ジャワ中部地震第二次調査団レポートNo.1

「はじめの一歩-序章」
 ジャワ中部地震第二次調査団のレポートとして、”はじめの一歩”というタイトルで、明日から数回にわたって発信させて頂きます。地震から2か月が経過し、いよいよこれから復興!という矢先に、西ジャワにまたしても、600人を超える死亡者を数える津波災害にも襲われてしまいました。残念ながら2004年の大津波の教訓が、必ずしも活かされていないようですが、ジャワ島のみならず大小1万7千の島からなるインドネシアは地震の巣でもあります。それだけに今後は、5月27日の地震、7月17日の津波を教訓として「減災」に力を入れて欲しいと願うばかりです。
 さて、地震の被災地に入って強く感じたことは、この地域には災害直後から「POSKO」という救援センターができるしくみがあること、その後の復旧の段階でもゴトンロヨンというすばらしい支えあいのしくみがあること、またワヤン・クリッというすばらしい伝統文化があること、さらには日本に昔から伝わる在来工法による木造住宅のように、竹やヤシの木を使ったジャワ伝統の住宅文化があること等々、今こそ日本がこのジャワから学ばなければならないこと
がたくさんあるのではないかということです。
 プランバナンヒンズー遺跡やボロブドゥール仏教遺跡から醸し出される悠久のときと合わせて、ジャワの人たちの持つやさしさや間の取り方が、よそ者には大変居心地のよさを感じさせてくれます。災害という厳しい試練を受けましたが、きっとジャワの人たちは、伝統文化を大切にしつつも、新しいものを創りだされるだろうと確信します。災害後の再建のすばらしいモデルとして、これから世界中の注目を受けるのではないかと期待が広がります。
 今年、24万人を超える死者をだした中国唐山地震から30年となり、その経済復興の成果を評して「唐山の奇跡」と報じていますが、災害後の自力再建のモデルとして「ジャワの奇跡」と有史に残るような気がします。しかし、スマトラ沖津波・パキスタン地震・そしてジャワ地震・パンダガラン津波と災害が相次いでいるために、ジャワ地震への関心が薄いような気がします。是非、もう一度西ジャワも合わせて、ジャワの人々の「暮らし」を少しだけ支えて下さい。それが”はじめの一歩”となることと念じています。最後に、今回の地震と津波災害に対して、ジャワ在住の日本人やそうした人たちを支える在日本人の人たちが少なくないことをお伝えしておきます。合わせて是非、こうした活動をもご支援して下さい。

ジャワ島西部沖地震・津波現地レポート No.3

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津波現地レポートの最終版です。村井は昨日ジャワから帰国しました。次回からジャワ島中部地震関連のレポートをお届けします。
<正確な津波の被害は?>
ところで今回の津波による死者は約700人と日本の新聞では報道されたが、どうも下方修正が必要なのかもしれない。津波の高さも50cm~1mという説と5m~8mという説もある。どうも被害の状況からは、最大2mくらいのようだ。死者の数は、最も被害のひどいバンガンダランで413人だが、その他の地域ではそれほどカウントされていない。ただ、被災地から300kmも離れたジョグジャカルタの海岸でも3名が亡くなったとこちらのニュースでは報じられたようだ。バンガンダランからジョグジャカルタへ100km~150km離れた同じ中部ジャワ州のチラャップ(CILACAP)の海岸を観ると、ここも小規模の海水浴場のようだが、海岸沿いの施設や海の家などが壊れていた。この海岸から数km手前の漁港は何も被害がなかった。こうして同じ時の津波でも被害の格差があることが、津波の怖さを物語っていると痛感する。
さてこの砂浜には「津波に注視しましょう!」という真新しい看板が立っている。内容は、津波発生時の兆候と対策が簡潔に記されている。果たして効果があったのか?接した日付を観ると津波のあった”7月17日”となっている。後から建てたことを証明しているようなものだ。とはいえ、いずれにしろスマトラ沖津波以来、大きな課題になっているのは「津波早期警報装置」の設置である。国連世界防災会議で先進国が約束してからもう1年半が過ぎた。今回の津波は完成間近というところで起こったようだが、とにかく急がなければならない。警報装置が設置されても次に重要なのは、その情報を住民にいち早く知らせる方法である。これは各国、各地域が主体的に取り組まなければならない。何故ならば、揺れを感じない地震でも津波は来るからである。
残念ながら日本でも、地震が発生した後、「津波の心配はありません」というニュース速報がでるまでテレビを見ている者がほとんどだそうだ。テレビを見ている数分間のうちに津波が来たらどうなるのだろうか?こうして考えると、いくら一人ひとりが対策を講じていても、地震があったということが伝わらなければ、逃げようがないのである。日本では昔から「地震・雷・火事・親父」という怖さの順番を表現した言い回しがあるが、是非「津波」をトップに持ってくるべきだろう。
■現地地方政府バンガンダラン対策本部での被害状況(7月28日午前6時現在)7つの集落で、死亡者413人、重傷171人、軽傷235人、行方不明者34人、避難者4514名。他に財産の被害として、バイクや力車そして牛・水牛・山羊・鶏・アヒルの被害まで詳細にあがっている。ちなみにこちらではバイクは大変高価なもので貴重な財産。(村井 雅清)

