「日中NGO・ボランティア 研修交流事業に参加して」
神戸市外国語大学4年 小坂めぐみ
私はCODEの事務所でボランティアをさせていただいております
一点目は、CODEが支援している光明村を訪れたことです。
字が刻まれているのを見て嬉しくなりました。
二点目は、
7年前に四川大地震が起こったとき、
最後に、私がCODEでボランティアを始めたときは、
「日中NGO・ボランティア 研修交流事業に参加して」
神戸市外国語大学4年 小坂めぐみ
私はCODEの事務所でボランティアをさせていただいております
一点目は、CODEが支援している光明村を訪れたことです。
字が刻まれているのを見て嬉しくなりました。
二点目は、
7年前に四川大地震が起こったとき、
最後に、私がCODEでボランティアを始めたときは、
CODEは四川大地震救援プロジェクトの一環として、「
6月13日からは第2回日中NGOボランティア研修交流として中
第1回研修に参加した交流では学生の感想をご紹介します。
「四川研修の感想」 関西学院大学3年 成安有希
四川から帰ってきて1週間、
しかし、反対に苦しいことも多かった。
私は今回の四川研修で、「自分」
1週間、楽しかったり、苦しかったり、悩んだり、笑ったり、
本日5月12日は四川大地震が発生した日です。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
四川大地震 (2008年5月12日発生)
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「この6年を振り返って・・・」 四川大地震から今日でちょうど6年になる。M8.0の大地震によって44万平米(日本の国土総面積は約37万平米)という広大な被災地で死者・行方不明者約8万7000人という甚大な被害を出した。 震災の3日後に被災地に入り、約4年近く四川省で過ごしてきた。被災地まで片道3時間の道のりを何百往復しただろう。現在もCODEが支援している北川県光明村を震災後に始めて訪れた時、「日本鬼子」、「小日本人」と陰口をたたく人もいた。村の多くの人が日本に対していいイメージを持っていなかった。北京オリンピックを目前に控えていた事もあって、非常に厳しい規制もあった。だが、被災者一人ひとりの語る言葉に耳を傾け、ボランティアと被災者たちとガレキの片づけを毎日繰り返していくうちに村の人たちとの関係が変わっていった。後から聞いた話では、「ボランティア?日本人?何か企んでいるんじゃないか?」と思っていた人もいたという。 毎日毎日ガレキを片付け、被災者と一緒に汗を流すうちに、日本人と中国人という関係は次第に「ひとりとひとり」という関係になっていった。ボランティアには、言葉が出来ずに身振り手振りで何かを伝えようとする人、中国語を覚える人、黙黙と汗を流す人などがいた。被災者には、ボランティアの為にご飯を作り始める女性、農作業を教える男性、村を案内する女性、昔を語る高齢者、ガレキを片付ける子ども達などがいた。そこには「日本人と中国人」、「被災者とボランティア」関係性はもはやなかった。ボランティアの若者と被災住民の積み重ねた日々はいくつもの感動的なエピソードを生み出した。ボランティアが被災地を去る時、別れを惜しみ、被災者と共に抱き合い、泣き合った。ある一人の被災者の女性が「何もしなくていいから、ただ来てくれるだけで嬉しいのよ。」と語った。 日中関係の冷え込んだ昨年、光明村の医師を日本に招聘した。親せきの反対、心配をよそに彼は「俺には日本に友達が沢山いるから大丈夫だ!」と単身日本にやってきた。この人こそ震災前まで日本が嫌いだったひとりである。出会いは人を変えていく。 2011年の東日本大震災の時、村の人たちは少しずつ募金をし、たくさんのメッセージを書き、同じ被災者としての思いを東北に伝えてくれとCODEに託してくれた。 日中関係がぎこちない今だからこそ、偏った情報にとらわれずに国という枠を超えて、目の前のひとりと解り合う事。四川大地震はそんな大事な事を日中双方に気づかせてくれた。 (吉椿雅道)
9月末、吉椿事務局長が四川省を訪れ、農家楽のワークショップを行いました。
その時のレポートをお送りします。
