「はじめの一歩」No.10
第一次のレポートでも紹介しましたが、中部ジャワには大学が多く、「KKN」(カーカーエヌ)というカリキュラムとして組み込まれているしくみがあります。これは、大学生が村に入り、各々が勉強している専門分野に関連したことを1か月から2ヶ月間にわたって実地研修をすることをいいます。もう、8月までには各大学のKKNも終了します。「はじめの一歩-NO8」で、「できることなら、しばらくここに住んで学びたい。」と書きましたが、まさに大学から村へのインターンシップのような形態です。
偶然地震が起きたため、今年は災害心理とか、災害後のコミュニティづくりとかを学んでいる学生もいます。また工学部系の学生なら、耐震の住宅再建ついて現場で手伝いながら学んでいる学生もいるようです。ただ、カリキュラムとはいえ、活動資金が大学から提供されるわけではなく、それでいて住民は「水が使えないから井戸を掘って欲しい。」というような要望もだされるので、学生も困っていました。あるKKNの現場に行くと、日本のNGOと知ってか、一生懸命自分達の活動をアピールする学生もいます。
こういう学びは、自主的に行うから意味があるとご指摘を受けるかも知れませんが、日本でもこのような仕組みを積極的に取り入れたらどうかと思うのですが・・・・・・。
ジャワ中部地震第二次調査団レポートNo.10
「はじめの一歩」No.9
CODEが支援するこの村には、インドネシア国内の団体から、企画の同じ仮設用の資材(ベニア板や屋根用スレート)が配給されたそうです。しかし住宅のサイズがまちまちだということもあり、どのように村人に公平に支援を届けるべきかとRT長(集落の長)は頭を悩ませているようです。そこで、みなさまの支援で建設する25世帯の住宅は、基本的には同じ仕様なので、この”エコ・プロジェクト”に使おうと、村の人々は話しています。
この話しを聞いて、村の人々が大切にしているものは、”助けあいのゴトンロヨン(相互扶助)”と同様に”みんなが幸せになるための公平性”だと感じました。また、ここでの田んぼは3毛作で米が作られているため、年がら年中、田植え・稲刈りを繰り返しています。だからこそ”ゴトンロヨン”が発達するのですが、そうした支えあいのコミュニティは、一見何でもないような村のPOSKO(寄り合い詰め所)となる竹製の簡易あずま家が役割を果たしているようです。村人がたくさん集まっての会議などは、村長さんの家を使うようです。
余談ですが、ジャワの農村地域の村々では、牛小屋がとってもお洒落で魅力的なことに本当に驚かされます。地面から1m弱の石造り(時々、上面がウェーブになっているものもあり)を基礎とし、その上に数10本のバンブーが柱として建てられていて、大げさに言うと日本でなら、そのままカフェの内装になりそうなデザインです。住民に聞いてみると、村の中にある石を積み上げ、村にある竹を重ねたとのことで、特別な費用がかかっているわけでもないようです。でも牛は大切な財産なので、神経を使っているのかもしれません。
ジャワ中部地震第二次調査団レポートNo.9
「はじめの一歩」No.8
さて”エコ・プロジェクト”ですが、いわゆる住宅建設に欠かせない大工さんや左官さんはどうするのか?という疑問を持たれる方もおられるでしょう。集落によっては、クラテンという北部の地域から大工さんに来て貰って、村人を指導し、みんなで建てていくという方法をとるところもあります。
CODEが支援するボトクンチェン集落は、大工さんは雇いません。エコさんが総監督をし、現場監督はRT長が、その下に2~3人の経験者がいて進められます。その他にはムジさん(村の住民で直後から救援活動を開始した人)やディニーさん(故ロモ・マングンの秘書をしていた人)もサポートしていますので安心です。働き手はこうして、みんなボランティアです。その代わりというか、食事は村の女性たちが引き受けてくれます。前にもジャワに詳しい人に聞いたことを思い出しますが、相互扶助のゴトンロヨンが発達しており、お金がなければないなりに支えあうし、貧しい人から優先的に支えるということなどが当たり前のように行われています。エコさんは、「こうしてみんなで支えあいながら再建することで、村の団結力が強くなるのではないか」と笑顔で話されます。
