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【中国四川省地震救援ニュース】No.120

9月末、吉椿事務局長が四川省を訪れ、農家楽のワークショップを行いました。
その時のレポートをお送りします。
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中国四川省地震救援ニュース No.120
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 2008年5月12日に中国四川省を襲った四川大地震(中国では、5.12ブン川大地震)では被災地の農村部の暮らしぶりが露わになった。中国国内で農村部から都市部へと出稼ぎに行く「農民工」は、2億6261万人(中国国家統計局調べ)と言われ、その人々の存在が現在の中国経済を陰で支えている。
 大地震から5年を経た今も被災地では、未だ再建した住宅ローンの返済のために遠く外省へと出稼ぎに行く人々は多い。CODEの支援する北川県光明村の住民も約半数は出稼ぎに出ており、村は高齢者や子供が中心でどこか閑散としている。
 そんな光明村では、CODEによって建設された「老年活動センター」を使って「農家楽」と呼ばれる農家レストランの経営を始めている。この農家楽の発祥の地である四川省では、都市の人々が週末、農村に出かけ、花や景色を楽しみ、郷土料理を食べ、お茶を飲みながら麻雀やトランプに興ずるというレジャーが人気である。このアグリツーリズムは、四川から中国全土へと広まっていった。
 光明村の農家楽が順調に進めば、そこで雇用が生まれ、子どもを置いて出稼ぎに行かなくてもいい女性が出てくる。また村の高齢者の作る野菜を買い取ることで多少の現金収入も入り、家計の足しになる。
 だが、光明村の農家楽はまだ始まったばかりで知名度もなく、時々、政府の会議や村のイベントなどで使われる程度で、普段は閑古鳥が鳴いている。また、住民の中には村の幹部が勝手にやっているだけだと斜に構えている人もいる。
 そんな状況を何とかしようと先日、ボランティア仲間の協力で農家楽の専門家を招いてワークショップを開いた。北京の中国社会科学院から来ていただいたW先生は、日本に留学経験もあり、日本語も非常に堪能な方で中国の農村の人口問題や貧困脱出を研究している。W先生は、フィールドである北京や貴州省の貧困地域の農家楽で村おこしを行っている事例を光明村の人々に非常に分かりやすく伝えてくれた。「北京のある村では、たったひとりの女性が奮起、努力して、村民の信頼を勝ち取って、女性たちの力を生かし、農家楽を発展させていったのよ。」という話に住民参加や地域の力を如何に生かすかが、如何に大切かを教えてくれた。聞いている僕自身もどこからか力が湧いてくるような話だった。住民の人に感想を聞くと、いつも村の幹部に不信感を持っているLさんでさえも、どこか感心したように「あんな風にやれたらいいわねえ。」とつぶやいた。それを聞いたW先生はすかさず「あんたのように元気な女性がメンバーに入らないと!」とLさんをけしかけていた。
 これまで上から下へとトップダウンで物事が決められ、言いたい事を言ってもなかなか聞き入れてもらえないという農村社会で生きてきた人々にとって、現状を変えるには計り知れないエネルギーがいるだろう。そして住民参加を実現するにはまだまだ課題も多い。だが、震災を通じてCODEや沢山のボランティア、W先生などの外部者と出会い、交流する事で少しずつではあるが、変わり始めている。そっとそばにいて、人と人をつなぐ役割がNGOやボランティアなのだとあらためて思う。
                                   (吉椿雅道)

