月別アーカイブ: 2008年6月

中国四川省地震救援ニュース 59

本ニュース56号で報告した「九州体育館」避難所の閉鎖について、さらに詳細なレ
ポートが上がってきましたので、再び報告します。なおこれはCODE翻訳ボランティア
によるものです。これを読むと自力再建する被災者にはテントと2000元の現金を供与
していることが判ります。6月8日発布された「ぶん川地震回復再建条例」では、自力
更正を促進しているようです。政府は、特に農村部に対する自力更正を強く促してい
ます。ちなみに政府が用意した災害回復再建基金は今年分で700億元で、内400億
元はぶん川で倒壊した農村居住者の家屋再建に充てるとなっています。
≪綿陽市九洲体育館被災者がすべて撤収≫
 6月29日、最後の1500名あまりの被災者が離れ、「5.12」地震後重要な役割を果
たした綿陽市九洲体育館はその避難所としての歴史的使命を終えた。
 29日に離れた1400名はすべて北川県の住民で、250軒が自分で仮の住まいを見
つけたほかは、安県永安鎮の政府が提供する仮設住宅に移転する。が、現在、プレ
ハブの仮設住宅は設備がまだ整っておらず、しばらくの間はテント暮らしになる。遅く
とも8月中旬には仮設住宅に入居する予定だ。29日、記者が体育館で見たのは、永
安鎮に移動する住民が大型バスに乗るところで、自分で暮らす住民はテントと2000
元(3万円)を受け取り、自分で去って行った。
 永安鎮の避難所の現場指揮部指揮長によると、永安鎮には269張のテントがあ
り、一つのテントに6~8人が暮らしている。29日には1200名ほどが移動してきた こ
こでは、住民は6つのコンロを使い政府が提供する食料で食事が作れる。避難所に
は12のシャワーと2つの公衆トイレがある。このほかに1か所診療所があり、100人ほ
どが涼める東屋がある。
 地震発生後、綿陽市九洲体育館は北川県の被災者を受け入れる緊急避難所とな
り、おおい時には4万人近くが避難していた。5月18日から体育館を離れる動きが出
てきた。親戚や友人宅に行く人、自分で住まいを見つけた人、他の土地へ働きに出
かけた人、避難所のテントに移る人…。 30日には体育館は閉館になる。   
(6月29日 新華網)
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中国四川省地震救援ニュース 58

「ニュース38」で紹介した、被害の大きかった北川県で誰一人けがをしなかった劉漢希望小学校。寄付をした会社「漢龍集団」のやり方を見習い、施行中も手抜き工事がないかをチェックしている企業があります。この動きが広がり、今後建てられる希望小学校を含めた全ての学校が子供たちにとっての希望になることを願っています。以下はCODE翻訳ボランティアによるものです。
≪ 劉漢希望小学校に学べ!≫
 6月16日午前、重慶のある企業が援助して建てられる四川省安県龍集村小学校の起工式が行われた。
 建設に参加した星芸装飾重慶支社の責任者は、「援助企業は日本の建築家迫慶一郎氏に依頼して校舎を設計してもらったそうだ」と述べた。
 地震で倒れない学校を再建することは児童教師みんなの願いだ。黄雪梅先生は、「煉瓦と木材を組み合わせた校舎は脆弱でした。地震で死者がでなかったのは、日頃の防震訓練のおかげです。」と言った。
 安県の副県長は言った。「龍集小学校はわが県で最初の再建される小学校です。」
 援助企業の責任者は、「この学校には60万元(900万円)を投資しています。施工期間中は現場監督を派遣します。漢龍のように。」
 新しい校舎は10月に完成予定だ。それまで児童は仮校舎で授業を受ける。
 この企業は200万元(3000万円)を出資して、安県、綿竹、都江堰に4か所の希望小学校を建てる予定だ。
 (6月18日 重慶商報)