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中国四川省地震救援ニュース No.120
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2008年5月12日に中国四川省を襲った四川大地震(中国では、5.12ブン川大地震)では被災地の農村部の暮らしぶりが露わになった。中国国内で農村部から都市部へと出稼ぎに行く「農民工」は、2億6261万人(中国国家統計局調べ)と言われ、その人々の存在が現在の中国経済を陰で支えている。
大地震から5年を経た今も被災地では、未だ再建した住宅ローンの返済のために遠く外省へと出稼ぎに行く人々は多い。CODEの支援する北川県光明村の住民も約半数は出稼ぎに出ており、村は高齢者や子供が中心でどこか閑散としている。
そんな光明村では、CODEによって建設された「老年活動センター」を使って「農家楽」と呼ばれる農家レストランの経営を始めている。この農家楽の発祥の地である四川省では、都市の人々が週末、農村に出かけ、花や景色を楽しみ、郷土料理を食べ、お茶を飲みながら麻雀やトランプに興ずるというレジャーが人気である。このアグリツーリズムは、四川から中国全土へと広まっていった。
光明村の農家楽が順調に進めば、そこで雇用が生まれ、子どもを置いて出稼ぎに行かなくてもいい女性が出てくる。また村の高齢者の作る野菜を買い取ることで多少の現金収入も入り、家計の足しになる。
だが、光明村の農家楽はまだ始まったばかりで知名度もなく、時々、政府の会議や村のイベントなどで使われる程度で、普段は閑古鳥が鳴いている。また、住民の中には村の幹部が勝手にやっているだけだと斜に構えている人もいる。
そんな状況を何とかしようと先日、ボランティア仲間の協力で農家楽の専門家を招いてワークショップを開いた。北京の中国社会科学院から来ていただいたW先生は、日本に留学経験もあり、日本語も非常に堪能な方で中国の農村の人口問題や貧困脱出を研究している。W先生は、フィールドである北京や貴州省の貧困地域の農家楽で村おこしを行っている事例を光明村の人々に非常に分かりやすく伝えてくれた。「北京のある村では、たったひとりの女性が奮起、努力して、村民の信頼を勝ち取って、女性たちの力を生かし、農家楽を発展させていったのよ。」という話に住民参加や地域の力を如何に生かすかが、如何に大切かを教えてくれた。聞いている僕自身もどこからか力が湧いてくるような話だった。住民の人に感想を聞くと、いつも村の幹部に不信感を持っているLさんでさえも、どこか感心したように「あんな風にやれたらいいわねえ。」とつぶやいた。それを聞いたW先生はすかさず「あんたのように元気な女性がメンバーに入らないと!」とLさんをけしかけていた。
これまで上から下へとトップダウンで物事が決められ、言いたい事を言ってもなかなか聞き入れてもらえないという農村社会で生きてきた人々にとって、現状を変えるには計り知れないエネルギーがいるだろう。そして住民参加を実現するにはまだまだ課題も多い。だが、震災を通じてCODEや沢山のボランティア、W先生などの外部者と出会い、交流する事で少しずつではあるが、変わり始めている。そっとそばにいて、人と人をつなぐ役割がNGOやボランティアなのだとあらためて思う。
(吉椿雅道)
先日の後藤さんの四川省訪問レポートに続き、スタッフ吉椿のレポートをお送りします。
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中国四川省地震救援ニュース No.119
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CODEの支援によって北川県光明村に建設された「老年活動センター」は村民にすでに利用されている。高齢者を中心にお茶を飲んだり、マージャン、トランプをしたりと中国風な娯楽を楽しんでいる。
村長の胡さん(30代)から、村のイベントで沢山の村人が集い、焚火を囲んで皆で歌い、踊っている写真を見せてもらった。写真の中に僕らボランティアと仲良しのお母さん、Xさん(30代)が楽しそうに得意の歌を歌っている姿があった。