【中国四川省地震救援ニュース】No.119

先日の後藤さんの四川省訪問レポートに続き、スタッフ吉椿のレポートをお送りします。
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中国四川省地震救援ニュース No.119
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CODEの支援によって北川県光明村に建設された「老年活動センター」は村民にすでに利用されている。高齢者を中心にお茶を飲んだり、マージャン、トランプをしたりと中国風な娯楽を楽しんでいる。
村長の胡さん(30代)から、村のイベントで沢山の村人が集い、焚火を囲んで皆で歌い、踊っている写真を見せてもらった。写真の中に僕らボランティアと仲良しのお母さん、Xさん(30代)が楽しそうに得意の歌を歌っている姿があった。
今回久々に光明村に行くので、Xさんの携帯にメールを送った。すぐに返事が来て、「今、浙江省なの。また出稼ぎよ。あなたが来るなら会いたかったわ。。。」と数日前に再び出稼ぎに出たことを語ってくれた。2010年の尖閣諸島での漁船衝突事故の後、四川省でも1万人規模の反日デモが行われた。その日、僕らは光明村で村人と共にお祭りを行っていた。最後にXさんは、「中日友好一家親」(家族のような中日友好を)という大きな刺繍を数か月かけて一針一針と作ってくれ、「ボランティアとか何もしなくていいのよ。ただ来てくれるだけでうれしいのよ。」と語ってくれた。Xさんはこの震災を通じて日本、日本人を知った。そして今、誰よりも日本と中国の友好を願っている。
Xの歌っている写真を見てすごくほっとしたのは、Xさんが、震災が起きてから光明村の中でも最も苦しい立場に置かれているからだ。まもなく5年を迎える今もXさんの家は完成していない。2階部分や内装が薄いトタンで仮止めしているだけだ。お金ができたら材料を買って少しずつ家に手を入れている。
Xさんは、酒好きな旦那に時々DVを受け、息子は仕事をしていない。唯一の希望は、遠く別の省で一人学校に通っている娘だ。彼女のために歯を食いしばって出稼ぎで働いている。震災はXさんの人生をより過酷なものにしてしまった。震災から5年たって被災地の街は見事にきれいに再建された。だが、Xさんのような人が今もいることを忘れてはいけない。
(吉椿雅道)

【四川省訪問レポート(学生編)】No.4

一昨日に続き、「若者ポスターセッション」で最優秀賞を取られ、CODEプロジェクト地の四川省を訪問している後藤早由里さん(神戸大学4年生)のレポートをお送りします(これで最終です)。
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四川省訪問レポート 3月17日 
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今日は北川県の地震遺跡の見学に行った。
バスを降りて見えた光景は、衝撃的だった。地震災害後の街をそのまま保存していると聞いてはいたが、実際にすべての建物が傾き、崩れ、潰れている。その空間からは、痛みや苦しみの声が聞こえてくるような気がして、心の中ではずっと手を合わせていた。
四川大地震の行方不明者は、1万7923人いると聞いていた。この建物の下に今もおられる方がいるかもしれないと思い、その方々の存在を感じながら見学させていただいた。
このように地震遺跡として、被災した町全体を残し見学できるようにするということについては、貴重なことだと思う人もいれば、絶対よくないと思う人もいると思うし、どちらの気持ちもあるという人もいると思う。しかしこの町は保存されている。この街を見学して、私は、この地震遺跡を100年後に見ても同じように衝撃を受け、手を合わせると思った。保存されるということは、この地震の記憶を持たない人が見ても多くのことを感じ、学ぶことができると思う。この場所で被害にあった方はどんな思いだったのか、自然の力がどれだけ大きなものなのか、建物はどうして崩れ倒れ潰れているか、それぞれ考えることは違っても、きっと何かを感じ考えると思った。それぞれが見学してそれで終わるのではなく、それぞれが感じたこと考えたことが共有され、今後に生かされていくことが重要なことだと思った。
神戸大学 保健学科 
4回 後藤早由里

