月別アーカイブ: 2010年11月

ハイチにおける水の恐怖

情報源:International Medical Corps(IMC)
日付:2010/11/8
Crystal Wells広報官より
レオガン、ハイチ-Thelervilts(人名)は質素ではあるが快適な家を海辺に持っていた。1月12日にマグニチュード7.0の地震がおきて彼の家はコンクリートの骨組みと鉄筋だけに破壊されてしまった。彼は廃材を集めて新しい店を一から建て直し、防水シートと木で家を修理した。
9ヶ月経った今、彼の壊れた家はまたもや破壊されてしまった。今回は11月5日と6日に島を打ちのめしたハリケーン・トーマスのもたらした洪水によってだった。今では泥が家の床を覆い、ギザギザになった踏み石だけが濁った水のなかで彼の家への道を点々と指していた。
彼は角にある泥のついたいくつもの土嚢を指し示して言った。「私は家を守ろうとしたが、水が土嚢を流してしまった。」
私はThelerviltsにレオガン(地名)の半分がほとんど水浸しになった日のちょうど翌日に会った。1月の地震の震源地だったレオガンはハリケーン・トーマスでも最もひどく被災した地域だった。地元の病院は避難しなければならず、2,000人の人たちがより高い場所へ移らなければならなかった。Thelerviltsとその妻子が住むレオガンの小さな町のCadaではIMCの緊急対応チームが土曜日(6日)に訪れた時でも洪水の水はいまだにひいていなかった。住民達は膝の高さまでの水の中を歩き、低木の茂みに持ち物を掛けて乾かしていた。
「私は幸運だった。隣人の多くはベッドを出たら水の中に足を突っ込むことになっていたのだ。」とThelerviltsは言った。
ハリケーン・トーマスの直後に、IMCはレオガンのCadaやひどい被害を受けたポルトープランス、Nippes, Petit Goaveなどの他の場所へ医療、栄養、水、公衆衛生の専門家からなる調査チームを送った。チームは衛生キットや毛布を配給し、コレラのような水による病気の発生を防ぐためには、水に浸かった地域に持ち運びのできる水と汚物の処理設備がとても必要であると確認した。
水についてはThelerviltsも一番心配している。「誰かに洪水を止めてもらいたい。私がやりたいけど私にはその手だてがない。」
北部でコレラの発生が猛威を振るっていることがThelerviltsの心配の理由である。コレラが最初に発生し始めたArtiboniteでトーマスの後にコレラが急増していたのだ。Gonaivesの Robateau病院へ住民達は治療を求めて殺到しており、さらにPort au Paix近くの北西部では今新たな発生が報告されていた。最近の患者急増がハリケーントーマスと直接関連しているかどうかは結び付けにくいが、洪水と嵐の後の肉体的なダメージは対応を困難にしている。多くの地域ではよりアクセスが不便になり、洪水によって食料や水源が汚染された可能性がある。
IMCはハイチのコレラの新たな発生への対応を続けている。コレラ対応チームがRobateau病院を支援するためコレラ対策センター(CTC)を立ち上げ、北西部の発生にも対応を展開している。Gonaivesの新しいCTCは最初の発生が伝えられてから7番目のCTCになる。トーマスの後、IMCのコレラ対応チームは川を渡って、コレラ患者へ薬や生活必需品を運んだ。
Thelerviltsがレオガンで恐れているのは、水が病気を拡大させることだ。彼は小さな子供が泥でできた島に座っているのを指して言った。「あの赤ちゃんを見てください。ここではみんなが水によってひどい病気になってしまうと思う。」
Thelerviltsは、自分の家族は自分の店で売っているボトル入りの水しか飲まないと断言した。しかしすべての人がボトル入りの水だけを飲むという手だてを持っているわけではなく、Cadaや、レオガンなど他の水に浸かった地域の多くではほとんど皆、風呂や料理や洗濯に、おそらく今は汚染されているであろういつもの水源を使うしかない。まるで彼の心配を裏付けるかのように、1人の男が水の中を歩いてThelerviltsの家のすぐ近くの井戸にやってきて、茶色の水の中にバケツを入れて水を汲んだ。その水をどうするのかと聞いたら、彼は「風呂だ」と答えた。
原文URL:reliefweb.int

