中国四川省地震救援ニュース 57

99年の台湾地震から今日まで少数民族の住まい再建に活躍されている建築士が、今
回の四川大地震でも活動をされています。その方へのインタビューを紹介します。地元
の文化・伝統に根ざした復興を試みる謝さんの姿勢は、今後の中国四川の住まい復興
に向けた指針になるものと思えます。
以下はCODE翻訳ボランティアさんによるものです。
台湾著名建築士 謝英俊さん語る
≪再建、それは住宅だけの問題ではない≫
 ぶん川地震発生後、台湾の建築士謝英俊さんはすぐに環境トイレをつくりはじめ、1か
所の環境小学校を建てるつもりだ。
 台湾では、謝英俊さんは「921(9月21日に台湾で起きた集集地震のこと)」の代名詞
だ。彼は邵族の人たちを手伝って住宅を再建し、原住民自らが家を再建できるように手
伝った。
 地震前、謝英俊さんは台湾ですでに知られていた。いくつもの政府の公共工事を請負
い、一坪40万元で売られる豪邸も作っている。彼も豪邸に住み幸福円満な家庭を得て、
日々静かに暮らしていた。
 しかし、地震が彼の人生を変えてしまった。
 現在、謝英俊さんは台湾では「921」地震の代名詞となっている。彼は被災者とともに
住み、協力して家を造り、生態系を立て直し、原住民の家を再建しただけでなく、文化を
も再建した。
 このぶん川地震発生9日後、この54歳の台湾の建築士に電話でインタビューした。
 ≪原住民のために土の家を造った≫
 1999年9月21日、台中集集大地震では約2000人が死亡した。10月中旬、謝英俊
さんは邵族の人たちの招待を受け、彼らの家屋の再建を手伝うこととなった。台湾の山
地には12の少数民族がすんでいる。邵族はそのうちのひとつ。日月潭のもっとも奥地に
住む。日月潭は邵族の祖先が一頭の梅花鹿を追ったときに発見したと言われている。地
震前は3000人がいた。地震後はわずか281人になり、世界でもっとも少ない少数民族
となってしまった。地震前の邵族の主な収入源は観光だった。地震ではすべての旅館や
観光地が被災し、邵族のひとたちの収入が断たれてしまった。
 どうしようもなくなったとき、邵族のひとたちは謝英俊さんを思い出した。
 謝英俊さんは地震からの再建の経験はなかったが、すぐに邵族の地元を訪れ、集落に
は水源保護区、希少植物保護区があることを発見しこの再建は必ず環境保護主義のう
えに行わなければならないと思った。
 10月29日謝英俊さんは5人の設計団を率い、テント、寝袋、設営工具や日用品をもっ
て再びやってきた。謝さんは現地の人に、軽量金属(軽鋼)と現地のどこでもみられる
竹、木材、泥土を用いるよう提案した。このような家は風通しがよく耐震性に優れている
し、経済的だ。しかしこの提案は反対にあってしまった。邵族の人たちは現代的な鉄筋コ
ンクリートの家に住みたかったからだ。
 しかし、謝英俊さんは辛抱強く説得を続けた。
 大型機械も大勢の工事人員もいない状態で、謝英俊さんはこのような家を果たして作
れるのかよくわからなかった。家は建てられては壊され、また建てられ改良されていっ
た。いつも彼らは工事現場をみており、見ている人の方が作っている人よりも多かった。
現地のひとはつぶやいた。「こんな家が地震に耐えられるのか?長く使えるのか?」
 半月後に、第1軒目の家ができあがった。それは、土と竹など簡単な材料を使ったもの
だった。かかった費用は5万元で、建築業者から買う家の価格とは天と地ほどの差が
あった。
 3日後、邵族の人たちは、謝さんの意見を受け入れることにした。
12月5日正式に起工した。この部落に全力を投入するため、「謝英俊工作室」は20キロ
離れた新竹県から日月潭に移転した。
 謝さんは、自立してそして協力して家を建てることにこだわった。「私たちのやり方は家
をつくって被災者にどうぞとあげる方法ではない。私たちが提供する手助けは限定的だ。
