救援ニュース」カテゴリーアーカイブ

中国四川省地震救援ニュース 66

CODE翻訳ボランティアさんによる昨日の記事の後半です。
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 ボランティアたちは次第に鎮政府の信頼を得た。遵道鎮党委書記の林建華さ
んは、最初はおそるおそるだったがようやくNGO組織は政府と協力して多くのこ
とをやっていけると思うようになった。
 「鎮政府はだた統一の基準に沿っていくしかない。ボランティアは特殊な要求
にも対応できる。」と林建華さんは言う。
 
 救援初期の活動は主に物資の分配だった。大量の救援物資が届くと、鎮政府
は戸籍に基づいて村単位に分配した。すべての被災者は統一の基準で配られ
た。 最初に大規模な物資の分配が行われると、邱さんは頭痛がした。物資の
分配はちょっとの不均衡があると被災者の不満を引き起こすのだ。
 15日の夜、羅世鴻さんの組織したボランティアたちはミーティングを開き、被災
者の需要について調査することにした。羅さんのボランティアたちは貴州の雪害
救援に参加したことがあり、比較的経験のある方だ。
 ボランティアたちは遵道鎮にある4つの避難所で、ごみが散乱し衛生問題が深
刻だと気付いた。また救援物資の中で粉ミルクと女性が使う日用品が不足して
いることがわかった。
 ボランティアたちは被災者を組織してごみの分類を行った。また羅さんは支援
者の基金会を設立し、早速7台の大型トラックが物資を積んでやってきた。
 粉ミルクなどが迅速に必要な被災者のところに届けられた。邱さんはボランティ
アたちの効率のよさにびっくりした。
 鎮政府とNGOはすぐに暗黙の約束を結んだ。一般的な物資は政府が人数割り
して分配する。特定の物資はボランティアたちが配分する。統一の基準を保ちな
がら特殊な要求にも応える。
 「政府が顧みる暇がないところを調べ、補う。」羅世鴻さんはこの約束を了解し
た。
 しかし、邱さんはボランティアの考え方とは必ずしも一致していないと考えてい
る。「ボランティアがもってきた外国製の粉ミルクは、ここの赤ちゃんには合わず
下痢している子もいる。洋服だってブランド物を買う必要はない。」
 ボランティアたちは都市からやってきていて、農村のことをあまりよく知らないと
邱さんは言う。
  5月18日、遵道鎮での活動におけるNGOは前進をした。遵道鎮ボランティア
協調事務所ができたのだ。ここは遵道鎮地震対策指揮部に組み入れられた。
 「これは中国NGO発展史に名を残すかもしれないね。」羅世鴻さんは興奮を抑
えきれずにいた。なぜならこのことはほかの被災地では見られないことだから
だ。
 羅さんは言った。「被災地のボランティアは混乱状態で、メディアにより重点的
の報道された地方にばかりボランティアの過度な注目が集まって、本当に必要
な地方には人がいない。多くのボランティアが情熱を持ってやってくるが、失望し
て去っていく。」
 これに対して、遵道鎮のボランティアは「幸運」という。彼らを支持する人たちの
基金会も財政が良好だ。
 17日、万科集団の救援隊がやってきた。これより前に万科は1億元を遵道鎮
に送ることを決定している。この救援隊と同時に、広東省の深せん登山協会も
やってきた。 これらの団体が力を合わせると、遵道鎮では無視することのでき
ない救援の力になった。
 18日午後万科救援総指揮の朱保全さんは党書記に「ボランティア協調事務
所」をつくることを提案した。 この提案は政府に受け入れられた。「私たちは情
熱をもってやってきたボランティアを失望のうちに去らせてはならない。」鎮党委
書記の林建華さんは言った。
 5月21日、万科の支援で政府の2棟の仮設を建てた。そのうちの一棟をボラン
ティアたちが使用することになった。羅さんは、固定した場所があると、ボランティ
アたちの活動が系統だったものにできると言った。
 NGO組織には広い範囲の交流がある。ボランティア協調事務所ができると、陝
西省、河北省、北京市などから連絡がきてボランティアが派遣されてやってき
た。
 羅さんは言った。「NGOは必ず政府主導のもとに活動を展開しなければなら
ず、活動の重点は政府が顧みることのできないことだ。」
 また遵道鎮以外のNGO組織について、政府と関係なく建てたテント学校が、天
気が暑くなってテントですごせなくなるなどという安全面でのデメリットがある。テ
ント学校は最終的には政府が管理すべきだ、と述べた。
 遵道鎮のボランティアは学校に行かれなくなった学生にも手伝いをしている。
定例ミーティングで山西省のボランティアが提出した「楽しい休暇」の発想が事
務所に採用された。 詳細な計画を立て、学習場所を林のなかの涼しく安全な
環境に設けることにした。
学習課程は娯楽要素を取りいれ楽しく教えた。子どもは家の人の許しを得て自
由に通った。
 この活動は政府に報告され、政府も参与して各村で「楽しい休暇」活動を行う
ように指示された。
 ボランティアは調査中、遵道鎮は年画と刺繍の里ということを発見した。しか
し、そのデザインや販売は外部で行われ、遵道鎮は印刷加工をするだけだという
ことがわかった。
 被災者の再建を支援するため、ボランティアたちは遵道鎮棚花村に刺繍テント
を建て、村で刺繍のできる女性を組織し、ボランティア協調事務所の名義で第1
回目の発注をした。ボランティアは年画の図案に刺繍も入れ、ボランティアの記
念章をデザインした。第1回発注は100で、ひとつ60元だ。
 羅さんはこのような予約発注は被災者の積極性を呼び起こすと言う。ボランティ
ア協調事務所はデザインの専門家のボランティアを集め、芸術工作室をつくる計
画だ。彼らの製品の開発を援助する。また専門の営業団体が市場での販売を援
助する。
 「ボランティアは被災者には替われない。方法を教えるだけだ。」ボランティアは
被災者の依頼心を促してはならない。以前は大量のボランティアをがやってき
て、被災者が自分でやるべきことを替わってしていた。例えば掃除やテントの設
営など。
 遵道鎮ボランティア協調事務所はこの1点に思い当たり、彼らの活動を「被災
民を助けて行う」から「被災者に教える」に変えていった。 羅さんによると、依頼
心を形成すると、再建活動に支障をきたす。将来政府の負担になる。
 羅さんの考えでは、ボランティア協調事務所は3年またはもっと長く活動する。
現在直面している最大の課題は専門ボランティアを招致し、分けて仕事を行うこ
とだ。 専門ボランティアは比較的長い期間従事してもらう。遵道鎮が必要とする
仕事を専門化し、それぞれわけて仕事を行う。ほかのすべてのNGO団体の指標
になるだろう。
 6月21日、基金会と綿竹市政府は成都で再建に関する討論会を主宰し、多く
の国際国内NGO組織と学術機構が参加した。遵道鎮ボランティア協調事務所の
話は例として繰り返し紹介された。
 四川省社会科学院社会学研究所の郭虹所長は、「再建段階でも多くのボラン
ティアの力が必要だ。そのボランティアは専門的な技術を持っている人たちが望
ましい。」とのかんがえを示した。
 郭所長は、「地震救援NGOの活動を見ると中国社会で公民意識が進んできた
と思う。大地震はNGOを前面に押し出し、NGOにとっては絶好の機会であるが試
練の機会でもある。」と述べた。
 綿竹市副市長は、「綿竹市政府では現在、遵道鎮でのNGOの活動をモデルに
し、綿竹市内で広く推し進めるための討論をしている。最大限度の社会資源を
使って綿竹市の経済再建を加速させていく。」と述べている。
 (7月2日 新京報)
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中国四川省地震救援ニュース 65