インドネシア状況レポート 

情報源:Presbyterian Disaster Assistance(PDA)
※米国ケンタッキー州に本部を置くキリスト教系支援団体
日付:2010/11/4
2010年11月3日ムラピ山が再び噴火し、巨大な灰の雲が空に噴出した。インドネシアのジャワ中部地域で10月25日に始まったムラピ山の噴火では約7万人の人々が避難していた。
複数の国連機関の調査によると、国内避難者(IPDS)は75のキャンプに広がり、そのうちの9つが山から25㎞以内にあるジョグジャカルタ市内にある。5万人以上の人々が暮らしている残りのキャンプはジャワ中部から遠く離れたところにある。
全般的に見れば、政府の火山早期警戒システムはうまく機能しているように思われると、国連人道問題調整事務所(OCHA)の指揮官代理のKnarik Kamalyanは言った。
建物への被害は少なく、病院や食料マーケットは機能していると調査では示されたが、つい最近の噴火によって新たに38名の死者が記録され、28名のけが人が確認された。
PDAが支援しているACT AllianceのパートナーであるYakkum Emergency Unit(YEU)は、噴火被害にあった人々への医療支援を提供している。YEUと他のACT Allianceのパートナーはムラピ山の更なる変化をモニターして、人々が噴火の熱、ほこり、溶岩などから逃れられる避難所を建設している。
地震と津波
嵐と高波はいまだに津波に対する救援の妨げとなっている。PDAのパートナーでACT Allianceの共同メンバーであるChurch World Service(CWS)はパダンから津波に襲われたパガイ島まで13時間かけてボートに乗っていったが、それは普段の2倍以上の時間がかかるものだった。CWSは南パガイと北パガイの最も被害の大きい地域に最初に到着した組織だった。
先週インドネシアのムンタワイ諸島を危機が襲ってきた時には、十代の若者達が救援にやってきた。
最初の波はひざの高さだった。次に来た波と比べればそれは水の滴り程度のものだった。2番目の波は1.5mに急上昇した。3番目の波は3~4mの間の高さの巨大な壁となり、少なくとも450人の死者を出した。
父親が「津波だ」と叫んだ時、高校教師であるYeniはどうしたらいいかわかっていた。2008年、彼女はインドネシアのムンタワイ諸島のシカカップという町でどのように災害に備えるかを生徒達に教えていた。6ヶ月間にわたり、もし最悪の事態が起こった時必要となるであろう応急処置と捜索・救援技術の訓練を彼女は行った。地震と津波が起きたとき、ムンタワイのプロテスタントキリスト教教会中学校の生徒達は、周囲の混沌と恐怖を気に留めることなく、彼女の教えたことをそのまま実行に移した。
津波の翌日、生徒のHerlina, Deformalis, Parluhutanは管理事務所の指揮所に行き、Yeniと仲間のBerniとの間で調整を行った。三人の生徒達は住民を助けて家から瓦礫を取り除き、一時避難所へ移る手助けをした。
次の日、三人の生徒達はパダン市から来ていた捜索・救援隊を手伝って人々を町から高い所へ避難させた。翌日早くにはBeubukku村から住民を移動させた。それからも人々をより高い場所や避難所へ連れて行く活動をずっとしている。
PDAの地元のパートナーであるACT AllianceのメンバーのYayasan Tanggul Bencana di Indonesia(YTBI)によって行われたプログラムへの称賛の声が、はるばるパキスタンからも届いた。イスラマバードのLaksmita Novieraは、ムンタワイ学校トレーニングプログラムの元プログラムリーダーである。彼女は生徒達が活動しているところを写した写真を見たとき、「彼らに何が起きたのかを想像したら身震いがします。私達の活動が本当に役に立ったことを神に感謝します。」と言った。
PDAの地元のパートナーやACT Allianceのメンバーによる他の救援活動としては、ムンタワイ諸島への移動医療サービスの提供や、救急医や看護士の配置、地域の保健所や教会の避難、食料のパック、ベビーフードのパック、プラスチックシート、毛布、プラスチック合羽、生理用品や下着などの配給などがある。赤ちゃんへの愛情キットというCWSからの物資も配った。
これらの情報はYTBI, IRIN, ACT Alliance, CWSから得たものである。
原文URL:reliefweb.int