4月14日に青海省玉樹州を襲ったM7.1の地震は大きな被害をもたらした。州の中心である結古鎮やその周辺の郷鎮の被災者の多くは、結古鎮郊外の大草原にテントを張って暮らしている。ここは、夏の最大の祭りである「康巴(カムパ)芸術祭」の開かれる場所でもある。「救災」と書かれた数千張りの青いテント群が、数キロある草原を埋め尽くし、山の斜面でさえも見渡す限りの「青」である。聞くと、ここにどれだけのテントがあり、どれだけの被災者の人々が暮らしているか、正確な数字を政府やNGOも把握していないという。政府または、NGOによってマネジメントされていない避難キャンプでは、人を探すのもひと苦労だ。実際に地震直後に沢山の被災者がここに避難してきたが、家族、親戚に会えずに苦労したそうだ。一カ月半を経たキャンプでは、少しずつではあるが、家族や同郷の人々同志が、同じエリアにまとまって暮らしつつある。
約100km近郊の称多県出身のAさん(40代男性)は、家族5人でこの草原に避難してきた。2つのテントを利用し、1つのテントには元の家から運び出したテレビや冷蔵庫、ストーブを綺麗に配置して暮らしている。娘達を結古鎮の学校に通わせていた事からAさん達は、数年前、結古鎮に中古の家を買って暮らしていたそうだ。被害を受けた写真を僕に見せてくれた。現代風な家屋で至る所に亀裂が走っているのが分かる。「もうこの家は使えないなあ」と肩を落とすAさん。今後、どうするのかと聞くと、「まだ分からない。家は政府が建ててくれるらしい。しばらくはこのテントで暮らすしかないなあ。。。」と語った。
四川大地震の時と同様に中国政府と青海省政府は、一人当たり1日10元の義捐金と500gの米を配布しているが、Aさん家族は、り災証明書(災民証)はもらったが、義捐金はまだ受け取っていなかった。実は、Aさんのすぐ隣のテントの7人家族は、たった1つのテントで暮らしていて、2人は地べたに寝ているという。
直後から活動している中国人ボランティアWさんの言った言葉が今も忘れられない。「若者など力のあるものが、テントや食料を持っていて、高齢者のような弱い人々には何もない。」
地震直後に物資を見境なく配った事による弊害が今も影を落としている。やはり、この最大の避難キャンプが政府やNGOなどによってしっかりとマネジメントされなくてはならない。
青海省地震レポート21
7月14日、青海省地震から3カ月が経った。日本のメディアもわずかではあるが、被災地の現状を報道した。「誰がどこに入るのか決まっていない」、「今までの集落がバラバラになる」などの声も報じられた。(7月14日 北京共同通信)
6月初め、僕らが玉樹を訪れた際にも同じような声を聞いた。
玉樹の旧市街地、普セキ(てへんに昔)達巷は、なだらかな丘にへばりつくように一戸建ての住宅が集まっている。このあたりは、まともに残った家がほとんどないほど一面のガレキとなり、約150戸のうち、約30人が帰らぬ人となった。ここに暮らすKさん(40歳 女性)は、8年前に建てた家が全壊し、敷地にテントを張って家族3人と親戚で身を寄せ合って暮らしている。地震の際、生後33日の子どもと共に生き埋めになった。その後、救出してもらった時、赤ちゃんの息はなかったが、人工呼吸でかろうじて一命はとりとめた。今後の話を聞くと、「再建計画によっては、ここを移動しなくてはならない」とどこか割り切ったように語るKさんだが、「この土地は父母が残してくれた土地だから。。。」と本音もつぶやく。
玉樹を去る前日に再び訪ねた際、軍によって周辺の家屋のガレキが一気に撤去されようとしていた。ガレキの撤去が始まったらどこに住むの?と尋ねると、「丘の上の空いた所にテント張るよ」と言う。
また再びこの土地に戻ってくる事が出来るのか分からない。また、家族の多いチベット人には、再建後、政府の提供する80㎡の住宅では小さすぎるという声も多く聞いた。
急ピッチに進む復興計画。奇しくも現在、青海省政府の代表団が来日していて、神戸や中越を視察している。是非とも政府の方々には日本の成功事例だけでなく、復興の過程でコミュニティーがバラバラになってしまった事例もしっかりと学んでもらい、始まったばかりの玉樹の復興に活かしていただきたい。
青海省地震レポート20
