2005年10月8日だった。26歳のシャージア・アッバーシーさんが、事務員だった夫のアシク・
フセインさんと6歳の娘、メリーンを亡くしたのは。
彼女は現在、ムザファラバードの奥のランガタイという山腹で、9歳のリムシャ、7歳のオマイ
ル、そして、地震当時彼女のお腹にいた、9か月になるアリシュバという三人の子どもたちと
小さな小屋に暮らしている。
「ラマダンだったので、日が出たら断食できるように皆早く起きて、午前3時頃食事をしました。
私はレンズ豆とパラタ(小麦粉を練って焼いたパン)を作り、ヨーグルトと一緒に食べました。
そして、午前4時半にモスクに行ったのです。
6時に帰ってくると、子どもたちは学校へ行く準備ができていました。いつものように子どもは
学校を楽しみにしていて、息子のオマイルと、長女のリムシャが忙しそうに彼女の靴を磨いて
いました。
しかし、6歳の娘メリーンがその日、あまり学校に行きたがらなかった様子を、私は決して忘れ
ません。メリーンは、今日は神聖な日だから家にいないといけないんだと言い張りましたが、
私は行きなさいと言い、子どもは全員6時45分頃に学校へ出発しました。私は思うんです。も
し私が娘を家にいさせてあげていたら、彼女は今も生きていただろうにと。でももう戻れません。
子どもたちが出て行った後で、夫が晩ご飯に何か買ってこようかと私に聞いたので、日没後に
食べるミンチ肉をお願いしました。
それから私は掃きそうじをし、姑とおしゃべりをしながら盛大な朝ご飯の洗い物をしました。座り
ながら鍋をごしごしやっていると、何だか蜂が群がっているような音が聞こえてきました。すぐ
に―そう、すべては瞬く間に起こりました―部屋の中に蜂の大群がいるかのような轟音が近
づいてきて、地面が揺れ始めました。
突然あたりが暗くなり、巨大な衝撃で家が壊れました。一瞬、私たちの周りに山が崩れて落ち
てきたのかと思いました。そして実際にそうだったのです。
恐ろしくなり、地面をぐいっと掴みながら転げました。『これは最後の審判だわ』と思いました。
『もう私は死んだのね、子どもたちも。世界が終わったんだわ』
私が祈っていると、姑が私の側へと這ってきました。私たちは泣いて抱き合いながら、コーラン
を唱えました。
地面はまだ揺れていましたが、自分たちは死んでいないのだと互いの存在で確認しました。揺
れが収まってきたとき、身を起こして姑は言いました。「私のことは心配しないでいいから、子ど
ものところへ行きなさい」けれど、私はあまりのことに足に力が入りませんでした。
子どもたちは別々の学校にいましたので、義理の兄がひとつの学校に行ってオマイルとリムシャ
を素早く見つけました。二人は大丈夫でしたが、彼の娘、つまり私の姪は亡くなってしまいました。
義兄が瓦礫の中から姪の小さな遺体を引っ張り出したとき、姪はまだ口の中にチューインガム
を含んでいました。地震が起きたとき食べていたのでしょう。
私は、どうやってかわかりませんが、何とかメリーンの学校にたどり着きました。恐ろしい光景
が私の目に飛び込んできました。
かつて学校だったものが、墓場になっていたのです。ほとんどは両親ですが、祖父母や親戚
までもが、啜り泣き、わめき、瓦礫や石をつかみ、必死に子どもを掘り出そうとしていました。
学校にいた400人の子どものうち、助かったのはたった50人だったと後に知りました。まだ見
つかっていない遺体もあるそうです。
どうすることもできませんでした。義兄は、自分がメリーンを探すから、私には帰って他の子ど
もの世話をするように言いました。今となっては、私が唯一覚えているのは、皆が泣いていた
ということだけです。
午後2時に義兄が学校から帰ってきました。彼は運んできた遺体を私の腕に横たえ、「見つけ
たよ」と言いました。それはメリーンの遺体だったのです。彼女の顔は跡形もなく潰れていま
した。
その瞬間だったのでしょうか、それとも、数時間の後だったのでしょうか、夫の兄弟たちが彼の
遺体を運んできたのは。私は少し気がおかしくなりました。夫は事務所に座っていて、そこに壁
が崩れ落ちてきたのでした。兄弟たちが事務所で夫を探したとき、彼らには夫が中にいること
がわかりました。夫が好んで使っていたブルート・アフターシェーブ・ローションの匂いがした
からです。その朝、私自身も彼にスプレーしてあげました。彼の腕時計は2時47分を指してい
ましたが、彼は数時間前に亡くなっていたのでしょう。
その午後、私の頭と心に何かが起こったのでしょう。正直に言えば、その日、他に何があった
のかまったく覚えていないのです。それだけでなく、それから4か月分の記憶がないのです。
ほとんどの時間、私は自分が何をしているのかわからず、今何日で何時なのかを知りませ
んでした。
あらゆることを乗り越える唯一の術は、家族でした。家族は私を本当によく助けてくれ、ついに
私は、とてもゆっくりではあるけれども、普段の私に戻っていきました。彼らは私にこう言い続
けました。『シャージア、あなたは子どものために生き延びなくてはならないのよ』
今になってわかるのは、私の家族やコミュニティにとって、単に日々を生きるということがいか
にたいへんだったかということです。
彼らは皆貧しいけれど一所懸命働いていました。けれども地震ですべて失くしてしまいました
―家族も、家も、仕事も、持っていたものすべて。
地震直後、そして今日でさえ、Concernのような国際NGOにどれほど支えられているかはよく
わかっています。食料と水、テントやマットレスをくれました。
不思議なことは、地震で全壊しなかった家はほとんどなかったのに、私たちの家がそのひとつ
だということです。周りの他の家は全壊してしまいました。
だから、ほとんどの友人たちはまだテントで暮らしています。コミュニティの多くの人が、愛する
人も、家も失い、私よりもずっと苦しい状況にあるのだということがわかりました。
2006年1月19日、私は父親のいない孤児となる末の子を産みました。子どもの世話をすること
は私の回復を助けました。
わかるでしょう、私の結婚はお見合いではなかったのです。恋愛結婚だったんです。夫がいなく
てとても寂しい。毎朝、私は彼が仕事に行く支度をするのを手伝い、毎晩彼の夕食は別に作り、
それから一緒に時間を過ごしたのです。
いつでも夫のことを思い出します。特に、夜遅く、そして朝目覚めたとき。ときどき、目覚めた瞬間
夫とメリーンがまだ生きているような気がするのです。それから、現実に起こったことを思い出す
のです。
昨年のいつか、私も地震で死んでしまったらよかったのにと思いました。けれども親戚たちは言
いました。『神様は子どもを育てるためにあなたを生かしておいてくれたのよ』
今、私は舅に支えられています。彼には養うべき人がたくさんいるにもかかわらず、稼ぐのは
月に6500ルピー(約13,000円)という少ない額です。私は子どもを養えるだろうか、学費や、制
服代が払えるだろうか、将来やっていけるのかと心配です。
どうすればいいのでしょう。
私は皆のために泣きました。亡くなった人のために。愛する人や家を失った友達のために。
そして私自身のために。
けれども、アッラーは私たちに試練を与えて愛する人をお試しになると言われています。おそらく、
神は私たちの忍耐強さをお調べなのでしょう。」
情報源:Concern
原文URL: reliefweb.int