月別アーカイブ: 2006年8月

ジャワ中部地震第二次調査団レポートNo.14

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「はじめの一歩」No.13
 バントゥール県セウォン市プンドウォハルジョ村バンドゥン集落で進められている「生長する家」の構造に付いて説明をします。
以前からあった家の跡地に新しい間取りを考えてもらい、最初に建てるのに都合の良い一部屋を選んでもらいます。その際、最初の一部屋の大きさが規定(3m*6m)よりも大きくないことが最低条件です。基礎はそのまま使い、ドア設置部分を除いてレンガを50cmの高さまで積み上げます。これは雨季対策です。窓枠と窓を所有している住民はそれらを好きな場所につけることが出来ます。床は地面から最低でも10cm高くし、セメントで固めます。壁は竹で編んだ筵のようなものを更に竹で枠を作り補強して取り付けますが、ジョグジャカルタではよく使われるものでもあり簡単に手に入るものです。柱には強度の強い竹を使用、屋根の骨組みも竹で組み、その上に各自所有している瓦をのせて出来上がります。
今ではトイレの修復、汚水の問題、村内の道の改修、公園の設置に至るまで村人の中からアイデアが出るようになったそうです。
上記プロジェクト(「成長する家」プロジェクト)は賛同者を募っています。
ご支援の振り込み先は以下の通りです。
 三井住友銀行 春日部支店(店番号005)
 普通預金 口座番号0640542
 名義/カサハラ リエ
 *振込者名の前に【地震】と明記して下さい。

ジャワ中部地震第二次調査団レポート No.13

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「はじめの一歩」No.12
 今回は、災害後の暮らし再建のはじめの一歩として、注目すべき取り組みをしているバントゥール県セウォン市プンドウォハルジョ村バンドゥン集落をご紹介します。
 この集落は、229世帯(3つのRT:隣組から成り立つ集落)で構成され、全壊の世帯が21件、半壊の世帯110件です。まずはじめの一歩として、その中で自力再建が難しい世帯を集落会議で選出し、その順番によって仮設住宅が建て始められています。住民たちの会議は、時には、真夜中まで続きます。ただ仮設を建てるのでは、なくその仮設がその後の住宅再建につながるような工夫が住民たちの提案によって進められているようです。例えば、「以前の建物は日当たりが悪かったから今度はこの向きに建てたい」とか、「この場所で仮設住宅をスタートさせれば、再建の時にも十分に広げる敷地が残っている・・・」だとか、それらの言葉の中に、将来の希望に向けての発展性があり、先の光が見えてくる様子がたくましく思えます。彼らはこの仮設住宅を「成長する家(rumah tubuh:ルマ トゥブ)」と呼んでいます。
 地域の結束が強いジャワ文化の中では、以前は当然のように、住宅の中に近所の人々が寄り集まれるスペースがあったようです。そのような環境が無くなってしまった今、住民たちの提案により、コミュニティスペースの一環として”公園”が建設されることになりました。震災後小さな家で暮らす中、今までのように子ども達の遊び場所になっていた居間、テラスが無く、同様に主婦達も語り合う場所が無く、複数の親子が語り合える場所があれば、という気持ちがこの”公園”の発想に繋がったようです。他人がトラウマを解消してあげるよりも、自分達で互いにトラウマを解消出来ると言うのはすばらしい事だと代表のKさんは語ります。
仮設住宅の集合による新しい町づくりのスタートです!
上記プロジェクト(「成長する家」プロジェクト)は賛同者を募っています。
ご支援の振り込み先は以下の通りです。
 三井住友銀行 春日部支店(店番号005)
 普通預金 口座番号0640542
 名義/カサハラ リエ
 *振込者名の前に【地震】と明記して下さい。

ジャワ中部地震第二次調査団レポート No.12

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「はじめの一歩」No.11
 7月17日に西ジャワ州パンダガラン地域を中心に襲った「地震津波」の被災地でも、「POSKO」と書かれた看板や、横断幕や、つい立てを目にします。日本語で訳すと「詰め所」というくらいの意味だと説明を受けるのですが、実にこれがすばらしい役割をしているのです。もちろん中部ジャワ地震の被災地ジョグジャカルタ特別州でもよく見かけます。
 
