バラコット、1月10日:2005年10月の地震によって荒廃した町の一つであるバラコットの人びとは、
地震以来ずっと苦しみ続けている。なぜなら、彼らに仮設住宅を供給するための、公的な約束が、
未だ果たされていないからである。そして、ここ最近、地方を襲っているひどい寒さは、彼らの窮
地をさらに悪化させていた。
ERRA(パキスタン地震復興庁)は地震によって影響を受けた90%の人びとへ仮設住宅を供給した
と主張するけれども、その実態は、20%以下の被災者が避難所の名前のもとに、何らかを得たに
過ぎない。
市場(バザール)は復興され、人々は生活必需品を売買し、生活はある程度元通りに戻っている。
ほとんどの事業は部外者によって占拠され、地元民は、財政欠如のため、彼らの事業を復興する
ことができないでいる。
被害者のほとんどは、死亡した親族や崩壊した家屋の補償金を受け取ったけれども、厳しい財政
と心理的圧迫に置かれたままである。
この駐在員はバラコットに滞在中、地震によって被害を受け他の町や都市へ移住した人びとの多
くが未だもとに戻っていない、という現状を見た。サウジ・アラビアが責任を引き受けた大がかりな
事業である、避難所の建設が遅れているためだ。
地区長事務所は、バラコットとその周辺の生き残った家族らには、およそ5,000の仮設住宅
で十分である、と見積もっている。そして、地方当局は、その事業が、2006年12月の終わりまでに
完成されるであろうという保証を得た。
“始めに、仮設住宅の図案と大きさは、低い基準であり、そして、これらもまた、未だ当局によって
正式な承認を与えられていない。”とバラコット地区長の弟、タヒルは言った。
“ERRA当局は建設の方法について、人々へ十分な指針を定めることさえ失敗した。だから、あなた
方が目撃した建物と呼べるものはいずれも、ほとんどが被害者自身の自己援助によって建てられ
たものだ。”と彼は付け加えた。
サウジ政府と建設者達のあいだで決められた避難所の大きさ(単位はフィート)は11×10の小さい
台所とものすごく小さい浴室の2部屋を含めて、20×24である。これは、ほとんどの人々にとって
家族が暮らすためには不十分だと感じている大きさである。
情報源:DAWN Group of Newspapers
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インドネシアは災害地帯に健康危機センターを設立する
ジャカルタ、2007年1月10日(AFP)-インドネシアは、国を苦しめている多くの災害への迅速な
対応を確保するために、健康危機センターを設立した、と水曜に保健大臣は言った。
“災害への迅速な対応が最も重要である。私たちは9つの地方で、緊急電話相談センターを設立
した。だから、私達は、災害へ迅速に対応するために、ジャカルタを経由する必要はない”と保健
大臣、シティ・ファディラ・スパリ氏は記者らに話した。
センターがカバーしている災害が起こりがちな地域は、メダン(スマトラ北部とアチェを担う)、リアウ、
ジャンビ、ジャワ、カリマンタン、そして、スラウェシである。
センターは、災害の場合には、財政、食料、医療の面で、迅速に対応することができる。
センターはすでにその力量を試されている。
ここ最近の週で、緊急相談センターは、スマトラ島北部での引き続いて起こった致命的な地震や
地すべり、アチェ地方、リアウと西カリマンタンでの大型の洪水、二艘のフェリーの沈没に援助した。
政府の推定によると、インドネシアは、地震、地すべり、洪水であろうと、他の危機であろうと、1日に
平均2.75回の自然災害に苦しんでいる。
インドネシア諸島は、大陸プレートが出会う環太平洋火山帯に位置し、頻繁な地震と火山活動を
引き起こしている。スパリ氏は過去2年間に渡る彼女の省の達成を示した。乳児死亡率は、1,000人
の出生に対して2004年には35人であったが、2006年の30.8人へ、かなり低下したことを指し示し
ている。
母親の死亡率は、100,000人の出生に対し、2004年の307人から、2006年末には262人へ低下
