震災2周年となる5月12日の光明村から、Yさんのレポートをお伝えします。
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2010年5月12日 14時28分 この2年間通い続けた北川県光明村で静かに黙祷した。
この日、四川テレビでは朝から特番で北川県城、綿竹市漢旺鎮、青川県、彭州小魚洞、都江堰などの重被災地では、再建された綺麗な町並みやモニュメントを背景に記念式典が執り行われる姿が映し出されていた。
昨年の1周年の際は、北川県城に入り、沢山の遺族の方々が追悼する中、ひとり合掌させてもらった。3日間開放された北川県城は、約30万人が追悼に訪れ、途中の道は3,4時間の渋滞になるほどのにぎわいであった。
2周年の5月12日も地震後、一緒に活動したボランティアの仲間と共に北川県の光明村へと向かった。中央政府や対口支援先の山東省の政府幹部が北川県城での追悼式のために通行規制や渋滞を予想していたが、全く渋滞もなく、スムーズに光明村へとたどり着いた。村はいつもよりどこか静かな感じだった。田んぼで田植えにいそしむ人々、北川県城に追悼に行った人々、いつもと同じようにのどかに暮らす人々など人それぞれであった。
村の医師、Pさんはいつものように笑顔と握手で僕らを迎えてくれ、共に食事をした。地震後に生まれた孫のXくんの遊ぶ姿を見て嬉しそうに笑うPさんの笑顔を2年前、地震直後にはとても想像できなかった。地震の1年前に建てたばかりの4階建ての自宅兼診療所が倒壊し、「自分の命に代えても家を守りたかった」と後にこぼしたPさんは、自分も被災者であると同時に医師として必死に村人の看病に奔走した。その後、張り詰めた糸が切れるかのように鬱になりかけた。そんな時、僕らボランティアがやってきた。最初は警戒していたPさんも次第に心を開き、共に汗を流すようになった。今では、僕らの一番の理解者のひとりである。
診療所を失い、暑い夏も寒い冬もずっとテントで診療していたPさんは、その後、住宅再建が進むにつれて空き屋になっていく仮設住宅の一室を借りて診療所を開いていた。だが、数日前にその仮設住宅も撤去された。震災を思わせる仮設住宅をいつまでも残しておく事はできないという事らしい。診療所の薬品は補修した家の片隅に置かれていた。
今後、政府によって再建される「総合活動センター」に診療所が入るかどうかも未だ決まっていない。当然、自力で診療所を再建する経済的な余裕もない。
これがPさんの「震災2年」の現実である。テレビから映し出される派手な復興の様子と光明村な静けさが対象的であった。
投稿者「code」のアーカイブ
中国四川省地震救援ニュース 97
四川大地震から2年、先日成都に戻ったYさんからレポートが届きましたので、お伝えします。Yさんは、今日は光明村に行って、村人と2年のこの日を過ごすそうです。
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2008年5月12日14時28分 M8.0の巨大地震が四川省を中心に襲った。
あれから2年の月日が流れた。昨年の1周年の際、温家宝首相の発した「復興を加速せよ」という言葉を受けて、急ピッチな再建工事が被災地の至る所で行われている。そのスピード、規模は、今の中国の勢いを象徴しているかのようである。本来、復興計画では3年を目途に住宅、学校、病院、道路などの基本的な社会基盤の復旧を実現するという事であったが、前述の首相の言葉で1年前倒しにして2010年の9月末までに基本的な復旧事業を完了させなくてはいけない。2月の旧正月の際も多くの労働者は帰省もせずに工事に従事した。被災地の中でも最も大きな被害を出した山間部の北川県城(北川県庁所在地)は、断層の上で危険であるという事から元の場所での再建をあきらめ、約20km平場へと移転する事になった。現在、大規模な「新北川」の町を建設中である。巨大な復興事業によって雇用が生まれているが、工事現場で働く人々のほとんどは対口支援先から来た人々である。ハイチのような「Cash for Work」で収入を得る被災者は、四川ではほとんど見られず、震災前と同じように遠くに出稼ぎに行く人々も多い。
