中国四川大地震以後、実は中国の通信社「新華社」や「新民晩報」やそ
の他小さなマスコミに取材された。マスコミの目的は、阪神・淡路大震災以
後のボランティアがどのように対応したか、また災害後の深刻な課題となる
「こころのケアー」についてどうのようなことに気をつけなければならないか、
ということであった。先日その取材された一つ「新民晩報」(日本版)に私の
コメントが紹介されたらしく、その掲載記事が送られてきた。 主張で東京に
行っていたときに時間を作ったのだが、少しでも阪神・淡路大震災の経験
が役に立てればという思いでその日のスケジュールを変更して丁寧に話さ
せて貰った。
その取材の中での「こころのケアー」について、「専門の精神科医の方々
に頼らなければならないケースもあろうが、一方大半はボランティアがただ
黙って被災者に寄り添うことで解決する被災者も多いでしょう」とアドバイス
をしたのです。丁度、今朝の毎日新聞2面の「時代の嵐」というコーナーに
精神科医の斉藤 環医師が-四川大地震後の中国-というテーマで書い
ておられますが、その中の引用に私と同じようなことが書かれていたので
「意を得たり」と少し安心した次第です。その引用というのは、阪神・淡路大
震災の被災者でもあり、ひょうご被災者支援センター理事長でもある精神
科医・中井久夫先生が、こころのケアーで大事な視点としていくつかあるな
かに「ボランティアはそこにいるだけで価値がある」と加えておられることな
のです。
さて、阪神・淡路大震災後「こころのケアー」という言葉が溢れ返り、「ほ
んとにこれでいいのか?」と懸念を抱いたことを思い出すが、他方この引用
をみて国内で昨年3月に発生した能登半島地震後の5日目の避難所に、大
学生を中心に結成された「中越・kOBE足湯隊」というボランティアが支援に
言ったときのことを思い出す。5日目の避難所なのでまだ余震は続き、また
グチャグチャになった家には戻れず、もちろん風呂にも入れないという避難
生活をしているときに、多くの被災者にとっては孫と同じような大学生が足
湯をしにボランティアに来てくれ、足をお湯に浸し、手をさすりながら寄り
添った活動に、被災者のほとんどが喜んで下さったという事実は、今後のこ
ころのケアーの活動にも大きなヒントを与えたと思われる。
もう一つこころのケアーで大事なのは、この中国四川省大地震救援ニュー
スでYさんのレポートを紹介させていただいていますが、Yさんのレポートを
よく読んでいると、随所に被災者自身の”自助”の姿が行間に滲み出てい
ることに気づきます。まだまだ取り残された山間僻地の小さな村に残ってい
る高齢者と幼子の様子が垣間見えます。この”自助の姿”に被災者同士が
勇気づけられ、「被災者は自分一人ではない!」という孤立感からの脱出を
果たせば、またこころのケアーを有効なものにするのではないかと思いま
す。
また同じ被災地に住む一人のボランティアのこんな悲劇もある。少し長く
なりますが以下に紹介します。
(以下の翻訳はCODE翻訳ボランティアによるものです。)
「57歳のボランティア胡開華さん 被災者避難所で過労死」
「今九洲体育館にいる。ここは被災者が多くてすごく忙しいんだ。はっきり
聞こえないから、切るよ。」これは57歳の胡開華さんが家族に残した最後の
言葉だ。
5月14日の夜9時過ぎ被災者の避難所となっている綿陽九洲体育館の戸
口で、8時間以上忙しく働いた胡開華さんは突然倒れ、二度と起き上がらな
かった。5月16日午前9時、胡開華さんは亡くなった。知らせが伝わり、彼を
よく知っている人たちは皆残念そうにため息をついた。「よい人だったのに
…。」しかし、人々は彼の被災者に対する思いに改めて敬服した。
●「家族とのつながり」
25日午前、記者は綿陽市にある胡さんの家についた。胡開華さんの遺影
は部屋の中央に置かれ、周囲をたくさんの花で囲まれていた。遺影の胡開
花さんの表情は慈悲深く、この世をじっとみつめていた。5月12日午後2時
28分の事だった。胡開華さんが玄関付近を散歩していたとき、突然大きな
揺れが起こった。幸い、家族は無事で部屋も特に問題はなかった。そのあ
とすぐに青義中学へ向かった。彼の孫がその学校の一年生だったからだ。
孫を連れて帰り、改めて家族が皆無事である事を確認し彼は心から安心し
たのだった。その日の午後、胡開華さんは小さなテントをたて家族を避難さ
せた。