した。ちなみに、アメリカにおける同死亡率は、6人(2004年)と8人(2006年)である。
情報源:Agence France-Presse (AFP)
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インド洋大地震と津波
寄贈者報告―2006年12月12日
序文
2004年12月26日に襲ったインド洋大地震と津波は、国連と一般社会へ、先例のない
課題を生み出した。同じ時期、それは人道主義の分野においての反響の中、援助の増加
の新時代を幕開けさせた。
寄贈者の数と同様に、OCHAの預金口座に預けられた資金の量の見地からすると、津波
信託基金は、最善に基金が利用されることを監視することを念頭に入れた目的で、新しい
信託基金として創設された。国連チームとIASC津波特別対策本部との共同取り組みの
中で、OCHAは、この災害後、生計を再建しようとしている被害者を助けるために、これら
の基金機関を多くの国連機関へ提示した。
結果として、OCHAは60以上の公的な寄贈者と個人の寄贈者、また、14の被援助者機構
の代表として、津波信託基金を運営した。そして、基金利用に関連したすべての問題のため
の、顧問の役割を果たした。
この試みは以下のいくつかの方法で、国連人道主義改革の原則を適用するために、非常に
優れた機会を提供した。
(以下)
― 国連協調関係構造を統合した設立は、スリランカとインドネシアの主要な津波復興活動
において、OCHAとその他のエージェンシーによって援助された。
― 人道主義的な責任者の役割は、それらが基金提供、そして、必要とされた時に、最初の
時間枠を越えて、それらの拡張の是認を受け取るためのもっとも相応しい事業と分野での
役割を果たした時、強化された。
― 財政上の流れにおける透明性は、OCHAの津波支出追跡組織とUNDPの発展支援
データベース開始を通じて高められた。
事実は、世界が、ダーファー緊急事態と共に、適切で時を得、柔軟な人道主義的財政の機関
媒体者として、中央緊急事態反響基金の設立への機動力を起こした災害によって、捕らえら
れたということである。CERFは、津波が起こった約1年後、国連一般集会による合致した意
見によって承認された。そして、津波信託基金を運営しているOCHAによって得られた経験
から利益を得た。
この報告での私達の目的は、信託基金によって容認された計画の概要を提示する事であり、
又、これらの事業が、どのように非常に多くの災害の被害者の状況の改善を助けたかという
ことを示すものである。
私、ジャン イグランドは、寄贈者、政府、企業、または個人へ、津波信託基金へ皆様の寛大で、
時を得た貢献に対し、感謝の意を述べたいと思います。
人道主義部局書記長次官、緊急避難救援責任者、
ジャン イグランド
情報源:UNOCHA(国連人道問題調整事務所)
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インドネシア:津波から2年
Pak Tarmidji さんの今
45歳のPak Tarmidjiさんの生活は、2004年の津波以来、取り戻す事が出来ないくらい変わって
しまいました。最愛の妻Ibu Sulistinは、彼が必死に一本の木にしがみついていた時、大波によって
まさに一瞬の内に、彼の手から運び去られてしまったのです。彼は今、一人で子供達を育ててい
ます。けれど、長年漁師として生計を立てていた彼が、今は海に戻る事がどうしてもできません。
Pak Tarmidjiさんはインドネシアのアチェ地区のGlee Bruek村に住んでいます。以前は1,100人
以上の人口がありましたが、津波で800人以上の死者がでました。今、2年が経って、村の生活
はゆっくりと改善されつつあります。それはアメリケア(AmeriCares)が出資し、協同者である
Project Concern International(PCI)によって実践されている、上下水道整備プロジェクトや、
生計支援プログラムによるところもあるのでしょう。
2006年4月よりアメリケアとPCIは、Glee BruekとLhoongの小地区である周辺の3ヶ村に、衛生
