月別アーカイブ: 2008年6月

中国四川省地震救援ニュース 50

再びYさんレポートです。
 北川県の農村で毎日ガレキの片付けや仮設住宅建設手伝い、井戸掘り、農
作業などの手伝いをさせてもらっている。徐々に村人に顔を覚えてもらい、「毎
日ご苦労さん」、「今日は内で飯食っていけよ!」などと声をかけてくれる。
基本的には僕達は水、カップラーメンなどを準備していくのだが、手伝った家の
被災者の方から必ず「お礼のし様がないからご飯でも食べていって!」という言
葉をいただく。何度もお断りするのだが、根気負けして何度かご馳走になった。
その時に一緒に料理したりする中で何気ない会話が交わされる。
 約50年経っている木造の家の土間には大きなカマドがある。薪を使って料理
をする風景に若い日本人ボランティアは楽しそうに手伝う。そんなささやかな交
流から村人の暮らしが見えてくる。
「四川は蒸し暑いからこうやって暖かいお粥を食べて発散するんだよ。カップラー
メンなんか食べてちゃだめだよ!」、「日中は暑いので疲れるから日陰でゆっくり
するんだよ」と被災者の方から暮らしの知恵を学ぶ日本人の姿があった。
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中国四川省地震救援ニュース 49

ニュース48で、Yさんのすばらしいレポートが紹介されました。13年前の阪神・淡路
大震災後もこの彼女と同じように、かけがえのないきっかけを得て、その後の人生
に影響を受けた人たちは多かったことを思い出します。「ボランティアは社会を変え
る」だけではなく、ひとりひとりの人生観をも変える力があるようです。あの解散させ
られた中国の環境NGOの壁に書かれていた3行の文字は、ひとりひとりの心のなか
に奥深く生きていることを確信します。
ひとりひとりがとても大切で、
ひとりひとりがその能力を発揮し、
ひとりひとりが変化をもたらせるように
こんなすばらしい人と人のつながりが生まれている一方で以下に紹介する「ボラン
ティア殴打事件」は、全く頭に来る話です。
(以下はCODE翻訳ボランティアによるものです。)
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≪ネットで噂が先行、四川省衛生庁幹部によるボランティア殴打事件≫
 最近、「四川省衛生庁幹部がボランティアを殴った」とネット上で噂になった。2日
前に四川省衛生庁長は「衛生庁の幹部馬歩鋼がボランティアを殴ったというのはデ
マだ。」と発表した。しかしその夜、衛生庁はホームページで、この件に関し、幹部
の張建新を停職としたことを発表し、その謝罪書を掲載した。
≪ネットで暴露された幹部職員≫
 この「四川省衛生部幹部がボランティアを殴った」とした書き込みによると、5月20
日午前11時ごろ、衛生庁の職員が江油市長鋼総医院に到着したとき、医院ではボ
ランティアが消毒作業をしていた。噴霧機が故障して、あるボランティアは消毒液を
バケツから柄杓でかけていた。この作業中に検査の車がやってきて、柄杓でかけた
消毒液がちょうどあいていた窓から車内にはいってしまった。そこでこの恐ろしい場
面が出現した。その職員は車を降りるとボランティアの襟首をつかみ、一発殴りなが
ら罵倒した。ミネラルウォーターで消毒液を洗い流したあと、車に乗って走り去り、検
査も行っていかなかった。  この殴られたボランティアは17歳。色白でやせている。
医院で検査をうけると鼓膜が充血し水がでていた。検査中にこの男性は泣いて言っ
た。「私のしたことは間違っていました。けれど、あの人も人を殴ったらいけないで
しょう。」ある書き込みではこの職員は衛生庁の処長の馬歩鋼だという。これに対
し、四川省衛生庁の庁長は2日前の記者会見上、「この発言は全くのデマである。
災害発生後、職員・幹部は日夜最前線で奮戦しており、馬歩鋼は当時江油にはお
らず、青川で救援活動をしていた。」と述べた。
≪殴った幹部はすでに停職≫
 衛生庁のスポークスマンは27日、「殴ったのは衛生庁退職者管理処服処長の張
建新であり、馬歩鋼ではない。張は深刻に反省しており、謝罪書を書いてホーム
ページ上に公開し、意見を求めている。」スポークスマンは、ぶん川大地震以来、多
くのボランティアを含む社会各界からの助けで四川の被災者は「一方有難、八方支
援」の友愛精神を切々と感じている。この地震の救援活動にあって、当庁職員が人
を殴るなどという分別のない行為をしたことを深く遺憾に思う、と述べ、衛生庁では
張建新を停職にしたことを発表した。
 スポークスマンによると、27日午後4時ごろ、張建新は江油長鋼総医院で、殴られ
たボランティアの林さんと会い、謝罪をし慰問の品を贈った。林さんはこの謝罪を受
け入れ、「ネット上でもこの事件を正確に伝え心をひとつにして地震の救援活動に力
を出してほしい」と述べた。
≪冤罪の馬歩鋼「たいへん悲しい」≫
 27日午後、青川県の救援最前線にいた衛生庁農村管理処処長の馬歩鋼は記者
の電話取材に応じ、ここ数日名も知らない人たちから罵倒され非常なストレスを感じ
ていたが、ようやく事情がわかった。しかし、この事件はたいへん悲しい。馬処長
は、25日午後電話をうけ、「なぜボランティアを気ままに殴るのか」と質問された。当
時はなんのことかさっぱりわからなかったが、その後この殴打事件の話を聞いて納
得がいった。でもその人がどうして自分の連絡先を知ったのかはわからない。彼は
その日、ついでの折に上司にこの電話のことを報告した。それから数日、罵る電話
とショートメールが携帯にひっきりなしに来たが、携帯の電源を切るわけにもいか
ず、これらの煩わしい電話を聞くしかなかった。記者会見でこの殴打事件の真実が
発表されたあとは、謝罪のメールがたくさんきた。
                           (5月28日 南方都市報)