地震発生後、早くに現地のNGOネットワークが解散させられたことはすでに
触れました。しかし、ここにきて中国政府はまたNGOとの連携を試みようとし
ている様子が伺えます。CODE翻訳ボランティアが紹介する以下の記事で
は、「地震救援にNGOの智慧が試されている。これは中国NGOの発展の契
機になるのか?」とこのマスコミはコメントしています。日本では阪神・淡路大
震災後のボランティア活動が注目され、その後通称NPO法が成立しました
が、同じような経緯を歩みのか未知数ですが、興味深く読ませて頂きまし
た。長いので2回に分けて紹介します。
以下はCODE翻訳ボランティアからの提供です。
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・・・・    
≪ 綿竹市:救援サンプル調査 政府がNGOを救援体系に組み入れ≫
 ぶん川地震以後、中国のNGO組織はこれまでにない情熱をもって救援活
動に力をいれている。この屈強な民間活力に対して、地元政府は疑問を持ち
つつもようやく受け入れる方向にある。災害に際して、政府とNGOが共同作
業を試みた。遵道鎮のボランティア協調事務所は、ボランティアが自主管理
するNGOの協調機構だ。そして政府が主導している救援活動の体系に組み
入れられている。これは被災地では特例だ。
 地震救援にNGOの智慧が試されている。これは中国NGOの発展の契機に
なるのか?遵道鎮のボランティア協調事務所は注目に値する。
 地震の重大な被災地である綿竹市遵道鎮。一間15平方メートルの仮設住
宅で毎晩8時ミーティングが行われる。ここにはリーダーはいない。あえて言
うなら、邱さんがその一人だ。22歳の彼女は遵道鎮団委の書記だ。その他
の22人は全国8の省市からやってきた。すべて救援ボランティアで20のNGO
(公民社会組織)に所属する。邱さんは鎮政府の会議にも参加し、ボランティ
アとの協調についての責任者となっている。
 「民政ボランティア」。
 羅世鴻さんは最初に自分をそう紹介した。鎮政府の邱さんはこれなら受け
入れやすいと思った。
 5月15日、羅世鴻さんは貴州省からボランティアを率いてやってきた。3日前
の大地震で遵道鎮は廃墟となり、政府の建物も崩れた。救命活動、物資の
運搬、3日間眠る暇もなかった。邱さんも政府の職員もみんなそうだった。地
震の恐怖から覚めやらぬうちに、羅さんたちはやってきた。
 羅世鴻さんは「NGO貴州高地研究所」の責任者で、もっともはやく遵道鎮に
入ったボランティアのひとりだ。彼は貴州の10のNGOを組織して遵道鎮にき
た。
「私たちはボランティアです。救援活動を手伝いにきました。」
「ここには食べ物も、たくさんの水もないんです。あなたたちにあげることもで
きないんです。」
「活動用のテントをひとついただけませんか?私たちは睡眠用のテント、水と
食料も持ってきています。」
 邱さんは、羅さんの態度が誠実でまた多くの救援活動の経験を話してくれ
たことを新鮮に感じた。確かに政府には人手が必要だった。
 羅世鴻さんは受け入れられたが、邱さんはまだボランティアと名乗る人たち
に対して警戒感をもっていた。この22歳の鎮団委書記のボランティアに対す
る概念は、学生時代の「老人ホームで掃除」的な知識のままだった。
 鎮政府の大多数の職員にとっては、NGOは初めて聞く言葉だった。