的な水を供給するプロジェクトに取り組んでいます。Pak Tarmidjiさんも言うように、津波以前から、
この地域における飲料水や生活用水は、常に問題となっていました。アメリケアの支援を得て、
PCIは現在4本の水道管を建設中です。あと数週間で完成しますが、そうすると全体で4,822人
の人々に供給する事が出来ます。
すでにPak Tarmidjiさんは、このプロジェクトの恩恵を受けています。彼は同じ村の仲間達から、こ
のClean Water Infrastructure Projectの地区代表に選ばれました。この事で彼は新たな任務と共
に、新たな生計を得る事が出来ました。彼はこの試みが自分達の地域にもたらす変化を、心の底
から待ち望んでいます。
“私は、今だに強いトラウマの為、漁に出る事が出来ません。まだ心の準備が出来ないのです。”
と、Pak Tarmidjiさんは言います。“でも今は、PCIやアメリケアと共に多くの事業に参加しています。
私はその事にとても感謝しています。特に衛生的な水の供給に。それは、私たちにとって本当に
長年の夢だったのですから。”
これはインドネシアやスリランカで、人々を津波被害から復興させるべく、アメリケアが行っている
取り組みの、ほんの一例にすぎません。
情報源:AmeriCares Foundation
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浄水機が地震の被災者に
【Slamet Susanto ジャカルタポストBantul】
可動式浄水機が2ヶ月前に運転を開始するまでは、多くのImogiri、Jogangan 住民は、近くの川で
水浴びすることを余儀なくされていた。5月27日の地震により井戸が枯渇してしまったからだ。
不衛生な水を調理や入浴に使用するため皮膚病や下痢が蔓延していた。
しかし、現在住民は、ジェネラルエレクトリック社から寄贈された215万ドルの2台の浄水機のお
かげで十分な水を得ることができるようになった。ImogiriのSiluk橋で稼働中のこの浄水機は、清
潔な水を1日に320万トン供給することができる。
浄水機の操作技術グループのチーフであるHadianto氏は、「これで十分な水の供給ができます。
多くの住民が飲料用としてだけでなく入浴用としてもこの水を利用しています。」と述べた。
Hadianto氏ほかジョグジャカルタからの6名のチームのメンバーは、近くの川の水を利用するこ
の浄水機のために待機していたのである。同機は先の2ヶ月間を試用期間として稼動していた
が、土曜日に地元自治体に引き渡された。
「2台の浄水機は津波の後、Nanggroe AcheDarussalam で約10ヶ月間、数千の住民とボランティ
アスタッフへの水の供給のために利用されていました。そして今回、浄水機は水を必要としている
地震の被災者のため、ジョグジャカルタに移されたのです。」とGE社マーケット開発部長のHasto
Kristiyanto氏は述べた。また、同氏は「私が観察したところでは、多くの井戸がかれてしまっており、
たとえ水が残っているとしてもO-157やその他の危険な物質に汚染されています。」と付け加え
た。
また同氏によると、GE社は今後3ヶ月間浄水機の稼動に責任を持ち、その後は、状況および必
要性をみて検討し、引き続き、住民が水を必要とするならば、地元の公共事業局が担当すること
になるとのことである。
住民に水の必要性がなくなれば、浄水機は必要なときにいつでも使えるように待機させるとも
Hasto Kristiyanto氏は述べている。
浄水された水は、地元住民だけでなくJetis, Pundong, Gunungkidulなどの地域の人々にも利用さ
れている。
Joganganから6kmはなれたPungdong, Seloharjoに住むSarinemさんは、「浄水機が長期にわたっ
て稼動することを望んでいます。」と話した。
情報源:ジャカルタポスト
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インド:タミルナドゥのハビタット・共同プロジェクト、35名の女性を石工に育成
