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津波後の女性たちによる女性たちの救援

[インドネシア・アチェ・BESAR]赤ちゃんを授かることは、喜びの瞬間だと考えられているが、Asnawiyahさんには、不安と恐怖と恥辱の時である。津波が襲ったとき、Asnwiyahさんは、第一子の妊娠8ヶ月でありながら、恐ろしい津波から逃げるため、村の人たちと必死で走った。
2日間、彼女は裸足で歩き、避難所を探し、空き地で寝た。現在、彼女は,仮設キャンプで900人の他人と生活している。そこでは、女性の権利や要求は、優先事項リストの最末尾からも遠い状況だ。
「赤ちゃんを授かることは、とても幸せです。本当に長い間待ち望んでいたことですから」Asnawiyahさん(35)は話す。「でも、このような状況では、まともに幸せを感じることはできません。ここで、どうやって赤ちゃんを産めるのでしょう?こんなに大勢の人の前で、どうやって赤ちゃんに乳をやればいいのでしょう?」
津波は、インドネシアの沿岸の村や町を襲い、175000人以上の命を奪った。しかし、女性にとっては、その上に自分たちの尊厳をも奪われたのだ。
Asnawiyahさんの出身地であるアチェ区のほとんどの女性は、保守的なイスラム教徒である。彼女たちは、頭にスカーフをかぶらずに人前に出られないし、家族以外の男性と同じ場所にいることはタブーとされる。
それでは、どうやって女性たちは、仮設キャンプの中で、男性を含む他の6家族と一つのテントで生活しているのだろうか?
CAREは、アチェの75以上の仮設キャンプで非常用救援物資の輸送や復興作業に携わっている数ある国際機関の一つであり、キャンプにおける女性用品の配給に取り組んでいる。
食料や浄水器・非常用品の配給に加え、CAREでは、災害直後の時期における女性のケアを専門とする医療スタッフチームを召集した。
Nuretha Hevy Purwaningtyas医師の率いるCAREの女性職員たちが、キャンプからキャンプへと走り回り、妊婦のケアにあたったり、非常事態における婦人科衛生や栄養について女性たちに教えながら、衛生用品やコンドーム・経口避妊薬の配給を行っている。
「非常事態が起こったとき、至急必要なものとして、主に、食料や水・避難所を考えます。しかし、女性に対しては、その他に非常にたくさんの物を考慮しなければなりません。そして、それらも極めて大切なものなのです」とNuretha医師は話した。
男性は簡単に、川に駆け下り、裸になり、入浴することがでるが、女性は、たくさんの服を着たまま、頭にはスカーフを被り、川へそっと入って行き、服を着たまま苦労して体を洗わなければならない。
そして、彼女たちは、びしょぬれのままで川の土手を上がって帰り、テントの中へ入ってから、濡れた服の上に乾いた服を着て、そして、ようやくその着替えた服の下から濡れた服を引っ張り出すのだ。
この全ての工程には1時間以上かかるし、その結果、女性たちは清潔にはなるが、新しい服はすでにもう濡れてしまっている。湿度の高い熱帯性の気候の中で、女性たちは、長時間濡れたままでいるため、体中に発疹ができ、かゆみをおこしている。
「全然治らないわ」とAsmawatiさんは言う。彼女は2人の子どもを連れてキャンプへ逃げて来たのだが、服のそでをめくって、発疹のできた腕を見せた。「ずっと濡れたままでいるからなの。服が乾いていたことがないわ」
このキャンプ場の女性たちは、身の回りの品をできるだだけきちんと整えるよう努力している。テントの柱からサロンという腰布を張り、家族ごとにスペースを仕切っていた。
彼女たちは、寝袋や枕を隅にきちんと積み重ね、支給された米袋やプラスティックのコップや皿を奇麗に保管している。
しかし、いくつかの面においては、女性の生活は簡単に整えることはできない。津波がAsmawatiさんの村をおそった時、女性たちは、靴さえ履かず、着の身着のままで逃げたのだ。Asmawatiさんと3人の女性は月経中であった。
「彼女たちは生理用ナプキンを持っておらず、手当てに使えるようなボロギレさえもなかったのです」と彼女は話した。「女性たちはとても恥ずかしい思いをしたのです。泣くより他にどうすることもできなっかたのです」
非常事態から最初の1ヶ月で、Nuretha医師と彼女の率いるチームは、キャンプ生活をする約1500家族に衛生用品セットを配給した。セットには、歯磨き・歯ブラシ・シャンプー・下着・衣類・洗面器、そして、生理用ナプキン1ヶ月分があった。
今日、Nuretha医師は、Asnawiyahさんとキャンプにいる他の2人の妊婦に、大きなビニールシートとタオル・新生児用毛布・殺菌石鹸の入ったセットを配給した。女性たちは、陣痛が起きて地方の助産婦のところへ行くとき、このセットを持っていけるのだ。
Asnawiyahさんには、将来家族がどこに住めばよいのかという悩みは解決していないが、しかし、少なくとも彼女は、赤ちゃんをずっと安全に出産できるようになったと感じている。
「キャンプで女性であることは過酷なことです。かつては当たり前だと思っていたことが大変たくさんあります」と彼女は、現在の彼女の家である込み合ったテントを見渡しながら話した。「他の女性たちが私たちの世話をしてくれるということに、どれほど大きな意味があるのか、あなた方には、ここに住むまで、わからないでしょう」
原文URL:http://www.reliefweb.int
情報源:CARE
*著作権は情報源に帰属します。