地震発生から1カ月半を経た6月上旬、被災地、玉樹へと入った。州の中心、結古鎮は約2万3000人ほどの小さな町であるが、その建物の90%近くが倒壊したと言われている。実際、街をT字に貫く民主路と勝利路沿いの鉄筋コンクリート造のホテル、商業ビルなどは形をかろうじて残しているが、危険家屋のため使用不可能である。また、道路から少し入ると粘土造の家屋はことごとく倒壊しており、形さえ残していない。
街の中心であるケサル広場周辺には、政府によって配られた青いテントが立ち並び、被災者の人々は商売に精を出している。食堂、八百屋、洋服屋、仏教用具店など様々である。
だが、街は以上に埃っぽい。標高3700mの高地で乾燥している事もあるが、街中のいたる所でガレキの撤去作業が急ピッチに行われている。旧市街地の一部のエリアでは、軍によって数台の重機を投入して大規模に撤去されている。「たった1カ月半しか経ていないのに何でこんなに早いんだ?」と思った。その後、被災者やボランティアと話をしているうちにその答えが分かった。玉樹は、1年の内8カ月が厳しい冬に閉ざされ、最低気温-30℃になる時もあるという。再建工事の可能な期間は、5月から8月までのたった4カ月しかないと政府も発表している。そう言えば、四川の被災地でも、標高2000mを超えるチャン族の集落でも冬場の工事によってコンクリートの凝固状態が悪く、再建されたばかりの家に亀裂が入り、雨漏りから鉄筋が錆びて、誰も入居したがらないという事があった。
スピードを重視しなくてはいけない事情も理解できるが、急ぎ過ぎる事でより深刻な問題を引き起こすことも考えなくてはいけない。
青海省地震レポート 19
四川省地震の救援プロジェクトで成都に滞在しているYさんが、6月初め、青海省地震の被災地に入りました。そのレポートを数回にわたってお届けします。
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~玉樹への道~
青海省の被災地、玉樹に入った。四川大地震以後、多大なご協力を頂いている成都のゲストハウスのMさんと地震後、今も奮闘している中国人ボランティアリーダーのXくん、そして四川のチベット人ドライバーの4人で被災地玉樹へと向かった。成都を出発し、朝、7時頃から夜の11時頃まで車を飛ばし続けて2日半の長旅であったが、車窓から見える標高4000m前後のチベット世界は素晴らしい風景であった。
チベット人の多く住む四川省甘孜(カンゼ)チベット族州の「カンゼ」という名は、チベット語で「白く美しい」という意味で肥沃な自然を表すという。その名の通り、周辺の山々にはスギやマツ、トウヒ、モミなどの針葉樹の姿を見る事ができ、集落にはその樹々をふんだんに使った非常に立派な木造家屋が建ち並んでいる。一見、欧米のログハウスのように丸太を積んだだけのようにも見えるが、ホゾとクサビを使った伝統構法の木構造にチベット風の石積みの外観は非常に風景に馴染んでいる。
1973年の爐霍大地震(M7.9 死者2175人)後に、このような木造家屋が増えたようだが、聞くところによると、昔は自分達で山に入って木を伐って来ていたそうで、最近では林業局の規制も厳しくなって勝手に伐る事は出来なくなったという。約3億人が被災したと言われている1998年の長江大洪水の後、事態を深刻に見た中国政府は、その後、四川省など長江上流域での森林伐採を禁止する政策をとった。いわゆる「退耕還林」である。
一方、被災地、玉樹周辺は標高約3700~4500mの高地は森林限界に達しており、玉樹の中心地、結古鎮の周辺には森林と呼べる所はほとんどない。5~6000m級の雪山と広大な草原とわずかな低草木がひろがるのみである。結古鎮やその周辺でも四川のような木造家屋は見る事はできない。この地震で倒壊した家屋の多くは、地元で手に入りやすい土と石などを使った質素なものであった。同じチベット高原でも地域によって建築のあり様は様々である。
下流の急速な経済発展のために上流の森林が伐られていく。そして今度は伐るなと言われる。長江、黄河、メコン河の上流域であるチベットの自然は、時代の大きな変化に翻弄されてきた。
中国青海省地震ニュース No.18
5月31日、中国中央電視台(CCTV)は、青海省地震での被害を以下のよ