中国四川省地震救援ニュース 57

99年の台湾地震から今日まで少数民族の住まい再建に活躍されている建築士が、今
回の四川大地震でも活動をされています。その方へのインタビューを紹介します。地元
の文化・伝統に根ざした復興を試みる謝さんの姿勢は、今後の中国四川の住まい復興
に向けた指針になるものと思えます。
以下はCODE翻訳ボランティアさんによるものです。
台湾著名建築士 謝英俊さん語る
≪再建、それは住宅だけの問題ではない≫
 ぶん川地震発生後、台湾の建築士謝英俊さんはすぐに環境トイレをつくりはじめ、1か
所の環境小学校を建てるつもりだ。
 台湾では、謝英俊さんは「921(9月21日に台湾で起きた集集地震のこと)」の代名詞
だ。彼は邵族の人たちを手伝って住宅を再建し、原住民自らが家を再建できるように手
伝った。
 地震前、謝英俊さんは台湾ですでに知られていた。いくつもの政府の公共工事を請負
い、一坪40万元で売られる豪邸も作っている。彼も豪邸に住み幸福円満な家庭を得て、
日々静かに暮らしていた。
 しかし、地震が彼の人生を変えてしまった。
 現在、謝英俊さんは台湾では「921」地震の代名詞となっている。彼は被災者とともに
住み、協力して家を造り、生態系を立て直し、原住民の家を再建しただけでなく、文化を
も再建した。
 このぶん川地震発生9日後、この54歳の台湾の建築士に電話でインタビューした。
 ≪原住民のために土の家を造った≫
 1999年9月21日、台中集集大地震では約2000人が死亡した。10月中旬、謝英俊
さんは邵族の人たちの招待を受け、彼らの家屋の再建を手伝うこととなった。台湾の山
地には12の少数民族がすんでいる。邵族はそのうちのひとつ。日月潭のもっとも奥地に
住む。日月潭は邵族の祖先が一頭の梅花鹿を追ったときに発見したと言われている。地
震前は3000人がいた。地震後はわずか281人になり、世界でもっとも少ない少数民族
となってしまった。地震前の邵族の主な収入源は観光だった。地震ではすべての旅館や
観光地が被災し、邵族のひとたちの収入が断たれてしまった。
 どうしようもなくなったとき、邵族のひとたちは謝英俊さんを思い出した。
 謝英俊さんは地震からの再建の経験はなかったが、すぐに邵族の地元を訪れ、集落に
は水源保護区、希少植物保護区があることを発見しこの再建は必ず環境保護主義のう
えに行わなければならないと思った。
 10月29日謝英俊さんは5人の設計団を率い、テント、寝袋、設営工具や日用品をもっ
て再びやってきた。謝さんは現地の人に、軽量金属(軽鋼)と現地のどこでもみられる
竹、木材、泥土を用いるよう提案した。このような家は風通しがよく耐震性に優れている
し、経済的だ。しかしこの提案は反対にあってしまった。邵族の人たちは現代的な鉄筋コ
ンクリートの家に住みたかったからだ。
 しかし、謝英俊さんは辛抱強く説得を続けた。
 大型機械も大勢の工事人員もいない状態で、謝英俊さんはこのような家を果たして作
れるのかよくわからなかった。家は建てられては壊され、また建てられ改良されていっ
た。いつも彼らは工事現場をみており、見ている人の方が作っている人よりも多かった。
現地のひとはつぶやいた。「こんな家が地震に耐えられるのか?長く使えるのか?」
 半月後に、第1軒目の家ができあがった。それは、土と竹など簡単な材料を使ったもの
だった。かかった費用は5万元で、建築業者から買う家の価格とは天と地ほどの差が
あった。
 3日後、邵族の人たちは、謝さんの意見を受け入れることにした。
12月5日正式に起工した。この部落に全力を投入するため、「謝英俊工作室」は20キロ
離れた新竹県から日月潭に移転した。
 謝さんは、自立してそして協力して家を建てることにこだわった。「私たちのやり方は家
をつくって被災者にどうぞとあげる方法ではない。私たちが提供する手助けは限定的だ。