政府の発表では、すでに90%以上が住宅再建を終え、入居したという。だが、ほとんどの被災者は迫りくるローンの返済期日に焦りの色を隠せない。農村信用社から借りたお金(最大5万元)を1年目で15%、2年目で35%、3年目で50%返済しなくてはならない。それを過ぎると利子が発生する。08年9月の住宅再建からすでに1年8カ月が過ぎている。未だにローンをどうやって返済しようかと頭を抱える人々も多い。そして、未だ数万世帯が、行き場が決まらず、仮設住宅や掘立小屋で暮らしている事を忘れてはならない。
未だビニールシートの掘立小屋で暮らす什?のある村の被災者の女性がこう語った。「あなたが来年来ても私たちはきっとこのままよ。」
2010年に入ってから世界で立て続けに起きる震災。4月には青海省でもM7.1の地震が、約2300人以上の尊い命を奪った。だが、日本では1か月を待たずに報道はほとんどなくなった。
四川大地震から2年目のこの日を機に今一度、被災地に思いを馳せてみてよう。ハイチへ、チリへ、青海へ、そして四川へも。あらためて震災で亡くなった方々のご冥福をここ四川の被災地で祈る。
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中国四川省地震救援ニュース 96
サモア、スマトラと地震災害が続き、津波や地震の被害の様子が伝えられていますが、震災から1年余の四川の状況をYさんレポートでお伝えします。
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「これからどうやって暮らしていけばいいのか分からないよ。」廃墟になった北川県城のそばで細々とお土産を売っているお母さんAさんはそう言った。
人口約3万人の北川県城(県の中心)では、四川大地震によって約1万5600人の方が亡くなった。そして4300人以上の方が未だ行方不明である。その多くはガレキの山の下で眠っている。Aさんの息子さんとお孫さん二人も同じくガレキの下に眠っている。
Aさんは地震後、政府によって支給された建材でお土産屋の屋台を作り、亡くなった息子さんの奥さんと肩を寄せて暮らしてきた。
先日、久しぶりに北川県城を訪ねて、驚いた。封鎖された県城の入り口の前にずらりと並んでいたお土産屋台が全くなくなっていた。北川県城の廃墟を見下ろす展望台に追悼にくる観光客を目当てに震災の写真やDVDやチャン族の工芸品などを売る商売がいつの間にか生まれていた。不思議に思い、Aさんに聞いてみると「すぐ裏に道路を建設するんだよ。」と言う。県城が封鎖しているため北部の街に行く事ができない。裏山にトンネルを通して県城を迂回するように道路を建設するそうだ。
「みんな屋台をたたんじゃった。私が最後だよ。午後には撤去しなくちゃ。」と語った。
震災から1年余。ようやく暮らしが落ち着いてきた頃に政府の方針で振り回される被災者たち。でも、たくましい四川の被災者たちはまたどこかで同じような商売を始めるのだろうか。。。
中国四川省地震救援ニュース 95
Yさんは先週末、8回目になる派遣のため四川に戻りました。CODEのプロジェクトである総合活動センター建設もいよいよ着工にかかり、年内に数ヶ所完成の予定です。
出発前にYさんレポートを預かりましたので、少しずつご紹介します。
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ブン川県城から一気に急な山の斜面を700m近く上りきったところに羅卜寨という村がある。標高約2000mの高地に人口928人(229戸)のチャン族の人々が暮らしている。
「中国チャン族第一村」と呼ばれ、ブン川県で最も古いチャン族の村と言われる。
この集落では地震で伝統の土壁の家屋が倒壊し、44名の尊い命が失われた。
遅ればせながら、この集落でも昨年の12月頃から住宅再建が始まった。集落の上の方の田畑として利用していた土地が再建用地となった。だが、標高2000mの寒さの為、セメントが固まりにくいという事で再建工事をストップせざるを得なくなった。
その後、工事は再開され、1周年の5月には新しい家屋が並んだ。
が、しかし再建された約200戸の家屋には人々の姿はあまり見られなかった。再建された家屋で小さな商店を営むおじさんに尋ねると「見てみろ、サビだ。」と天井の黒い斑点を指さした。雨水がしみ込んで鉄筋がさび始めた。外壁にはヒビも入っている。「センメントの質が悪いからこうなったんだ。」と語るおじさんは、細々と商売を営む為に入居をしたようだった。再建された家屋は、高地の気候風土を十分に理解して設計されたのであろうか?