 POSKOは何もない平時にはなくて、災害が発生すると立ち上がるようです。災害直後の救急医療から、水や食料の配布、あるいは暮らしの相談、防犯機能などなど多様な機能を果たしています。行政の対策本部には○○POSKO」、警察には「ポリス・POSKO」、医療関係には、赤十字のマークと「POSKO」と表示しています。被災者の避難所にも「POSKO」と表示しています。さらには、RT単位やKKN単位でもPOSKOと掲げてある場合があります。つまり災害に遭遇しても、被災当事者や近くの住民やそれこそ通りがかったボランティアたちが「ここは救援のための、ボランティア活動のための詰め所ですよ!」と掲げていることになります。
 パンダガラン海岸沿いの道路に、何やら書いた看板が立てられていました。「あなたの、どのような支援でも、歓迎します。」というような意味だそうです。至る所にPOSKOがあって、このような看板に従って支援が来れば、直後については何も心配は要らないように思いますが、やはり援助の格差ができるのでしょうか?
考えてみれば、日本でもすぐさま被災地に多様な「POSKO」ができ、動ける者が率先して救援活動を始ることができれば、これまでとは違った災害ボランティア文化を生み出すのではないでしょうか。
 
 折しも、日本政府は「減災のための総国民運動」を呼びかけていますが、各地域におけるコミュニティの再建については、地域の人たちが最もよく知っている訳だから、さまざまなことを地域に任せて行けば機能的にコトが進むのではないかと思うのです。災害後の復興は、地方分権でやる方が現実的だという議論がありましたが、このしくみはさらに「地域分権」をボランタリー型と言えないでしょうか?

ジャワ中部地震第二次調査団レポートNo.11

「はじめの一歩」No.10
 第一次のレポートでも紹介しましたが、中部ジャワには大学が多く、「KKN」(カーカーエヌ)というカリキュラムとして組み込まれているしくみがあります。これは、大学生が村に入り、各々が勉強している専門分野に関連したことを1か月から2ヶ月間にわたって実地研修をすることをいいます。もう、8月までには各大学のKKNも終了します。「はじめの一歩-NO8」で、「できることなら、しばらくここに住んで学びたい。」と書きましたが、まさに大学から村へのインターンシップのような形態です。
 偶然地震が起きたため、今年は災害心理とか、災害後のコミュニティづくりとかを学んでいる学生もいます。また工学部系の学生なら、耐震の住宅再建ついて現場で手伝いながら学んでいる学生もいるようです。ただ、カリキュラムとはいえ、活動資金が大学から提供されるわけではなく、それでいて住民は「水が使えないから井戸を掘って欲しい。」というような要望もだされるので、学生も困っていました。あるKKNの現場に行くと、日本のNGOと知ってか、一生懸命自分達の活動をアピールする学生もいます。
 こういう学びは、自主的に行うから意味があるとご指摘を受けるかも知れませんが、日本でもこのような仕組みを積極的に取り入れたらどうかと思うのですが・・・・・・。

ジャワ中部地震第二次調査団レポートNo.10


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「はじめの一歩」No.9
CODEが支援するこの村には、インドネシア国内の団体から、企画の同じ仮設用の資材(ベニア板や屋根用スレート)が配給されたそうです。しかし住宅のサイズがまちまちだということもあり、どのように村人に公平に支援を届けるべきかとRT長(集落の長)は頭を悩ませているようです。そこで、みなさまの支援で建設する25世帯の住宅は、基本的には同じ仕様なので、この”エコ・プロジェクト”に使おうと、村の人々は話しています。
この話しを聞いて、村の人々が大切にしているものは、”助けあいのゴトンロヨン(相互扶助)”と同様に”みんなが幸せになるための公平性”だと感じました。また、ここでの田んぼは3毛作で米が作られているため、年がら年中、田植え・稲刈りを繰り返しています。だからこそ”ゴトンロヨン”が発達するのですが、そうした支えあいのコミュニティは、一見何でもないような村のPOSKO(寄り合い詰め所)となる竹製の簡易あずま家が役割を果たしているようです。村人がたくさん集まっての会議などは、村長さんの家を使うようです。
余談ですが、ジャワの農村地域の村々では、牛小屋がとってもお洒落で魅力的なことに本当に驚かされます。地面から1m弱の石造り(時々、上面がウェーブになっているものもあり)を基礎とし、その上に数10本のバンブーが柱として建てられていて、大げさに言うと日本でなら、そのままカフェの内装になりそうなデザインです。住民に聞いてみると、村の中にある石を積み上げ、村にある竹を重ねたとのことで、特別な費用がかかっているわけでもないようです。でも牛は大切な財産なので、神経を使っているのかもしれません。               