【四川省訪問レポート(学生編)】No.3

昨日に続き、「若者ポスターセッション」で最優秀賞を取られ、CODEプロジェクト地の四川省を訪問している
後藤早由里さん(神戸大学4年生)のレポートをお送りします。
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四川省訪問レポート 3月16日 
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今日は、震源のあるブン川県の復興された街を見に行った。
そこでは、地震によって倒壊した中学校がそのままの形で遺跡として保存され、その周りには商店が立ち並び、地震博物館も建てられ、観光地のようになっていた。観光で訪れている人は、その多くがガイドに連れられて見てまわっていた。
その街の中の住宅地を2か所見てまわった。
1カ所目は3階建ての一軒家で、ほとんどの家が1階のスペースを使って商店をしていた。その中のヤクの角を加工した小物を売っている1人のおばさんに話を聞いた。おばさんは、元々は、地震によって位被害を受けた山間部に住んでいて、今と同様の商店を開いていたという。日本の復興住宅でもお店を持つ人はいるが、その数は少ないと思う。このように、復興住宅の住居として得た部分の一部をお店にするという発想はすごく新鮮で、中国人の力強さを感じた。日本では何かしらの制度があって住居部分をお店にするというのはできないのかもしれないが、元々やっていた仕事ができるのは、その人の生活習慣が取り戻しやすく、生活する中で大きな力になると思った。
2カ所目は、土砂によって被害を受けた村を再建したところで、2階建ての住居が建ちならんでいた。一軒ごとに少し大きめの花壇のような場所が設けられていて、そこにはどの家も所狭しと菜の花や白菜やネギなどいろいろな野菜が植えられ育てられていた。
元々、その村に住んでいた方は農作物を育てていたそうで、住宅にも畑のできるスペースが設けられたようだった。一軒ごとに小さくても畑仕事のできるスペースがあることで、そこでできた野菜を家で食べることができ、さらに、いきがいが保てるのではないかと思った。
2カ所の復興住宅を見て、そこに住む人たちがどんな暮らしをしてきたのかを踏まえて住宅を建てることで、そこに住む人たちが復興住宅での生活に慣れやすく、生活する力につながると思った。
神戸大学 保健学科 
4回 後藤早由里

【四川省訪問レポート(学生編)】No.2

昨日に続き、「若者ポスターセッション」で最優秀賞を取られ、CODEプロジェクト地の四川省を訪問している
後藤早由里さん(神戸大学4年生)のレポートをお送りします。
後藤さんたちの「KOBE足湯隊」チームによる発表は、インドネシア・ジャワ島のムラピ火山災害を想定した
「火山とともに生きていく」というものでした。自らの足湯ボランティアの経験をもとに、「外部の人が入っていくときはまず信頼してもらうことが大切」、と後藤さんは言います。
生活用水の確保にはじまり、モスクでの内職づくり、防災教育と様々なアイディアを取り入れた発表に、
「相手を思いやる想像力にあふれたプレゼン」とコメンテーターの方を唸らせていました。
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四川省訪問レポート 3月15日 
(2)光明村
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光明村に着いて、書記さんのお宅でお医者さんと書記さんと村長さんと昼食をごちそうになった。そこまでの道沿いには、すっかりきれいな白壁の新築が並んでいて、すべての家が被害を受けたということが、今の光明村からは想像がつかない程だった。
村の人たちは、初めてやってきた中国語のわからない私を、にこにこしながら受け入れてくれた。こんな風に受け入れてくれるのは、吉椿さんや光明村で活動したボランティアと村の人とが築いてきた信頼関係のおすそ分けをいただいたような気がした。
昼食後、光明村の老年活動センターを見に行った。木造の伝統的な作りの建物は、かっこよくて、村の雰囲気に馴染んでいた。今日はたまたま、いつもレストランをしているお母さん方がPTAの会議のようなものに行っていてセンターが開いていなかったため、あまり人がいなかった。普段はどんな様子なんだろう、ここにきている高齢者の方たちはここのことをどう思っているのだろうと思い、また日曜日に行ったときに開いていたら
いいなと思った。
老年活動センターでは村長さんや書記さんの話を聞いた。今後老年活動センターをより大きくして、イベントをしたり、釣りやほかにもいろいろと事業を広げていきたいというようなことを話していた。
老年活動センターを見た後、村の1人のお母さんに連れられて、そのお母さんのお宅にお邪魔した。そのお母さんは、老年活動センターをこれ以上大きくする必要はないと話していた。しかし、それは村長さんや書記さんには面と向かっては言わない。吉椿さんによれば、中国では政府の力がとても強く、村のことも村長や書記の意見でいろいろなことが決まるということが普通なことで、それに対して村人が意見する場などはほぼ存在しないという中国ならではの事情があるそうだ。
外から支援に入る私たちは、村の人たちの意見も聞いていった方がいいのではないかと思うかもしれないけれど、その意見を押し付けたら、この村の人間関係のバランスが崩れてしまうかもしれない。それはとても大変なことだと思う。でも、村のみんなの意見が汲み取られていくこともとても大事だと思う。村長さんや書記さんと村の人たちの意見、どちらもじっくり聞いて、バランスを取りながら調整することが大事だと思うが、それはとても基準があいまいなもので、慎重に進めないと難しいことだと思った。
外から支援に入って、老年活動センターを建てても、それで終わりでなく、老年活動センターが村の人たちに本当の意味で馴染んでいくように、見守っていくことも大切だと思った。
神戸大学 保健学科 
4回 後藤早由里