私たちは建築を道具とし、専門化し、建築物を使用者の手に渡し、彼らが自分たちで作
れるようにするのだ。彼ら自身が自分の家を造るために苦労しなければ。」
 謝さんの号令のもと、現地の邵族の人たちが年配のおばあさん、おじいさんから、けが
をしている人、学校をやめて街をうろうろしてから故郷に帰って来た若者まで彼のもとに
集まった。
 彼ら普通の被災者は専門技術を持たない。壁塗りでもまっすぐにはいかない。でも非
常に芸術的だ。彼は参観者をいつも村民が自分で作った木の門のところに連れていく。
それは奇抜な発想からできていて、3本の木をつなぐのでなく、大きな木を1本切り出し
ゆっくりと門の形を作り出したものだ。
 共同作業をしているうち、散らばっていた邵族の人たちがだんだんに集まってくるように
なった。統計によると、9年間で謝さんと一緒に働いた被災者とボランティアは合計1万
人を超える。
 当時再建資金の25%から50%は921基金会が提供していた。これは政府が民間の
義捐金をもとに作った基金会だ。余剰で銀行に貸し付け利息は政府が負担する。しかし
銀行は収入源のない邵族の人たちにはお金を貸してはくれない。資金はすぐ不足し鉄筋
建材は値上がりした。しかし再建活動は人を待ってはくれず、謝さんは自分名義で銀行
に借金をし建材を購入していた。結果、謝さんは貸してはまた貸してを繰り返し、貸す資
金を補充できなくなり、しかも被災者にわたったお金の回収はできないため、財政難に陥
り、事務所は半年間電気水道が止まってしまった。
 財政不足を補充するため、謝さんは台北の豪邸を1坪40万元で売り、被災地の住宅
建設に充てた。妻子はそれに耐えきれず、謝さんは仕事と家庭を選ばなければならない
状況になり、仕事を選んだ。
 1999年12月31日、第一期8戸が完成した。
 2000年1月4日、新しくできた教室で、邵族語学習の第1課がはじまった。
 1月21日、工事現場で第1回会議が行われ、未来の社区(自治会)のきまりができ
た。
 2月16日、邵族部落再建工事が完了し、社区の臨時管理委員会が成立した。
 邵族部落の住宅再建は3ヶ月で終わった。しかし謝英俊さんはここを離れず、長い長い
原住民文化の再建活動に入る。
≪新しい原住民文化を創造する≫
 邵族の村では、謝英俊さんは村の委員会の幹部のようだ。彼は被災者の家を設計し
ただけでなく、図書館を設計し、村落教室、工房、邵族の伝統的な祭典を催す祭場も
作った。彼の提案で、新しくできた社区では、20年近く中断されていた種植え祭も再開
され、全員が邵族語学習をすることになった。平日には、竹の家の軒下で年配者がお茶
を飲みおしゃべりをする。これは邵族の村で久しく見ない光景だった。
 謝英俊さんの家建築の原理はみな同じだ。工事は簡単に、材料は環境に配慮したも
のを、外観の美しいものを、社区の住民を励まし一緒に協力して家をつくる。このようにし
て、家の再建だけでなく、人と人との間の文化的経済的きずなを再建するのだ。
 9年間で、謝さんと同僚は邵族の若者を組織した建築隊をつくり、一緒に300戸を建設
した。そしてまだ継続中だ。
 ぶん川地震発生後、謝英俊さんはネット上で救援の進展の様子をみて、「環境トイレ」
をつくり、ネット上で公開し、被災地の参考に提供することにした。「トイレは環境衛生を考
える上で非常に重要です」と電話口で、尿と糞便を分けることの意義について多くを語っ
てくれた。
 友人の仲介で、謝さんは甘粛などの被災地と合作する意向を示した。そのほかに、「暗
恋桃花源」の招請で、謝さんはドラマ制作の袁鴻さんなどと一緒に四川に入り、綿陽に1
か月滞在し、環境小学校をつくることにした。この小学校は鉄筋コンクリートを使わずに、
工期は普通の数倍はかかるという。
(以下の対話は省略)
(6月4日 外攤画報)

