月別アーカイブ: 2010年5月

中国青海省地震レポート No.17

玉樹の被災地へと駆けつけた中国人、チベット人のボランティア達が口をそろえて言うのが、僧侶の逞しさとその活動が被災者に絶大な支持を受けているという事である。標高約3700mの高地に順応しているその身体とチベット仏教に支えられた精神の強さと慈悲の心に裏打ちされた活動が多くの被災者の支えになっているのであろう。だが、現在、省外から救援にやってきた僧侶の姿はなく、地元の僧侶のみであるという。
精神的に逞しいのは僧侶だけでなく、被災者の中にも逞しく、慈悲深い人々もいるという。被災地で活動していたチベット人ボランティアのYさんは、救援物資を配布している時に、一人のおばあさんに出会った。ガレキの中の粗末な掘立小屋でひとり寂しく暮らすそのおばあさんに物資を渡そうとすると、おばあさんは「私は要らないから、他に困っている人にあげてちょうだい。」と言った、Yさんはその言葉に痛く感動したという。
ボランティア達に見せてもらった写真には避難テントの前でマニ車を廻す高齢者の姿が写っていた。マニ車とは、チベット語でマニ・コルと呼ばれ、チベット仏教独特の法具のひとつで、手に持てる小型のものは、棒の先端に円柱の形をしたものが付いていて、その円柱の中にはお経が書かれた紙が入っている。マニ車を一回廻すと一回お経を読んだ事になる。チベット人の住むエリアに行くとそこかしこで真言を唱えながらこのマニ車を廻す姿に出会う。
また、チベット寺院には本堂の周囲にはマニ車が並んでいて、その一つ一つを廻しながら右回りに巡回していく。この行為をコルラといい、6656mの西チベットの聖なる山カイラス(カン・リンポチェ)の周囲約50kmを2~3週間かけて五体投地でコルラするチベット人もいる。小さなマニ車から過酷なカイラス1周までコルラも様々である。
このような信仰に支えられた逞しさ、慈悲の心をもった被災者の人々に僕らは学ばなくてはならない。

中国青海省地震レポート No.16

*複数のMLに発信していますので、重複はご容赦下さい。
困難にある時、支え合うのは至って当然であるが、同じ民族であるなら尚更である。
4月14日に青海省玉樹チベット自治州で起きた地震でも同じ民族のチベット人達が、チベット自治区や四川省などから駆けつけた。四川省成都に住むチベット人のNGOやボランティア達も直後に玉樹へとボランティアに向かった。彼らは、トラックに救援物資を積み込み、丸二日かけて被災地へと入った。救援物資の偏っている状況の中、彼らは地元で活動しているNGOを通じて混乱の起こらないように救援物資の配布を行ったそうだ。
玉樹では、チベット人のNGOがいくつかあり、保健衛生、教育、環境などの分野で震災前から活動していた。震災後、各NGOは連携しながら今も活動している。チベット人ボランティアの話によると玉樹の町では、病院、学校、政府の建物などの公共建築物は比較的、鉄筋が入っており、全壊には至ってなかったという。一方、民家は、日干しレンガや土の壁を積んだだけのもの多く、一面の廃墟と化している。それは、四川のチベット人の民家と比べてもかなり質が悪いものだったという。
近年、玉樹では定住化政策により周辺の村での遊牧生活から結古鎮中心部での商売などへと人々の暮らしが変わりつつあった。その急速な暮らしの変化が人々を粗末な住宅に住まわせる事になったのかもしれない。
標高3000~4000mのチベット高原では森林資源は乏しく、柱や梁には多少木材は使われているが、壁は花崗岩などの石や日干しレンガを多用した2~3階の組石造住居が一般的である。最近は資材も石からブロックやレンガへ変わってきたようだ。
本来の伝統住宅では石や日干しレンガを積んだ壁の外側はわずかに傾斜し、上部より下部が厚く積まれ、窓などの開口部も小さく作られている。これは防寒や耐震を考慮したものであると指摘する専門家もいる。千数百年に渡って高度な文明を育んできたチベットでは、寒冷で地震地帯という環境に適応した暮らしの中に智恵がないはずがない。だが、暮らしの変化と共に様々な伝統的な智恵が希薄になってしまったのかもしれない。
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中国青海省地震レポート No.15

青海省の玉樹鎮を襲った地震から1カ月が経った。2周年を迎えた四川大地震の時ほどの大きなボランティアの動きにはなっていないが、1カ月を過ぎた今でも標高4000m近い天空の被災地で頑張っているボランティアやNGOたちがいる。四川省にも多くのチベット人が暮らしているが、成都やカンゼ州などからも沢山のボランティアがトラックに救援物資を積んで被災地へと駆けつけた。活動を終え、成都に戻ってきたボランティアたちに話を聞いた。
彼らは、四川大地震後から北川県で活動しており、青海省での地震後もすぐに玉樹へと向かった。競馬場である草原を拠点にテントで医療活動を行った。たった二人の医師が数百人の患者を診て、それをボランティアがサポートした。毎日、カップラーメンを食べ、狭いテントで寝泊まりしていた。砂嵐のほこりと風に苦しめられたその過酷な活動でボランティアのほとんどが体調を崩し、点滴を打ったそうだ。医師は片手に自ら点滴をしながら、もう一方の手で診察を行っている姿が写真に映し出されていた。
ボランティアのLさんは、避難キャンプになっている競馬場は想像以上に広く、物資の偏りも目立ち、キャンプ運営の調整力の不足を指摘していた。また、被災者であるチベット人の逞しさと信仰心に感動したという。Lさんに「今、何が必要か」と尋ねると「まだまだ物資は不足しているが、心の支えになるようなものが必要だ」と答えた。
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中国青海省地震レポート No.14