今回久々に光明村に行くので、Xさんの携帯にメールを送った。すぐに返事が来て、「今、浙江省なの。また出稼ぎよ。あなたが来るなら会いたかったわ。。。」と数日前に再び出稼ぎに出たことを語ってくれた。2010年の尖閣諸島での漁船衝突事故の後、四川省でも1万人規模の反日デモが行われた。その日、僕らは光明村で村人と共にお祭りを行っていた。最後にXさんは、「中日友好一家親」(家族のような中日友好を)という大きな刺繍を数か月かけて一針一針と作ってくれ、「ボランティアとか何もしなくていいのよ。ただ来てくれるだけでうれしいのよ。」と語ってくれた。Xさんはこの震災を通じて日本、日本人を知った。そして今、誰よりも日本と中国の友好を願っている。
Xの歌っている写真を見てすごくほっとしたのは、Xさんが、震災が起きてから光明村の中でも最も苦しい立場に置かれているからだ。まもなく5年を迎える今もXさんの家は完成していない。2階部分や内装が薄いトタンで仮止めしているだけだ。お金ができたら材料を買って少しずつ家に手を入れている。
Xさんは、酒好きな旦那に時々DVを受け、息子は仕事をしていない。唯一の希望は、遠く別の省で一人学校に通っている娘だ。彼女のために歯を食いしばって出稼ぎで働いている。震災はXさんの人生をより過酷なものにしてしまった。震災から5年たって被災地の街は見事にきれいに再建された。だが、Xさんのような人が今もいることを忘れてはいけない。
(吉椿雅道)
一昨日に続き、「若者ポスターセッション」で最優秀賞を取られ、CODEプロジェクト地の四川省を訪問している後藤早由里さん(神戸大学4年生)のレポートをお送りします(これで最終です)。
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四川省訪問レポート 3月17日
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今日は北川県の地震遺跡の見学に行った。
バスを降りて見えた光景は、衝撃的だった。地震災害後の街をそのまま保存していると聞いてはいたが、実際にすべての建物が傾き、崩れ、潰れている。その空間からは、痛みや苦しみの声が聞こえてくるような気がして、心の中ではずっと手を合わせていた。
四川大地震の行方不明者は、1万7923人いると聞いていた。この建物の下に今もおられる方がいるかもしれないと思い、その方々の存在を感じながら見学させていただいた。
このように地震遺跡として、被災した町全体を残し見学できるようにするということについては、貴重なことだと思う人もいれば、絶対よくないと思う人もいると思うし、どちらの気持ちもあるという人もいると思う。しかしこの町は保存されている。この街を見学して、私は、この地震遺跡を100年後に見ても同じように衝撃を受け、手を合わせると思った。保存されるということは、この地震の記憶を持たない人が見ても多くのことを感じ、学ぶことができると思う。この場所で被害にあった方はどんな思いだったのか、自然の力がどれだけ大きなものなのか、建物はどうして崩れ倒れ潰れているか、それぞれ考えることは違っても、きっと何かを感じ考えると思った。それぞれが見学してそれで終わるのではなく、それぞれが感じたこと考えたことが共有され、今後に生かされていくことが重要なことだと思った。
神戸大学 保健学科
4回 後藤早由里
昨日に続き、「若者ポスターセッション」で最優秀賞を取られ、CODEプロジェクト地の四川省を訪問している
後藤早由里さん(神戸大学4年生)のレポートをお送りします。
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四川省訪問レポート 3月16日
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今日は、震源のあるブン川県の復興された街を見に行った。
そこでは、地震によって倒壊した中学校がそのままの形で遺跡として保存され、その周りには商店が立ち並び、地震博物館も建てられ、観光地のようになっていた。観光で訪れている人は、その多くがガイドに連れられて見てまわっていた。
その街の中の住宅地を2か所見てまわった。
