(災害マネージメント州コーディネート協会)、国際NGOを通じて提供された情報をもとにしたものである。
現状と損失
スマトラ島北部
Bahorok地域は面積955,100ヘクタールで、人口42,195人である。もっとも被害を受けた村は合計人口の1300人のBukit Lawang, Timbang Lawang, Sampe Rayaであった。
Bahorokの鉄砲水はメダン市から約96キロ北西部にあるLeuser山斜面から数百本の樹木を流し去った。流された樹木がもろい金属板屋根を付けた竹の家やリゾートコテージ、コンクリートの建物を破壊し、人々は木の破片の下に埋もれた。
11月5日の時点で、この鉄砲水によって97人が死亡、未だ124人が行方不明。そして200人が負傷した。5人の外国人観光客が死亡したことが確認されている。(オーストラリア人2人、シンガポール人1人、ドイツ人1人、もう一人は国籍不明のままである。)オランダ人1人は重傷を負っている。
この鉄砲水は402家屋を流し、コテージ400戸、橋8本、バス2台、車5台、そして保健所1箇所が深刻な被害を受けた。被災地の3つの村では停電が続いている。 雨は止んだと伝えられており、水のレベルも低くなってきている。
国内対応
11月5日、メガワティ大統領は大統領宮殿で行われたセレモニーで被害者に対して深い哀悼の意を表した。またこのような深刻な鉄砲水を引き起こすことになった引き続く環境破壊への懸念を表明された。
スマトラ島北部で進行中の救助活動はインドネシア赤十字社、警察、捜索救援チーム(SAR)、軍(TMI)の200人以上が関わっている。
州知事広報官によれば、救助、避難、復興の3段階アプローチが自然災害の対応にこれまで適用されきた。
11月5日の時点で、地元政府は16.2MTの米やその他の食糧(インスタントヌードル、食用油、卵、砂糖、缶詰)を配給し、また1億4千万インドネシアルピー(13,571アメリカドル)をこの災害への対応金として割り当てた。
スマトラ北部の州知事は3人のインドネシア大臣、すなわち厚生大臣、社会大臣、住居と地域インフラ大臣と共に11月4,5日に被災地を訪れた。この訪問をもとに、中央政府は10億インドネシアルピー(119,047アメリカドル)を提供する。
社会局もまた3億インドネシアルピー(35,714ドル)の援助を提供する。この援助は被害者の家族へと渡される。金銭の援助に加えて、社会局は州政府を通して食糧パッケージ2000、食糧外パッケージ250、調理用具250パッケージ、一時的避難所としてのテント30張と50MTの米を提供した。
11月3日以降、Satkorlak, TNI, 地元保健局(DinKes)などのすべての関係機関が参加する調整機能が州政府によって確立された。政府は緊急対応所(POSKO)を設立し、家を失った300人の避難所となっている。同じ場所が死体確認所としても使用されている。1箇所の共同炊事場と、メディアインフォメーションセンターも立ち上げられた。
IMCは、医療支援はDinkesとTNI間でうまく連携がとれていると報告している。IMC視察チームは家庭用緊急キットと衛生キットが深刻に不足しているのを発見し、現在調達の手続きを行っている。またIMCはもう数日医療活動が継続しなければならない場合は薬が不足すことの心配をしていた。
11月5日、PMIは100家族分の家族キット(サロンや台所用品、衛生物資、マットなどの食糧外物資)、一時的避難所のためのプラスティックシート100枚、医療薬品1000個、古着を提供した。
国際的対応
OCHAチーム現状視察と地元政府の緊急援助活動を支援するためには11月4日にスマトラ島北部にOCHAはすでに政府機関とインターナショナルNGOと連絡を取っている。11月6日にはより調整された緊急援助のための手続きを議論するためにンターナショナルNGOとOCHAでより調整された援助物資のための手続きが議論されるミーティングが開かれる予定。
メダンのOCHA視察チームによれば、家族用医療キットと衛生キットとシェルター物資が緊急に必要物資だという。