ジャワ中部地震第二次調査団レポートNo.9

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「はじめの一歩」No.8 
                        
 さて”エコ・プロジェクト”ですが、いわゆる住宅建設に欠かせない大工さんや左官さんはどうするのか?という疑問を持たれる方もおられるでしょう。集落によっては、クラテンという北部の地域から大工さんに来て貰って、村人を指導し、みんなで建てていくという方法をとるところもあります。
 
 CODEが支援するボトクンチェン集落は、大工さんは雇いません。エコさんが総監督をし、現場監督はRT長が、その下に2~3人の経験者がいて進められます。その他にはムジさん(村の住民で直後から救援活動を開始した人)やディニーさん(故ロモ・マングンの秘書をしていた人)もサポートしていますので安心です。働き手はこうして、みんなボランティアです。その代わりというか、食事は村の女性たちが引き受けてくれます。前にもジャワに詳しい人に聞いたことを思い出しますが、相互扶助のゴトンロヨンが発達しており、お金がなければないなりに支えあうし、貧しい人から優先的に支えるということなどが当たり前のように行われています。エコさんは、「こうしてみんなで支えあいながら再建することで、村の団結力が強くなるのではないか」と笑顔で話されます。
 エコさんが総監督といいましたが、決して自分が目立っているのではなく、あくまでも村の住民を主役にしておられます。つまり徹底して”黒子”に徹しているのです。エコさんと一緒に村の中を歩いていても、誰も村の住民は、軽く挨拶をするくらいで、決して特別扱いをしません。村のとりまとめは、RT長のスギマンさんという方がしています。こんな控えめなエコさんの姿に感銘を受けているのですが、こうしたコミュニティづくりができる秘訣がなんなのか?しばらくこの村に住んで学びたいほどです。

ジャワ中部地震第二次調査団レポートNo.8


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「はじめの一歩」No.7                         
 ジャワ中部地震の被害の特徴は、学校や役所、そしてモスクという公共施設が壊れているということです。中でも、深刻なのはモスリムの人たちの心の拠り所でもあるモスクの倒壊です。これからは、常に人がたくさん集まるモスクが壊れるようなことがあってはいけません。
一般住宅でも、ゴトンロヨンで再建していますが、当然モスクも村の人たちも関わって再建されようとしています。まだ、骨組みだけの段階ですが、柱はすべて竹が使用されているようです。
 さて、地震から2か月が過ぎましたが、村の人たちは今、テントで生活しています。一部けが人とか、高齢者のおられる家庭は、地元の団体から提供を受けた合板などを使った小屋を建て過ごしているところも見受けます。テントと言っても、ほんとにブルーシートだけというところが多く、長引く一時避難生活が心配です。聞くところによると、乳幼児には下痢症状が広がっており、また風邪から肺炎を伴っている症状も見受けられるという状態です。日中は、35度~40度と暑いのですが、夜間はビニールシート一枚で地面と繋がっているため、結構冷えることがその原因だとのことです。雨期までには、なんとか住宅再建が終わることを最優先にしなければなりません。
 ところで、被災地を廻っていると面白い光景に出くわします。ビニールシートだけのテントに、テレビとバイクが優先的に収納されていることです。バイクは高価な財産なのです。日本でならば、逆にテントに一番の財産を入れても、他の人に盗まれないかと心配になるところですが、ここインドネシアでは村に強盗が入ろうとしたら、村中の人々が力を合わせて追い払うそうです。これもまた”助けあい”です。人々が助け合うことで、それぞれに持っている力が何十倍、何百倍にも膨れあがることを見せられます。