うに発表した。青海省政府の記者会見によると、死者2698人、その内身元の確認の取れたのは2687人(男性1290人、女性1397人)、身元不明の遺体が、11体、そして270人が未だ行方不明であるという。場所別では、青海省籍が2591人(玉樹籍2537人、玉樹籍以外54人)、青海省籍以外(四川など)が96人、亡くなった学生数は199人。これが最終的な死者数の確認であるという。
6月1日は、チベット高原を襲った地震の日からちょうど49日目にあたる。これまで被災地だけでなく多くのチベット寺院などで7日毎に祈祷法要(モンラム)が行われてきた。日本でも同様であるが、仏教では人は死後、49日の間に成仏するといわれ、それまで初七日、二七日(ふたなのか)、三七日(みなのか)と言って7日毎に祈りを捧げ、亡くなった人々のよき来生を願う。この時読まれるのが「バルド・トドゥル」(死者の書)と呼ばれる経典である。
このチベット死者の書は、死の直前から死後49日間、臨死の人の耳元で
僧侶によって語り聴かせられる。バルドとは中間(中有)という意味で、死者の魂(意識)は死後49日間、バルドという中間の状態にあり、トドゥル(耳で聞き、解脱するの意)によって六道輪廻から解脱するという。チベットでは死は終わりでなく、よき来世へと向かう解脱のチャンスであると考えるそうだ。この「バルド・トドゥル」とは、死とはいかなるものか、いかに死すべきかと問いた、言わば「死の手引き書」であろう。これを耳元で聴きながら死を迎える事はチベット人にとって何とも言えない安らぎなのかもしれない。チベット人は日頃から死や来世に思いを馳せながら生きているとしたら「死」とは決して忌み嫌うものではないのだろう。
この死者の書は心理学者のユングにも絶賛され、現在、アメリカではホスピスの現場でエイズやガン患者の心の支えにもなっている。玉樹で亡くなった命は、荼毘にふされた後もこのような多くの僧侶の祈りによって成仏されたに違いない。
世界中で大規模災害が多発する現在、「チベット」は、人が生と死とどのように向き合っていくかを教えてくれる。そして、それは僕達人間がいかに自然と付き合っていくかをも考えさせてくれる。
今日6月1日、きっと世界中で多くの祈りが捧げられている事だろう。改めてここ四川の被災地から青海省地震で亡くなった方々の冥福をささやかに祈りたいと思う。
中国青海省地震レポート No.17
玉樹の被災地へと駆けつけた中国人、チベット人のボランティア達が口をそろえて言うのが、僧侶の逞しさとその活動が被災者に絶大な支持を受けているという事である。標高約3700mの高地に順応しているその身体とチベット仏教に支えられた精神の強さと慈悲の心に裏打ちされた活動が多くの被災者の支えになっているのであろう。だが、現在、省外から救援にやってきた僧侶の姿はなく、地元の僧侶のみであるという。
精神的に逞しいのは僧侶だけでなく、被災者の中にも逞しく、慈悲深い人々もいるという。被災地で活動していたチベット人ボランティアのYさんは、救援物資を配布している時に、一人のおばあさんに出会った。ガレキの中の粗末な掘立小屋でひとり寂しく暮らすそのおばあさんに物資を渡そうとすると、おばあさんは「私は要らないから、他に困っている人にあげてちょうだい。」と言った、Yさんはその言葉に痛く感動したという。
ボランティア達に見せてもらった写真には避難テントの前でマニ車を廻す高齢者の姿が写っていた。マニ車とは、チベット語でマニ・コルと呼ばれ、チベット仏教独特の法具のひとつで、手に持てる小型のものは、棒の先端に円柱の形をしたものが付いていて、その円柱の中にはお経が書かれた紙が入っている。マニ車を一回廻すと一回お経を読んだ事になる。チベット人の住むエリアに行くとそこかしこで真言を唱えながらこのマニ車を廻す姿に出会う。
また、チベット寺院には本堂の周囲にはマニ車が並んでいて、その一つ一つを廻しながら右回りに巡回していく。この行為をコルラといい、6656mの西チベットの聖なる山カイラス(カン・リンポチェ)の周囲約50kmを2~3週間かけて五体投地でコルラするチベット人もいる。小さなマニ車から過酷なカイラス1周までコルラも様々である。