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原文 http://www.reliefweb.int/より
インドネシア洪水:OCHA状況報告書No.1
情報源:UN Office for the Coordination of Humanitarian Affairs (OCHA)
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■インドネシア:OCHA状況報告書 No.1
OCHA 状況報告書 No. 1
インドネシア – 鉄砲水
2003年11月3日発生
このレポートはOCHAインドネシア事務所、スマトラ北部のSatkorlak PBP(災害マネージメント州コーディネート協会)、社会局、インドネシア赤十字社(PMI)、メディアを通じて提供された情報をもとにしたものである。
現状と損失
スマトラ北部
北部スマトラのBahoroktiku地域にある人気のあるBukit Lawang リゾートが鉄砲水に見回れた。数日間に渡る激しい雨と深刻な森林伐採が引き金となった洪水は2003年11月2日午後10時(地元時間)から11月3日午前1時までBahorokを襲った。山間部近くから流れるBahorok川とそれより小さな川が堤防を決壊し、居住地域と、オランウータンリハビリテーションセンターとして有名な地域にあった数十のゲストハウスを流し去った。
スマトラ北部の社会部と州災害マネージメントコーディネート団体Satkolakによると、5人の外国人を含む74人が死亡した。また200人が未だに行方不明中である。約100人が負傷した。洪水はTimbang Lanan村とBukit Lawang村に被害を与えた。当局は、今後流された木や岩、そして破壊されたゲストハウスの捜索が続けられるにつれて、死者数は増えるだろうと語った。
インドネシア赤十字社によれば、多くの遺体と負傷者は一番近いBinjai地区のDjulham Binjai 総合病院と北部スマトラ島州都MedanにあるAdam Malik 総合病院(Bahorokから約100キロ)へ搬送された。川に沿って住んでいた人々数百人が安全な地域へと避難し、現在はモスクやその他の公共施設で寝泊まりをしている。
洪水、泥土、木々や他の破片がこの地域を襲い、家屋400以上、モスク3箇所、橋8本、観光用コテージ5家屋が破壊されるか、もしくは被害を受けた。
ジャワ島中部
洪水はジャワ島中部も襲った。BanyumasとCilacapの2地域に洪水は押し寄せた。死者の報告はされていない。地元住民は洪水に対処できており、ほとんどが浸水した家に留まっている。600世帯が被害を受け、300家が浸水し、小学校1校が深刻な被害を受けた。
加えて、地滑りが11月3日Kebumen地区の郊外Ayah と Buayan地域で起こった。全体で10村が被害を受け、少なくとも115家屋と、橋3本、堤防1つが深刻な被害を受けた。また村々へと続く道路が使用不可能となっている。
国内の対応
スマトラ島北部では、警官250人と犬、兵士が木や泥土や破壊残骸の下に埋もれている行方不明者の捜索活動を行っている。
インドネシア赤十字社はDjulham Binjai 総合病院から救援チームの支援のために救急車2台が派遣された。もうひとつのチームも同地域で待機している。本日中に、赤十字社は被災した地元コミュニティに対して食事の支給のために公共台所を開始するための追加スタッフメンバーを派遣する。地元の赤十字社はジャカルタ本部へ正式に支援を求める。このレターはまたOCHAジャカルタへも複写された。
Satkorlakによれば、政府は(社会保健局を通して)は食糧(米、ヌードル、缶詰、食用油、塩漬け魚など)、衣服、毛布、遺体袋、灯油ランタン、医療用品などを配給した。
地元政府とSatkorlakはまた被災者にシェルターと共同炊事場を提供するために地元緊急対応所(POSKO)を開設した。Satkorlak、赤十字社、 POSKOによれば食糧と遺体収容袋、医療用品の追加支援が必要である。