ジャワ島西部沖地震・津波現地レポート No.2

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<10日後の避難生活>
さて、津波から10日経過した被災地は、一応に落ち着いた雰囲気ではある。ただ、家を無くし簡易テント(竹の支柱にブルーシートで覆っているだけ)で暮らしている人たちにとっては、もう限界だろう。不安の一つは、10月になれば雨期に入ることだ。10月までまだ十分時間があるのだが、このままのテント生活からいつ脱出できるのかという不安だ。災害直後は、ともすれば安全よりも安心感を与えることが大切だ。ある日本のNGOがこの状態を憂慮し、いち早くしっかりしたテントの供与を検討していると聞いた。まさに、被災地のニーズにあった援助の一つだろう。同じく日本から来ていて嬉しくなった。
帯の空間だが、みんなそれぞれでその場で煮炊きをしている。日本の災害時避難所では考えられない光景だが、災害救助法に「簡易調理施設」の設置が認められているのは理解できる。いわゆる「はじめの一歩」としての自立生活を促すという意味では、凄いことだなあと感心させられた。また乳飲み子を抱えたお母さんは、人目も気にせずオッパイをだして赤ちゃんに授乳させていた。
この村では死者74人、行方不明者7名、乳児が41名、6歳~15歳が70人だそうだ。こちらでは、こうした基礎的なデータがしっかりしているのが特徴だが、その原因は各地域にある「POSKO」という地域の最小単位にもある救援拠点のためだろう。また、このPOSKOは、被災地外の州政府のPOSKOというのもあり、赤十字関係者や警察関係者のPOSKOもある。今回程度の被害ならば、これほどPOSKOが張り巡らされていれば直後の緊急救援体制も、その後の復旧・復興もそつなく、網羅的に行われるだろうと推測できる。

ジャワ島西部沖地震・津波現地レポート No.1

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5月に起こったジャワ島中部地震の支援プロジェクトを決めるため、7月24日よりジョグジャカルタ入りしている事務局長の村井が、7月17日発生したジャワ島西部沖地震・津波の被災地を27日訪れました。現地レポートが届きましたので、3回に分けてお伝えします。
<砂浜だけでは津波の被害が見えない!>
「随分綺麗に片づけられている!」というのが、10日後の被災地に訪れた現地案内役のKさんの言葉。2004年のあのスマトラ沖津波災害の直後を見てきた私の目にも、「ほんとに津波があったのか」と思うほどの片付け方である。昨晩というか、27日の午前0時半頃にジョグジャカルタを出発し、午前6時過ぎには西ジャワ州パンガンダランの海岸に到着した。至る所で砂浜のヤシの木が倒れているというような光景は見えない。数千人の観光客や住民を一気に襲った海辺に打ち寄せる波は、決して穏やかとはいえないような荒々しさを感じさせていた。住民の証言では、「あの向こうの岬の先端あたりまで一気に水が引いた」ということらしい。砂浜から2㎞くらいだろうか。
同行した者が起きるまで、少し内陸部を見て廻った。中心街にちかい海岸はリゾート地らしく、平屋もしくは2階建てのホテルが林立している。津波のあった夕方には、きっとまだ砂浜で遊んでいた人たちも多かったのだろうと推測する。2年前にスリランカの海岸で見たのと同じように、住宅の基礎部分だけが残っているという更地のような状況があちらこちらにある。そんな中で、壊れたブロックと鉄筋とを分けている一団を見る。一方一人の50歳代後半くらいのおじさんが、ガレキの中を丁寧に片付けている。きっと大事なものを探しているのだろう。
砂浜に障害物がないほど、内陸部のある地点では津波の勢いが増すのだろうか。「何故、このブロック塀が壊れるの?」というところも見受ける。こういう状況を見ると、地震も怖いが、津波は瞬間に何もかもさらっていくという恐怖感がある。一瞬はかすかな生きる望みも断ち切られるのだろう。長年、その土地で、その海とともに暮らしてきた人たちでさえ、「もう海の側には住みたくない」という由縁かもしれない。(村井 雅清)