何をもって「災害」と呼ぶのだろう。地震、津波、地滑り、洪水、台風、噴火などの自然現象が発生しても、そこにいる人間に被害がなければ「災害」とは呼ばない。バングラデシュでは、洪水を「banya」と呼ぶが、これは毎年、雨季には河川が氾濫し、田畑を水没させるというひとつの自然現象である。その氾濫は、そこに暮らす人々にとっては肥沃な土壌を生みだす恩恵であり、災害という認識はない。日本の遊水地もそうであるが、このような恩恵の面も含めた日常的に起きる洪水をbanyaと言うそうである。だが、その程度が、一定の範囲を超えると「災害」として認識される事になる。
日本でも地滑り地帯の分布と棚田の分布がほぼ重なるという。先人達は、日常的に起きる地滑りを防ぐために斜面に棚田を作って、災害とうまく付き合ってきたのだろう。
また地震の多いインドネシア、パキスタン、イランなどのイスラムの国々では、震災を「神の試練」と捉え、行いを正し、より信仰を深めなくてはいけないと考える人々も少なくない。2005年のパキスタン北東地震の被災地でも地震発生時、外に逃げずにただ祈っていたという話を多く聞いた。イスラムの国々では女性や子供などの被害が拡大するケースも多い。このように災害観はその国の風土、習慣、文化、宗教によっても捉え方が違う。
チベット人の多くは、「カルマ」を信じている。日常の中でこのカルマという言葉をよく使う。カルマとは、日本語では、「業」と訳される事が多いが、本来は「造作」という意味で人間の行いとその影響を示すそうだ。水に石を落した時に水面に広がる波紋のようなものとよく喩えられる。
あるチベットの活仏は、玉樹の被災者に以下のようなメッセージを送った。「すでに起こってしまった事は、それぞれの業(カルマ)の結果として起こってしまった事だ。だが、未来は業によって定められているのではない。業は自らが今から決める事が出来るのだ。だから、挫けないで亡くなった人々のために祈りなさい。」
被災した人々によってその「災害」の意味は当然違う。阪神・淡路大震災から15年を経た今でもKOBEではその意味を問い続けている人々がいる。
青海省の被災地のチベット人たちは、この震災をどのように捉え、過酷な今を耐え、乗り越えようとしているのだろうか。

中国青海省地震レポート No.13

チベット人は、言わずと知れた敬虔な仏教徒である。チベット人でお経を読めない人はいないと言われるほどである。チベット自治区だけでなく、青海省、四川省、甘粛省、雲南省などの広範なチベットエリアには数多くのゴンパ(寺院)があるが、チベット人にとってラサ、西チベットのカイラス山などへの聖地巡礼が一生で最大の願いでもある。
以前、12月に雲南、四川からラサを経てネパールまでトラックなどをヒッチハイクして旅した事がある。その途中、東チベットのインドとの国境付近を走っていた時、トラックの車窓から何やら妙な動きをしているものが見えた。車が近づくにつれ、それが人である事が確認された。車が巻き上げる砂埃を気にも留める事もなく、合掌した両手を胸前から頭頂、眉間、喉、胸へと降ろし、その後両手、両膝を地面につけた後、額も地面につける。大地に身を投げ出すようにうつ伏せになり、再び立ち上がって、また同じ動きをする。これこそがあの「五体投地」であった。両手、両膝、額の五部を大地につけるチベット仏教独特の礼拝のやり方である。一度の動きで自分の身長ほどの距離しか前に進めない。尺取り虫のように大地に這いつくばって数千キロ先の聖地ラサを目指すのである。気の遠くなるほどの距離を何カ月も、何年もかけて野営しながら旅をする。命がけの信仰の旅である。
聖地ラサのジョカン(大昭寺)の正門前では連日巡礼者たちがこの五体投地で礼拝している。僕も見よう見真似でやってみたが、標高3800mのラサではかなり過酷であった。
チベットの冬(乾季)は、昼は強い紫外線に高山焼けで顔は真っ黒になるほどだが、日が暮れると途端に寒さが体を襲う。平均標高約4000mの荒涼とした大地はすべての水分を凝固するかのようである。ラサ手前の5000mの峠で車の故障でブルーシートの風除けだけの東屋に野宿した事があるが、あまりの寒さに寝れなかった。ようやくウトウトした頃、高山病対策のために常備している水筒の水がピキッ、ピキッと凍っていく音に再び目が覚めた事を思い出す。チベット人はそんな環境で五体投地の巡礼を敢行するのである。
環境に適応したチベット人のその強靭な肉体と精神力、そしてその深い信仰心には本当に感心させられる。五体投地はまさに己のすべてを大地に還すかのように仏への帰依を表しているように見えた。
そう言えば、その旅の出発地点の雲南の梅里雪山(6740m)の麓で出会ったチベット人達は、玉樹から巡礼に来た人たちだった。あの人懐っこい人々がこの地震で無事である事をただ祈るのみである。