ジャワ島中部
地元政府は被災者のためのシェルター探しのための対応所3箇所、4隻のゴムボート、4隻の繊維ガラスボート、必要であれば、村人を避難させる時に使えるよう20隻の手漕ぎボートを準備した。共同炊事場も設置され、、米2トン、インスタントヌードル50箱、甘口醤油200本を備え付けている。社会局によれば、インドネシア赤十字社もまた地区レベルで食糧を配付している。
国際的対応
国際医療団体(IMC)から医療チームが現状と必要の査察のために11月4日被災地に行った。チームはまた初期援助キットと医療用具を持って入った。
11月5日にはMercy Corpsジャカルタからのチームが現状視察と必要な支援の確認のために被災地を訪れる予定。
OCHAから2人の専門家スタッフチームが地元行政での緊急対応、ニーズの優先的事項の査察、必要とされる支援の計画のコーディネートを支援するために行った。ジャカルタのOCHA緊急オフィサーは密接な状況モニタリングを行い、適宜に政府部局、インドネシア赤十字社とNGOらから最新の情報と必要とされる支援を得るために連絡を取り合う。
OCHAは今のところ国際支援に対しての要請は受けていない。
OCHAはジャカルタオフィス、国連駐在/人道問題コーディネーターと密接に連絡を取り合い、新しい情報が入り次第提供する。
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原文 http://www.reliefweb.int/より
アフガニスタン:最終憲法草案
1382年
慈悲深く哀れみ深い神の名の下に
目次
前文
1章:国家(21ヶ条)
2章:基本的人権と国民の義務(37ヶ条)
3章:大統領(11ヶ条)
4章:行政府(10ヶ条)
5章:国会(29ヶ条)
6章:ロヤジルガ(6ヶ条)
7章:司法府(20ヶ条)
8章:統治の分担(7ヶ条)
9章:国の緊急事態(6ヶ条)
10章:修正事項(2ヶ条)
11章:その他の規定(5ヶ条)
12章:暫定的規定(4ヶ条)
慈悲深く哀れみ深い神の名の下に
前文
私たちアフガニスタン国民は
1全能の神への堅い忠誠心と髪の慈悲への依存と神聖なイスラム教を信仰し、
2国連憲章を順守し、世界人権宣言を尊重し、
3過去の不正義と過ち、わが国に課せられた多大な難問を認識し、
4犠牲と歴史上の闘争、正当な聖戦と国の抵抗を認める中で、アフガニスタンの自由のための殉教者の崇高さに敬意を払い、
5アフガニスタンは1つの結束した国でこの国に居住する全ての民族に帰属すると信じ、
6国家の統合を堅実なものとし、その独立と主権、領土の統一を保全するために、
7民意と民主主義にのっとった政府を確立するために、
8抑圧、残虐行為、差別、暴力がなく、法の支配、社会正義、人権の権利と尊厳を保護し、人々の基本的人権と自由を保障する市民社会構築のために、
9国家の政治的、社会的、経済的、防衛のための組織を強化するために、
10この国の全ての住民が豊かな生活とよい環境を享受することを確実なものとするために、
11そして最後にアフガニスタンが国際社会において名誉ある地位を回復するために、
現在の歴史的、文化的、社会的条件を順守する憲法を、1382年、カブール
のロヤジルガで選ばれた代表を通じて採択したものである。
原文URL:
援助団体の功績と安全性の比重
SALAR, AFGHANISTAN -誰からみても、Mohammad Sharifと彼のベルギーシェパード犬ブレンダは英雄と考えられてもよいだろう。カンダハールとカブール間のもっとも込み合った高速道路に沿った地面の下に埋められた地雷を一日、一日、人と犬のチームが探している。
しかし、ここ数ヶ月間、Mr.Sharifの援助機関である地雷犬センター(MDC)はタリバン残党によって攻撃をされてきた。しかし、Sharifと彼のチームは仕事を辞めてはいない。少なくとも今のところは。