中国四川省地震救援ニュース 48

久々にYさんのレポートをお届けします。Yさんは今(日本に)一時帰国中です
が、あちこちでの講演会や報告会など忙しい中、コツコツとレポートを書いて
います。
 毎朝、2時間半かけて成都から被災地へと向かい、蒸し暑い農村の倒壊し
た瓦礫の中で汗と埃にまみれて活動する。そして夕方、再び2時間半かけて
帰路につく。帰りの車の中ではボランティアは皆、「爆睡」である。
 一緒に汗を流している一人の中国人女性ボランティアを紹介したい。
 成都でお世話になっているゲストハウスの従業員のJさん(22)は、最初、
友達と二人、被災地に行きたいと言ってきた。単純に被災地をこの目で見て
みたいという思いだったのか、ゲストハウスの亡くなった同僚への思いなのか
は分からない。てっきり物見遊山的なものかと思っていたが、彼女だけはそ
の後も自ら長い休みを取って毎日僕らと活動を共にした。日差しの強い農村
部で一日瓦礫と格闘する。「疲れないか?無理するなよ」と声をかけても、
「大丈夫!」と決して弱音をはかない。普段から大人しい女性だが、いつも
淡々とボランティアを続ける彼女の姿に感動させられる。
彼女は僕にメールでこんな事を言った。「あなた達、日本人と一緒に活動でき
て嬉しいです。ずっとやりたかった事をやらせてもらえる機会を与えてくれてあ
りがとう!」と。ひとりひとりの中にあるくすぶっていた炎に僕らはそっと風を送
る。それがよそ者の役割なんだろうと思う。