【四川省訪問レポート(学生編)】No.1

去る2月2日、CODE10周年シンポジウムの一環として、また、次世代の市民活動の担い手が育つ場づくりとして、若者による「ポスターセッション」を行いました。海外の災害に対して自分たちはどのような救援プロジェクトを行うか、ポスターに描いてプレゼンテーションしていただくものです。
学生を中心とする9チームに参加いただき、自らの経験や関心を踏まえた思いのこもった発表に、会場はとても盛り上がりました。
会場の方々による投票の結果、見事最優秀賞を取られた「KOBE足湯隊」チームの後藤早由里さん(神戸大学4年生)に、CODEのプロジェクト現場を訪問していただくこととなりました。3月14日から19日の日程で、CODEスタッフ吉椿とともに中国・四川省の被災地を訪れています。さっそく現地の後藤さんから報告をいただきましたのでご紹介します。
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四川省訪問レポート 3月15日 
(1)新北川県
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北川県は、四川大地震によって大きな被害を受け、人口3万人の内の2万人が亡くなり、さらに地震の影響で土砂崩れや土石流の被害が重なり、政府より復興は困難と判断を受け、別の場所に新しく北川県を作ることに
なったと聞いた。今日は、その新しく作られた”新北川県”を見に行った。
“新北川県”は、とてつもなく大きかった。元々、菜の花畑だったところに、将来は7万人が住むと計画され作られた町ということだった。町の中には、マンション、お店、学校、スタジアム、博物館などが、広大な土地に一つ一つどっしりがっしりと建っていた。しかし、その建物の存在感に比べて人の気配はあまり感じられなかった。商店の集まっている辺りに行くと、それなりに人が歩いていたが、少しめかし込んだ格好の人たちが多く、どうやら観光に来ている人のようだった。
これだけ大きな建物がいくつも発災から数年で建ったということには驚いた。日本とは違い、土地はすべて政府の持ち物であり、とにかく政府の力がとっても強力なことでこのようなスピードで成し遂げられたということだった。被災して家がなくなった人たちにとっては、すぐに住む家を得ることができるのはとても安心できることだと思うので、その点でスピーディーなことは大事なことだと思った。一方で、元々この場所で菜の花を育てて生計を立てていた人は今どんな思いでマンションに暮らしているのだろう?北川県で被災した人たちは、この場所で以前のような仕事ができているのだろうか?マンションから商店まで歩いたら遠いだろうなぁ。いろいろ大きすぎやしないだろうか?と思うことはいろいろとあった。
東日本大震災では、日本の制度や行政の仕組みなどもあって、なかなか将来の住居が決まらずにいる人がたくさんいる。その人たちのことを思うと、早く住居が決まることはとても大事なことだと思う。でも、今回この”新北川県”を見て、早ければいいというものでもないように思った。その場所でこれから生きていく人たちが、どう生きていきたいと思っているのか、どんな生活をしていきたいのかを大事に考えていかなければ、その場所に生き続けていく人たちの生活が、気持ちが、続かないような気がした。
神戸大学 保健学科 
4回 後藤早由里