私たちは建築を道具とし、専門化し、建築物を使用者の手に渡し、彼らが自分たちで作
れるようにするのだ。彼ら自身が自分の家を造るために苦労しなければ。」
 謝さんの号令のもと、現地の邵族の人たちが年配のおばあさん、おじいさんから、けが
をしている人、学校をやめて街をうろうろしてから故郷に帰って来た若者まで彼のもとに
集まった。
 彼ら普通の被災者は専門技術を持たない。壁塗りでもまっすぐにはいかない。でも非
常に芸術的だ。彼は参観者をいつも村民が自分で作った木の門のところに連れていく。
それは奇抜な発想からできていて、3本の木をつなぐのでなく、大きな木を1本切り出し
ゆっくりと門の形を作り出したものだ。
 共同作業をしているうち、散らばっていた邵族の人たちがだんだんに集まってくるように
なった。統計によると、9年間で謝さんと一緒に働いた被災者とボランティアは合計1万
人を超える。
 当時再建資金の25%から50%は921基金会が提供していた。これは政府が民間の
義捐金をもとに作った基金会だ。余剰で銀行に貸し付け利息は政府が負担する。しかし
銀行は収入源のない邵族の人たちにはお金を貸してはくれない。資金はすぐ不足し鉄筋
建材は値上がりした。しかし再建活動は人を待ってはくれず、謝さんは自分名義で銀行
に借金をし建材を購入していた。結果、謝さんは貸してはまた貸してを繰り返し、貸す資
金を補充できなくなり、しかも被災者にわたったお金の回収はできないため、財政難に陥
り、事務所は半年間電気水道が止まってしまった。
 財政不足を補充するため、謝さんは台北の豪邸を1坪40万元で売り、被災地の住宅
建設に充てた。妻子はそれに耐えきれず、謝さんは仕事と家庭を選ばなければならない
状況になり、仕事を選んだ。
 1999年12月31日、第一期8戸が完成した。
 2000年1月4日、新しくできた教室で、邵族語学習の第1課がはじまった。
 1月21日、工事現場で第1回会議が行われ、未来の社区(自治会)のきまりができ
た。
 2月16日、邵族部落再建工事が完了し、社区の臨時管理委員会が成立した。
 邵族部落の住宅再建は3ヶ月で終わった。しかし謝英俊さんはここを離れず、長い長い
原住民文化の再建活動に入る。
≪新しい原住民文化を創造する≫
 邵族の村では、謝英俊さんは村の委員会の幹部のようだ。彼は被災者の家を設計し
ただけでなく、図書館を設計し、村落教室、工房、邵族の伝統的な祭典を催す祭場も
作った。彼の提案で、新しくできた社区では、20年近く中断されていた種植え祭も再開
され、全員が邵族語学習をすることになった。平日には、竹の家の軒下で年配者がお茶
を飲みおしゃべりをする。これは邵族の村で久しく見ない光景だった。
 謝英俊さんの家建築の原理はみな同じだ。工事は簡単に、材料は環境に配慮したも
のを、外観の美しいものを、社区の住民を励まし一緒に協力して家をつくる。このようにし
て、家の再建だけでなく、人と人との間の文化的経済的きずなを再建するのだ。
 9年間で、謝さんと同僚は邵族の若者を組織した建築隊をつくり、一緒に300戸を建設
した。そしてまだ継続中だ。
 ぶん川地震発生後、謝英俊さんはネット上で救援の進展の様子をみて、「環境トイレ」
をつくり、ネット上で公開し、被災地の参考に提供することにした。「トイレは環境衛生を考
える上で非常に重要です」と電話口で、尿と糞便を分けることの意義について多くを語っ
てくれた。
 友人の仲介で、謝さんは甘粛などの被災地と合作する意向を示した。そのほかに、「暗
恋桃花源」の招請で、謝さんはドラマ制作の袁鴻さんなどと一緒に四川に入り、綿陽に1
か月滞在し、環境小学校をつくることにした。この小学校は鉄筋コンクリートを使わずに、
工期は普通の数倍はかかるという。
(以下の対話は省略)
(6月4日 外攤画報)