中国四川省地震救援ニュース 47

とりあえず四川の被災地に行き、「何かできないだろうか?」とYさんを訪ね、一緒に活
動する中で、何かを学んで帰る。13年前の阪神・淡路大震災の時にもこんな光景が被
災地の各地で見られた。ボランティア元年といわれ、他方フランスのル・モンド紙が当時
の若者を絶賛した。以下に紹介する今回四川大地震でのボランティアに参加している
一人の若者の感想文を紹介します。これを読んでいて一つ発見した。一人ひとりの中
に、ボランティア性というものがあるのだということ、それがこういう場との出会いによっ
て認識する、発見するということ。一人ひとりの中にもボランティア元年があるんだなあ
と気づいた次第です。
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 まず初めに今回のボランティア活動の機会を与えてくれたCODEのYさんに感謝した
い。この活動を通して学んだり得たものは言葉では言い表せないと思うし、あまり深く考
えたくもない。正直な話、僕は「ボランティア」という言葉が好きじゃない。何だかみんな
がよく使うから、独りでに大きな意味を持つようになったような気がする。例えば、ボラン
ティアをする人は偉いとか、ボランティアをしないからその人は良くないとか。ボランティ
アとは一体何なのか?僕はその答えが今でもわからない。
 僕は今回の地震が起こった時、大学の教室で授業を受けていた。日本にいた時はこ
れほどの大きな地震に遭ったことがなく、初めての経験だった。心配でゲストハウスに
急いで戻るとみんな無事で安心した。2,3日後には中国人の知り合いがゲストハウス
に訪れ、自慢そうにこれからボランティアに行くと言っていた。2,3人泊まっていた日本
人も彼に同行して被災地に行くということだった。その内の一人が僕に「Mさんも一緒に
行きませんか?」と訊ねた時、その中国人の彼は僕にこう言った、「Mさんに何ができる
のかな?」と。あの時の悔しさと自分の無力さは今でも忘れられない。
 今回の地震ですごく感じた事は自分の無力さだ。何かしたい、でも何をしていいかわ
からない。知識も技術も経験もない者が被災地へ飛んで行って何ができるのだろう?
悶々と自問する日々を送った。しかし、他方では自分はただ逃げているだけじゃないの
かという気もした。現地へ行き自分の目で現実を見てから何ができるのか、わかるん
じゃないのかと。ただ、僕は学校で中国語を勉強している身であり、ゲストハウスでも仕
事をしなければならなかった。このような状況でボランティアに行くのは難しいと思った。
それから、日本や他の国からいろいろなボランティアの人たちがここに集まりだした。
皆、車をチャーターして被災地の各地へ調査に行っていた。僕も通訳として記者に同行
して被災地へ行く機会があったけど、四川語が分からないという理由で断った。今考え
ると行った方が良かったのかもしれない。ただ臆病で、ちょっとした勇気がなかっただけ
かもしれない。僕の性格はすごく人見知りするというか、初めて会う人にはなかなか自
分から喋ることができない。
 Yさんたちが来た時も自分から話しすることができず、この結果、他の人たちよりス
タートがかなり遅れた。最初から彼らが何をしているのか聞いていれば、もっと早く行動
に移れたはずだ。Yさんの第一印象が、ちょっと怖そうな気がしたせいかもしれない。日
が経つにつれ、旅行者がボランティアに変わり、ボランティアに参加する人が増えていっ