このような信仰に支えられた逞しさ、慈悲の心をもった被災者の人々に僕らは学ばなくてはならない。
中国青海省地震レポート No.16
*複数のMLに発信していますので、重複はご容赦下さい。
困難にある時、支え合うのは至って当然であるが、同じ民族であるなら尚更である。
4月14日に青海省玉樹チベット自治州で起きた地震でも同じ民族のチベット人達が、チベット自治区や四川省などから駆けつけた。四川省成都に住むチベット人のNGOやボランティア達も直後に玉樹へとボランティアに向かった。彼らは、トラックに救援物資を積み込み、丸二日かけて被災地へと入った。救援物資の偏っている状況の中、彼らは地元で活動しているNGOを通じて混乱の起こらないように救援物資の配布を行ったそうだ。
玉樹では、チベット人のNGOがいくつかあり、保健衛生、教育、環境などの分野で震災前から活動していた。震災後、各NGOは連携しながら今も活動している。チベット人ボランティアの話によると玉樹の町では、病院、学校、政府の建物などの公共建築物は比較的、鉄筋が入っており、全壊には至ってなかったという。一方、民家は、日干しレンガや土の壁を積んだだけのもの多く、一面の廃墟と化している。それは、四川のチベット人の民家と比べてもかなり質が悪いものだったという。
近年、玉樹では定住化政策により周辺の村での遊牧生活から結古鎮中心部での商売などへと人々の暮らしが変わりつつあった。その急速な暮らしの変化が人々を粗末な住宅に住まわせる事になったのかもしれない。
標高3000~4000mのチベット高原では森林資源は乏しく、柱や梁には多少木材は使われているが、壁は花崗岩などの石や日干しレンガを多用した2~3階の組石造住居が一般的である。最近は資材も石からブロックやレンガへ変わってきたようだ。
本来の伝統住宅では石や日干しレンガを積んだ壁の外側はわずかに傾斜し、上部より下部が厚く積まれ、窓などの開口部も小さく作られている。これは防寒や耐震を考慮したものであると指摘する専門家もいる。千数百年に渡って高度な文明を育んできたチベットでは、寒冷で地震地帯という環境に適応した暮らしの中に智恵がないはずがない。だが、暮らしの変化と共に様々な伝統的な智恵が希薄になってしまったのかもしれない。
中国青海省地震レポート No.15
青海省の玉樹鎮を襲った地震から1カ月が経った。2周年を迎えた四川大地震の時ほどの大きなボランティアの動きにはなっていないが、1カ月を過ぎた今でも標高4000m近い天空の被災地で頑張っているボランティアやNGOたちがいる。四川省にも多くのチベット人が暮らしているが、成都やカンゼ州などからも沢山のボランティアがトラックに救援物資を積んで被災地へと駆けつけた。活動を終え、成都に戻ってきたボランティアたちに話を聞いた。
彼らは、四川大地震後から北川県で活動しており、青海省での地震後もすぐに玉樹へと向かった。競馬場である草原を拠点にテントで医療活動を行った。たった二人の医師が数百人の患者を診て、それをボランティアがサポートした。毎日、カップラーメンを食べ、狭いテントで寝泊まりしていた。砂嵐のほこりと風に苦しめられたその過酷な活動でボランティアのほとんどが体調を崩し、点滴を打ったそうだ。医師は片手に自ら点滴をしながら、もう一方の手で診察を行っている姿が写真に映し出されていた。
ボランティアのLさんは、避難キャンプになっている競馬場は想像以上に広く、物資の偏りも目立ち、キャンプ運営の調整力の不足を指摘していた。また、被災者であるチベット人の逞しさと信仰心に感動したという。Lさんに「今、何が必要か」と尋ねると「まだまだ物資は不足しているが、心の支えになるようなものが必要だ」と答えた。
中国青海省地震レポート No.14
何をもって「災害」と呼ぶのだろう。地震、津波、地滑り、洪水、台風、噴火などの自然現象が発生しても、そこにいる人間に被害がなければ「災害」とは呼ばない。バングラデシュでは、洪水を「banya」と呼ぶが、これは毎年、雨季には河川が氾濫し、田畑を水没させるというひとつの自然現象である。その氾濫は、そこに暮らす人々にとっては肥沃な土壌を生みだす恩恵であり、災害という認識はない。日本の遊水地もそうであるが、このような恩恵の面も含めた日常的に起きる洪水をbanyaと言うそうである。だが、その程度が、一定の範囲を超えると「災害」として認識される事になる。