アーンドラ・プラデーシュの村人、建設・修繕支援に40時間
【アーンドラ・プラデーシュ、2006年10月13日】
南インド、アーンドラ・プラデーシュ州の沿岸にあるTummalapalliの村人は、津波後の
コミュニティ再建の責任を自身で担っている。
インド、Bapatlaにあるハビタット・フォー・ヒューマニティ支部が行うプロジェクトでは、
延べ40軒の家が建設・修繕される予定である。
先月、5家族が着工式を取り仕切り、10人の男性が壊れたコンクリートの屋根を引き
剥がして家の再建の準備をした。
「再建される家は、1977年のサイクロンの後に政府のプログラムによって建てられた
ものです。ほとんどがひどく劣化していて、安全ではありません。」津波復興プロジェク
トの現場監督であるT. Ravi Kumarさんはそう説明する。
修繕された家は新築のようだが、ただの新築以上に優れている。壁は強化され、窓と
ドア、そして屋根が取り替えられた。トイレも取り付けられた。床は浸水を避けて高くさ
れた。通風口が新たに取り付けられ、天井の高さは7フィートから9.5フィートになった
ので、より快適に過ごしやすくなった。
「20人の石工を雇いましたが、単純労働はすべて地元の男女が担いました。」と、
Baptla 支部の代表であるRaja Shekar は言う。
「田んぼでの手作業には慣れているのですが、今では建設もできます」セメントの容器
を運ぶ手を止めて、Uhardeviさんは笑顔で言います。「これは私のお隣りさんの家。
明日は彼の家の分をやります。」と彼女は言い、ショベルで作業している隣の男性を
指した。「その次は私の家なの。」
低地の水田が灌漑用水路に囲まれているこの地域では、サイクロンと洪水による危機
が頻発しているのである。
情報源:Habitat for Humanity International
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パキスタン:人生のある一日
2005年10月8日だった。26歳のシャージア・アッバーシーさんが、事務員だった夫のアシク・
フセインさんと6歳の娘、メリーンを亡くしたのは。
彼女は現在、ムザファラバードの奥のランガタイという山腹で、9歳のリムシャ、7歳のオマイ
ル、そして、地震当時彼女のお腹にいた、9か月になるアリシュバという三人の子どもたちと
小さな小屋に暮らしている。
「ラマダンだったので、日が出たら断食できるように皆早く起きて、午前3時頃食事をしました。
私はレンズ豆とパラタ(小麦粉を練って焼いたパン)を作り、ヨーグルトと一緒に食べました。
そして、午前4時半にモスクに行ったのです。
6時に帰ってくると、子どもたちは学校へ行く準備ができていました。いつものように子どもは
学校を楽しみにしていて、息子のオマイルと、長女のリムシャが忙しそうに彼女の靴を磨いて
いました。
しかし、6歳の娘メリーンがその日、あまり学校に行きたがらなかった様子を、私は決して忘れ
ません。メリーンは、今日は神聖な日だから家にいないといけないんだと言い張りましたが、
私は行きなさいと言い、子どもは全員6時45分頃に学校へ出発しました。私は思うんです。も
し私が娘を家にいさせてあげていたら、彼女は今も生きていただろうにと。でももう戻れません。
子どもたちが出て行った後で、夫が晩ご飯に何か買ってこようかと私に聞いたので、日没後に
食べるミンチ肉をお願いしました。
それから私は掃きそうじをし、姑とおしゃべりをしながら盛大な朝ご飯の洗い物をしました。座り
ながら鍋をごしごしやっていると、何だか蜂が群がっているような音が聞こえてきました。すぐ
に―そう、すべては瞬く間に起こりました―部屋の中に蜂の大群がいるかのような轟音が近
づいてきて、地面が揺れ始めました。
突然あたりが暗くなり、巨大な衝撃で家が壊れました。一瞬、私たちの周りに山が崩れて落ち
てきたのかと思いました。そして実際にそうだったのです。
恐ろしくなり、地面をぐいっと掴みながら転げました。『これは最後の審判だわ』と思いました。