中国四川省地震救援ニュース 64

CODE翻訳ボランティアが興味ある記事を見つけて下さいました。職業訓練の話で
す。、「予約式」というのがどういう意味か判りませんが、訓練を受け、確実に就労
機会につながるというのは注目すべきでしょう。災害後の暮らし再建メニューで職
業訓練というのは必ずといっていいほど提案されますが、実際の就労機会に結び
つけることが難しく、いつも頭を抱えるところです。
以下はCODE翻訳ボランティアによるものです。
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◎「予約式」職業訓練
 膨州市就業局は被災者の就業問題解決のため、現地の職業訓練校と連携して
無料でミシンでの縫製技術訓練を開始した。訓練が終わると、そのまま職を得られ
ることになっている。第1期生120名は、省内外で働き始めている。このような「予約
式」訓練は被災者に喜ばれている。  
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(7月2日 新華社)

中国四川省地震救援ニュース 63

成都に戻ったYさんから早速レポートが来ましたので、お届けします。
久しぶりに北川県の農村を訪ねた。村ではすっかり仮設住宅が出来上
がっていた。電気や水道がまだ通っておらず入居には至っていない。何度
もお世話になっている老夫婦の家を訪ねた。「仮設出来上がったね。」、
「でもうちは入れないんだよ。だから昨日自分でテントを調達してきたよ。」
と家の片隅に置かれた軍用のテントが目にはいった。「二人で立てること
できるの?」、「昨日やったけどできなかったんだよ。」。。。という事で4人
の日本人ボランティアとさっそくテント張り作業開始。大人6人で何とか立
ち上がった。だが、ボランティアからはこんな声があがった。
「こんなん年寄り二人に立てれる訳ないやろ!」と怒りをあらわにした。
村の中では少しずつ仮設をめぐって格差がはじまっている。
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中国四川省地震救援ニュース 62

