CODE海外災害援助市民センター

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1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災をきっかけに
「困ったときはお互いさま」の心で海外の被災地支援を行っています。
災害時の支えあい・学びあいを通して地球の市民どうしのつながりを築いています。

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27. メキシコ・ハリケーン

災害概要&地図

発生時期:2002年9月
被  害:死者13人
活動期間:2002年10月~2003年3月
募金総額:1,509,036円
ハリケーンで被災した地場産業である養蜂農家を支援しました。アフガニスタンにおける「ぶどうプロジェクト」に続いて、地域経済の再建支援となるプロジェクトです。

プロジェクト内容

メキシコハリケーンの被災地・カンペチェ視察報告―クワテモックさんのレポート

以下、カウンターパートのクワテモックさんからのレポートです。

私たちがこれまでレポートしてきたように、2002年9月最終日、ハリケーン“イシドレ”はユカタン半島(ユカタン州とカンペチェ)を襲った。そのハリケーンはこの100年間で上位3位の中に入るひとつのハリケーンであった。

私は被災地地域の視察を10月末から11月上旬にかけて行い、財政的な可能性を考え、そしてひとつのプロジェクトを行うことを決定した。私たちはカンペチェ州でそのプロジェクトを行った。それは今回のハリケーンで養蜂業者が持っていた蜂をすべてか、ほとんど失ってしまったために、小規模の蜂蜜業者のグループの再建を支援することにした。

彼らに新たなる始まりを与えるために、私たちは長い目で見て、彼らがより蜂を再生し、より多くの蜂蜜を取り、生活の状況を良くし、収入をふやすことを考えいくつかの暗箱を与えることをプロジェクトとして発展させた。そして、私たちは被災した3町を選び、それぞれにもっとも影響を受けた人たちを選んだ。

このように、私たちはBecanchen、Xpucil、そしてQuetzalでひとつのグループと一緒に働いてきた。彼らすべては、一般的に貧困であり、マヤのルーツを持っている。 それから、私たちは主な問題に直面しました。もし、中規模、大規模養蜂業者を含めたすべての人々が蜂を失ってしまったら、私たちはどこから蜂たちを手にいれたらよいのか。蜂たちは誰でも買えるスーパーマーケットのようなところでショーケースに入れられて売られているわけではないのだ。

最初に私たちはHopelchenから蜂たちを得ようとしたが失敗した。そして最終的に私たちは蜂を得る同意をSuctucで得ることができた。交渉の数日後、最終的に中間的、大規模業者は私たちのために“暗箱”を作ってくれる同意を得た。それぞれの暗箱には蜂の中軸と女王蜂(これがもっとも重要!)そして雄蜂が持ち運び可能に分けられた木の箱に入っている。

写真:壊された暗箱

ほぼ6週間が新たな暗箱の準備のために必要とされていた。暗箱は本当に達成した。それは忍耐強さと繊細な仕事であった。その作業は蜂にストレスを与えないように夜間に行われた。蜂はSuctucの郊外で育てられた。後で、Suctucで箱づめにされ、そこからゆっくりとそれぞれのトラックで運ばれていった。彼らは町(Quetzal、Cupil、Becanchen)のそれぞれにきちんと計画をたてられて届けられていった。蜂たちがそれぞれの町へ運ばれたとき、養蜂業者はそれらを注意深くそれらを運んだ。いくらかの人々は数キロも離れたところへの困難な道を運んでいった。最終的に、蜂たちは、新たな家に一夜かけて着いた。 すべてのこれらの活動は、私のローカルパートナーとなったBecanchen出身のAbelardo PechとJose Xoolとの協働によってなされたものである。彼らがいなければ、活動はもっと難しいものであったであろうし、すべてのことをするのは、もしくは不可能であったかもしれない。彼らは私に養蜂業者を紹介し、彼らが交渉に参加し、そして彼らは調整のためにそれぞれの待ちへ幾度か飛んでくれた。課程の間に彼らは、少なくとも週一回は課程をチェックするためにSuctucへと行ってくれた。

今、蜂たちは新たな家で幸せに、一生懸命働いている。少しづつ、彼らははちみつを再生し始めている。これらのために、彼らは花に頼り、花のそれぞれのタイプの開花時期を待っている。しかし、それらはすぐにその地域をいっぱいに埋め尽くすだろう。
次に、それぞれの町の受益家族のリストをあげる。
Quetzal-11家族
Acupil-12家族
Becanchen-13家族