中国四川省地震救援ニュース 56

5月18日の「ニュース 11」のYさんレポートで紹介し、また日本のメディアでも良く取り上
げられていたのあの九洲体育館の避難所がとうとう撤収することになりました。
以下CODE翻訳ボランティアさんからの情報です。
≪綿陽市:九洲体育館避難所撤収へ≫
 政府関係者によると、九洲体育館の避難者は近日中にすべてここを離れ、政府が建
設した仮設住宅や親戚・友人宅、あるいは自分で建てた住宅に移動する。
 (6月23日 新華社)
≪北川県城:疫病防止のため再度封鎖≫
 四川省北川県公安局により、26日から北川県城は再度封鎖し管理を行っている。
21日より北川県城の一部の住民は家に戻りがれきの中から物を持ち帰ることを許さ
れたが、26日に再度封鎖し、公安以外は進入禁止となった。公安局長によると、
「封鎖は主に疫病蔓延を防止し人々の安全を守るため、消毒の順調な進行を確保する
ためです。天気が暑くなってきたので、今回は比較的長いかもしれません。」
 (6月27日 新華網)

中国四川省地震救援ニュース 55

引き続きYさんレポートです。
被災地では大規模な仮設住宅(安置点)の建設が急ピッチで進められている。3ヶ月で
100万戸の建設が予定されているが、一つ一つの仮設住宅は数千から1万戸以上規
模である。あまりにも広い。都江堰のある仮設住宅内には、公安、病院、食堂、共同の
シャワー・トイレが設置されている。ある老夫婦の被災者は「これだけしてくれたら十分
です。政府にはとても感謝しています。」と語った。だが、これまで無料で提供されてい
た食事が、つい先日有料になった。1日10元(約150円)の義捐金が支払われていて
も、最低でも一食3元はする食費に残りはほとんどない。
一方、無数にある農村部でも小規模な仮設住宅が建設されている。が、しかし都市部
の仮設住宅のように食事の提供は発災以降まったくない。多くの農民の人々は「自分
で何とかするしかない」ともらす。最初から政府の援助をあてにしていないのである。だ
から瓦礫の自宅を横目に毎日、田畑に行き、黙々と土に向かうのである。

中国四川省地震救援ニュース 54

Yさんレポートです。
中国では「縁」をとても大切にする。
北川県の農村部では毎日真っ黒に日焼けして頑張る日本人、中国人、韓国人のボランティ
アの姿がある。
被災された農村の方と共に瓦礫を片付け、村の共同作業にも参加すると徐々にボランティ
アも村の一員のような感覚になってくる。中国では「一家人」といって仲良くなると身内のよ
うに扱ってくれる習慣がある。いつも昼食と休憩の場を提供してもらっている丁成洪さん
(43)の奥さんは、僕が昼食の手伝いにカマドで火を起こすと「あんたみたいな人好きだよ。
自分の家のように使っておくれ。一家人なんだから」と言ってくれた。そして丁さんは、「不思
議だね。こうやって地震に遭わなければ君達とは出会わなかったなあ。これも何かの縁だ
なあ。」とビールを差し出してくれた。
 また、成都のボランティアグループから紹介されてきた上海の若者たちとはほんの数日で
あったが、一緒にガレキの片付けをやった。実はこの二人は、僕が6年ほど前に雲南で知り
合った女性(大学の教員)の教え子であった事をつい最近知った。まさに「縁」である。
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中国四川省大地震救援ニュース 53

四川省の被災地でYさんと一緒にボランティアをした大学生の感想をお届
けします。
夜寝る前にベッドの下から声が聞こえてきた。
友達「中国で地震があったみたいやなー。」
我「そやなー。」
僕たちは一緒に住んでいる。
友達「中国行こか?」
僕も友達も国際協力、ボランティアに興味があり、たまたま二人とも中国
語を勉強していた。
僕は大学4年となって、未だに将来の事を決めかねている。国際協力にも
興味はあったが、踏み込んで活動に参加した事はなかった。何もしないま
ま悩むよりも、この一年は動きながら悩もうと思っていたので、中国行きを
決めるのに時間はかからなかった。
「何もできないかも知れないけど、何かはできるんじゃないか?」
思い立ったら吉日で、夜のうちに航空券を調べ、翌日には手配した。残り
3席だと言われ、僕たちの席だと思った。つても何もない僕たちはとりあえ
ず軍手を30組買い、白のTシャツに義工(ボランティア)などと書こうと言っ
て盛り上がっていた。
後に友達がヒューマンシールド神戸のYSさんのことを思い出し、連絡を
取っていたのだが、成都のゲストハウスでYSさんとCODEのYMさんに偶
然出会えたのは運命的とも思えた。その日から27日間、活動に参加させ
て頂いた。この出会いがなかったら、現地での配給の列を2人分長くして
いたかも知れない。
被害のあまり見られない成都から震源に近づいて行くと、無残な姿となっ
たビルが見えてきた。YMさんは現地の人の声に耳を傾ける。政府の耳に
届かない小さな声を集め続ける。帰ってから、寝ずにパソコンに向かいレ
ポートを打つYMさんを見た。被災者の目線に立つ事の大切さ、活動への
情熱を教わった。真似をしてみると、寝不足になった。しかし、使命感があ
れば、多少寝なくても大丈夫だと知った。
忘れられない光景がある。
瓦礫の山から娘さんを必死で探しているお父さん。悲しそうに見つめるお
じいちゃん。ここは僕たちが泊まっていたゲストハウスのスタッフがマン
ションの下敷きになった現場。一週間もずっと探し続けている。
捜索の途中で、地震発生からちょうど一週間の時刻となった。オレンジの
服を着た消防隊が列を組み、追悼のクラクションが鳴り響く中の黙祷。こ
んなに悲しいクラクションを聞いた事はない。横では、スタッフの叔母さん
が泣いていた。それを見て涙が止まらなかった。なんて理不尽な現実だろ
う。そして自分に何ができるだろうか。
活動の後半は政府の手の届かない農村部の一つの村に入り、各家の瓦
礫の撤去などのお手伝いをした。ずっと何かしたいと思っていたので、一
緒に汗して働く事は分かりやすくて気持ちが良かった。まだ作業を始めた
ばかりなのに「もう休みなさい」、作業を終えると「ご飯食べていき」と声を
掛けてくれる。そして感謝の言葉。自分がここに来た意味があったと思え
た。
他にも出会いがあった。泊まっていたゲストハウスで「何かしたい」と集
まった仲間たち。最初は車一台だったが、最後は車二台が17人で満席と
なった。
また現地に行って活動したい。何か関わっていきたい。将来の事に悩み
ながらも、そう思っている。
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中国四川省地震救援ニュース 52