【四川省地震4周年レポート】No.8

2008年5月に起きた四川省地震のレポートをお送りします。
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四川省地震4周年レポート No.8
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●支え合いと学び合い3(ボランティア)
2008年5月四川大地震後、中国全土から様々なボランティアが被災地に駆け付けた。2009年5月の国務院発表によると震災後、1年間で約300万人のボランティアが被災地に駆け付け、後方支援のボランティアは1000万人以上だった事から中国の「ボランティア元年」とも言われている。
政府の共産党青年団(共青団)や企業などが派遣した官製ボランティアが約40%で、残りの60%は個人ボランティアであったという。個人ボランティアの多くはインターネットや携帯を駆使して、政府や団体に頼らずひとりひとりが被災地へと向かい、出来ることをやるというスタイルでボランティアを行った。
震災直後に綿竹市遵道鎮で出会った広東省の若者たちは、「俺達は皆、携帯で情報交換してここで出会ったんだ。やれる事をやるだけさ。」と語っていたのを思い出す。その若者の多くは20代で、中国では「80後(パーリンホウ)」と呼ばれる。「80後」とは1980年代に生まれた世代をいい、「ITが得意」、「優しい」、「個性を大事にする」、「海外の文化や情報に抵抗がなく受け入れる」などが特徴と言われているが、計画生育政策(一人っ子政策)によって親の愛情を一身に受け、裕福な時代に育ったため「貧しさも苦労も知らない」、「親の脛かじり」、「わがまま」、「甘やかされ世代」と皮肉って使われる事の方が多い。だが、被災地に駆け付けた多くのボランティアはこの「80後」の若者たちであった。TVから連日流れる被災地での懸命な若者の姿から四川大地震以降、「80後」の若者に対する社会の評価は一転した。
広東省から来たボランティアたち.JPG
上海から僕を訪ねて来た二人組の大学生は、「先生の老朋友(旧友)の日本人がNGOで活動しているって聞いて来ました。」と言って、ガレキの片づけを共に行った。非常にまじめで素直な若者たちで、何か役に立ちたいという思いに溢れていた。また、CODEと共に3カ月間ガレキの片づけをしたボランティアの中国人女性(当時22歳)も「ずっとやりたかった事をやらせてもらえる機会を与えてくれてありがとう。」と話してくれ事があった。
上海から来た大学生たち.JPG
「80後」の象徴と言われるH氏(作家、四川地震当時25歳)のブログには約3億5000万のアクセスがあるという。彼は、「80後」に関するインタビューの中で「四川大地震以降、世間の評価は変わったが、80後が地震以降に変わった訳ではない。彼らは元々、社会的な活動をする意欲を持っていた世代なんだ。」、「地震後、被災者救援という名で堂々と活動できるようになった」と語っている。
「80後」というレッテルを張られ、くすぶっていた中国の若者たちが、四川大地震後、生きがい、やりがいを求めて動き出した。その流れは、2010年の甘粛省土石流災害や青海省玉樹地震にも確実につながって来ている。約2億人いると言われる「80後」。今後、社会環境が整ってくれば、若いボランティアたちは社会を変える大きな力になっていくだろう。
彼ら、彼女らの自由な発想や活動は、17年前のKOBEを思い出させる。