エコさんが総監督といいましたが、決して自分が目立っているのではなく、あくまでも村の住民を主役にしておられます。つまり徹底して”黒子”に徹しているのです。エコさんと一緒に村の中を歩いていても、誰も村の住民は、軽く挨拶をするくらいで、決して特別扱いをしません。村のとりまとめは、RT長のスギマンさんという方がしています。こんな控えめなエコさんの姿に感銘を受けているのですが、こうしたコミュニティづくりができる秘訣がなんなのか?しばらくこの村に住んで学びたいほどです。
ジャワ中部地震第二次調査団レポートNo.8
「はじめの一歩」No.7
ジャワ中部地震の被害の特徴は、学校や役所、そしてモスクという公共施設が壊れているということです。中でも、深刻なのはモスリムの人たちの心の拠り所でもあるモスクの倒壊です。これからは、常に人がたくさん集まるモスクが壊れるようなことがあってはいけません。
一般住宅でも、ゴトンロヨンで再建していますが、当然モスクも村の人たちも関わって再建されようとしています。まだ、骨組みだけの段階ですが、柱はすべて竹が使用されているようです。
さて、地震から2か月が過ぎましたが、村の人たちは今、テントで生活しています。一部けが人とか、高齢者のおられる家庭は、地元の団体から提供を受けた合板などを使った小屋を建て過ごしているところも見受けます。テントと言っても、ほんとにブルーシートだけというところが多く、長引く一時避難生活が心配です。聞くところによると、乳幼児には下痢症状が広がっており、また風邪から肺炎を伴っている症状も見受けられるという状態です。日中は、35度~40度と暑いのですが、夜間はビニールシート一枚で地面と繋がっているため、結構冷えることがその原因だとのことです。雨期までには、なんとか住宅再建が終わることを最優先にしなければなりません。
ところで、被災地を廻っていると面白い光景に出くわします。ビニールシートだけのテントに、テレビとバイクが優先的に収納されていることです。バイクは高価な財産なのです。日本でならば、逆にテントに一番の財産を入れても、他の人に盗まれないかと心配になるところですが、ここインドネシアでは村に強盗が入ろうとしたら、村中の人々が力を合わせて追い払うそうです。これもまた”助けあい”です。人々が助け合うことで、それぞれに持っている力が何十倍、何百倍にも膨れあがることを見せられます。
ジャワ中部地震第二次調査団レポート No.7
「はじめの一歩」No.6
みなさまのご支援によって、進められる”エコ・プロジェクト”の村を紹介します。
バントゥール県バングンタパン村ボトクンチェン集落といいますが、背の高いサトウキビ畑の奥に位置するため、外部からは被害の様子が分かり辛くなっています。このことは、CODEの第一次レポートにも触れておりますが、農村地帯に被害をもたらした今回のジャワ中部地震の特徴といえるでしょう。この村は、全体が壊滅的な被害を受け、ほとんどの建物が残っていません。”RT(エルテー)という、25世帯が暮らしている小さな規模の集落で、全住民の人口は108人です。内訳は、21軒が全壊、4軒が重度の半壊です。その4軒のうちの一つであったムジさんが被災翌日から立ち上がり、村の被災状況の調査などに入り、同時にPOSKOをつくって救援活動にも奔走されたそうです。
先日、レポートN0.4で触れましたロモ・マングンの秘書をされていたディニーさんの友人がこのムジさんということで、ディニーさんが事実上故ロモ・マングンの直弟子であるエコさんに相談をし、被災直後からこの集落を訪ね、調査を重ね、時間をかけて村人との信頼関係を築き、再建に協力するようになったのです。エコさん、ディニーさんはクリスチャンですが住民はイスラム教徒です。
宗教を越え、ゴトンロヨンの精神で支え合おうとしている姿には、私たちも学ぶことがあると教えられました。”はじめの一歩”は、ジャワの人たちのみならず、ひょっとすれば私たち日本に住む者にとっても大切な一歩かもしれません。(家族構成など、詳細なデータがまもなく送られてくることでしょう。入手しましたらまたご報告させて頂きます。)
