月別アーカイブ: 2006年10月

アフガニスタン:干ばつ地域の農民、緊急援助求める

[このレポートは必ずしも国連の見方を反映したものではない]
【マイマナ、10月30日】
アフガニスタン北西部のファリヤブ(Faryab)州の農民たちが冬を生き延びるための支援を
必要としているという。厳しい干ばつのせいで今年の作物は枯れてしまったからだ。
農民達の求めは、政府及び国連アフガニスタン支援団(UNAMA)が先週、ドナーに呼びか
けた緊急支援要求に続いて出された。
不作のせいで、パシュトーン・コット(Pashtoon Kot)県のアリ・モハマッド(Ali Mohammad)
氏(45歳)のような農民は、やせ衰えた家畜を売らなければならなくなった。2ヶ月前に
作物が枯れて、家族を養うためにそうしなければならなかったのだ。
「豊作の年だと900キロ近くできる小麦が、今年は70キロしかできなかった。あと一ヶ月も
もたずに飢えてしまうだろう、それに冬はもうすぐだ」モハマッド氏は言う。州都の市場で
何十人もの他の農民たちと家畜を売ろうと押し合っているところだ。
カブールの農業・家畜省によると、北部及び北東部の州では、干ばつによって天水栽培の
小麦の55パーセント(2005年比)が損害を被った。
小麦の生産は穀物総生産の80パーセントを占めており、急激に減少すると見られている。
公式の推定では、2005年の総生産は370万トンで、穀物総生産は480万トン(国内需要は
約600万トン)と見られている。
ファリヤブ州には100万人が暮らす。90パーセント近い農地が雨水に頼っているため、
干ばつで特に大きな打撃を受けた。推定18万人の農民が水のない状態に追いやられた。
「今年は雨が極端に少なかったので、農民たちは天水栽培の小麦の80パーセントを失っ
たんだ」とマイマナ市(Maimana)にあるファリヤブ州農業・家畜局(the provincial agriculture
and livestock department of Faryab)の局長アッサドゥラー・バハル(Assadullah Bahar)
氏は言う。
州の多くの地域では過去12ヶ月にわたって、浅い井戸の水や伝統的なため池―たいてい
飲み水や家畜用に使われている―はほとんど干上がってしまった。
「州内で40パーセント近くの家畜が売り払われ、人々は雄牛や羊などの家畜を近隣のジョ
ージャン州(Jawzjan)やマザリシャリフ(Mazar-e Sharif)で売ろうと移動し続けた」とバハル
氏は続けた。
すぐに支援がない限り、困窮した農民たちは他の方法で生計を立てたいと思うようになる、
ともバハルさんは強調する。
「農民は絶望的な状況で、緊急に支援を必要としている。そうでなければ、彼らの多くが不
法のケシ栽培へ走る恐れがある。そうなると大規模な人口移動が起こるのは確実だ」と
彼は語る。 
先週、政府と国連アフガニスタン支援団が、干ばつの被害を受けた190万人と、最近の同
国南部の紛争で避難民となった2万世帯の緊急ニーズをまかなうため4300万ドルの支援
を要請した。
「この要請は極めて一刻を争うものである。あらゆるドナーに対し、即時に寛大な反応を示
すよう訴えたい。」と、国連事務総長アフガニスタン特別代表代理(deputy of the Special
Representative of the United Nations Secretary-General to Afghanistan)アメーラ・ハク
(Ameerah Haq)氏は言う。
当局によれば、同国の3000万人の人口のうち半分以上が貧困線以下で暮らし、推定
650万人が季節的あるいは慢性的に食料不足状態にある。
農村復興開発省(MRRD)は、世界食糧計画(WFP)と協力し、最貧困層を支援するために
活動してきた。
「これまでに21の州で90件のフード・フォー・ワーク・プロジェクトを実施してきた。今後、
干ばつの被害を受けた人々に2万トンの混合の食糧を配給する。」と、同省のスポークス
マン、アブドゥラヒム・ザリン(Abudrahim Zarin)氏はIRINに語った。
けれども、IRINが接触したファリヤブ州の多くの農民は、まだ何ももらってはいないと不満
をもらし、家族を養うためにはケシ栽培に走るしかないと言う。
「どこからも支援は来ない。家族を養うために残された方法はケシ栽培だけだ。ケシが育
つのに水はほとんどいらないし、小麦より高く売れるんだ。」35歳のアジズッラー(Azizullah)
氏は言う。彼はファリヤブ州グルジワン県(Gurziwan district)の農民だ。彼も、残った家畜
をマイマナ市で売るのだ。
情報源:UNOCHA-IRIN(国連人道問題調整事務所・統合地域情報ネットワーク)
原文URL:reliefweb.int
*著作権は情報源に帰属します。