【四川省地震4周年レポート】No.7

2008年5月に起きた四川省地震のレポートをお送りします。
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四川省地震4周年レポート No.7
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●支え合いと学び合い2(痛みの共有)
 2012年3月、四川大地震から4年を目の前に四川大地震の被災者の方々3名が来日した。2008年の震災直後からCODEが支援し続ける光明村の3名は、初めての外国に戸惑いながらも、ひとつひとつの事をしっかりと学んで帰っていかれた。
 金沢大学との協働で始まったこの企画は、2007年3月25日の能登半島地震や昨年の東日本大震災の被災地の方々と交流しようというものである。
 3月25日には能登で開かれたシンポジウムでは、インドネシア・アチェの津波の専門家に交じって、その難しい発表にもじっと耳を傾ける四川の3名であった。その中でも特に熱心に学ぶXさん(40代女性)は、「日本に来るのが夢だったの。日本の事を沢山学びたかったのよ。」と学ぶ事の楽しさを実感している姿が印象的であった。
その後、東北の被災地、宮城県七ヶ浜を訪れた。現地で1年以上活動を続ける名古屋のレスキューストックヤードの方々にお世話なり、被災者の方々と交流させていただいた。
拠点である「きずな館」にいつもお茶飲みに来る七ヶ浜の被災者のお母さん達が語り始めるや否や通訳を待たずにXさんは、涙を流し始めた。言葉を超えた何かを感じ取ったのだろう。その後、Xさんは「同じ被災者として、東北の皆さんをとにかく励ましたいという思いで日本に来たんだけど、話を聞いているとあの時を思い出して。。」とつぶやいた。
Xさん、七ヶ浜の被災者の方と.jpg
 岩手県大槌町の仮設住宅では、吉里吉里の被災者の方々と「まけないぞう」を一緒に作る事が出来た。吉里吉里のお母さんたちが先生になってPさん(60代)、Lさん(40代)の男性陣も慣れない手つきで、ひと針ひと針縫っていった。光明村でも有名な「まけないぞう」であるが、これまで作る機会がなかったXさんは、得意な裁縫で時間を忘れるくらいに没頭していた。東北の被災者が四川の被災者に寄り添うようにして教える姿は非常に感慨深いものがあった。
吉里吉里でまけないぞうを教えてもらうXさん.jpg
その後、いつの間にかXさんが手作りポーチの先生になり、編み方を教え始めた。そこにはもう言葉はほとんど要らなかった。四川の被災者と東北の被災者が支え合う姿に国を超えた新たなつながりが感じられた。
吉里吉里と四川の被災者の方々.jpg
最終日、17年前の被災地KOBEで光明村の人々との大交流会が行われた。これまで光明村を訪ねたボランティア、学生、研究者の人々など総勢56名の方々が集まり、歌、笑い、涙ありの再会を喜ぶ、暖かい集いになった。
中国と日本は、依然として様々な問題を抱えている。だが、震災を通じて普通の人と人が出会う。誰から支えられていたはずの人がいつの間にか誰か支え始めている。そこには目の前の人とどのように向き合い、つながっていくかしかない。震災は、そんな日中のわだかまりを少しずつ解きほぐしていくきっかけとなる。

【四川省地震4周年レポート】No.6

2008年5月に起きた四川省地震のレポートをお送りします。
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四川省地震4周年レポート No.6
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●支え合いと学び合い1(伝統建築)
四川大地震から3年を前に東日本大震災が発生した。
同じように被災した四川の人々は、この東日本大震災を決して隣国の他人事とは思えなかった。自分たちが震災で傷つき、苦しんだ事を思うと居てもたっても居られなくなったそうだ。2008年の四川大地震の直後からCODEが支援を続けている北川県光明村や他の被災地から28000元(約37万円)沢山の人々が1元、5元と想いを込めて寄付をしてくれた。ちなみに光明村の人々の肉体労働の日当は約50元(約660円)である。
 そんな想いの光明村の人々3名が3月に来日した。金沢大学との協働で能登半島地震や東日本大震災の被災者の方々と交流するという企画である。
初日、京都観光にお連れした。初めての異国の伝統文化を見る目は真剣そのもので、特に東寺、清水寺などの寺社の伝統建築に釘付けになっていた。四川大地震後、伝統木造家屋が倒壊せずにしっかりと残っていた事から建築の専門家の間でも「木造は強かった」という声もあがった。
綿陽市安県では170年の清朝の木造家屋、綿竹市遵道鎮で100年家屋、平武県でも100年の家屋がしっかりと残っていた。北川県の北部には数多くの木造住宅が今も残っている。光明村でも十数軒の伝統木造家屋は見事に残り、築55年の木造家屋のすぐ横の数年前に建てられたレンガの家屋は倒壊していた。
 CODEは、2008年の住宅再建の際に光明村で木造家屋の再建を推奨してきた。だが、「伝統木造家屋は古くさい。」、「みすぼらしい。」、「洋風な家が格好いい。」などの声も多かった。そんな中でも実際に木造家屋の再建を選んだXさん(40代女性)は、今回日本で京都の東寺を見て、肝心の仏像そっちのけで、「日本の寺は本当にすごい。こんな大きな柱は中国にはもうないわ。」と感慨深げに語っていた。
 清水寺の舞台の基礎を見学したPさん(60代男性)も「こんな建築は見た事もない。」とつぶやいた。本来、日本の伝統構法も中国から伝わって来たに違いないが、現在、中国全土で伝統木造家屋が少なくなりつつある。
この震災を機に伝統建築が見直されたが、実際に再建された所はそれほど多くない。それは、すべて木材が高価な事による。国土の広い中国と言えども活用できる森林は決して多くない。1998年の長江の大洪水が以降、上流域の四川省などの森林を伐採する事が制限され、その後国家プロジェクトとして「退耕還林」(畑を森林に戻す)が行われ、森林面積はこの10年ほどで20%(2010年)まで人工林を造成してきた。四川大地震後の復興でも農山村部ではこの「退耕還林」が重要視された。
光明村の3名は、村に戻って、伝統構法で建築された「老年活動センター」を見て改めて自分達の伝統文化に誇りに気付くのではないだろうか。