「国の状態がどんなものであろうと、私たちは私たちの仕事を続けなければならない。」とSharifはブレンダが訪問してきたジャーナリストの顔をなめているのを横目に答えた。「私たちはムジャビディン政府の時もこの仕事をしてきた。タリバン政府の時もだ。そして今もやっているのだ。この仕事はただ人々の幸せのためにおこなっているだけである。」
過去6ヶ月間で、援助職員に対しての攻撃は劇的に増えている。Sharif のようにアフガニスタンの復興課程を押し進めようとしている人々の命を危険にされしているのだ。23年間の戦争の様々な危険にも関わらず活動を続けてきた外国の援助団体の多くが活動を停止したり、撤退をしている。
以前は、ほとんどの援助要員は彼らの機関の評判に頼ることができたし、兵士の良識が彼らを危険から守っていた。しかし、タリバンがジハード(聖戦)の対象を国内の復興に支援する全てのの援助団体に拡大したため、人道援助団体は活動のリスク、そしてそれは人の命をかけるほど価値があるものかを再評価している。
「治安状況は過去6ヶ月間で悪化してる。特にガズニ州ではひどい。」と国連アフガニスタン特別ミッション広報官Manoel de Almeida e Silvaはカブールで語った。「これまでに攻撃を受けた援助団体はこれらの地域では活動を継続せず、より安全な場所で活動を行うことになる。」
この撤退は深刻な政治的結果を生みかねないとMr.Almeidaは付け加えた。タリバンがもっとも活動的でmさらには5年に渡る旱魃が続くパシュトゥン民族が多数を占める地域であるアフガニスタン南部と南西部から援助機関が離れることで、地元住民はハミドカルザイ大統領を支持する理由もないと感じるかも知れない。そしてタリバンを代わりに暗黙の内に支援していくかもしれない。
3月の国際赤十字委員会代表のエルサルバドル人援助職員Ricardo Munguia殺害がタリバンの戦略の転換点とほとんどの人が記した。逃げることが許されたアフガニスタン人職員の赤十字ドライバーによれば、銃をもったタリバン兵はMr.Munguiaを車から引きずり降ろし、衛星電話で、タリバン司令官へ指示を仰いぎ、近い距離からMunguiaを撃ち殺した。
この殺害以降、12人以上の援助職員が殺害され、そのほとんどがアフガニスタン人で待ち伏せや不正なチェックポイントで殺されている。また一方で数十人が攻撃されたり、怪我を負ったりしている。死者はアフガン南部の町Moqorでデンマーク援助団体DACAARの井戸掘りに従事していたアフガニスタン人4人が殺害されたことで、9月始めがもっとも高い死者数となった。
これは多くの援助団体が活動を行う上でもっとも基本的な姿勢を問い直す状況である。すなわち中立という原理で安全を確保できるのか?
地雷除去グループに対しての攻撃はある意味大変驚くべきことであった。MDCへの攻撃も加えて、タリバンゲリラや共鳴者はアフガニスタン人によって運営されている団体ATCも同様に他の地雷除去団体をも攻撃した。
かつては地雷除去団体に同情的だったタリバン
タリバンの最高支配者Mullah Mohammad Omarはソビエト連合侵略後、大量に国内にばらまかれた地雷と不発弾の処理を行う彼らの作業を繰り返し賞賛していた。自身が地雷の被害者である多くのタリバン兵士が、地雷除去要員の警備をしていた。
しかし、タリバンは考えと、手段を変更したようだ。アメリカの資金を受け取ったり、アメリカが支持するハミドカルザイ大統領の政府を支援する活動を行う援助団体は全て攻撃をうけてしかるべきだと主張した。
今月、the Associated PressにFAXされた声明の中で、タリバンは新たな戦略を説明した。
「我々の政府は本当にアフガニスタンの発展を願うNGOで働いている人々に敬意を表してきた。しかし、また違った種類のNGOがある。彼らは名ばかりのNGOで実際は、アメリカのために働き、スパイ活動をしている。我々は彼らを攻撃し、アフガニスタンから追い出すよう全国のタリバンに指示する」と声明には書かれている。
しかしながら、NGOへの攻撃にそのような理屈があったわけではない。