『もう私は死んだのね、子どもたちも。世界が終わったんだわ』
私が祈っていると、姑が私の側へと這ってきました。私たちは泣いて抱き合いながら、コーラン
を唱えました。
地面はまだ揺れていましたが、自分たちは死んでいないのだと互いの存在で確認しました。揺
れが収まってきたとき、身を起こして姑は言いました。「私のことは心配しないでいいから、子ど
ものところへ行きなさい」けれど、私はあまりのことに足に力が入りませんでした。
子どもたちは別々の学校にいましたので、義理の兄がひとつの学校に行ってオマイルとリムシャ
を素早く見つけました。二人は大丈夫でしたが、彼の娘、つまり私の姪は亡くなってしまいました。
義兄が瓦礫の中から姪の小さな遺体を引っ張り出したとき、姪はまだ口の中にチューインガム
を含んでいました。地震が起きたとき食べていたのでしょう。
私は、どうやってかわかりませんが、何とかメリーンの学校にたどり着きました。恐ろしい光景
が私の目に飛び込んできました。
かつて学校だったものが、墓場になっていたのです。ほとんどは両親ですが、祖父母や親戚
までもが、啜り泣き、わめき、瓦礫や石をつかみ、必死に子どもを掘り出そうとしていました。
学校にいた400人の子どものうち、助かったのはたった50人だったと後に知りました。まだ見
つかっていない遺体もあるそうです。
どうすることもできませんでした。義兄は、自分がメリーンを探すから、私には帰って他の子ど
もの世話をするように言いました。今となっては、私が唯一覚えているのは、皆が泣いていた
ということだけです。
午後2時に義兄が学校から帰ってきました。彼は運んできた遺体を私の腕に横たえ、「見つけ
たよ」と言いました。それはメリーンの遺体だったのです。彼女の顔は跡形もなく潰れていま
した。
その瞬間だったのでしょうか、それとも、数時間の後だったのでしょうか、夫の兄弟たちが彼の
遺体を運んできたのは。私は少し気がおかしくなりました。夫は事務所に座っていて、そこに壁
が崩れ落ちてきたのでした。兄弟たちが事務所で夫を探したとき、彼らには夫が中にいること
がわかりました。夫が好んで使っていたブルート・アフターシェーブ・ローションの匂いがした
からです。その朝、私自身も彼にスプレーしてあげました。彼の腕時計は2時47分を指してい
ましたが、彼は数時間前に亡くなっていたのでしょう。
その午後、私の頭と心に何かが起こったのでしょう。正直に言えば、その日、他に何があった
のかまったく覚えていないのです。それだけでなく、それから4か月分の記憶がないのです。
ほとんどの時間、私は自分が何をしているのかわからず、今何日で何時なのかを知りませ
んでした。
あらゆることを乗り越える唯一の術は、家族でした。家族は私を本当によく助けてくれ、ついに
私は、とてもゆっくりではあるけれども、普段の私に戻っていきました。彼らは私にこう言い続
けました。『シャージア、あなたは子どものために生き延びなくてはならないのよ』
今になってわかるのは、私の家族やコミュニティにとって、単に日々を生きるということがいか
にたいへんだったかということです。
彼らは皆貧しいけれど一所懸命働いていました。けれども地震ですべて失くしてしまいました
―家族も、家も、仕事も、持っていたものすべて。
地震直後、そして今日でさえ、Concernのような国際NGOにどれほど支えられているかはよく
わかっています。食料と水、テントやマットレスをくれました。
不思議なことは、地震で全壊しなかった家はほとんどなかったのに、私たちの家がそのひとつ
だということです。周りの他の家は全壊してしまいました。
だから、ほとんどの友人たちはまだテントで暮らしています。コミュニティの多くの人が、愛する
人も、家も失い、私よりもずっと苦しい状況にあるのだということがわかりました。
2006年1月19日、私は父親のいない孤児となる末の子を産みました。子どもの世話をすること
は私の回復を助けました。
わかるでしょう、私の結婚はお見合いではなかったのです。恋愛結婚だったんです。夫がいなく
てとても寂しい。毎朝、私は彼が仕事に行く支度をするのを手伝い、毎晩彼の夕食は別に作り、
それから一緒に時間を過ごしたのです。