それぞれの家族が最初の時点で3箱の蜂の暗箱を受け取った。これを強調することは大切なことで、なぜなら3つの暗箱が無ければ、生活はやっていけないのだ。蜂だけで食べていくために、彼らには25から30以上の暗箱が必要なのです。彼らはできるだけ畑を耕す。そして注意深く彼らの蜂たちを再生させて、さらに暗箱を増やしていく。これには天候が担う役割は大きい、雨が多すぎても少なすぎてもいけないし、全く降らないのは最悪である。

さて、次はお金の話に移る。最終的に私が神戸から受け取ったのは$9,100.00(銀行が差し引いた後)である。これらのお金は次のことに使われた。

蜂の暗箱一つにつき、
$82.07×108暗箱=$8,864.00
PechさんとXoolさんの交通費用=$220.00
電話代=$16.00
合計 $9,100.00

それぞれのコミュニティの人々はこのような共有の支援を受け取ることを本当に幸せに思っている。彼らは神戸からのNGOの吉富志津代さんを受け入れることができて喜んでいる。彼女もここにいる間に感じてくれるだろう。彼らは今後ももし必要であるのなら訪問を歓迎する。すでに今では神戸の人々と友達なのだから。 このプロジェクトの成功(写真も見てください)が神戸のドナーを勇気づけ、あなたがたのファンドレイジングに協力しつづけてくれる力になることを願っている。 また、このことが忍耐と継続の意志をさらに勇気づけ、私たちのすべての兄弟と姉妹、すべての神戸のNGOのすべてのパートナーをこの簡単ではない仕事への勇気づけとなることだろう。
友好と感謝の気持ちを持って。

あなたのメキシカンパートナーより。
Cuauhtemoc Abarca Chavez

2003年3月 翻訳:事務局

写真左:壊された蜂床 写真右:新しい暗箱作り

写真上:壊された蜂床
写真下:新しい暗箱作り

メキシコハリケーンの被災地・カンペチェ視察報告―クワテモックさんのレポートへの補足として

日程 :2003年3月7日(土)~12日(木)
行先:メキシコ・カンペチェ州

ユカタン半島の北東にあるカンペチェ州は、かつてはマヤ文明の中心地として栄え、800以上の遺跡が残り、今では少数民族といわれるマヤ民族の小さな村がたくさんある。その村のいくつかでは3年前にようやく政府に認められて、マヤ語を子どもたちに教える教育が公立の学校で始まったばかりである。

その州都カンペチェ市はメキシコ湾に面した静かな港町で、スペインが征服した後もよく海賊に襲われていたため、まち全体を要塞で囲って守ったという歴史がある。今でもその要塞がかなり残っていて、マヤの遺跡と要塞の見学に来る観光客も多い。

写真左:カンペチェ市 写真中:マヤの紹介 写真右:要塞

写真上:カンペチェ市
写真中:マヤの紹介
写真下:要塞

ハリケーンについて

地形的な理由で、ハリケーンは毎年のようにこの地域を襲うが、メキシコ湾を通過するだけなら大きな被害にならないのだが、何年かに一度はこの地にハリケーンがメキシコ湾を抜けずにとどまってしまうという。ひとたびとどまるとこのハリケーンは、暴風雨とともに10日間ぐらい動かない。2002年9月の場合もその運の悪いタイプのハリケーンだったので、ひどいところでは6メートルもの水に村が浸り、まるで湖のようになった上、なかなか水がはけなくて2~3ヶ月ほど浸水状態が続くらしい。 今回の視察はそのハリケーンから半年後であったが、民家の壁に残された水のあとや、アスファルトの道路のあちこちに残っているハリケーンでできた50~100cmの穴が見られた。 遺跡の入り口がふさがってしまって観光客が入れなくなったところもある。現在でも通行止めや、工事中のところがあった。

写真左:被害のあった家 写真中:壊れた道路 写真右:被害のあった畑

写真上:被害のあった家
写真中:壊れた道路
写真下:被害のあった畑

クワテモックさんのプロジェクトの流れ(ヒアリングと視察から)

1.現地の調査
まず、ハリケーンの被害に関する情報、被災地の歴史や人々の日常生活、被災地への他の支援プロジェクトについてなどを、学者やメディア関係者などに連絡して聞き取る。被害の大きかった所には小さなマヤ民族の村が点在しており、生活は自給自足で、慎ましやかに暮らしていて、現金収入は、昔からの農法で細々と続けている養蜂農場や、民族衣装や民芸品などの卸しで得ている。