避難者の声:インドネシアでの生命との奮闘

インドネシア津波の余波で、合計40万人の避難を余儀なくされる人の中で、約1万人のアチェの人々が、大きな地震と津波に影響を受けなかったスマトラの北のメダンへ避難することを選びました。親戚と避難する人もいれば、アチェのコミュニティ団体によって組織されるキャンプで看護を受けている人もいます。これらのキャンプは、国際援助組織から援助を受け取らず、アチェの人々の自助収容力の例を示しています。
RIは、アチェのSepakatによって組織され、60人が住んでいる1人の小さなキャンプを訪問しました。そのキャンプは、充分な光が入り換気ができる開いた側と高い屋根を持った大きな倉庫で設置されました。食物(例えば即席麺)の箱は1つの地域で積まれ、他の所有物は地面のマットの上に置かれた。施設の入り口に、行方不明者を見つける支援を求める訴えるために心に響く絵を陳列している掲示板がありました。
RIは、バンダアチェ州のPenayugan地区で一緒にレストランで働いていた5人か6人の若い女性と話しました。津波の襲った日、彼女たちはレストランにいたそうです。そのとき彼女たちは通りのほうから「水だ!水だ!」と叫ぶ声を聞きました。彼女らは外に飛び出して、すごい勢いの波の中へ、すぐに飲み込まれました。彼女らは、その津波から生き残った。レストランはその道に位置していた。彼女らは枝につかまることができ、波にのまれなかった。こうして、押し流されるのを免れました。
彼らが生き残ることができた一方、彼ら個人の損失はとてつもなかったのです。六人は皆両親が生き残ったかどうか分かりません。
津波の後の1週間、そのグループはモスクとそれから集会場において避難しました。彼らは、人々がそれがMedanは、より安全だったと言うのを聞きましたので、彼らは一緒に東海岸に移動しました。
彼らがキャンプで十分な看護を受ける間、彼らの唯一の懸念はいえに戻る方法です。今のところ、家に戻るための費用は提供はありません。そして、彼らはキャンプ居住者のたまに料理を手伝うことによって忙しいです。
若い女性は、彼らが一緒に作った詩を書き留めました。彼らは、それをRIと共有して誇りに思いました。その詩は、RIのガイド兼通訳であるNi Wayan Sri Siantariによって翻訳されました。
生命との闘い
全くの暗夜
古い捨てられた井戸
一人の子どもは、バケツを見た
雷は、静かな夜に聞こえた
波は静かな夜を壊した
我々の心と我々の能力に疑問を呈す
世界は、満たされた場所ではない
(避難したSimeulueの子どもたちによる詩)
原文URL:http://www.reliefweb.int
情報源: Refugee International (RI)
*著作権は情報源に帰属します。