た。夜になるとみんな疲れているけど充実した表情で宿に帰り、楽しそうに話す姿を見
ると自分も参加したくてうずうずしてきた。特に一人、ゲストハウスのスタッフの若い女の
子がボランティアに参加して頑張っているのを見るとますます触発された。
 最初に参加したのは中国の子供の日で中国のNGOの人たちとあるテント学校を訪
れ、そこに避難した子供たちと一緒に時間を過ごした。以外に子供たちが元気そうで、
笑顔があふれていたのでびっくりしたし、心温まる気がした。子供の逞しさというか、適
応能力の強さみたいなものを感じた。それからは3回ほど、村に入って瓦礫の撤去やレ
ンガやブロックを運んだり、いわゆる土木作業のような労働をした。ある人は、もしくは多
くの人が人のためにボランティアに参加しているかもしれないが、僕は自分のためにや
る。もちろん、結果的には人のためになるかもしれないが、僕はやっぱり自分のために
やる。まず、自然に囲まれた環境で汗をかいて労働するのは大変だけど、気持ちいい。
特に夕方涼しい風に当たると何とも言えない充実感や気持ちよさを感じる。すがすがし
いと言った方がいいかもしれない。あと、みんなで力を合わせて何か一つの事をやるの
はとても楽しい。もちろん、その過程に意見の対立や口論があるかもしれないが、皆で
一つの事をやり遂げるのは楽しい。チームの団結力というか、絆みたいなものが生まれ
る。これに関連するのだが、今回の活動で多くのすばらしい人たちと出会う事ができ
た。
 村人はもちろんのこと、このチームのメンバーみんないろんな人生の道を歩いてきた
人で個性があり、とても面白い。特にYさんの人を寄せ付ける求心力やみんなを統率す
るリーダーシップはすごいと思う。それと、村人の生活を観察して学ぶこともある。いろ
んな道具の使い方とか、どのように御飯を作るとか、勉強になる事が多い。僕は中国語
を勉強しているので、現地の子供たちと中国語で会話したり、意思疎通をするのはとて
も楽しいし、一生懸命に勉強してきた甲斐があったなと、何か報われたような気がした。
やっぱり、勉強していても実際に多く中国人の方たちと話さなければ上手くならない。子
供たちと会話の練習ができるのはとてもありがたい。加えて、Yさんの人生の経験や知
識はとても豊富で、彼の話を聞くだけでも勉強になる。地震に強い家の建て方とか、い
ろんな事を勉強してきた人なんだなと思う。Yさんの話は興味深いし、好奇心をそそられ
る。おそらく、僕は人間的にまだ未熟かもしれないが、やっぱり現在の僕は自分のため
にボランティアに参加する。「人のために」と格好いいことなんてできない。自分の事で
精いっぱいだと思う。それで、一体ボランティアとは何なのかと自問する。まだわからな
い。ただ、今回の活動で感じたのは、「とりあえず自分ができる事をしっかりやる」という
事だ。
 最後にYさんをはじめ、ボランティアに参加した仲間たち、温かく迎えてくれた村人た
ち、ゲストハウスの同僚、スタッフたちなど、何らかの形で支持してくれた人たちに感謝
したい。                              謝謝、大家!
 しかし、まだまだこれからだと思う。まだまだ先があり、被災地の人々が元の普通の
生活に戻るには長い長い時間がかかるだろう。これからもどうやって関わってサポートし
ていけばいいのか、まだ自問が続くのだろう。
                              M.M
                              2008年6月13日