写真:クワテモックさん

2.被害の大きかった場所を選んで実際に視察

州都の役所の観光課などの担当者や、その地域のリーダー的な人物を紹介してもらい、被害の大きかったところをピックアップして案内してもらう。現地では村の人に、その土地のリーダー的な人にコーディネートしてもらって何人にヒアリングする。 被害の詳細と、何が一番必要で、どれだけの支援が必要かなどを詰めていく。 唯一の収入源の蜂が絶滅した家族は、再建のめどが立たない。 多くの養蜂農場は村から1時間以上歩いたジャングルの中にある。 政府からの支援はとどかず、唯一スペインから物資が届いただけで、ひどいところでは、支援をするふりをして高い野菜の種を売りつけるな どの詐欺の被害にまであっていた。

3.リーダーを決め、プロジェクトの具体的な企画

その中で、この支援プロジェクトのリーダーを選出してもらい、誰にどれだけの支援をするのか、選択も含めてリーダーたちが実際には動くよう、具体的な計画をたてて打ち合わせをする。

1)特に被害の大きかった3の村、ベカンチェン村、シュクピル村、ケツウァル村を選定し、それぞれの村で、このプロジェクトのリーダーを選任する。
2)それぞれの村で支援対象者を選定し、1家族に3箱ずつの蜂を提供する。

ベカンチェン村:
人口約1,200人
家族人数は平均7~8人で約100家族が養蜂に従事。
そのうちほとんど蜂が全滅した家族13家族。

写真左:ベカンチェン村の人々 写真右:養蜂農家

写真上:ベカンチェン村の人々
写真下:養蜂農家

写真左:蜂 写真右:ハチミツをいただく

写真上:蜂
写真下:ハチミツをいただく

シュクピル村:
人口約800~900人のうち約50家族が養蜂に従事し、そのうち12家族を支援。

写真:シュクピル村の人々

ケツウァル村:
グアテマラからの難民たちが15年前に作った村で、マヤの中でもより少数民族でマヤ語の中のマム語を話す。人口約1,400人で約200家族のうち養蜂には22家族が従事し、そのうち11家族を支援(人口のうち多くはアメリカなどに出稼ぎにいっている)。

写真左:ケツウァル村の人々 写真中:機織り 写真右:食事を作る

写真上:ケツウァル村の人々
写真中:機織り
写真下:食事を作る

3)あたり全部が同じような被害にあっていて、なかなか蜂を売ってくれる人がいないので、リーダーたちと一緒にさがして交渉をする。(ここまで1回目の訪問)

4)蜂の購入と納品を見届ける。(2回目の訪問)

5)その後の経過を視察。(今回の訪問)

6)今後の蜂蜜の販売についてのプロモーションの手配をする カンペチェ市の観光会社の人に今回の訪問に同行してもらい、市中の観光名所の売店に蜂蜜をおいてもらうように話を進めた。(今回の訪問)

村の人たちの声

それぞれの村で、支援対象家族の方が集まってくれて、全員から感謝のことばをいただき、懇親会をして下さいました。私たちが神戸の地震から始まった市民活動団体のネットワークで、自分たちが助けてもらった恩返しをする思いで、市民レベルでなにかできることをして助けあい、交流を持っていきたいと話しました。マヤの人たち、特にグアテマラからの人たちにとってカメラは魂を抜かれると言われていやがることがあるらしいので、写真をとることについて、しっかりと了解をしてもらってからにしました。

・ 地球の裏側の日本から支援をしてもらえるなんて大変嬉しい。
・ 量は少なくても、これから再出発するためのベースになる今回の蜂は、とてもありがたく、価値のあるものだ。
・ こんなハリケーンでもなければ日本の女の人になどお目にかかれなかった。
・ どうかこれからも交流を持ち続けたい。 ・ 今まで、支援の話はいくつもあったが、実際に実行してくれたのは、あなたたちが初めてだ。
・ 今回支援の枠に入らなかった家族には、もう支援は無理だろうか?
・ 私たちは先祖代々から続くこの蜂蜜作りに誇りを持っている。

日本についていろいろ質問されましたが、日本はハイテクの国で、小さな家に住んでいるというイメージだそうです。3つの村の内、2つの村では何とか花が咲いて、今回の蜂による蜂蜜が少しとれ、その貴重な蜂蜜をおみやげにもらいました。100%純粋の蜂密を是非支援してくれた人たちに食べてほしいとのことで、少しですが預かってきました。次回の運営委員会でみんなで試食しましょう。

★おまけ 開戦の前日だったため、メキシコシティの空港のユナイテッド航空チェックインカウンターの前で預ける荷物を隅から隅まで調べられました。

CODE現理事 吉富志津代
編集:CODE事務局