援助要員と戦闘要員との区別があいまいになった新たな世界で、MDCは作業を続けていた。訓練された特別なベルギーシェパードを使いながら、アメリカと国連から資金を受けることの機関はこの9年間で1億平方メーターに渡って地雷を除去してきた。それらはほとんどのアフガン人が収入をえるための活動を行う都市部であったり、農業地域や牧草地帯であった。
前進を続ける
カブールのMDC本部ではMohammad Arif副所長は団体がこれからも恐れることなくアフガニスタンでの作業を続けることができると信じていると語った。
「私たちはアフガニスタンから地雷をなくしたい。そのために活動するつもりだ。」とMr.Arifは言う。「ほとんどの人々が私たちは独立していると知っています。私たちはタリバン時代も活動し、タリバンから安全を保障されていました。恐れはありません。なぜなら私たちはどんな政治家とも手を組まない。」
しかしこの独立性も8月18日に起きたワダック州での何者かによるMDCグループの襲撃をArifさえ、止めることはできなかったことを認めた。夜遅くの襲撃で、誰にも怪我はなかったが、襲撃者は車1台を燃やし、もう一台はロケットプロペラ手榴弾を打ち込み、3台目を盗んでいった。
「彼らは、地雷除去者である我々を攻撃しているというのには、私は本当に驚いた。」とMDCとともに活動する国連機関の地雷除去計画機関の地雷調査チームのリーダーMohammad
Azeem技師は言う。「これは私がこの仕事を14年間してきた中で直面するもっとも危険な状態です。タリバンは私たちを尊敬していました。彼らは私たちに食糧をもってきてくれたり、夜寝床を提供してくれたりしていました。今では私たちは怯えています。そして村の人々もまた怯えています。」
家族と国のために。
最近MDCに参加した若い男性のSaniullahは中央政府に「私たちが仕事を適切に行うことのできる安定した治安状況を」もとめると言う。
しかし、彼は一度も彼の仕事や、丈夫な若いベルギーシェパードOwenから離れようと思ったことは一度もない。「私は今までに辞めようと思ったことは一度もありません。ここが私たちの国です。ここにいるのは我ら国民です。私の義務をまっとうしなければなりません。」
Mohammad Sharifを仕事をやめるとすれば、唯一の理由は彼の妻であるという。「私の妻は私をとても心配しています。私は毎日彼女に、私たちは100%安全だと言っています。もしMDCに対して攻撃があったとしても、私たちはそのことを家族には告げません。」と笑顔で言った。
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アフガニスタン:武装解除した兵士へのインタビュー
クンドゥズ,10.27(IRIN)―10万人以上のこの国の元戦闘員の武装解除は安定した未来にとって必要不可欠だとみなされている。オブザーバーはどのように、この国連の後押しをうける武装解除、動員解除、社会復帰計画(DDR)が成功するか、また元兵士らが本当に武器を手放し、市民としての生活に戻れるのかを以前として不安な思いを残したままである。
IRINのインタビューで、北部の町クンドゥズでDDR試験的計画の第一段階で最近武装解除したMohammad Ibrahimは、武装解除される1,000人に彼の所属していた部隊の全員が最初に含まれてほしかったという。
戦争状態の20年間に残忍な行為を繰り返してきたため、オオカミとしても知られたIbrahimは、この地域へ流れ込み続ける武器の和が増える一方であることにいやになった。そしてクンドゥズのはずれにある彼野村Chahar Tutでのじもとでの張り合いに拍車をかけてきたと言った。多くの兵士が数百もの兵器を備蓄しているので武装解除は答えの1つにすぎないと、35歳の元戦闘員は語った。薬物取引が増え、それが更なる利益を増やし、再軍備化されつづけた紛争は未だに主要な不安として残っている。
質問:武装解除した兵士として市民生活に向けて第一段階を踏み出す気分はどうか。