インド:タミルナドゥのハビタット・共同プロジェクト、35名の女性を石工に育成

アーンドラ・プラデーシュの村人、建設・修繕支援に40時間
【アーンドラ・プラデーシュ、2006年10月13日】
南インド、アーンドラ・プラデーシュ州の沿岸にあるTummalapalliの村人は、津波後の
コミュニティ再建の責任を自身で担っている。
インド、Bapatlaにあるハビタット・フォー・ヒューマニティ支部が行うプロジェクトでは、
延べ40軒の家が建設・修繕される予定である。
先月、5家族が着工式を取り仕切り、10人の男性が壊れたコンクリートの屋根を引き
剥がして家の再建の準備をした。
「再建される家は、1977年のサイクロンの後に政府のプログラムによって建てられた
ものです。ほとんどがひどく劣化していて、安全ではありません。」津波復興プロジェク
トの現場監督であるT. Ravi Kumarさんはそう説明する。
修繕された家は新築のようだが、ただの新築以上に優れている。壁は強化され、窓と
ドア、そして屋根が取り替えられた。トイレも取り付けられた。床は浸水を避けて高くさ
れた。通風口が新たに取り付けられ、天井の高さは7フィートから9.5フィートになった
ので、より快適に過ごしやすくなった。
「20人の石工を雇いましたが、単純労働はすべて地元の男女が担いました。」と、
Baptla 支部の代表であるRaja Shekar は言う。
「田んぼでの手作業には慣れているのですが、今では建設もできます」セメントの容器
を運ぶ手を止めて、Uhardeviさんは笑顔で言います。「これは私のお隣りさんの家。
明日は彼の家の分をやります。」と彼女は言い、ショベルで作業している隣の男性を
指した。「その次は私の家なの。」
低地の水田が灌漑用水路に囲まれているこの地域では、サイクロンと洪水による危機
が頻発しているのである。
情報源:Habitat for Humanity International
原文URL: reliefweb.int
*著作権は情報源に帰属します。