日本でも地滑り地帯の分布と棚田の分布がほぼ重なるという。先人達は、日常的に起きる地滑りを防ぐために斜面に棚田を作って、災害とうまく付き合ってきたのだろう。
また地震の多いインドネシア、パキスタン、イランなどのイスラムの国々では、震災を「神の試練」と捉え、行いを正し、より信仰を深めなくてはいけないと考える人々も少なくない。2005年のパキスタン北東地震の被災地でも地震発生時、外に逃げずにただ祈っていたという話を多く聞いた。イスラムの国々では女性や子供などの被害が拡大するケースも多い。このように災害観はその国の風土、習慣、文化、宗教によっても捉え方が違う。
チベット人の多くは、「カルマ」を信じている。日常の中でこのカルマという言葉をよく使う。カルマとは、日本語では、「業」と訳される事が多いが、本来は「造作」という意味で人間の行いとその影響を示すそうだ。水に石を落した時に水面に広がる波紋のようなものとよく喩えられる。
あるチベットの活仏は、玉樹の被災者に以下のようなメッセージを送った。「すでに起こってしまった事は、それぞれの業(カルマ)の結果として起こってしまった事だ。だが、未来は業によって定められているのではない。業は自らが今から決める事が出来るのだ。だから、挫けないで亡くなった人々のために祈りなさい。」
被災した人々によってその「災害」の意味は当然違う。阪神・淡路大震災から15年を経た今でもKOBEではその意味を問い続けている人々がいる。
青海省の被災地のチベット人たちは、この震災をどのように捉え、過酷な今を耐え、乗り越えようとしているのだろうか。
中国青海省地震レポート No.13
チベット人は、言わずと知れた敬虔な仏教徒である。チベット人でお経を読めない人はいないと言われるほどである。チベット自治区だけでなく、青海省、四川省、甘粛省、雲南省などの広範なチベットエリアには数多くのゴンパ(寺院)があるが、チベット人にとってラサ、西チベットのカイラス山などへの聖地巡礼が一生で最大の願いでもある。
以前、12月に雲南、四川からラサを経てネパールまでトラックなどをヒッチハイクして旅した事がある。その途中、東チベットのインドとの国境付近を走っていた時、トラックの車窓から何やら妙な動きをしているものが見えた。車が近づくにつれ、それが人である事が確認された。車が巻き上げる砂埃を気にも留める事もなく、合掌した両手を胸前から頭頂、眉間、喉、胸へと降ろし、その後両手、両膝を地面につけた後、額も地面につける。大地に身を投げ出すようにうつ伏せになり、再び立ち上がって、また同じ動きをする。これこそがあの「五体投地」であった。両手、両膝、額の五部を大地につけるチベット仏教独特の礼拝のやり方である。一度の動きで自分の身長ほどの距離しか前に進めない。尺取り虫のように大地に這いつくばって数千キロ先の聖地ラサを目指すのである。気の遠くなるほどの距離を何カ月も、何年もかけて野営しながら旅をする。命がけの信仰の旅である。
聖地ラサのジョカン(大昭寺)の正門前では連日巡礼者たちがこの五体投地で礼拝している。僕も見よう見真似でやってみたが、標高3800mのラサではかなり過酷であった。
チベットの冬(乾季)は、昼は強い紫外線に高山焼けで顔は真っ黒になるほどだが、日が暮れると途端に寒さが体を襲う。平均標高約4000mの荒涼とした大地はすべての水分を凝固するかのようである。ラサ手前の5000mの峠で車の故障でブルーシートの風除けだけの東屋に野宿した事があるが、あまりの寒さに寝れなかった。ようやくウトウトした頃、高山病対策のために常備している水筒の水がピキッ、ピキッと凍っていく音に再び目が覚めた事を思い出す。チベット人はそんな環境で五体投地の巡礼を敢行するのである。
環境に適応したチベット人のその強靭な肉体と精神力、そしてその深い信仰心には本当に感心させられる。五体投地はまさに己のすべてを大地に還すかのように仏への帰依を表しているように見えた。
そう言えば、その旅の出発地点の雲南の梅里雪山(6740m)の麓で出会ったチベット人達は、玉樹から巡礼に来た人たちだった。あの人懐っこい人々がこの地震で無事である事をただ祈るのみである。