今回の地震では若者のボランティアが大活躍しています。以下、CODE翻
訳ボランティアさんが訳してくれた”「官制」ボランティアが作る中国版ボラ
ンティア元年の模様”です。少々長いですが、全文をお届けします。
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≪中国80年代生まれの青年ボランティア、偏見に挑戦≫
地震で傷ついた母親の世話をするか、それとも一人のボランティアとして
被災地へ赴くか?この2つの難しい選択に面した時、25歳の劉懿さんは
後者を選んだ。
目下の者が目上の者に尽くす事、この基本的な要求が満足に出来ない
若者たちは常々社会各界から非難を招いている。
劉懿さんはこの選択をする時非常に悩んだ。劉さんは言う。
「家の中には母の面倒を見る人がいる。また女友達も助けてくれる。」
劉懿さんは2006年重慶交通大学を卒業、現在は重慶道路局で仕事をし
ている。彼が被災地へ行く目的は被災者に対し実際に意義のあることを
したいということだ。
劉さんの家は四川省成都北の広漢市にある。家の中の家具、家電は5月
12日wen(さんずいに文)川地震で損壊した。
劉さんの母親は地震で怪我をし、のちに重慶の身内の世話をうけた。
母親が重慶に到着した当日、劉さんは重慶道路の緊急補修チームで被
災地の什ほう市紅白鎮に向かうところだった。
学校では橋梁を専門に学んだ為、劉さんは救援支援チームのなかで後
方支援組に配属された。彼の主な仕事は施工会社が監督する再建工事
の安全問題の手助けや、救援現場の写真撮影や工事の過程を撮るビデ
オ撮影の記録の協力である。
この若者は言う。被災地での救援の経験は彼のさまざまな物の見方を変
えた。学校で学ぶことのできない多くのことを学ぶことができたと。
「私たちはいままでずっと父母と教師に頼ってきたが、地震経験以後、困
難は必ず自分自身で対応しなければならないと意識するようになった。」
地震後、数千名の若者がすぐに被災地へ向かった。彼らは単身で、また
は自主的に救援グループに加わっている。彼らの大多数は1980年以降
の出生で、中国開放政策の成果が見られる年代である。
この年代の人たちは常々「80年代以降」と呼ばれ、大多数の人が「甘や
かされて育った」世代とみている。
この世代は出生以後から中国経済の成長があった。物質的な生活に恵
まれた「80年代以降」は常に自分勝手で、拝金主義、同情心に欠けるな
どと言われ、同時に他人を思いやることが少ないうえに、一人で物事を処
理することの出来ない世代と考えられている。
2008年年初から中国は自然災害やさまざまな事で挑戦を受けることに
なった。「80年代以降」はこの期間の際立った活躍で社会の関心を得、
また彼らの行動はこの年代に対する社会の偏見を変えることとなった。
メディアには「理性的」などの誉め言葉が表れ始めた。
年初の南方雪災、北京オリンピック聖火リレー、四川8級地震、毎回、中
国に対する試練は「80年代以降」に対する試練でもある。しかし毎回、年
若い「80年代以降」は、皆元気はつらつとした姿と責任感ある態度が目
立っている。
毎回国家が危機にさらされる度、若者の愛国心が噴き出した。テレビの
画面に写る愛国活動の人々の群れの中に我々は毎回若者の顔を見るこ
とが出来た。
2008年春節前夜、南方氷雪災害により南方の多くの省で水電供給が中
断された。交通も寸断され、帰途にあった数百万の旅客は駅やバスター
ミナル、交通幹線で封じ込められた。
交通渋滞を緩めるため、南方の被災した省の各大学に在籍する地方の
学生は政府の呼びかけに応じ、学校内で中国人がもっとも大切とする祭
日、「春節」を過ごした。
中国南部の広東省広州市、若いボランティアは目立つ標識を掲げて、動
けなくなった旅客のために水を配った。
北京オリンピック聖火リレー中ではロンドン、パリ、サンフランシスコなど
いたるところで中国人留学生の姿が見られた。彼らは平和集会を行い、
中国の国旗とオリンピックの旗を振り、情熱をこめて聖火ランナーに声援
を送った。オリンピックの阻止を図る「チベット独立分子」との争いの中、中
国の若い留学生たちは要となり立ち上がったのだ。
6月10日に開幕された中国共産主義青年団第16回全国代表大会で、共
青団の陸主席は語った。「今年以来、北京オリンピック聖火リレー中に多
くの若者、海外留学生の強烈な愛国精神が奮い起こされた。また、国家
の利益と民族の尊厳を保つ自覚が固められた。」
ラサ「3.14」暴力事件後、数百万の中国の若者はMSNなどでチャットを
するときネット上の名前の前に忠実な心の表れに「China(中国)」の文字
を加え、祖国に対する支持と擁護を表した。
このような表れは5月12日のwen(さんずいに文)川地震後、「心と心のつ
ながり(心連心)」の虹へと変化した。「80年代以後」の新世代の若者達
は地震災害救済の中、あでやかな虹を描き続けている。
四川地震発生の2日目、北京の多くの大学で献血が行われた。
被災地で怪我をした人たちのために大学生の呼びかけで始まったのだ。
清華大学の学生寮の事務所前には100メートルにもなる献血者の列が続
いた。
同時に、さらに多くの若者が自ら被災地救済の隊列に加わった。近隣の
四川重慶、貴州等では多くの若者達が自費で購入した救援物資を車に
載せ、被災地の県や市へ向けて昼夜問わず走らせた。被災地についた
後、彼らは物資を下ろし、すぐに戻っていく。利益や損得を気にせず、名を
残す事や誉め言葉を求めない。
1980年代以降生まれの青年、特に青年士官は救済活動中、最も活力が
あり最も意欲がある若者達だ。中国人民解放軍の若い士官と各地の武
装警察は一貫してさまざまな救済活動の最前線で目覚ましい活躍をして
いる。
地震被災地区である四川省什ほう市の14歳の中学生、鄭小鵬君は地震
救済の中で彼が最も感謝した人は解放軍とボランティアのおじさんだった
と話す。鄭小鵬君は地震で生命の危険を顧みず、アンモニア溶液漏れ情
報を30数人の地元住民たちに告げると言う困難な役目を果たし、みんな
を連れて危険な状態を脱した。
6月10日、中国共産主義青年団第16回全国代表大会で、彼は会議の上
で発言した6名の少年先鋒隊の一人となった。
「地震の時、解放軍のおじさんが暴雨の中連夜救助してくれて携帯食品
を与えてくれた。またボランティアの青年が僕達にテントや衣服、布団を
与えてくれたんです。」彼は会議の1500名に対して語った。
「ボランティアはすでに中国青年の一種の生活様式になった。」中国ボラ
ンティア協会副秘書長は言う。
昨年4月、北京市教育職員委員会と中国教育報が発布した「80年代以
降」の大学生の研究報告書によると、82.1%の学生が愛国精神的行動と
は国家の発展と未来の運命への関心をもつことであると考えている。
ここ数年、中国の若者はいまだかってなかったほとばしる感情をボラン
ティア活動に注いでいる。
2003年8月、その年度の1万人以上の大学卒業生が「大学生ボランティ
ア西部計画」旗印の下に集まり、中国西部の未発達地区の現場で1、2
年の期間でボランティアを展開した。
政府のデータは同時に、この5年で全国ですでに7万人以上の大学卒業
生が西部のボランティア活動に参加したと示している。
6月11日の人民日報の報道では、環境保護領域では延べ3.5億人以上
の青少年が生態と調和を促進する「母なる川を守る活動」に参加し、生態
保護模範工事の建設は239.3万ヘクタールにもなった。
北京オリンピック委員会の公表では、北京オリンピック、パラリンピックの
為のボランティア志願者が全国で百万人を越し、その多くが若者たちであ
ることを知らせている。
2002年から中国人ボランティアは国を出て、世界に向かっている。300名
近い中国青年達がラオス、ミャンマー、エチオピア、ギアナなど発展途上
の国でボランティア活動をしている。
「現在中国のボランティア活動をしている人数はすでに2.68億人になり、
ボランティア登録をしている人数は2511万人にもなります。」中国ボラン
ティア協会秘書長は語った。
武漢大学哲学科、膨富春教授は言う。
「80年代以降」は情熱を持って理性的な方法で彼らの愛国主義精神を表
現した。「80年代以降」の青年は中国の希望に満ちた世代である。
新華網 6月11日 21:48