「母はずっと体調がわるく、精神病を患っていてずっと薬を飲んでいた。長
年にわたって父が母の面倒をみていた。」胡開華さんの長男、胡文軍さん
はチベットで仕事をしており、普段なかなか帰ってこられない。「この家は父
の働きや気遣いがあってこそ。父がこんなに突然なくなるなんて思いもしな
かった。」「地震があってからずっと電話をかけていたが、なかなかつながら
なかった。」胡文軍は2日目になって家族と連絡がとれ、皆無事であること
を知りほっとした。が、その後、思いがけずこのような事態になってしまっ
た。
●「自ら北川被災地へ」
14日正午 胡開華さんは地元の灯塔社区が20名のボランティアを募り北
川地震の被災地の救済に行くことを知り、自ら「私も応募したいんだ。」と申
し込みに行った。社区の主任は一目見て「年齢が高すぎるから無理だ」と
断念することを勧めたが、彼はひかなかった。近所の住民は皆 彼が頑固
で意思がとても固いことを知っていたので主任は胡開華さんが平常は元気
で体調がよいことを考慮して同意した。
「こんなことになると知っていたら行かせなかったのに…」25日の午後、主
任は記者に言った。「もともと20人のボランティアだったが、年齢が高い胡
開華さんを見て自分たちもできると志願者がさらに増えたんだ。結局38人
が行ったんだよ。」胡開華さんの次男胡文明さんは父の電話でボランティア
をしていることを知った。「電話で父は「北川被災地に行く」と。いつ帰ってこ
られるかは言わなかった。」胡文明さんが駆けつけたとき、胡開華さんはす
でに迷彩服に着替え、車が発車するのを待っていた。胡文明さんが父から
最後の電話をうけとったのは「九洲体育館に行く」ということだった。地震の
影響により通信が不良で胡文明さんは以後二度と連絡をとることは出来な
かった。
●「大きなテントを建てれば皆が入れる」
胡さんの家の東側には百平方米の大きな仮設テントがある。これは5月
13日、胡開華さんが息子の胡文明さんと立てたものだ。昨日の午後、記者
が訪れたところ、テントの中には20人がベットでになっていた。「私たちと胡
開華さんは近所同士、あの日、彼はこんなにいいテントを建てて私たちを住
まわせてくれたんです。」テントの中で休んでいる一人は話してくれた。
「地震は治まったが、余震が続いている。新しく避難所を建てなければ」と5
月13日、胡開華さんは息子と空いている土地を整理し始めた。はじめ、胡
文明さんは家族のためのテントだし、そんなに大きなものは必要ないと思っ
た。しかし、胡開華さんは「絶対に大きなものが必要だ。そうでなければ多
くの人がはいれないじゃないか」と目を見開きながらこう言ったのだった。
「近所同士じゃないか」
当日の午後、仮設テントには20個のベットが入り、皆が住むことができた
のだった。灯塔社区の王という住民は言った。「私と彼は幼馴染だが、いい
人だった。彼はずっと体も元気だったし、こんなことになるなんて…」
●「父がしたことは良識あるひとなら当たり前のこと」
14日午後1時過ぎ、胡開華さんは九洲体育館についた。被災者が多いた
め、彼は秩序維持の協力の仕事を求められた。午後、彼は長男胡文軍さん
との電話で二言しゃべったあと、あわただしく電話を切った。電話のあと、胡
文軍さんは心配になり、すぐ同級生の王平さんに電話をした。「王平もボラ
ンティアで父と一緒にいたので彼に父のことを頼んだんです。」胡文軍さん
はこれが父と最後の電話になるとは思わなかっただろう。
14日夜8時過ぎ、胡開華さんはすでに九洲体育館で7時間近く忙しく働い
ていた。夕食もとっていなかった。ある人が胡開華さんにお弁当を配った
が、おりしもそのとき一人の被災した老婦人がやってきたので彼は彼女に
お弁当を手渡したのだった。
夜9時すぎ、胡開華さんは戸口で忙しく働いていて突然、倒れた。すぐに
綿陽市中病院に緊急で運ばれ、2度手術を受けたが、胡開華さんは二度と
目を覚まさなかった。
16日午前9時、胡開華さんは亡くなった。医者の話では突発性の脳溢血
とのことだった。胡文軍さんは言った。「本当のところ、私は父は特に偉大
なことをしたとはおもっていません。良識のある人間なら誰でもそのようにし
ただろうと思います。人として当然のことをしたのです。」
(新華網 成都 5月26日 17時19分)
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