1カ所目は3階建ての一軒家で、ほとんどの家が1階のスペースを使って商店をしていた。その中のヤクの角を加工した小物を売っている1人のおばさんに話を聞いた。おばさんは、元々は、地震によって位被害を受けた山間部に住んでいて、今と同様の商店を開いていたという。日本の復興住宅でもお店を持つ人はいるが、その数は少ないと思う。このように、復興住宅の住居として得た部分の一部をお店にするという発想はすごく新鮮で、中国人の力強さを感じた。日本では何かしらの制度があって住居部分をお店にするというのはできないのかもしれないが、元々やっていた仕事ができるのは、その人の生活習慣が取り戻しやすく、生活する中で大きな力になると思った。
2カ所目は、土砂によって被害を受けた村を再建したところで、2階建ての住居が建ちならんでいた。一軒ごとに少し大きめの花壇のような場所が設けられていて、そこにはどの家も所狭しと菜の花や白菜やネギなどいろいろな野菜が植えられ育てられていた。
元々、その村に住んでいた方は農作物を育てていたそうで、住宅にも畑のできるスペースが設けられたようだった。一軒ごとに小さくても畑仕事のできるスペースがあることで、そこでできた野菜を家で食べることができ、さらに、いきがいが保てるのではないかと思った。
2カ所の復興住宅を見て、そこに住む人たちがどんな暮らしをしてきたのかを踏まえて住宅を建てることで、そこに住む人たちが復興住宅での生活に慣れやすく、生活する力につながると思った。
神戸大学 保健学科
4回 後藤早由里
昨日に続き、「若者ポスターセッション」で最優秀賞を取られ、CODEプロジェクト地の四川省を訪問している
後藤早由里さん(神戸大学4年生)のレポートをお送りします。
後藤さんたちの「KOBE足湯隊」チームによる発表は、インドネシア・ジャワ島のムラピ火山災害を想定した
「火山とともに生きていく」というものでした。自らの足湯ボランティアの経験をもとに、「外部の人が入っていくときはまず信頼してもらうことが大切」、と後藤さんは言います。
生活用水の確保にはじまり、モスクでの内職づくり、防災教育と様々なアイディアを取り入れた発表に、
「相手を思いやる想像力にあふれたプレゼン」とコメンテーターの方を唸らせていました。
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四川省訪問レポート 3月15日
(2)光明村
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光明村に着いて、書記さんのお宅でお医者さんと書記さんと村長さんと昼食をごちそうになった。そこまでの道沿いには、すっかりきれいな白壁の新築が並んでいて、すべての家が被害を受けたということが、今の光明村からは想像がつかない程だった。
村の人たちは、初めてやってきた中国語のわからない私を、にこにこしながら受け入れてくれた。こんな風に受け入れてくれるのは、吉椿さんや光明村で活動したボランティアと村の人とが築いてきた信頼関係のおすそ分けをいただいたような気がした。
昼食後、光明村の老年活動センターを見に行った。木造の伝統的な作りの建物は、かっこよくて、村の雰囲気に馴染んでいた。今日はたまたま、いつもレストランをしているお母さん方がPTAの会議のようなものに行っていてセンターが開いていなかったため、あまり人がいなかった。普段はどんな様子なんだろう、ここにきている高齢者の方たちはここのことをどう思っているのだろうと思い、また日曜日に行ったときに開いていたら
いいなと思った。
老年活動センターでは村長さんや書記さんの話を聞いた。今後老年活動センターをより大きくして、イベントをしたり、釣りやほかにもいろいろと事業を広げていきたいというようなことを話していた。
老年活動センターを見た後、村の1人のお母さんに連れられて、そのお母さんのお宅にお邪魔した。そのお母さんは、老年活動センターをこれ以上大きくする必要はないと話していた。しかし、それは村長さんや書記さんには面と向かっては言わない。吉椿さんによれば、中国では政府の力がとても強く、村のことも村長や書記の意見でいろいろなことが決まるということが普通なことで、それに対して村人が意見する場などはほぼ存在しないという中国ならではの事情があるそうだ。