中国四川省地震救援ニュース 61

成都市の耐震判定の手順の詳細が定められたというニュースを紹介します。そ
ういえば、パキスタン地震やインドネシア・ジャワ地震の被災地では至るところ
に「地震に強い家を造れます! 10の手順」というUSAIDやUNハビタットのポ
スターが貼ってありました。
<以下はCODE翻訳ボランティアさんからのものです>
≪成都市:耐震判定詳細規定≫
 ぶん川大地震で、成都市の中心地区および成都市に属する区・市・県の家
屋は様々な程度の損壊を被った。迅速な正常生活・生産秩序を回復するため、
国家建設部の「家屋建築工事の耐震設計防災管理規定」に基づき、6月8日、
成都市建設委員会は「成都市家屋建築の地震後耐震判定作業の強化に関す
る通知」を提出した。
 地震で被災した家屋は、「建築耐震判定基準」に基づいて鑑定する。「赤」判
定は「修復または耐震補強の必要」がある。
 持ち主の委託した建築設計(乙級以上)会社が耐震判定と補強設計を行う。
元々の工事設計会社にも耐震判定と補強設計を行う責任があるが、元の設計
会社がなくなってしまっていたり、対応しきれないときには、相応の技術を持つ
設計会社が担当する。
 耐震判定時、工事の現場、設計、施工及び進行に関して全面調査を行い、
判定報告書を提出すること。工事に関して検測が必要な時にはそれをできる会
社に委託できる。
 耐震補強設計は「建築耐震補強技術規程」に基づいて行う。補強設計は工
事の実際の状況と判定報告に符合した基準で、経済的に合理的に、使用に滞
りないように配慮する。また建築の機能を改変したり、建築規模を増加したりし
てはならない。重要な位置にある建築物は、都市計画の要求通り、元々の風
貌を保持することに留意すること。
 耐震補強設計書と施工図設計書はと審査機構の審査を経たのち使用でき
る。設計書審査機構は、関係技術規程、耐震判定報告、検査報告に基づき、
耐震補強施工図に対する意見を提出し、合格判定が出てから、合格証を交付
して工事会社に戻す。
 
 そのほかに、今回の地震での家屋建築耐震補強では、「判定―設計―審査
―施工―検収」の順序進行を守り、「家屋建築地震後耐震補強工事申告書」を
もって安全監督、質量監督の手続きを行うこと。耐震補強施工と管理は関係規
定と技術基準により執行され、施工及び管理単位は相応の資質を必要とす
る。
 (6月9日 成都晩報)