ジャワ中部地震第二次調査団レポート No.6
「はじめの一歩」No.5
”エコ・プロジェクト”を担う一人のエコさんは、いつも穏やかな口調で熱い思いを語ります。彼は故ロモ・マングンの弟子でもあったので、ロモ・マングンの思想を受け継いでいるようです。エコさんの人生そのものが、ロモ・マングンの生き方と、重なっているように思えました。
わずか数時間のことでしたが、エコさんの素晴らしいところの一つは、自分の我だけで事を進めないところです。バンブーハウスを専門とするエコさんは、できればもっとたくさんの竹を使用して、住宅を再建したいと考えるところですが、村人の”社会的地位に対する心配”を十分に配慮し、壁素材としては竹を使うのではなく、厚さ4mmの新建材ボードを使用しています。構造上重要な柱はヤシの木を使い、屋根を支える骨組みの一部は竹を使い、また雨期などの水の影響を受けやすい事も考え、地面と直接接している部分は、地から20㎝ほどかさ上げするというように細かい配慮も随所に施されています。竹・木材は、防水や防虫のために、時間をかけて、処理をします。こうした事前処理をすれば、30年間住宅が保てるそうです。
もう一つ、エコさんが設計する住宅の特徴は、重要な家の駆体となる部分の柱が、アーチ状の作りになっており、何カ所も力が分散できるような構造になっていることです。住民の一人は、柱と柱をつなぐ横サンに、”2006,5、27”と刻んでいたのが印象的でした。こうして住民一人ひとりの思いを刻んで、この村の”はじめの一歩”がスタートします。みなさん、暖かく見守って下さい!そして災難続きのジャワの人たちを支援して下さい。
ジャワ中部地震第二次調査団レポートNo.5
「はじめの一歩」No.4
CODEが実施していく耐震住宅再建プロジェクトをエコさんの名前と環境のエコのゴロ合わせとして”エコ・プロジェクト”と名づけました。8月4日の読売新聞でも紹介されましたが、まさにエコ・プロジェクトにふさわしく、地域で育った竹やヤシの木を建築資材とし、地震で壊れた家から使えるレンガやコンクリート・ブロックや材木などを再利用します。さらには小さな子どもたちやお母さん方までもが再建に重要な人材として担い、加えて各家庭の財産である牛・鳥・アヒルから畑で栽培している野菜、村の中で育てている果実などなど、まさしく”地域循環型再建活動”として”はじめの一歩”を踏み出しました。特に、住宅を建てる時にその地域で育った資材で作られる家は、その風土に馴染んでとても強い家になるそうです。日本では、2004年10月に発生した新潟中越地震がそれを証明する顕著な事例だと言えます。毎年半年近くは豪雪に包まれる厳しい環境で育った木材を使うから、あの地震でも壊れなかった家々が少なくありません。
先述したように、この国ではレンガ造りの家に住むことによって社会的地位が高く見られるそうですが、ただレンガを積み上げただけの構造で、レンガとレンガを接着するセメントは、およそセメントらしくなく、泥を固めただけの素材であったり、主要な部分には鉄筋さえ入っていないという実態で、とにかく驚かされます。竹やヤシの木を活用した家造りの技術は目を見張るものがあるのに、どうしてレンガ造りとなるとここまでずさんなのか、理解に苦しみます。今回の痛みを教訓とし、地域にあるあらゆる財産に誇りを持ち、”エコ・プロジェクト”を完成させたいものです。このことが、きっと村の輝かしい未来を築く”はじめの一歩”となることを願っています。
ジャワ中部地震第二次調査団レポートNo.4
「はじめの一歩」No.3
私たちCODEは、今後、バントゥル県バングンタパン村ボトクンチェン集落で、耐震住宅再建プロジェクトを予定しています。近くで手に入る竹やヤシの木を使い、家という建物を再建するだけでなく、暮らしを再建するプロジェクトです。