中国四川省地震救援ニュース 46

日本のメディアでも指摘されていますが、中国政府は被災地への取材規制
をはじめ、外国人ボランティアや自国のボランティアへの規制が強くなってい
るようです。そんな中で、少し残念な情報が入りました。
以下は、CODE翻訳ボランティアからの情報提供です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
≪NGO連合事務所最後の1日≫
瞭望東方周刊 記者:呉芳蘭
  「ひとりひとりがとても大切で、
    ひとりひとりがその能力を発揮し、
     ひとりひとりが変化をもたらせるように」
 「NGO四川地区救援連合事務所」の壁にはこんな言葉が貼られている。こ
の大地震後にできたこの連合は「5月30日をもって作業を終了する。1か月
以内に物資財務報告をすること。」と宣言することとなった。大地震後、NGO
の数団体は自分たちになにかできるのではないか考えと、ゆるやかな連合
という形で民間の地震救援団体をつくることを決定した。5月14日に「NGO四
川地区救援連合事務所」として正式に発足し、全国150のNGO団体が参加
した。これは全国でも初めてのNGOの大連合だった。
 
 5月30日、成都市一環路東5段108号の東恒国際二棟一区のひとつの部
屋では、3人の女性が忙しく働いていた。広東から来た『水瓶』がテントの在
庫を調べているところで、「綿竹市漢旺鎮では少しテントが足りないの。昨日
の雨で数人の被災者が濡れてしまったって。」『水瓶』は中山大学人類学部
公民と社会発展研究センターの財務職員で、彼女は主に連合事務所での
帳簿管理を任されている。「実はなんでもします。雑用も。」彼女は笑って
言った。彼女は継続してパソコンにボランティアの情報を打ち込んでいた。解
散に際しては「特別何もしませんよ。できれば31日の朝に記念写真を撮っ
て、漢旺鎮にテントを建てて、また仕事です。」「車はもう探して準備できた
よ。今晩テントを運ぼう。」とひとりのひげ面の芸術家タイプの男性が入り口
のところで言った。彼は雲南玉渓にある発展訓練学校の校長で主に国際ボ
ランティアを養成している。
 数日前、連合事務所はネットを通じて解散の公告を出した。「NGO四川地
区救援連合事務所と各地区に成立したチームは解散します。5月25日から
各地区では救援物資を受け取れません。もしも各地区に在庫があるようでし
たら、自分たちの判断で赤十字や現地のNGOに回してください。」「そうは
言っても私たちの仕事はまだ続きます。方向転換をするだけです。NGOの役
割は物資の収集だけではありません。教育や文化、環境などのソフトの部
分もあります。」
 現在、彼らは場所を探して、被災者がなにを必要としているのか情報収集
している。そしてメニューリストをつくり、各NGOはそれぞれの得意分野を選
択して、そして数十もしくは百のNGO団体が一緒に活動する。
 「もしできれば、私たちは仮設住宅にも活動の場を広げたい。」そう考えて
いる。そして、これから3年かけて、政府の仮設住宅が建て終りその地区の
サービスが比較的整ったら「その時は私たちが退く時。他の事をしますよ。」
ここはもともと「成都根芽環境文化交流センター」の事務所だ。NGO連合事
務所がここに落ち着いてからは、各地のNGO団体やボランティアがここに足
を運び、ここから被災地に出発していく。主な仕事は緊急援助物資を被災地
に提供することだ。羅丹は「成都根芽環境文化交流センター」の中心責任者
だ。1981年生まれの彼女はこのNGO連合事務所の発起人のひとりで物資
の管理をしている。羅丹は、5月12日の午後5時か6時ごろ全国の多くの
NGO が何かしたいと思っているだろうと、NGOがよく利用する交流の場であ
る「NGO発展交流ネット」の責任者の陸非を探し当てた。なぜなら彼が一番
顔が広いからだ。
 夜10時ごろ、いくつものNGOが一緒になにかしたいと希望を表明してき
た。「以前は各NGOはそれぞれ活動していた。あなたは教育で、私たちは文
化というように。協力してもそれは人材養成など限られていた。こんなに大規
模な連合はしたことがなかった。」
 5月13日、成都に協調事務所を設置することを正式に確定した。「私たちは
捜索や医療の専門家ではない。私たちのできることといったら、当時一番重
要だったのは物資の救援だった。」連合事務所はその下にいくつかの部門
を設けた。「ボランティア管理」「物資」
「財務」「政府関係」「後方支援」「協調」「車輛」「前線連絡」など。このほか
各地に簡単な仕事の分担があった。例えば、成都では政府との連絡と協
力、被災状況の調査、物資の拠点。貴州省では数十の民間団体がチーム
を組んで物資の収集と成都への運搬をしてくれた。雲南でも物資を収集し運
搬してくれた。 
 
 5月14日物資の第一便が成都に到着した。この日に連合事務所は正式に
仕事を始めた。現在、価格にして1000万元(1億5000万円)を超える物資が
ここから送り届けられた。
 現在、民政関係部門はすでに大量に被災地に物資を送り届けている。被
災地も再建の段階に入っている。「NGO連合事務所の主要な仕事は物資を
集めることであり、その使命は終わった。」「しかし私たちは再建に向けて一
つの計画を持っている。もっと多くのNGOが自分たちの特徴を生かして、被
災者のために動く。」
 NGO発展研究に携わる四川省社会科学院研究員の郭虹によると「地震発
生からすでに20日経ち、社会の関心もだんだん移りゆくかもしれない。しか
し被災者の生活はようやく始まったばかりだ。NGOの働きは被災地の再建
のなかでさらに実現していくだろう。」
 郭虹の考えでは、この地震のあと、多くの人々のNGOに対する印象は変
わるだろう。中国NGO発展の新契機となるに違いない、と。   
 (6月10日 瞭望東方周刊)