パキスタン:人生のある一日

2005年10月8日だった。26歳のシャージア・アッバーシーさんが、事務員だった夫のアシク・
フセインさんと6歳の娘、メリーンを亡くしたのは。
彼女は現在、ムザファラバードの奥のランガタイという山腹で、9歳のリムシャ、7歳のオマイ
ル、そして、地震当時彼女のお腹にいた、9か月になるアリシュバという三人の子どもたちと
小さな小屋に暮らしている。
「ラマダンだったので、日が出たら断食できるように皆早く起きて、午前3時頃食事をしました。
私はレンズ豆とパラタ(小麦粉を練って焼いたパン)を作り、ヨーグルトと一緒に食べました。
そして、午前4時半にモスクに行ったのです。
6時に帰ってくると、子どもたちは学校へ行く準備ができていました。いつものように子どもは
学校を楽しみにしていて、息子のオマイルと、長女のリムシャが忙しそうに彼女の靴を磨いて
いました。
しかし、6歳の娘メリーンがその日、あまり学校に行きたがらなかった様子を、私は決して忘れ
ません。メリーンは、今日は神聖な日だから家にいないといけないんだと言い張りましたが、
私は行きなさいと言い、子どもは全員6時45分頃に学校へ出発しました。私は思うんです。も
し私が娘を家にいさせてあげていたら、彼女は今も生きていただろうにと。でももう戻れません。
子どもたちが出て行った後で、夫が晩ご飯に何か買ってこようかと私に聞いたので、日没後に
食べるミンチ肉をお願いしました。
それから私は掃きそうじをし、姑とおしゃべりをしながら盛大な朝ご飯の洗い物をしました。座り
ながら鍋をごしごしやっていると、何だか蜂が群がっているような音が聞こえてきました。すぐ
に―そう、すべては瞬く間に起こりました―部屋の中に蜂の大群がいるかのような轟音が近
づいてきて、地面が揺れ始めました。
突然あたりが暗くなり、巨大な衝撃で家が壊れました。一瞬、私たちの周りに山が崩れて落ち
てきたのかと思いました。そして実際にそうだったのです。
恐ろしくなり、地面をぐいっと掴みながら転げました。『これは最後の審判だわ』と思いました。
『もう私は死んだのね、子どもたちも。世界が終わったんだわ』
私が祈っていると、姑が私の側へと這ってきました。私たちは泣いて抱き合いながら、コーラン
を唱えました。
地面はまだ揺れていましたが、自分たちは死んでいないのだと互いの存在で確認しました。揺
れが収まってきたとき、身を起こして姑は言いました。「私のことは心配しないでいいから、子ど
ものところへ行きなさい」けれど、私はあまりのことに足に力が入りませんでした。
子どもたちは別々の学校にいましたので、義理の兄がひとつの学校に行ってオマイルとリムシャ
を素早く見つけました。二人は大丈夫でしたが、彼の娘、つまり私の姪は亡くなってしまいました。
義兄が瓦礫の中から姪の小さな遺体を引っ張り出したとき、姪はまだ口の中にチューインガム
を含んでいました。地震が起きたとき食べていたのでしょう。
私は、どうやってかわかりませんが、何とかメリーンの学校にたどり着きました。恐ろしい光景
が私の目に飛び込んできました。
かつて学校だったものが、墓場になっていたのです。ほとんどは両親ですが、祖父母や親戚
までもが、啜り泣き、わめき、瓦礫や石をつかみ、必死に子どもを掘り出そうとしていました。
学校にいた400人の子どものうち、助かったのはたった50人だったと後に知りました。まだ見
つかっていない遺体もあるそうです。
どうすることもできませんでした。義兄は、自分がメリーンを探すから、私には帰って他の子ど
もの世話をするように言いました。今となっては、私が唯一覚えているのは、皆が泣いていた
ということだけです。
午後2時に義兄が学校から帰ってきました。彼は運んできた遺体を私の腕に横たえ、「見つけ
たよ」と言いました。それはメリーンの遺体だったのです。彼女の顔は跡形もなく潰れていま
した。
その瞬間だったのでしょうか、それとも、数時間の後だったのでしょうか、夫の兄弟たちが彼の
遺体を運んできたのは。私は少し気がおかしくなりました。夫は事務所に座っていて、そこに壁
が崩れ落ちてきたのでした。兄弟たちが事務所で夫を探したとき、彼らには夫が中にいること
がわかりました。夫が好んで使っていたブルート・アフターシェーブ・ローションの匂いがした
からです。その朝、私自身も彼にスプレーしてあげました。彼の腕時計は2時47分を指してい
ましたが、彼は数時間前に亡くなっていたのでしょう。
その午後、私の頭と心に何かが起こったのでしょう。正直に言えば、その日、他に何があった
のかまったく覚えていないのです。それだけでなく、それから4か月分の記憶がないのです。
ほとんどの時間、私は自分が何をしているのかわからず、今何日で何時なのかを知りませ
んでした。
あらゆることを乗り越える唯一の術は、家族でした。家族は私を本当によく助けてくれ、ついに
私は、とてもゆっくりではあるけれども、普段の私に戻っていきました。彼らは私にこう言い続
けました。『シャージア、あなたは子どものために生き延びなくてはならないのよ』
今になってわかるのは、私の家族やコミュニティにとって、単に日々を生きるということがいか
にたいへんだったかということです。
彼らは皆貧しいけれど一所懸命働いていました。けれども地震ですべて失くしてしまいました
―家族も、家も、仕事も、持っていたものすべて。
地震直後、そして今日でさえ、Concernのような国際NGOにどれほど支えられているかはよく
わかっています。食料と水、テントやマットレスをくれました。
不思議なことは、地震で全壊しなかった家はほとんどなかったのに、私たちの家がそのひとつ
だということです。周りの他の家は全壊してしまいました。
だから、ほとんどの友人たちはまだテントで暮らしています。コミュニティの多くの人が、愛する
人も、家も失い、私よりもずっと苦しい状況にあるのだということがわかりました。
2006年1月19日、私は父親のいない孤児となる末の子を産みました。子どもの世話をすること
は私の回復を助けました。
わかるでしょう、私の結婚はお見合いではなかったのです。恋愛結婚だったんです。夫がいなく
てとても寂しい。毎朝、私は彼が仕事に行く支度をするのを手伝い、毎晩彼の夕食は別に作り、
それから一緒に時間を過ごしたのです。
いつでも夫のことを思い出します。特に、夜遅く、そして朝目覚めたとき。ときどき、目覚めた瞬間
夫とメリーンがまだ生きているような気がするのです。それから、現実に起こったことを思い出す
のです。
昨年のいつか、私も地震で死んでしまったらよかったのにと思いました。けれども親戚たちは言
いました。『神様は子どもを育てるためにあなたを生かしておいてくれたのよ』
今、私は舅に支えられています。彼には養うべき人がたくさんいるにもかかわらず、稼ぐのは
月に6500ルピー(約13,000円)という少ない額です。私は子どもを養えるだろうか、学費や、制
服代が払えるだろうか、将来やっていけるのかと心配です。
どうすればいいのでしょう。
私は皆のために泣きました。亡くなった人のために。愛する人や家を失った友達のために。
そして私自身のために。
けれども、アッラーは私たちに試練を与えて愛する人をお試しになると言われています。おそらく、
神は私たちの忍耐強さをお調べなのでしょう。」
情報源:Concern
原文URL: reliefweb.int