CODE海外災害援助市民センター

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1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災をきっかけに
「困ったときはお互いさま」の心で海外の被災地支援を行っています。
災害時の支えあい・学びあいを通して地球の市民どうしのつながりを築いています。

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お問い合わせ:info@code-jp.org

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46. ハイチ地震

災害概要&地図

発生日時:2010年1月12日(現地時間)
震源  :ハイチ、首都ポルトーフランス 南西約17km
地震規模:マグニチュード7.0
死者  :約22万2570人
負傷者 : 約30万572人
避難者 : 約230万人(最大時)
被災者 :約350万人
損壊家屋: 18万8383戸(うち全壊:10万5000戸)
※ハイチ政府・UNOCHA発表

ブログ

活動レポートや現地の写真等を掲載しています。
ハイチ地震救援ブログ

プロジェクト内容

(1)初動支援:メキシコのパートナー・クワゥテモックさんの派遣

CODEは地震直後からメキシコ人のパートナーであるクワゥテモックさんに被災地に入ってもらいました。クワゥテモックさんは、阪神・淡路大震災をきっかけに出会い、これまで主に中南米の災害時に連携して活動してきました。ハイチでは、約9割の建物が倒壊した最大の被災地レオガンを中心に次のような活動を行いました。

ラジオでのメッセージ発信

ラジオ関西との協力で集めた日本人からのメッセージ約50通をクワゥテモックさんに託し、1月下旬から2月上旬にかけてハイチのラジオ(レオガンのRadio Cool, ポルトープランスのRadio Caraibeなど5局)を通じて被災者に伝えました。

例えばこんなメッセージを届けました。
《被災地から見守っています!!》
私たち神戸市民は、15年前に大震災を経験しました。
ハイチの大地震による多くの方々の被災に、私たちは胸を痛めています。家族を失い、ケガをし、家をなくし、どれほどつらくたいへんなご状況か、想像しきれません。しかし、いま同じ被災地として、ハイチの皆さんの痛みを共有し、見守っています。私たちも震災で計り知れない悲しみを経験しました。それを人と人との支え合いで乗り越えてきました。ハイチでは一部暴動などが報じられていますが、地震で壊れた町をさらに人が荒廃させるようなことが起こらないよう祈っています。このようなときこそお互い支え合い、尊い命を大切にされ、今後の再建に力を注がれることを応援しています。日本全国の人々も、同じように応援しています。
ハイチを応援するKOBE市民より

写真:クワゥテモックさんと孤児院の子どもたち

避難キャンプや移動診療所のコーディネート

1月下旬から2月にかけて、レオガン市内の壊れた病院、Cardinal Legerの敷地を拠点にコミュニティのニーズをヒアリングし、Ayuda a Haitiなど他の支援団体と連携して医療キャンプの立ち上げに加わりました。ここでは日々約700人の診察が行われ、立ち上げ以降、クワゥテモックは非医療スタッフとして活動の調整やコミュニティのヒアリング、キャンプ外の会合への参加などを継続し、運営を支えました。

孤児院訪問

クワゥテモックさんは2月から5月にかけての現地滞在中、レオガンおよび、その約15km東のグレシエという街にある5つの孤児院をそれぞれ週1回ほど訪問し、被災した子どもたちが楽しめる様々なアクティビティを企画しました。歌やゲームだけでなく、映画の上映やジャグリング教室も行いました。

写真:たくさんの孤児院の子どもたちと

(2)女性向けマイクロファイナンス

現地団体ACSIS

首都ポルトープランスの北に位置するラプレンという地域で活動している団体です。大阪府在住のハイチ人青年シャシャ・ピエールマリさんが、友人のルシアンさん(代表)らと設立しました。彼ら自身も家族や友人を亡くした被災者です。被災直後から物資配給などの支援を行ってきました。

写真:震災直後の露天商の様子

女性向けマイクロファイナンス

ハイチではもともと露天商などの小規模事業が経済の中心を占めています。地震直後から既に多くの露店が再開し、被災者がたくましく商いを始めていました。このプロジェクトでは、弱い立場に置かれがちな女性の被災者が生活を再建できるよう、融資によって小規模事業の立ち上げ・立て直しを支援しました。

2011年1月、ACSISはラプレン地域に住む女性の小規模事業主40名を対象に、事業再建のための資金約150~300US ドルの貸付および商いのトレーニングを開始しました。お金を借りた人は、利子を含めて資金を返済します。商いの内容は、露天の服屋さん、雑貨屋さん、食堂など様々です。新しく商いを始めたり被災した元の店を再開した女性の多くは、「ローンがあってよかった」「収入が増えた」と話してくれました。

写真:食堂を再建した女性

女性の声

Azor Gaelleさん(お総菜の販売)
「私や地域の人たちのビジネスを支援してくれてありがとう。あの震災後ハイチをサポートしようという気持ちを持ってくれている日本の人に本当に感謝しています。 この支援は家族の生活を再スタートさせるために大きなものです。3月に起きた日本の地震(東日本大震災)に対して心が痛んでいます。」
女性の声をもっと読む(ブログへ)

中には健康を害したり、家族の医療費や教育費などがかさみ、うまくいかなかった人もいます。公的な保護が十分でないため、失業や病気などで暮らしが苦しくなると、学校や病院に行けないどころか毎日の食事すら取れなくなる場合もあります。ハイチのこの厳しい現実に向き合い、今後の支援を考えていかなくてはなりません。

写真:揚げ物屋を再開した女性

(3)コミュニティセンター支援

首都ポルトープランスで、住民が集まりつながりを築く場としてコミュニティセンターの賃料を支援しています。「日本ハイチ協会(CUSOPHAj)」の拠点として使われ、日本文化教室なども行われています。ハイチを支援するNGOが情報共有するスペースとしても使われています。

(4)農業技術学校(ETAL)建設

現地NGO「GEDDH」が、計画していた農業技術学校(ETAL=ECOLE TECH AGRICULTURE DE LEOGANE)の建設をシスター須藤昭子(クリストロア宣教修道女会、ハイチに37年滞在し、結核治療を行っている医師)と共に実施することになりました。ハイチでは、国土の森林被覆率がわずか1.25%しかありません。山に森林がないことで雨が降ると山の土砂がそのまま川に流れ、氾濫して周辺の農地を奪っていきます。シスター須藤たちGEDDHは、この地震前から植林と農業指導を行っていました。シスターはこんな言葉を残しています。「貧しい人は満足に食べられないからすぐに病気にかかる。運よく治療を受けられても回復力がない。」と。食を司る農業の重要性を知ったシスターたちは、その農業の普及だけでなく、水で農業とつながる山の植林を始めました。地方の町や村で農業で生活できるようになれば、首都の人口流入によるスラム化や不安定な治安を改善できるのではと考えました。

写真左:ハイチの山 写真右:ハイチの水害

写真上:ハイチの山
写真下:ハイチの水害

2013年5月に現地の司教やNGO、シスター、カナダの農業技術者、CODEからなる顧問会を設立し、農業技術学校の建設や運営を見守る形をとりました。学校の建設地は、GEDDHやシスター須藤が農業大臣から提供されていた土地で、GEDDHの事務所のある場所です。2013年12月に着工が始まりましたが、途中、土地の所有権の問題なども発生し、一時中断しましたが、2016年に無事学校が完成し、関係者が集い落成式を行いました。初年度は17名の学生が入学し、農業を学んでいます。

写真左:ETALの校舎 写真右:ETAL落成式

写真上:ETALの校舎
写真下:ETAL落成式