ジャワ島中部地震ニュース第46報

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.28
 ジャワ島のジョクジャカルタ市には4つの国立大学と63の私立や専門大学があるそうだ。まさに大学の町である。そのひとつである国立ガジャマダ大学(UGAM)は、今回のジャワ中部地震の復旧・復興の中心的存在である。日本の神戸大学や九州大学とも学術交流を以前から行っていたそうで、今回のこの地震でも様々な協力、支援を行っている。大学の工学部の教授にお話を聞いた。ちょうど前日に神戸大学の教授も来ていたそうだ。まだはっきりした事は決まっていないようだが、政府からUGAMが先頭になってやるように言われているそうだ。現在は、被害家屋の調査を中心に今後の仮設住宅や学校の再建などを考えているそうで、モデルになる学校の設計図も見せてくれた。また、耐震の技術指導やKKN(課外授業)の学生を通じて耐震や建築基準の遵守などの意識喚起なども考えているという。
教授は、「地震の経験のある日本からは再建の過程の中で我々の足りないを部分を教えてほしいと。。」と語っていた。11年前の阪神淡路大震災からの復興の智恵や経験を是非「KOBE」から発信してもらいたい。そして今、復興へ向けて歩み始めてた中越からもメッセージを送ってもらいたいものだ。日一日と過去のものになりつつあるジャワへ向けて。。。
*吉椿雅道のつぶやきレポートは今回で終わります。
7月24日から30日まで、CODE事務局長の村井雅清がジョグジャカルタ入りしますので、また新しいレポートをお届けします。

ジャワ島中部地震ニュース第45報

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.27
 ガジャマダ大学には、約5万人の学生がいる。5月27日の地震直後、たった6人で始めたボランティアも今は4000人の規模になっているという。一割近くの学生達が何らかのボランティア活動に携っている事になる。その最初の6人のひとりであるハシくん(20)は、いつの間にかリーダーになってしまったという。おとなしい性格ではあるが、大学内のセンター(POSKO)で動く60人の代表として動いている。センターでは物資班、情報収集班、輸送班、無線班などと役割分担して活動している。工学部の学生は担当教授と被災地で家屋の被害調査(被害の程度によって三色の紙を張っている)を行ったり、教育学部の学生は子供たちの歌や踊り、お絵かきなどでトラウマケアにあたり、今後はトラウマセンターを作るそうだ。 

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そしてインドネシアの大学には、KKN(カーカーエヌ)という課外授業のシステムがあり、夏の2,3ヶ月間農村部などに学生が入り、住民と共に地域の問題を考えていくそうだ。ガジャマダ大学はじめジョクジャカルタの各大学では早速このKKNで被災地に学生を派遣している。またKKNのOBなどもすでにある地域住民との関係性を生かして動いてるともいう。地元の銀行などの企業も学生たちの為にTシャツなどを作って応援している。企業が学生を支え、学生が被災地を支える。インドネシアのように災害前から学生が地域に入るようなシステムが日本にもあるといい。被災地から学ぶ事は多い。。。

ジャワ島中部地震ニュース第44報

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.26
04052006 422-s.jpg 世界一人口密度の高い島、ジャワには子供が多い。この地震の被災者の4割は子供たちだと言われているが、それも頷けるほど子供の姿をよく見かける。被災地バントゥル県には、小・中・高、合わせて約1000の学校があるといわれる。公立、私立、イスラム系など様々だ。その多くは校舎が全、半壊して、今は校内の空いたスペースに仮設のテントを立て、子供たちはそこで授業を受けている。
 バントゥル県のSEYEGAN小学校は80年代に建てられた校舎は全壊した。生徒数172人、教師14人、6クラスのこの学校はちょうど中庭に仮設のテントを建てたばかりだった。この学校は、昔、地域でお金を出し合ってゴトンロヨン(相互扶助)で建てたそうで、250万RP(約300万円)かかったそうだ。当然、非耐震性のものである。
 政府が学校再建をやるというが、当然、公立校が優先されるだろうと先生たちは言う。イスラム系の学校は、イスラム系財団がやるだろう。残りの私立の学校の再建を国際機関やNGOがやる事になるであろう。JICAも数百校の再建を考えているようである。
 立ち話で話しを聞かせてくれた先生たちは口をそろえて「俺たち教師も被災者なんだ。。」、「今は自分の事しか考えられない。」と。。それでも先生たちは、「こうやって集まってようやく冗談が言えるようなったよ。」、「やっと笑えるようになったよ。。」とつぶやいたのが、印象的だった。。。。