今回の地震で最も被害の大きかったぶん川県映秀鎮のある村では、廃材な
どを掘り出し、自分たちで木材使用の仮設住宅をつくりはじめています。こうし
て被災者自身が、住まいの再建にとりかかることが、暮らし再建の第1歩として
欠かせない要素ではないかと思えます。短いものですが、以下はCODE翻訳ボ
ランティアによるものです。
◎映秀鎮漁子渓村:自分で家屋を再建
 震源地に近いぶん川県映秀鎮漁子渓村の村民は、廃墟から自分で使える木
材等を探し出し、仮の木造住宅をつくりはじめた。武装警察もぶん川・茂県・理
県の被災地の348の村に入り、再建活動を支援している。            
(6月12日 新華社)
 余計なことかも知れませんが、この話から想像すると、「納屋が完成したから
仮設住宅から出られるワ!」という能登半島地震後の被災者の生の声に見受
けられたように、たとえ仮設住宅のように雨露をしのぐことができたとしても、そ
れより古くても地震前の暮らしの匂いのする木材をリユースして、納屋や小屋を
造る方が、本設の恒久住宅への道のりの第1段階としては多いに意義のあるも
のになるような気がします。

中国四川省地震救援ニュース 52

今回の地震で最も被害の大きかったぶん川県映秀鎮のある村では、廃材な
どを掘り出し、自分たちで木材使用の仮設住宅をつくりはじめています。こうし
て被災者自身が、住まいの再建にとりかかることが、暮らし再建の第1歩として
欠かせない要素ではないかと思えます。短いものですが、以下はCODE翻訳ボ
ランティアによるものです。
◎映秀鎮漁子渓村:自分で家屋を再建
 震源地に近いぶん川県映秀鎮漁子渓村の村民は、廃墟から自分で使える木
材等を探し出し、仮の木造住宅をつくりはじめた。武装警察もぶん川・茂県・理
県の被災地の348の村に入り、再建活動を支援している。            
(6月12日 新華社)
 余計なことかも知れませんが、この話から想像すると、「納屋が完成したから
仮設住宅から出られるワ!」という能登半島地震後の被災者の生の声に見受
けられたように、たとえ仮設住宅のように雨露をしのぐことができたとしても、そ
れより古くても地震前の暮らしの匂いのする木材をリユースして、納屋や小屋を
造る方が、本設の恒久住宅への道のりの第1段階としては多いに意義のあるも
のになるような気がします。

中国四川省地震救援ニュース 51

CODE翻訳ボランティアさんによる地震後40日の状況です。
≪19日12時現在の被害状況と再建状況≫
死者 69180人
負傷者 374008人
行方不明者 17604人
国内外からの救援
金額 463.80億元(約7千億円)
実際届いた金額 450.51億元
被災地に向けて送られた金額 155.70億元
調達できたテント数 148.73万張
布団 486.69万枚
衣服 1410.13万枚
燃料油 121.83万トン
石炭 260.26万トン
仮設住宅(*目標150万軒)
建設済み 21万5600軒
建設中   4万2100軒
建設待ち  9万0000軒
運送済み  4万0800軒
運送待ち  7万9400軒 
各地方政府が投入した救援資金 542.23億元
中央政府が投入した救援資金  495.47億元
 (応急救援資金195.47億元 再建資金300億元)
公共道路被害累計 53294キロ
修復済み     52190キロ
鉱工業企業生産再開 5944か所
まだ再開できない企業 499か所
被害を受けた水道管 47642.5キロ
修復済み      40481.9キロ
北川、平武、青川、松藩、ぶん川、臥龍など5県1区の125か所の停
電地区のうち121か所回復 
(6月19日 新華網)