再建された家にいざ入居しようという矢先の事で、住民は不満を隠し切れなかった。
標高2000mの山の斜面の暮らしを対口支援するは年中熱い南の広東省であった事にも原因があるのかも知れない。家は、その土地の暮らしを如実に表すものなのだろう。
四川水害緊急レポート
日本では余り報じられていませんが、四川地震の被災地で豪雨による水害が発生しています。四川に戻ったYさんから緊急レポートが来ましたので、お届けします。
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四川水害緊急レポート(2009・7・18)
昨年5月12日に襲った四川大地震の被災地にまた水害が発生した。7月14日から激しい雨が四川省全体で降り続いた。その激しい雨は、土砂崩れ、土石流、家屋浸水などの被害を引き起こした。17日までに死者8名、行方不明5人、仮設住宅浸水400戸、緊急避難者約11万人、約188万人がこの水害で被災したという。被害の大きいエリアは、青川、北川、江油、平武、三台などの22の市県に及ぶ。いずれも昨年の四川大地震の被災地である。北川から平武を通って青川へと抜ける山あいの地域である。昨年の地震で地盤の緩んだ斜面が崩壊し、土石流を引き起こしたとも思われる。地震後、ブン川や北川などの激甚地区でも大規模な土砂崩れを起こした斜面に土砂止めなどの対策を施しているところは決して多くはな
い。
TVの映像では浸水した仮設住宅で洗面器で水をかき出す様子が流れている。北川県の曲山鎮の仮設住宅では一時60㎝の浸水があったという報道もある。実は昨年の地震後、廃墟になった北川県城では6月の塞き止めダムの崩壊と9月の集中豪雨による土石流災害の2度の水害に見舞われ、水の引いた廃墟の街は大量の土砂や流木で埋まっている。仮設住宅がそのまま流されたところもある。古代の水利の英雄、「大禹」は故郷、北川の変わり果てた姿を見たらどう思うのだろう。
一方、CODEが地震直後から支援してる光明村を含む香泉郷でも水害で電気と道路が寸断された。郷政府の人々もその対応に追われていた。数ヶ月前からの郷を横断する道路建設の為に掘り起こしていた事で被害が拡大されたのかもしれない。村のお医者さんに電話すると「大丈夫だ。今のところは人や家屋の被害はない。危ないから来ない方がいい。心配してくれてありがとう。」と言っていた。地震後から僕らとずっと被災地に通っているドライバーは「地震後の去年はあまり降らなかったのに、今年はこんなに降るなんて、天が泣いているのかもね。」と言っていた。「国破れて山河なし」にしてしまった子孫に対する「大禹」悲しみの涙なのかもと僕は思った。
中国四川省地震救援ニュース 94
被災地である北川県香泉郷には約7900人の人々が暮らしている。郷内12の村のうち、6つは無医村であり、一人の医者が約1000人~1500人の人々の健康を支えている。医者のいない村は、隣の村や郷の大きな病院へと自力で行かざるを得ない。
この地震によって郷内の7か所の診療所のうち2か所は全壊、その他も半壊、一部損壊などの被害を受けた。地震から1年が経とうとしている今も仮設テントで診療している医師もいる。
先日、郷のある村でP医師とお話をしている時に急病人が出たという知らせが入った。医師が呼ばれて僕もその後をついて行った。意識もなく過呼吸状態であるその男性高齢者を診たP医師は、自分の手には負えない危険な状態と判断し、この日たまたま居合わせた日本の元看護師Kさんも脳梗塞の疑いがあるとして「このままにしておくと最悪、死に至る。助かっても半身不随の状態にもなりかねない。」と言って至急、郷の大きな病院に搬送するようにすすめた。
だが、家族は出稼ぎ先の長兄と電話で相談した結果、病院には連れて行かず、このままの状態にしておくと言う。僕は耳を疑った。家族を見捨てるなんて。。。その家族が言うには、まず、救急車を呼ぶにもお金がかかる。そしてその後、助かったとしてもリハビリや入院などの医療費にお金がかかるという理由からこのように決断したそうだ。僕たちやP医師が無理やり病院に連れていったところで結局は家族の負担になると思うと無理じいする事は出来なかった。P医師も複雑な表情をしていた。日本的には、「とりあえず入院させて、お金は後で何とかなる」と考えるかもしれないが、これが、四川の農村の「何ともならない現実」であった。震災はこのようなところにも影を落としている。
家族の一人のおばあちゃんが、「住宅再建ですでに数万元の借金をしているのよ。どこにお金があるのよ!」と訴えるように言った言葉が今も耳に残っている。後日、P医師からその男性が亡くなった事を聞いた。
診療所を併設する「総合活動センター」が出来ると公共の施設となって医療費が安くなるという。センターが農村の医療問題の解決の一つのきっかけになればと思う。
中国四川省地震救援ニュース 93
引き続き、Yさんレポートをお届けします。