中国四川省地震救援ニュース 45

静岡県ボランティア協会がとりまとめをして下さっている「四川省大地震被災
地へ テントを贈ろう」運動で集まったテントは、静岡県が姉妹都市を結んでい
る淅江省を通して、被災地広元市青川県に届けられることになっている。こう
して今回の四川大地震の復興に関して中央政府は全国21の市や省に相手
先を割り当てて支援させる政策をとっています。これを「対口政策」というそう
ですが、北京市は以下のようなことをしています。
(以下の情報は、CODE翻訳ボランティアからの提供です。)
≪北京のボランティア被災地支援、500時間の寄付計画≫
9日、「北京ボランティア被災地支援リレー計画チーム」第一陣8名が四川へ向
かった。彼らは成都、徳陽、什ほう(方におおざと)へ別れ、7日間の仕事を行
う。北京ボランティア協会連合が計画した「500時間の寄付計画」に目下2700
名余りのボランティアが申し込みをしている。審査を経てパスしたボランティア
は北京で、または被災地で医療、教育等の仕事をする。一人当たりの仕事時
間は500時間。
市の委員会によると、最初のグループ8名とは電話連絡を経て、第一次選考、
面接などで選抜された。この8名は中央機関、国営企業、民営企業、北京市
立高校等の出身で、環境保護工事、土木工事、法律、教育、心理学などの専
門の知識がある。彼らは当地のボランティアと協力し、被災地のためにさまざ
まな要求に応えていく。
(新京報 6月9日 05:16)
≪北京市:什ほう市支援のため、公費10%を削減≫
6日午後、北京市は被災地区支援指導チーム指揮部の第一回目の会議を開
き、被災地区の再建政策措置を発表した。北京市は暫定的に3年間、政府の
事務経費など公費10%を削減し、相手先の四川省徳陽市の什ほう(方におお
ざと)市への支援に充てる。北京市財政局によると上述の公用経費の主なも
のは政府の事務経費で、出張費、会議費など。財政局は10%の削減を捻出す
るため、さらに細かく公用経費の見直しをはかる。
また会議では、被災地再建のための第一次案について討論した。近いうち
に、都市交通、教育、医療衛生、農業、住宅、現地工業・企業生産回復につ
いての措置を発表する。
(京華時報 6月7日 02:04)

中国四川省大地震救援ニュース 44

四川大地震発生後まもなく被災地に入って、調査および瓦礫の片づけや仮
設住宅建設などのボランティアをしてきたYさんが、昨日一時帰国してきまし
た。明日15日のCODE総会後の懇親会で近況を聞くことになりますが、翌16
日は名古屋、17日は神戸学院大学、19日はコープこうべ災害緊急支援基金
に報告、21日はFMわぃわぃ特別フォーラムでのアピールなどのスケジュール
が入っています。(詳細は事務局に問い合わせて下さい。)
 なお今回の帰国の空路についてはJALの無償供与によってご支援いただき
ました。
また、レスキューナウは緊急発行した冊子の売上の10%をCODEに寄付して
下さることになりました。
「緊急発行!レスキューナウ特派員現地報告中国四川大地震」特設ページ
http://www.rescuenow.net/topic/shisen_kinkyu.html

中国四川省大地震救援ニュース 43

今日12日は、中国四川大地震から1ヶ月目です。マスコミ各社も特集を組んで
います。
以下は、Yさんからの現地レポートですが、被災当事者自身が苦しみを乗り
越えて、住まいの再建などに取り組む姿は、見ている側も痛ましい限りだが、
一方元気を貰うことにもなります。そうした人と人、あるいは人と瓦礫という”関
係性”が、少しづつ恢復力の弾みをつけるような気がします。このレポートを読
んでいて思い出すのは、2001年インド・グジャラート地震の被災地で耐震建築
のワークショップをした場所のことです。SEWAというNGOの指導のもとで、被災
住民が瓦礫を片づけながら、再利用できる鉄筋や木材、竹、石などを分別し、
空いたスペースで事物大の住まい建築を通しての”耐震ワークショップ”だった
のです。そのモデルの家のすぐ近くには、まだ崩れた家々がそのままになって
おり、正直複雑な思いをしたことを鮮明に覚えています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 北川県のとある農村での話。デコボコの未舗装の道沿いに倒壊した家屋が
点々と続く。被災地の中で支援の格差が広がりつつある状況でいつも見落と
されがちな農村部に入った。丁成洪さん(43)の96年に建てた家は、この地震
で脆くも崩れ去った。どこから手をつけていいのか分らないような瓦礫の山を目
の前に肩を落としていた丁さんだが、日本人ボランティア5人が一斉に瓦礫の
片付けを始めるとそれに触発されたのか重い腰を上げて動き出した。それを見
た奥さん、娘さんも。使える木材やブロック、瓦を拾い、瓦礫を片付ける。次第
にきれいに整理されていく事で気持も少し変わっていくようだった。二日目の作
業を終えた後、別れ際に丁さんは、「本当になんとお礼を言ったらいいか分か
らない。すごく勇気をもらったよ。」と笑顔を見せてくれた。ボランティアは、被災
者自身が立ち上がるきっかけを与えることしかできないのかも知れない。後
日、丁さんの言葉を聞いた日本人ボランティアは涙を流していた。
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中国四川省大地震救援ニュース 42

