月別アーカイブ: 2009年6月

中国四川省地震救援ニュース 94

被災地である北川県香泉郷には約7900人の人々が暮らしている。郷内12の村のうち、6つは無医村であり、一人の医者が約1000人~1500人の人々の健康を支えている。医者のいない村は、隣の村や郷の大きな病院へと自力で行かざるを得ない。
この地震によって郷内の7か所の診療所のうち2か所は全壊、その他も半壊、一部損壊などの被害を受けた。地震から1年が経とうとしている今も仮設テントで診療している医師もいる。
先日、郷のある村でP医師とお話をしている時に急病人が出たという知らせが入った。医師が呼ばれて僕もその後をついて行った。意識もなく過呼吸状態であるその男性高齢者を診たP医師は、自分の手には負えない危険な状態と判断し、この日たまたま居合わせた日本の元看護師Kさんも脳梗塞の疑いがあるとして「このままにしておくと最悪、死に至る。助かっても半身不随の状態にもなりかねない。」と言って至急、郷の大きな病院に搬送するようにすすめた。
だが、家族は出稼ぎ先の長兄と電話で相談した結果、病院には連れて行かず、このままの状態にしておくと言う。僕は耳を疑った。家族を見捨てるなんて。。。その家族が言うには、まず、救急車を呼ぶにもお金がかかる。そしてその後、助かったとしてもリハビリや入院などの医療費にお金がかかるという理由からこのように決断したそうだ。僕たちやP医師が無理やり病院に連れていったところで結局は家族の負担になると思うと無理じいする事は出来なかった。P医師も複雑な表情をしていた。日本的には、「とりあえず入院させて、お金は後で何とかなる」と考えるかもしれないが、これが、四川の農村の「何ともならない現実」であった。震災はこのようなところにも影を落としている。
家族の一人のおばあちゃんが、「住宅再建ですでに数万元の借金をしているのよ。どこにお金があるのよ!」と訴えるように言った言葉が今も耳に残っている。後日、P医師からその男性が亡くなった事を聞いた。
診療所を併設する「総合活動センター」が出来ると公共の施設となって医療費が安くなるという。センターが農村の医療問題の解決の一つのきっかけになればと思う。

中国四川省地震救援ニュース 93

引き続き、Yさんレポートをお届けします。
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 綿竹市の中でも被害の大きかった遵道鎮棚花村。この春、ここには観光客の姿があった。非常に美しい田園風景の広がる広済から遵道、九龍、土門などでは毎年3月には「梨の花祭り」が開かれる。その中でも棚花村では震災前からこの花祭りを目当てに多くの観光客が訪れ、伝統工芸である年画や蜀繍(蜀の国の刺繍)が人気であった。
 震災後初めての春、この周辺では梨の白やピンクの梨の花と壱面の黄色い菜の花が咲き乱れた。その花に誘われるかのように観光客も徐々に集まり始めた。棚花村では再建された家屋の壁には年画が描かれてあり非常に雰囲気がある。そして村の中では以前のように「農家楽」を営む人々も現れ始め、訪れた観光客のおもてなしに大賑わいであった。
 昨年の地震直後、ボランティアで知り合ったSさん(22歳)はこの村の刺繍の先生でもある。Sさんとは、昨年6月初めてこの村を訪れた時からの縁で、ボランティアの会議でも僕の中国語のサポートをしてくれたり、一緒に北川県光明村にボランティアに行ったり、全壊した彼女の家のガレキを片づけたりと被災者であるにもかかわらず共に汗を流してきた。いつも「お兄ちゃん」と呼んでくれる可愛い妹でもある。彼女は、観光客に刺繍を買ってもらうために再建した自宅の一角に刺繍工房兼展示室を作り、自分で作った作品を観光客に売って生計を立てている。この日、お母さんは隣の農家楽のお手伝いに駆り出されて食事の準備に大忙しだった。訪れた観光客は、中庭で食事をしたり、マージャン、トランプに興じていた。お茶をすすりながらきっと震災の話でもしているのだろう。。。
この日お母さんが忙しそうに働いている姿が生き生きしていてどこか嬉しそうだった。

中国四川省地震救援ニュース 92

Yさんレポートです。
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震災から1年が過ぎた四川の被災地では、「観光」復興への道へと進もうとしている。
被害の最も甚大であった北川県城は、元の場所に町を再建するのでなく、数十キロ離れた安県の平場に新たな「新北川県城」を再建する。そして元の「老北川県城」は地震遺跡として一部を保存する。北川県は、再建する「新北川県城」を「北川観光サービス基地」を中心に震災関連の「老北川県城」や「唐家山堰止め湖」などを「地震遺跡総合観光エリア」とし、震災前から観光地でもあったチャン族の治水の英雄の「大禹博物館」などの「禹里生態文化観光エリア」、自然豊かな「猿王洞」などの「猿王洞風景観光エリア」、避暑地でもあったチャン族色の濃い「青片小寨子風景観光エリア」などを新たに整備しようとしている。
 1年を迎えるころから被災地を訪れる観光客が増えだした。成都のある場所では毎朝、被災地を巡るツアーバスが出ている。旅行代理店が企画をし、百数十元でガイドが付いて北川県などの被災地を回ってくれるという。このお金が直接被災地の被災者の人々に落ちているかは、甚だ疑問であるが。。。
一方、北川県城周辺で被災した人々は未だ、仮設住宅でも不自由な暮らしの中、壊滅した「北川県城」見に訪れる観光客相手に震災のDVDや写真集、チャン族の刺繍などのお土産などを売って細々と暮らしている。僕も日本から来る専門家の方々やボランティアの人々を連れて何度も行っていると自然に顔なじみになってくる。被災者であるF さんは、自宅が倒壊し、今も仮設で暮らしながら廃墟になった県城を見下ろせる場所で見物客相手にお土産を売っている。Fさんは、いつも僕に「今日も日本の友人を連れてきてくれたのか!」と言って握手で迎えてくれる。いつも気になっていた事を聞いてみた。「ここには沢山の人が見物に来るけど嫌じゃないの?」と問うと、Fさんは「中には死者を冒涜するかのようにゴミを捨てていく人もいるけどそれは少数で、ここにきて震災の事を理解してくれるだけでいいんだ。」と語ってくれた。「俺はここで商売しているけど押し売りした事はない。写真など自由に見てくれて、買いたければ買ってくれたらそれでいいんだ。」と次から来る見物客に写真を丁寧に説明しているFさん。KOBEの「まけないぞう」を渡すとがっしりと手を握って「ありがとう」と言い、お礼に売り物である震災の絵葉書をくれた。
被災地が観光地になる事に対して日本の人々は疑問を持つ人も少なくないのかもしれないが、Fさんのような人々に出会って、生の話を聞き、そこに少しでも直接お金を落としていくような観光のあり方もあるのではないかと思った。