ジャワ島中部地震ニュース第43報

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.25

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バティック(ろうけつ染)は女性の仕事である。という事は、当然職人さんも女性という事になる。イモギリのパジマタン村に住むナルジョさん(70)もそのひとりだ。8歳からバティックを始めたというその道62年の超ベテランだ。そのナルジョさんは、現在路上で暮らしている。家が全壊したからだ。。。近所の人たちと道路に雨よけの簡単なシート屋根のテントにゴザの上にマットレスや布団を敷き、寝泊りしている。9人家族で、旦那さんは、この近くにある歴代の王族の墓守をしていて、ナルジョさんは、全壊した自宅でささやかな商店を営みつつ、奥の工房で地震の前日までバティックを作り続けてきた。地震のあったその日、ナルジョさんは寝ていて、逃げ出す際に額や左手を怪我したそうで、今でも傷跡が痛々しく残る。潰れずに残った奥の工房兼台所には、バティックの道具であるチャンティンなどが散乱していた。。

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ナルジョさんは自分で作った見事なバティックのサロン(腰巻スカート)を身に付けていた。見事な模様が描かれていて、手の込んだものは2ヶ月かかるそうだ。自分が身に付けるために自分で作るという当たり前の暮らしがそこにはあったんだなと思った。「場所があればまたバティックをつくりたいね。。。」と語るナルジョさん。。。
別れ際、また素敵なバティックを作れるようになるといいですねと声をかけると、
「あなた、何言ってるんだい!あたしが作るバティックは素敵に決まってるじゃないか!!」と強気な発言で笑ってくれた。。自分の腕に誇りを持っているんだな。。歴史の詰まったナルジョばあちゃんのあの皺くちゃな笑顔は忘れられない。。。本当に心から笑える日はいつ来るのだろうか。。。

ジャワ島中部地震ニュース第41報


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【写真】絵付けをするワヤン職人さん
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【写真】伝統工法で建てられたスプリさんの工房

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.23
 ワヤンの街、バングンジウォでワヤン人形工房を経営するスプリ(46)さんは、兄のサギオ(53)さんなどの職人さんを5人抱えている。竹や木材を多く使った伝統工法で1971年に建てられた工房はほとんど無傷だった。
地震後、スプリさんは被害にあった職人さん達の自宅を訪ね、救援活動を手伝ったそうだ。このワヤンが全盛の頃、この工房には40人の職人さんがいたそうだが、今は5人になってしまった。このバングンジウォ集落でも当時100人いた職人は今は50人ほどに減ってしまった。被災したスプリさんの工房の職人さんは、未だ仕事に来る事が出来ない。また素材の水牛の皮の業者も被災しているという。
 スプリさん、サギオさんは、この道30年以上のベテランだが、近年のワヤンの衰退のを憂う。」「ワヤンの演じ手を育てる学校はあるが、作り手を育てる所がないんだよ。」、「25年後にはただの記念物になるだろう。。。」と。 
  
 そんなワヤンの影絵芝居の物語の中には時の社会を風刺したものや災害の教訓のようなものもあるという。そんなワヤンクリッ(影絵)を使って子供達に防災教育を伝えていきたい。いかにいのちを守るかを。。そして将来子供達の中から職人が出でくる事を切に願う。。。

ジャワ島中部地震ニュース第40報


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【写真】ワヤンを操るスタンティーさん。
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【写真】ワヤンクリッ(影絵人形芝居)

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.22
 インドネシア、ジャワ島には、ワヤン・クリッと呼ばれる影絵人形芝居がある。現在でも村の婚礼や割礼、祭りなどの行事の際に夜通しで行われ、屋台や夜市が出て子どもから大人まで賑わうという。元々は、影絵ではなかった為か、水牛の皮で作られた人形には、非常に細かい細工が施されている。皮に下地を書き、切ったり、穴を開けたりして型を作り、その後に絵付けをするという手間のかかる仕事だ。小さい人形で三日かかるという。その人形の職人たちも多く被災した。
バントゥル県の南西部十数㎞のバングンジウォという集落は、ワヤン職人の街だ。そのひとりスタティーさん(37)は、この道15年の職人だ。工房兼自宅はそれほど被害はなかったそうで、僕達が訪ねた時は仕事をされていた。「ワヤン作りだけじゃ、メシ食えないからこれ作ってるのさ。。」と本皮細工を作っていた。そしてこれまで作ってきた人形を数々を見せながら説明をしてくれた。
 現在、ジャワではワヤンのような伝統芸能に若者が興味を示さなくなり、衰退の危機にあるという。スタティーさんは「ワヤン作りも俺の代で最後だろうな。。。」と寂しそうに語った。それでも「伝統を守るために作り続けるよ。」とも言っていた。
 地震によってこのバングンジウォの職人たちは自宅が被害を受けて、未だ仕事に出て来る事が出来ない。この地震でワヤンの衰退に拍車がかかると言われている。被害は様々なところに影を落としている。。。