明日で、中国四川大地震から1ヶ月になります。CODE翻訳ボランティアが
提供してくれた次のニュースにもありますが、すでに仮設住宅は57000軒が
建っています。また、臨時生活補助金なるものを受けとったのが500万人に
達しています。
以下、翻訳ボランティアによるものです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
≪四川省500万人の被災者が生活補助を受給≫
 6月9日四川省民政庁によると、5月28日から6月8日に四川全省で臨時生
活補助金と食料を受け取ったのは512.2万人、総額で14.6億元(約230億
円)食料はおよそ6万トン。
 一方、地震による死亡者への慰霊金はひとりあたり5000元(7万5000円)
が家族に支給されるが、現在のところ総額6698.5万元が支給済み。また、
亡くなった人の火葬費用は無料と定められたが、地震直後には火葬場で費
用が徴収されたケースがある。大多数が家族に返還されたが、まだ一部返
還されていないので、公告をだし、電話連絡するよう呼び掛けている。
                            (6月9日 中国新聞網)
≪民政部:テント調達数約95万張≫
 6月9日12時現在、被災地で調達できたテントは95.07万張(*当初目標
は300万張)、ベッド476.27万床、衣服1396.60万枚。
                               (6月9日 新華社)
≪住宅と都市・農村建設部:仮設住宅は57100軒が完成≫
 6月8日現在、四川省の被災地で完成した仮設住宅は57100軒、建設中
が23100軒、運送中が55500軒、運送待ちが65900軒。
                              (6月9日 新華社)

中国四川省地震救援ニュース 41

ニュース36でYさんたちのボランティア活動のことに触れましたが、その1人I
さんから感想文をいただきました。彼は以前、成都に来た時に知り合った友
人の中国人(享年22歳 SIMSゲストハウスの従業員)の死を知り、旅先の
トルコから駆けつけてきたボランティアです。悲しい再会になりましたが、今は
元気に被災地で活動しているそうです。
———–
成都にはもともと来る予定でしたが、トルコで今回の地震のことを知り急遽旅
を終え、来ることを決めました。正直、最初はボランティアのことより彭飛のこ
とが心配でした。しかし、途中で彼女の死を知りショックではありましたが、四
川に思い入れがあるため自分が何ができるか分かりませんでしたがボラン
ティアに参加したいと思いました。
初日、現場に向かう途中の被災地の状態に驚きを隠せませんでした。震源地
に近いところはさらに酷い状態だとは思いましたが、それでも目にする光景は
悲惨としか言いようがありませんでした。完全に瓦礫の山と化した家々、自分
たちで作った簡素なテント・・・
しかし、こんな状況でも商売や野良仕事をする人々がいました。彼らに力強さ
を感じ、というか「なんでこんな状況で働けるん?」という驚きのほうが強かっ
たです。現場でも、笑顔を絶やさない村人たちにこっちが逆にパワーをもらっ
た気がします。
ボランティアのメンバーたちにも元気をもらいました。当初は彼女の死もありか
なり落ち込んでいましたが、彼らと一緒に仕事をする中で徐々に癒されまし
た。
そしてYさんの村人たちの視点で活動をされる姿に感動すると同時にこの
NGOに入れたことをうれしく思いました。ただ今の状況をどうするかだけでな
く、この先もどうしていくかということを考えてられることにも感銘をうけました。
まだまだこれから被災地で様々な問題が生じると思います。これから夏にか
けて気温や湿度が上昇する中で幼い子供や高齢者たちの健康状態、今後の
新しい住宅の問題、子供たちの教育などなど、短期間では改善できないこと
がたくさんあると思います。
自分にできることは限られていますが、今だけでなく今後も彼らの支援をして
いきたいと思います。
今回、参加できて本当に良かった、と思います。そして、良い経験をさせてい
ただきました。ありがとうございます!
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