Intan(52歳)は150人の小中高校生がいる村の学校の校長先生である。教育は彼女の専門ではなかった。実際、彼女が仕事について今日が2日目であった。
Intanは放送学校で研修を受けた60人のうちの1人である。放送学校とは早急に代替のできる非公式な教育制度で、正規の職員を多く失った地域で切実に必要とされている。
私は間に合わせの校舎として使われている小屋の下で行われていたコミュニティミーティングで、Intanに会った。彼女の足元には数々のワークブックが小奇麗に置かれていた。コミュニティーミーティングの途中、彼女は藁のマットに座っている私の隣りを空け、座った。私はこの女性がこのコミュニティーの何らかのリーダーであると確信した。彼女の自信ある態度がそれを物語っていたからである。
地震が起こったとき、Intanと彼女の子供は家の中にいたが、難を逃れるために外へ出た。めまいから立ち直りつつ、中庭の前に立って、彼女は命が助かったことを神に感謝した。家は滅茶苦茶な状態だった。それから彼女は爆弾が爆発するような大きな音を4回聞いた。
その後、彼女はそれが海岸に襲いかかる海の波であると気づいた。彼女たちは即座に走り始めた。「水が隆起して、竜の口のような形をしていました。」最初の一波が来たとき、彼女たちはもう終わりだと思っていたが、そうではなかった。第二波が上下にゆれながら多くの壁を裂いていった。「私たちは丘に走っていき、家族は全員無事でした。この津波で亡くなった人は(家族では)いませんでした。」家族全員が無傷なことは極めてまれなことである。
5日間、彼女らは何の援助も受けられなかった。「私たちは木の破片をとって、仮の住まいを作りました。夜によく雨が降り、寒かったです。実際に私たちは全く眠れず、ただ地面の上で、身を寄せ合って寝転んでいただけでした。食べ物は、バナナを木からとって食べたり、キャッサバ(ポテトのようなもの)を食べたりしました。」5日目になって、ついに食料が届いた。しかし彼女のような人たちがあまりに多いので、彼女たちは一人につきご飯スプーン一杯分しか当たらなかった。
一ヶ月経った今、村の人たちが、自分たちに何が最も必要かを述べるために、一つの屋根の下に集まった。小屋がリストの一番上にあった。住む場所はIntanにとって重要な問題であった。彼女はそこに出席した中で、家を失った25の家族のうちの1人だったからである。彼女には他にも必要とするものがあった、それは生徒たちの保護である。学校の校舎は津波でひどい損傷を受け、小さな建物以外はコミュニティミーティングができる場所はなかった。「この小屋は悪くはないが、こんな込み合った場所で子供たちに教えるのは難しく、屋根がないところでは…」と、彼女は周りを見ながら説明した。
「起こったこと(津波)については、辛いことだったけれど、同時に私たちを助けるためにやってきてくれた組織の人たちに感謝しています。また、私の時間を使って再び活動的な何か(つまりこの子供たちを教えること)をやっているので幸せです。」この村の家や学校はまもなく再建されるだろう。希望、行動、生命の感覚がIntanの心を再び満たした。
彼女の夫は、彼女がマットの上に座っているのを見て、話しに加わった。彼を誇らしく抱擁したときの彼女の顔には、微笑があふれていた。
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