いつでも夫のことを思い出します。特に、夜遅く、そして朝目覚めたとき。ときどき、目覚めた瞬間
夫とメリーンがまだ生きているような気がするのです。それから、現実に起こったことを思い出す
のです。
昨年のいつか、私も地震で死んでしまったらよかったのにと思いました。けれども親戚たちは言
いました。『神様は子どもを育てるためにあなたを生かしておいてくれたのよ』
今、私は舅に支えられています。彼には養うべき人がたくさんいるにもかかわらず、稼ぐのは
月に6500ルピー(約13,000円)という少ない額です。私は子どもを養えるだろうか、学費や、制
服代が払えるだろうか、将来やっていけるのかと心配です。
どうすればいいのでしょう。
私は皆のために泣きました。亡くなった人のために。愛する人や家を失った友達のために。
そして私自身のために。
けれども、アッラーは私たちに試練を与えて愛する人をお試しになると言われています。おそらく、
神は私たちの忍耐強さをお調べなのでしょう。」
情報源:Concern
原文URL: reliefweb.int
パキスタン:数千の被災者に今なお残る、生計の不安
[この報告は必ずしも国連の見方を反映したものではない]
ムザファラバード、9月6日(IRIN)―パキスタン北部で7万5千人の命を奪った大地震から11ヶ月が
経とうとしているが、取り残された人々は今なお苦しんでいる。10月8日の地震によって5,500人以上の女性
が夫を亡くし、350万人以上が家を失った。
4人の子どもを持つGulab Janさんは30歳の未亡人だ。彼女の境遇は変わっていないと言う。地震で家が全半
壊したためキャンプに住んでいる未亡人はなお700人以上いるが、彼女はその一人だった。
「これからどうすればいいのでしょう。11ヶ月経っても何の進歩もありません。夫は農業をしていたけど7年前に死
んでしまいました。それ以来私たちを支えてきてくれた兄も、地震で多くを失い、もう私を助けてくれることはでき
ません。彼自身にも8人の子どもがいるのです」パキスタン領カシミール州の州都、ムザファラバードの
Chelha Bandiキャンプで、Guabさんはシェルターからこう言った。
「私は以前メイドをしていましたが、今は仕事がありません。たとえまた仕事を見つけることができても、家族を養
うのに十分ではありません。その上、私は土地も持っていないのです―地震が奪ったんです」彼女は言う。
パキスタンの女性、子どもや高齢者といった、すでに性差別、社会的排除、非識字、社会経済的困難や低
収入によって苦しんでいた人々の暮らしは、地震によってますます困窮した。
特に、農村地域の女性の境遇は厳しい。男性が外に働きに出る一方で、女性たちは家で子どもを育ててき
た伝統がある。災害以来、その役割が劇的に変化した。今では、家長である男性が亡くなったり不治の障害
を負ったりしたために、一家の大黒柱となった女性が少なくない。
キャンプの女性たちは、政府が新しい土地をくれること、そこに家を再建することを待ち望んでいる。彼女たちも
特に傷つきやすい。
政府の地震復旧・復興庁(ERRA)は北西辺境州(NWFP)とパキスタン領カシミール州の被災地における、特
に弱い集団に焦点を当てるために社会的保護戦略を設立した。
ERRAによると、慣習上、女性は相続権を否定され、財産、収入や生計手段を得ることを制限されがちである。
しかし地震が教えてくれたのは、被災地の家族と親族の構造は強いということだ。両親を失った子どもなど、
弱い人々の大部分は、自発的に血縁者によって引き取られた。
4万1千人近い子どもが地震で孤児となった。SOS子ども村という、孤児や貧しい子どもたちに長期的なケア
を提供する国際的児童施設がある。数百人の孤児と、男性の家族を失った子どもを持つ女性に新しい、あ
るいは既存の設備住宅を提供した。
ムザファラバード郊外のChamraキャンプには、65家族と17人の孤児が暮らしている。
ほとんどの文化では、両親を失った子どもを孤児とみなす。しかしパキスタンでは、父親を失った子もまた孤児
なのである。
孤児となった孫の面倒を見ている高齢の女性たちは、子どもたちだけでなく彼女自身の安全も確保しなけれ