【四川省地震4周年レポート】No.5

2008年5月に起きた四川省地震のレポートをお送りします。
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四川省地震4周年レポート No.5
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●対口支援の課題4 「今後」
2012年5月12日。あの四川大地震から4年が過ぎた。
丸4年を待たずに2月に四川省政府は実質的な「復興宣言」を発表した。
「2012年四川省人民政府工作報告」によると、2万9692の復興事業は99%完了し、540万世帯、約1200万人の住宅を再建し、170万人の再就職支援も成功し、失業の問題も解決した。」と強調した。そして今後は「発展」に力を入れて行くという事だ。
 4年目を迎えた被災地には、大規模かつ真新しい街があちらこちらに広がる。対口支援の期間は3年という期限がある。ほとんどの事業を終えた対口支援の省市も間もなく撤退の準備も始まる事だろう。
多くの被災者は、新しい街に未だ馴染めないながらも早いスピードで綺麗な街や住宅が再建された事を喜んでいる。だが、これまで山間部の貧困地域に住んでいた被災者の人々は、見た事もないような新しい設備に戸惑っている。大幅に生活レベルが上がった事は喜ばしい事ではあるが、それを維持する為には当然これまで以上の費用を負担しなくてはいけなくなる。北川県の多くの農村住宅には、人間や家畜の糞尿から沼気と呼ばれるメタンガスを発生させる為のタンクを掘っていた。そのガスを炊事や電気として有効活用していた。だが、新しい街では当然、田畑もなく家畜を飼う事もできない。新しい暮らしの中では、すべてをお金で買わなくてはいけない。便利さを得た分、現金収入が必要になるのだが、新しい街にはまだ被災者を多く雇用できるほどの産業は生まれていない。
 学生、教師が1300名以上犠牲になった北川中学は、新北川県城(永昌鎮)に再建された。敷地面積約15万㎡(建築面積7,2万㎡)という大学並みの広大なキャンパス、教室、宿舎はもちろん様々な施設が整備されている。これは海外の華僑の支援によって通常の学校の10倍以上の2億元(26億円)資金が投入され建設されたが、2009年末には「豪華すぎる」との批判も起きている。
 対口支援の終了しようとする今、被災地に建設された豪華な街や施設を今後、地元だけでどれだけ維持、管理していく事が出来るのかが課題になる。
 成都市計画局のW氏に以前お会いした時に「通常は、西部大開発で数十年かかって行うべき事業をこの数年でやろうとしている。」と語った事を思い出す。凝縮された復興のしわ寄せは、被災地や被災者の暮らしに様々な陰を落としている。