何人かの人を訪ね歩いた結果、”この人こそが・・・”と思う人に出会えました。彼はエコ・プラウォットさんと言う方で、今は亡きロモ・マングンの弟子の一人です。ロモ・マングンという方は、建築学を専門とする方で、以前は大学の教授をされていた期間もありますが、その後、自らの選択で大学機関を離れ、川沿いのスラム開発に取り組みました。スラムの町に魔法をかけるかのごとく、自然と共合したみごとに美しいバンブーハウスの町をつくりあげたそうです。ロモ・マングン氏の思想は、家の再建ではなく、暮らしの再建であり、そして、暮らしの再建を通して、そのスラムで暮らす人々が夢や希望を持ってその先の人生を生きていくことでした。
彼の実績は、インドネシア国内で多くの人々に認められており、同時に作家活動をされていた方でもあったので、他界後は、街中の書店に”バンブーハウス”という書籍が軒なみ並んでいたそうです。きっと、ロモ・マングン氏も、スラムの中へ、住まい方の”はじめの一歩”を届けた人なのではないでしょうか。
インドネシアは、素晴らしい学びの宝庫です!このプロジェクトを通して、私たちこそが言葉に換えられない貴重な収穫を得ています。
ジャワ中部地震第二次調査団レポート No.3
「はじめの一歩」No.2
バントゥル県イモギリ村の集落の中で、「この奥に、まったく被害を受けなかった住宅が1軒ある」と聞き、早速その家まで案内してもらいました。グシャグシャに崩れ果てた家々の中に、そこには、一軒、無傷の家があり、それは竹と木材で作られたジャワ伝統の家でした。
その家の娘であるNapingさんは、日本語を勉強したことがあるらしく、”日本人が村に来ている”と聞きつけて、出先からバイクで駆けつけてくれました。「ジシンマエ、ワルイイエ、ジシンゴ、イイイエ」とNapingさんは語ります。ここインドネシアは、オランダ植民地時代のあおりがあり、上層階級がレンガの住宅に住んだことから、レンガ造りの家と竹・木材築の家とで税金が区別されるほど、住宅の資材によって社会地位が分けられてしまうそうです。
そんな社会背景の中、地震前は、Napingさんも自分の家が竹と木材でできていることを恥ずかしく思っていた。でも、結果的に、竹・木材で築いた家だったからこそ、耐震性が高く、家はビクともせずに、家族もみんな無事だった・・・と大喜びで話すのです。とても明るく、ワッハワッハと笑いながら話す彼女の姿に、正直なところ、”周りでこんなに被災している人が居る前でこの光景は大丈夫なものなのか?”と日本人的な発想で心配してしまいましたが、周りの目も温かく、どうやら、大らかな文化のようです。
住民たちは、社会的地位を選ぶのか被災時の命を選ぶのか・・・という選択の狭間にいるように見えます。こんな時、”はじめの一歩”で誰かのアドバイスと後押しがあれば、”耐震でより安全な家に住む”という道を選んでいけるのではないでしょうか。
ジャワ中部地震第二次調査団レポートNo.2
「はじめの一歩」No.1
インドネシアは約17,000の島からできていると言われていますが、その一つ一つの島に独自性があるそうです。今回の地震被災地であるジャワ島は、とても大らかな人が多く、そして、心地よい距離間をもってくれる居心地の良い場所でした。まずは、今回の震災で最も被害の大きかったバントゥル県のレポートからお送りします。
バントゥル県に入ると、ところどころに、村人が自力で建てようとしている仮設住宅を目にします。村中がほぼ全壊の中、よく見ると、共通して壊れていないものがあります。それは、洗面所とトイレのスペースです。このような狭い空間だけが、崩壊されずにポツンと残っているのです。そして、村の人々は、その残されたトイレ・洗面所を中心に仮設住宅を建てていました。残ったものをできるだけ再利用しながら、仮設住宅を作っているようです。トイレだけでなく、再利用できるものは何でも利用しています。
レンガのつなぎが悪い建築方法が原因で崩壊した住宅がほとんどだったらしく、壊れた住宅の瓦礫の中には、無傷のレンガがたくさんあったようです。どこのうちも、壊れた家屋からレンガを拾い、もう一度、軒先に綺麗に並べています。まるで、他の町からレンガを購入してきたかのように見えました。
今、日本国内でも減災運動が推進されています。素人的な発送かもしれませんが、まずは、住宅の一番小さなスペースであるトイレだけでも耐震を強化するのも”命を守る”一つのいい方法なのかもしれません。