中国四川省地震救援ニュース 60

中国の復興支援で注目を浴びているのが「対口合作」です。以下の翻訳ボラン
ティアの情報によると、就業支援にも効果をなしているようです。
≪働いていれば、希望はある≫
 綿陽市では地震によって9万人の企業労働者が収入源を失い、9万の個人
経営の商店が収入を失った。また24万人の農村労働者が仕事を薄内、新しく
日雇いの仕事を始めた家庭は14400世帯になった。
 5月30日には、綿陽市就業援助招聘車が各避難所を回り、被災者に仕事の
情報を提供してきた。42の「就業援助活動センター」が立ち上がり、登録が始
まった。避難所のテントでも職業訓練が始まった。
 「魚を授けるより、漁の仕方を伝授せよ」
 青川県職業高校の校長の言葉だ。学校はすぐに竹園鎮と馬鹿郷に行って職
業訓練を始めた。「ここは青川県の被災者が集中しているところで、彼らの多く
はテントのなかですることもない。私たちがこの時間を利用して訓練を展開すれ
ば、彼らの助けになる。」
 テントの生活区には大量の労働者が必要だ。食材を買ってきて料理を作る、
物資を仕分けする、ごみ処理、衛生防疫活動…。このような仕事をする人を各
地で募集し、政府が出資して被災者自身がテント生活区の事務を自己管理で
きたら、仕事で忙しくてもやりがいは多かろう。
全国各地から就業援助の手が被災地にのびている。このような情報を集め、
企業組織が被災地で就業招聘会を行っている。6月25日には湖北省からのま
ねきがあった。非常に条件のよい仕事だ。月給は最低でも1000元(1万5千
円)、年齢等の厳しい条件はない、宿舎は提供される、湖北省への交通費は支
給、布団や歯ブラシなどの生活用品も支給、夫婦で来た人には独立した部屋
を提供、雇用契約を結ぶこと、社会保険に参加すること。
(6月25日 新華網)
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≪被災地で最大規模の就職招聘会が綿陽で挙行≫
 6月29日、綿陽市で被災地最大規模の就職招聘会が行われ、その場で
2798名の就職が決まった。今回の活動では、8万あまりの就職情報が提供
され、参加企業は800、当日参加した企業は150にのぼる。当日訪れた求職
者は20万人あまり。そのうち、相談中が6172名、2798名がその場で就職
を決めた。
 四川省総工会保障工作部によると、この招聘活動は4日間行われ、30日に
は広元市剣閣の避難所で開催される。
 (6月29日 新華網)
―――――――――――――――――――――
≪青川県で就職招聘会≫
 6月26日、広元市青川県で広元市中国華僑連合組織の就職招聘会が行わ
れた。今回の招聘活動では、3000名以上の仕事が提供された。再建活動の
発展に伴い、被災者の就業活動は重点項目になってきている。被災地と対口
支援の相手の省・市と連携して就職先を探すなど、多様な就業機会が提供さ
れており、被災者は歓迎をしている。
 (6月26日 新華社)

中国四川省地震救援ニュース 59

本ニュース56号で報告した「九州体育館」避難所の閉鎖について、さらに詳細なレ
ポートが上がってきましたので、再び報告します。なおこれはCODE翻訳ボランティア
によるものです。これを読むと自力再建する被災者にはテントと2000元の現金を供与
していることが判ります。6月8日発布された「ぶん川地震回復再建条例」では、自力
更正を促進しているようです。政府は、特に農村部に対する自力更正を強く促してい
ます。ちなみに政府が用意した災害回復再建基金は今年分で700億元で、内400億
元はぶん川で倒壊した農村居住者の家屋再建に充てるとなっています。
≪綿陽市九洲体育館被災者がすべて撤収≫
 6月29日、最後の1500名あまりの被災者が離れ、「5.12」地震後重要な役割を果
たした綿陽市九洲体育館はその避難所としての歴史的使命を終えた。
 29日に離れた1400名はすべて北川県の住民で、250軒が自分で仮の住まいを見
つけたほかは、安県永安鎮の政府が提供する仮設住宅に移転する。が、現在、プレ
ハブの仮設住宅は設備がまだ整っておらず、しばらくの間はテント暮らしになる。遅く
とも8月中旬には仮設住宅に入居する予定だ。29日、記者が体育館で見たのは、永
安鎮に移動する住民が大型バスに乗るところで、自分で暮らす住民はテントと2000
元(3万円)を受け取り、自分で去って行った。
 永安鎮の避難所の現場指揮部指揮長によると、永安鎮には269張のテントがあ
り、一つのテントに6~8人が暮らしている。29日には1200名ほどが移動してきた こ
こでは、住民は6つのコンロを使い政府が提供する食料で食事が作れる。避難所に
は12のシャワーと2つの公衆トイレがある。このほかに1か所診療所があり、100人ほ
どが涼める東屋がある。
 地震発生後、綿陽市九洲体育館は北川県の被災者を受け入れる緊急避難所とな
り、おおい時には4万人近くが避難していた。5月18日から体育館を離れる動きが出
てきた。親戚や友人宅に行く人、自分で住まいを見つけた人、他の土地へ働きに出
かけた人、避難所のテントに移る人…。 30日には体育館は閉館になる。   
(6月29日 新華網)
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中国四川省地震救援ニュース 58