外から支援に入る私たちは、村の人たちの意見も聞いていった方がいいのではないかと思うかもしれないけれど、その意見を押し付けたら、この村の人間関係のバランスが崩れてしまうかもしれない。それはとても大変なことだと思う。でも、村のみんなの意見が汲み取られていくこともとても大事だと思う。村長さんや書記さんと村の人たちの意見、どちらもじっくり聞いて、バランスを取りながら調整することが大事だと思うが、それはとても基準があいまいなもので、慎重に進めないと難しいことだと思った。
外から支援に入って、老年活動センターを建てても、それで終わりでなく、老年活動センターが村の人たちに本当の意味で馴染んでいくように、見守っていくことも大切だと思った。
神戸大学 保健学科
4回 後藤早由里
去る2月2日、CODE10周年シンポジウムの一環として、また、次世代の市民活動の担い手が育つ場づくりとして、若者による「ポスターセッション」を行いました。海外の災害に対して自分たちはどのような救援プロジェクトを行うか、ポスターに描いてプレゼンテーションしていただくものです。
学生を中心とする9チームに参加いただき、自らの経験や関心を踏まえた思いのこもった発表に、会場はとても盛り上がりました。
会場の方々による投票の結果、見事最優秀賞を取られた「KOBE足湯隊」チームの後藤早由里さん(神戸大学4年生)に、CODEのプロジェクト現場を訪問していただくこととなりました。3月14日から19日の日程で、CODEスタッフ吉椿とともに中国・四川省の被災地を訪れています。さっそく現地の後藤さんから報告をいただきましたのでご紹介します。
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四川省訪問レポート 3月15日
(1)新北川県
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北川県は、四川大地震によって大きな被害を受け、人口3万人の内の2万人が亡くなり、さらに地震の影響で土砂崩れや土石流の被害が重なり、政府より復興は困難と判断を受け、別の場所に新しく北川県を作ることに
なったと聞いた。今日は、その新しく作られた”新北川県”を見に行った。
“新北川県”は、とてつもなく大きかった。元々、菜の花畑だったところに、将来は7万人が住むと計画され作られた町ということだった。町の中には、マンション、お店、学校、スタジアム、博物館などが、広大な土地に一つ一つどっしりがっしりと建っていた。しかし、その建物の存在感に比べて人の気配はあまり感じられなかった。商店の集まっている辺りに行くと、それなりに人が歩いていたが、少しめかし込んだ格好の人たちが多く、どうやら観光に来ている人のようだった。
これだけ大きな建物がいくつも発災から数年で建ったということには驚いた。日本とは違い、土地はすべて政府の持ち物であり、とにかく政府の力がとっても強力なことでこのようなスピードで成し遂げられたということだった。被災して家がなくなった人たちにとっては、すぐに住む家を得ることができるのはとても安心できることだと思うので、その点でスピーディーなことは大事なことだと思った。一方で、元々この場所で菜の花を育てて生計を立てていた人は今どんな思いでマンションに暮らしているのだろう?北川県で被災した人たちは、この場所で以前のような仕事ができているのだろうか?マンションから商店まで歩いたら遠いだろうなぁ。いろいろ大きすぎやしないだろうか?と思うことはいろいろとあった。
東日本大震災では、日本の制度や行政の仕組みなどもあって、なかなか将来の住居が決まらずにいる人がたくさんいる。その人たちのことを思うと、早く住居が決まることはとても大事なことだと思う。でも、今回この”新北川県”を見て、早ければいいというものでもないように思った。その場所でこれから生きていく人たちが、どう生きていきたいと思っているのか、どんな生活をしていきたいのかを大事に考えていかなければ、その場所に生き続けていく人たちの生活が、気持ちが、続かないような気がした。
神戸大学 保健学科
4回 後藤早由里