ばならない。
Nuran Bibiさんは、地震で親を失った9人の子どもの祖母である。
「どうやってうまくやっていけばいいのかわかりません。9人全員は支えられないのです」とNuranさんは小屋の中か
ら言った。
Naheed Bibiさんは、Nuranさんの孫の中で最年長の18歳だ。彼女はイスラームの学校に通っていて、一年
以内に教師になる。しかし、将来は不確かだ。
「何が起こるかわかりません。学校が終わっても、私は他の8人と祖母を養えないのです。父は店をやっていた
し、母は主婦でした。そのとき(地震前)でさえ苦しかったのに、今は希望すらありません。」Chamraキャンプで
そう言った。
Afsar Khanさんと彼の弟2人と妹も、両親を失ってChamraキャンプで暮らしている。地震前、Afsarさん
の父は病気で半身麻痺となり、家族を養うために政府の支援を受けていた。しかし今、家族には何もない。
「(弟と妹を指差して)この子たちに何をしてやればいいか、何も計画がありません、自分自身についてもです」
と、たった一人の稼ぎ手である20歳のAfsarさんは言った。
政府の社会的戦略では、弱い人々、特に未亡人、女性が家長の世帯、障がい者に特別な技術支援を提
供することを勧めている。しかし、この支援が最初に届くのは、弱い人々でも資産を持った人だ。Gulab Jan
さんでもなく、Nuran Bibiさんでもなく、Afsar Khanさんでもない。
自分自身で何の財産も持っていない人たちにとって、コミュニティに基礎を置くケアの選択肢が考えられるが、
いかなる計画もまだ決定されていない。ほとんどの人々は絶望したままなのである。
情報源:UNOCHA―統合地域情報ネットワーク(IRIN)
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インタビュー:融通利かぬ官僚主義、津波の警告遅れる-インドネシア
【Achmad Sukarsono、ロイター】KUTA、インドネシア
17日にジャワ島の南岸で600人以上の死者を出した津波で、インドネシアの融通の利かない
官僚制が警告の遅れをもたらしたと月曜日、大臣がロイターに語った。研究・技術大臣
Kusmayanto Kadiman氏はこう言う。インド洋で強い地震が起きた17分後、幹部らは津波の
可能性を告げる警告を受けていたにもかかわらず、沿岸の危険地域に対して行動を起こさな
かった。
「パンガンダラン(Pangandaran)(今回の津波の)件で得た最大の教訓は、我々が官僚機構に
依存しすぎているということである」とKadiman氏は、リゾート地バリ島で行われた地域津波会議
でのインタビューで語った。
「州知事や市長に情報を送るけれども、この手の役人は24時間警戒体制というわけではない
のだ。」
岸から180キロ(112マイル)沖でマグニチュード7.7の地震が発生した後、ジャワ島南岸のコミュ
ニティに危険を告げるサイレンは鳴らなかった。波が岸に到達する寸前も、子どもたちはまだパ
ンガンダランの浜で戯れていた。そこはもっとも大きな被害の出た地域だ。
津波対策のメッセージを押し勧めるため、ユドヨノ大統領が来週、役人らを召集すると
Kadiman氏は言う。現在、インド洋沿岸諸国は日本の気象庁とハワイの太平洋津波警報セン
ター(the Pacific Tsunami Warning Center)の津波警告を当てにしがちである。
7月17日、ジャカルタの役人たちは両者から警告を受けた。それが地方の役所に伝達されたの
は、津波が岸を襲うたった数分前のことだった。浜にいる人たちに危険を知らせるには、遅すぎ
た。インドネシアは、地震や津波の情報を警察を通して伝える計画をしているとKadiman氏は言う。
20分以内に津波がインドネシアの岸に到達する恐れがあるとき、役人はおおまかなデータに
基づいて行動を起こさなければならないと彼は言う。
「これからは、もし海で、震源の浅いマグニチュード6.3以上の地震が起きたら、我々は直ちに
警報を出します」と彼は言い、今後3ヶ月以内に数百の携帯電話の電波塔にサイレンが取り