「ニュース38」で紹介した、被害の大きかった北川県で誰一人けがをしなかった劉漢希望小学校。寄付をした会社「漢龍集団」のやり方を見習い、施行中も手抜き工事がないかをチェックしている企業があります。この動きが広がり、今後建てられる希望小学校を含めた全ての学校が子供たちにとっての希望になることを願っています。以下はCODE翻訳ボランティアによるものです。
≪ 劉漢希望小学校に学べ!≫
 6月16日午前、重慶のある企業が援助して建てられる四川省安県龍集村小学校の起工式が行われた。
 建設に参加した星芸装飾重慶支社の責任者は、「援助企業は日本の建築家迫慶一郎氏に依頼して校舎を設計してもらったそうだ」と述べた。
 地震で倒れない学校を再建することは児童教師みんなの願いだ。黄雪梅先生は、「煉瓦と木材を組み合わせた校舎は脆弱でした。地震で死者がでなかったのは、日頃の防震訓練のおかげです。」と言った。
 安県の副県長は言った。「龍集小学校はわが県で最初の再建される小学校です。」
 援助企業の責任者は、「この学校には60万元(900万円)を投資しています。施工期間中は現場監督を派遣します。漢龍のように。」
 新しい校舎は10月に完成予定だ。それまで児童は仮校舎で授業を受ける。
 この企業は200万元(3000万円)を出資して、安県、綿竹、都江堰に4か所の希望小学校を建てる予定だ。
 (6月18日 重慶商報)