ジャワ中部地震第二次調査団レポート No.7


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「はじめの一歩」No.6                         
 みなさまのご支援によって、進められる”エコ・プロジェクト”の村を紹介します。
 バントゥール県バングンタパン村ボトクンチェン集落といいますが、背の高いサトウキビ畑の奥に位置するため、外部からは被害の様子が分かり辛くなっています。このことは、CODEの第一次レポートにも触れておりますが、農村地帯に被害をもたらした今回のジャワ中部地震の特徴といえるでしょう。この村は、全体が壊滅的な被害を受け、ほとんどの建物が残っていません。”RT(エルテー)という、25世帯が暮らしている小さな規模の集落で、全住民の人口は108人です。内訳は、21軒が全壊、4軒が重度の半壊です。その4軒のうちの一つであったムジさんが被災翌日から立ち上がり、村の被災状況の調査などに入り、同時にPOSKOをつくって救援活動にも奔走されたそうです。
 先日、レポートN0.4で触れましたロモ・マングンの秘書をされていたディニーさんの友人がこのムジさんということで、ディニーさんが事実上故ロモ・マングンの直弟子であるエコさんに相談をし、被災直後からこの集落を訪ね、調査を重ね、時間をかけて村人との信頼関係を築き、再建に協力するようになったのです。エコさん、ディニーさんはクリスチャンですが住民はイスラム教徒です。
宗教を越え、ゴトンロヨンの精神で支え合おうとしている姿には、私たちも学ぶことがあると教えられました。”はじめの一歩”は、ジャワの人たちのみならず、ひょっとすれば私たち日本に住む者にとっても大切な一歩かもしれません。(家族構成など、詳細なデータがまもなく送られてくることでしょう。入手しましたらまたご報告させて頂きます。)

ジャワ中部地震第二次調査団レポート No.6


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「はじめの一歩」No.5                         
 ”エコ・プロジェクト”を担う一人のエコさんは、いつも穏やかな口調で熱い思いを語ります。彼は故ロモ・マングンの弟子でもあったので、ロモ・マングンの思想を受け継いでいるようです。エコさんの人生そのものが、ロモ・マングンの生き方と、重なっているように思えました。
 わずか数時間のことでしたが、エコさんの素晴らしいところの一つは、自分の我だけで事を進めないところです。バンブーハウスを専門とするエコさんは、できればもっとたくさんの竹を使用して、住宅を再建したいと考えるところですが、村人の”社会的地位に対する心配”を十分に配慮し、壁素材としては竹を使うのではなく、厚さ4mmの新建材ボードを使用しています。構造上重要な柱はヤシの木を使い、屋根を支える骨組みの一部は竹を使い、また雨期などの水の影響を受けやすい事も考え、地面と直接接している部分は、地から20㎝ほどかさ上げするというように細かい配慮も随所に施されています。竹・木材は、防水や防虫のために、時間をかけて、処理をします。こうした事前処理をすれば、30年間住宅が保てるそうです。
 もう一つ、エコさんが設計する住宅の特徴は、重要な家の駆体となる部分の柱が、アーチ状の作りになっており、何カ所も力が分散できるような構造になっていることです。住民の一人は、柱と柱をつなぐ横サンに、”2006,5、27”と刻んでいたのが印象的でした。こうして住民一人ひとりの思いを刻んで、この村の”はじめの一歩”がスタートします。みなさん、暖かく見守って下さい!そして災難続きのジャワの人たちを支援して下さい。

ジャワ中部地震第二次調査団レポートNo.5


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「はじめの一歩」No.4                         
 CODEが実施していく耐震住宅再建プロジェクトをエコさんの名前と環境のエコのゴロ合わせとして”エコ・プロジェクト”と名づけました。8月4日の読売新聞でも紹介されましたが、まさにエコ・プロジェクトにふさわしく、地域で育った竹やヤシの木を建築資材とし、地震で壊れた家から使えるレンガやコンクリート・ブロックや材木などを再利用します。さらには小さな子どもたちやお母さん方までもが再建に重要な人材として担い、加えて各家庭の財産である牛・鳥・アヒルから畑で栽培している野菜、村の中で育てている果実などなど、まさしく”地域循環型再建活動”として”はじめの一歩”を踏み出しました。特に、住宅を建てる時にその地域で育った資材で作られる家は、その風土に馴染んでとても強い家になるそうです。日本では、2004年10月に発生した新潟中越地震がそれを証明する顕著な事例だと言えます。毎年半年近くは豪雪に包まれる厳しい環境で育った木材を使うから、あの地震でも壊れなかった家々が少なくありません。
 先述したように、この国ではレンガ造りの家に住むことによって社会的地位が高く見られるそうですが、ただレンガを積み上げただけの構造で、レンガとレンガを接着するセメントは、およそセメントらしくなく、泥を固めただけの素材であったり、主要な部分には鉄筋さえ入っていないという実態で、とにかく驚かされます。竹やヤシの木を活用した家造りの技術は目を見張るものがあるのに、どうしてレンガ造りとなるとここまでずさんなのか、理解に苦しみます。今回の痛みを教訓とし、地域にあるあらゆる財産に誇りを持ち、”エコ・プロジェクト”を完成させたいものです。このことが、きっと村の輝かしい未来を築く”はじめの一歩”となることを願っています。