付けられると付け加えた。
インドネシアで最も人口密度の高いジャワ島の浜にはサイレンがなく、さらに、既存の二つの
津波警報用ブイは数ヶ月前に壊れて、修理中だった。この二つのブイは、スマトラ島の沖に置
かれることになっている。2004年12月26日にインド洋沿岸諸国で23万人―その多くはイン
ドネシア人だった―の命を奪った地震と津波の震源に近いところだ。
インドネシアは1万7,000以上の島々からなり、深海用のセンサーをつけたブイが少なくとも22、
デジタル記録付きの潮位計測器が120、信頼性の高い津波探査のための地震計が160必要
である。
包括的で近代的な警報システムは役に立つ。しかし、それも国民の意識が欠けていたら使い物
にならないのだとKadiman氏は言った。
「一番大切なのは備えです。もし大地の揺れを感じたら、海面の水位が下がりだしたなら、
とにかく走って近くにいる人を連れて逃げなさい。その人が言うことを聞かないのなら、引き
ずってでも連れていくのです。」
情報源:ロイター
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地震後のパキスタン山岳北部の子ども達
■ムザファラバード2006.7.24
幼いラブバちゃんが栄養失調でテントの診療所に運ばれてきたときの体重は8だった。
彼女の体重は生後10ヶ月の赤ん坊ほどだったが、彼女の実際の年齢は10歳である。
ラブバちゃんの事例は南アジア地震の4ヶ月後の2月にユニセフの支援によってムザ
ファラバードに設立された診療所の人々に衝撃を与えた。“彼女はこれまで見た中で最も
ひどい例です。彼女は深刻な慢性栄養失調だけでなく、肺結核も患っています” と診療
所にカシミールの小児科から勤務するリアズ医師は話した。この診療所はこの地区では
初めての栄養失調の子ども達専用の施設である。ユニセフは診療所のスタッフへの賃
金を支払い、栄養価の高いビスケットやミルクなどの食料も提供している。リアズ医師達
の治療の結果、ラブバちゃんの状態は快方へ向かっている。彼女は他の5人の兄弟に
比べて幸運であった。彼らは同様の状況下で10歳になる前に死亡しているのだ。
■健康への初の取り組み
7万3千人の死者と3百万人の人々の家を奪ったマグニチュード7.6の大地震前の、パキ
スタンが統治するカシミール地区における慢性的な栄養失調者の割合は38%であった。
急性の栄養失調者の割合は5~10%であった。 “伝染病の蔓延、(健康に対する)知識
の欠如、食料の不足、これらが(栄養失調を)引き起こす原因である。この状況は地震
により人々の移動によって悪化しているのである。”とリアズ医師は話す。この地震は
パキスタンに長く存在している遠隔地や北東の山岳地方の健康問題について新しい扉
を開いた。長期的なユニセフの復興計画の一部として、基本的な薬や衛生面について村
人達に教えることで、彼らは村から離れた場所でも家族の健康状態が医者に見せる必
要があるかどうかを確認することができるようになっているのである。数百人のユニセフ
協力員の医療班のメンバーは既に現地入りし、該当家族の健康をチェックし、また彼らに
衛生面や病気、また特に深刻な栄養失調について改善できるよう教育している。
■急がれる子ども達への治療
子ども達の栄養失調が慢性化する前に手を打つべく、ユニセフは母乳を促進する盛大
なキャンペーンを行っており、また地方に50の補遺食料センターの建設を計画している。
“これらの作戦は手付かずだった部分にメスを入れた計画です。私たちはなんとかして、
子ども達の栄養失調が軽度なものから重度なものになるのを止めたいのです。”とユニ
セフの栄養プロジェクトの幹部ジョーン・エグブタ医師は言った。リアズ医師も同感であ
った。“必要なのは援助が必要な子ども達を見つけることである。でなければ事態は悪
化するであろう。”と。
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情報源: United Nations Children’s Fund (UNICEF)
原文URL: reliefweb.int