答え: ええと・・・私はアフガニスタンに外国(ロシア)が侵入してきたとき、14歳の若い兵士として銃を持った。それは大変誇りに思え、感動をした。しかしこれは何年間にも及ぶ私の苦悩の始まりであり、ひとつの場所から別の場所へ移動するにも語ることのできない山中の生活の始まりであった。しかし今日私はまた違った誇りを感じている。武装解除していることと(新しい)人生の段階にはいったことについて今ではより誇りに思うし幸せだし楽観的である。私にとって翌日に生きているかどうかも心配をしながら床に就く必要のない、普通の生活の始まりである。
質問: あなたの他の友人はクンドゥズでの武装解除にどう反応したか。
答え: 武装解除されて市民生活にもう一度戻れると気づいている全ての人にとってはお祝いのようなものである。しかし不幸なことに計画では村の何千という兵士の中からたった1000人しか対象にはならない。もし給料も未払いな上、将来も見えない兵舎の中に留まっている人たちが、他の人たちが新しい職を持ち、人生を楽しんでいるのを見たとき、彼らは問題を起こしてしまうかも知れないので、早急に残りの人たちを計画の中へ汲み込むべきだ。
私の観点では、選択はいかなる基準もなしに行われる。兵士の間でさえ経済状況がよく腕前のある人はいっぱいいるが、多くは障害があり何をするにも不自由な全く無給の人もたくさんいる。彼らは最初に対象にならなければいけない。彼らの多くはこの計画に含まれていなかった。私は、最初の1000人を選出できる権力者はこの点を考慮にいれておくべきだったと思う。
質問: 市民生活で再び受け入れられるために何を選ぶか。
答え: ええと、私は筆記をとても学びたい。学校を去ったとき私は8歳だった。私は読めるが書けない。しかし、専門としては私は農家だから水道ポンプや肥料などといった農業に不可欠な手段を供給されるなら感謝するだろう。それさえあれば自分の9人家族を支えるのに十分である。
質問:クンドゥズでのDDRの効果の中で期待した主な変化は何か。
答え: 私だけでなく全ての人々が、ここ10年で増加した全ての緊張関係と待ち伏せ攻撃と殺戮の終わりを願っている、少なくとも誰かの奇襲の仕方やや確実な奇襲からの逃げ方のような考えは終わらせたい。私たちはちょうど武装解除が始まる数日前に何百という人の前でKonduzのバザールで銃を持った人を見たばかりだ。
国民はこういった緊張関係の終わりと銃や戦闘のない生活を望んでいる。いったん私たちがうちたてるものがまた壊されないと確信したら、自分で自分の生活を変えるために何かすることができる。もしこれが確実になれば、もはや自分の個人的将来防衛について心配しなくなったとき私たちは銃を手放すことができる。武装解除した兵士を助けることに加えて、政府はまた、どうやって多くは直接的または間接的に全ての再軍備やこれ以上の争防止のために芥子取引に関与している指揮官を弱らせるか考えるべきだ。
質問: 21年間戦闘にあって、最大の損失と達成は何か。
答え: 大きい損失は学校だ。私はもし学業を続けていれば8年生だった。大きな達成については、ロシアのアフガニスタン侵攻に打ち克ったことだろうといえる。もちろん、同じように他の損もあった。クンドゥズを離れてパキスタンに移住せねばならなかったとき、私たちは財産の全てを捨てた。帰ってきたら家は焼け落ちていた。私たちは未だに家を再建できずにいる。
私は多くのものを失った。不幸にもこの地域の農地の半分を指揮官が所有している。多くのBuz ka shi(敵の馬使いが円の中から死んだ羊を引きずり出すところを見る、アフガニスタンではなじみのゲーム)用の何十万ドルという価値を持った馬を持っている一方、私は自分の自転車すら持っていなかった。
質問: アフガニスタン政府と国際社会に何を求めるか。
答え: 政府と国際社会は武装解除問題をたいへん真剣にとらえてほしい。行き当たりばったりに見られ扱われるべきではなくて、この国の長期の安定のために批判的に見られるべきだ。この過程の全ての側面は配慮されるべきだ。武装解除の取り組みの最終的な成功はその将来の維持にかかっている。将来の確定的な派閥争いのルーツに取り組むための計画がきっとあるはずだ。
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