中国四川省地震救援ニュース 57

99年の台湾地震から今日まで少数民族の住まい再建に活躍されている建築士が、今
回の四川大地震でも活動をされています。その方へのインタビューを紹介します。地元
の文化・伝統に根ざした復興を試みる謝さんの姿勢は、今後の中国四川の住まい復興
に向けた指針になるものと思えます。
以下はCODE翻訳ボランティアさんによるものです。
台湾著名建築士 謝英俊さん語る
≪再建、それは住宅だけの問題ではない≫
 ぶん川地震発生後、台湾の建築士謝英俊さんはすぐに環境トイレをつくりはじめ、1か
所の環境小学校を建てるつもりだ。
 台湾では、謝英俊さんは「921(9月21日に台湾で起きた集集地震のこと)」の代名詞
だ。彼は邵族の人たちを手伝って住宅を再建し、原住民自らが家を再建できるように手
伝った。
 地震前、謝英俊さんは台湾ですでに知られていた。いくつもの政府の公共工事を請負
い、一坪40万元で売られる豪邸も作っている。彼も豪邸に住み幸福円満な家庭を得て、
日々静かに暮らしていた。
 しかし、地震が彼の人生を変えてしまった。
 現在、謝英俊さんは台湾では「921」地震の代名詞となっている。彼は被災者とともに
住み、協力して家を造り、生態系を立て直し、原住民の家を再建しただけでなく、文化を
も再建した。
 このぶん川地震発生9日後、この54歳の台湾の建築士に電話でインタビューした。
 ≪原住民のために土の家を造った≫
 1999年9月21日、台中集集大地震では約2000人が死亡した。10月中旬、謝英俊
さんは邵族の人たちの招待を受け、彼らの家屋の再建を手伝うこととなった。台湾の山
地には12の少数民族がすんでいる。邵族はそのうちのひとつ。日月潭のもっとも奥地に
住む。日月潭は邵族の祖先が一頭の梅花鹿を追ったときに発見したと言われている。地
震前は3000人がいた。地震後はわずか281人になり、世界でもっとも少ない少数民族
となってしまった。地震前の邵族の主な収入源は観光だった。地震ではすべての旅館や
観光地が被災し、邵族のひとたちの収入が断たれてしまった。
 どうしようもなくなったとき、邵族のひとたちは謝英俊さんを思い出した。
 謝英俊さんは地震からの再建の経験はなかったが、すぐに邵族の地元を訪れ、集落に
は水源保護区、希少植物保護区があることを発見しこの再建は必ず環境保護主義のう
えに行わなければならないと思った。
 10月29日謝英俊さんは5人の設計団を率い、テント、寝袋、設営工具や日用品をもっ
て再びやってきた。謝さんは現地の人に、軽量金属(軽鋼)と現地のどこでもみられる
竹、木材、泥土を用いるよう提案した。このような家は風通しがよく耐震性に優れている
し、経済的だ。しかしこの提案は反対にあってしまった。邵族の人たちは現代的な鉄筋コ
ンクリートの家に住みたかったからだ。
 しかし、謝英俊さんは辛抱強く説得を続けた。
 大型機械も大勢の工事人員もいない状態で、謝英俊さんはこのような家を果たして作
れるのかよくわからなかった。家は建てられては壊され、また建てられ改良されていっ
た。いつも彼らは工事現場をみており、見ている人の方が作っている人よりも多かった。
現地のひとはつぶやいた。「こんな家が地震に耐えられるのか?長く使えるのか?」
 半月後に、第1軒目の家ができあがった。それは、土と竹など簡単な材料を使ったもの
だった。かかった費用は5万元で、建築業者から買う家の価格とは天と地ほどの差が
あった。
 3日後、邵族の人たちは、謝さんの意見を受け入れることにした。
12月5日正式に起工した。この部落に全力を投入するため、「謝英俊工作室」は20キロ
離れた新竹県から日月潭に移転した。
 謝さんは、自立してそして協力して家を建てることにこだわった。「私たちのやり方は家
をつくって被災者にどうぞとあげる方法ではない。私たちが提供する手助けは限定的だ。
私たちは建築を道具とし、専門化し、建築物を使用者の手に渡し、彼らが自分たちで作
れるようにするのだ。彼ら自身が自分の家を造るために苦労しなければ。」
 謝さんの号令のもと、現地の邵族の人たちが年配のおばあさん、おじいさんから、けが
をしている人、学校をやめて街をうろうろしてから故郷に帰って来た若者まで彼のもとに
集まった。
 彼ら普通の被災者は専門技術を持たない。壁塗りでもまっすぐにはいかない。でも非
常に芸術的だ。彼は参観者をいつも村民が自分で作った木の門のところに連れていく。
それは奇抜な発想からできていて、3本の木をつなぐのでなく、大きな木を1本切り出し
ゆっくりと門の形を作り出したものだ。
 共同作業をしているうち、散らばっていた邵族の人たちがだんだんに集まってくるように
なった。統計によると、9年間で謝さんと一緒に働いた被災者とボランティアは合計1万
人を超える。
 当時再建資金の25%から50%は921基金会が提供していた。これは政府が民間の
義捐金をもとに作った基金会だ。余剰で銀行に貸し付け利息は政府が負担する。しかし
銀行は収入源のない邵族の人たちにはお金を貸してはくれない。資金はすぐ不足し鉄筋
建材は値上がりした。しかし再建活動は人を待ってはくれず、謝さんは自分名義で銀行
に借金をし建材を購入していた。結果、謝さんは貸してはまた貸してを繰り返し、貸す資
金を補充できなくなり、しかも被災者にわたったお金の回収はできないため、財政難に陥
り、事務所は半年間電気水道が止まってしまった。
 財政不足を補充するため、謝さんは台北の豪邸を1坪40万元で売り、被災地の住宅
建設に充てた。妻子はそれに耐えきれず、謝さんは仕事と家庭を選ばなければならない
状況になり、仕事を選んだ。
 1999年12月31日、第一期8戸が完成した。
 2000年1月4日、新しくできた教室で、邵族語学習の第1課がはじまった。
 1月21日、工事現場で第1回会議が行われ、未来の社区(自治会)のきまりができ
た。
 2月16日、邵族部落再建工事が完了し、社区の臨時管理委員会が成立した。
 邵族部落の住宅再建は3ヶ月で終わった。しかし謝英俊さんはここを離れず、長い長い
原住民文化の再建活動に入る。
≪新しい原住民文化を創造する≫
 邵族の村では、謝英俊さんは村の委員会の幹部のようだ。彼は被災者の家を設計し
ただけでなく、図書館を設計し、村落教室、工房、邵族の伝統的な祭典を催す祭場も
作った。彼の提案で、新しくできた社区では、20年近く中断されていた種植え祭も再開
され、全員が邵族語学習をすることになった。平日には、竹の家の軒下で年配者がお茶
を飲みおしゃべりをする。これは邵族の村で久しく見ない光景だった。
 謝英俊さんの家建築の原理はみな同じだ。工事は簡単に、材料は環境に配慮したも
のを、外観の美しいものを、社区の住民を励まし一緒に協力して家をつくる。このようにし
て、家の再建だけでなく、人と人との間の文化的経済的きずなを再建するのだ。
 9年間で、謝さんと同僚は邵族の若者を組織した建築隊をつくり、一緒に300戸を建設
した。そしてまだ継続中だ。
 ぶん川地震発生後、謝英俊さんはネット上で救援の進展の様子をみて、「環境トイレ」
をつくり、ネット上で公開し、被災地の参考に提供することにした。「トイレは環境衛生を考
える上で非常に重要です」と電話口で、尿と糞便を分けることの意義について多くを語っ
てくれた。
 友人の仲介で、謝さんは甘粛などの被災地と合作する意向を示した。そのほかに、「暗
恋桃花源」の招請で、謝さんはドラマ制作の袁鴻さんなどと一緒に四川に入り、綿陽に1
か月滞在し、環境小学校をつくることにした。この小学校は鉄筋コンクリートを使わずに、
工期は普通の数倍はかかるという。
(以下の対話は省略)
(6月4日 外攤画報)