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綿竹市の中でも被害の大きかった遵道鎮棚花村。この春、ここには観光客の姿があった。非常に美しい田園風景の広がる広済から遵道、九龍、土門などでは毎年3月には「梨の花祭り」が開かれる。その中でも棚花村では震災前からこの花祭りを目当てに多くの観光客が訪れ、伝統工芸である年画や蜀繍(蜀の国の刺繍)が人気であった。
震災後初めての春、この周辺では梨の白やピンクの梨の花と壱面の黄色い菜の花が咲き乱れた。その花に誘われるかのように観光客も徐々に集まり始めた。棚花村では再建された家屋の壁には年画が描かれてあり非常に雰囲気がある。そして村の中では以前のように「農家楽」を営む人々も現れ始め、訪れた観光客のおもてなしに大賑わいであった。
昨年の地震直後、ボランティアで知り合ったSさん(22歳)はこの村の刺繍の先生でもある。Sさんとは、昨年6月初めてこの村を訪れた時からの縁で、ボランティアの会議でも僕の中国語のサポートをしてくれたり、一緒に北川県光明村にボランティアに行ったり、全壊した彼女の家のガレキを片づけたりと被災者であるにもかかわらず共に汗を流してきた。いつも「お兄ちゃん」と呼んでくれる可愛い妹でもある。彼女は、観光客に刺繍を買ってもらうために再建した自宅の一角に刺繍工房兼展示室を作り、自分で作った作品を観光客に売って生計を立てている。この日、お母さんは隣の農家楽のお手伝いに駆り出されて食事の準備に大忙しだった。訪れた観光客は、中庭で食事をしたり、マージャン、トランプに興じていた。お茶をすすりながらきっと震災の話でもしているのだろう。。。
この日お母さんが忙しそうに働いている姿が生き生きしていてどこか嬉しそうだった。
中国四川省地震救援ニュース 92
Yさんレポートです。
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震災から1年が過ぎた四川の被災地では、「観光」復興への道へと進もうとしている。
被害の最も甚大であった北川県城は、元の場所に町を再建するのでなく、数十キロ離れた安県の平場に新たな「新北川県城」を再建する。そして元の「老北川県城」は地震遺跡として一部を保存する。北川県は、再建する「新北川県城」を「北川観光サービス基地」を中心に震災関連の「老北川県城」や「唐家山堰止め湖」などを「地震遺跡総合観光エリア」とし、震災前から観光地でもあったチャン族の治水の英雄の「大禹博物館」などの「禹里生態文化観光エリア」、自然豊かな「猿王洞」などの「猿王洞風景観光エリア」、避暑地でもあったチャン族色の濃い「青片小寨子風景観光エリア」などを新たに整備しようとしている。
1年を迎えるころから被災地を訪れる観光客が増えだした。成都のある場所では毎朝、被災地を巡るツアーバスが出ている。旅行代理店が企画をし、百数十元でガイドが付いて北川県などの被災地を回ってくれるという。このお金が直接被災地の被災者の人々に落ちているかは、甚だ疑問であるが。。。
一方、北川県城周辺で被災した人々は未だ、仮設住宅でも不自由な暮らしの中、壊滅した「北川県城」見に訪れる観光客相手に震災のDVDや写真集、チャン族の刺繍などのお土産などを売って細々と暮らしている。僕も日本から来る専門家の方々やボランティアの人々を連れて何度も行っていると自然に顔なじみになってくる。被災者であるF さんは、自宅が倒壊し、今も仮設で暮らしながら廃墟になった県城を見下ろせる場所で見物客相手にお土産を売っている。Fさんは、いつも僕に「今日も日本の友人を連れてきてくれたのか!」と言って握手で迎えてくれる。いつも気になっていた事を聞いてみた。「ここには沢山の人が見物に来るけど嫌じゃないの?」と問うと、Fさんは「中には死者を冒涜するかのようにゴミを捨てていく人もいるけどそれは少数で、ここにきて震災の事を理解してくれるだけでいいんだ。」と語ってくれた。「俺はここで商売しているけど押し売りした事はない。写真など自由に見てくれて、買いたければ買ってくれたらそれでいいんだ。」と次から来る見物客に写真を丁寧に説明しているFさん。KOBEの「まけないぞう」を渡すとがっしりと手を握って「ありがとう」と言い、お礼に売り物である震災の絵葉書をくれた。
被災地が観光地になる事に対して日本の人々は疑問を持つ人も少なくないのかもしれないが、Fさんのような人々に出会って、生の話を聞き、そこに少しでも直接お金を落としていくような観光のあり方もあるのではないかと思った。
中国四川省地震救援ニュース 91
Yさんレポートで、地震1年の被災地の模様をお届けします。
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2009年5月12日 14:28 ここ四川の被災地の多くの場所で沢山の人々が黙祷と追悼の念を捧げた。震源近く映秀鎮の?口中学校では、倒壊した校舎の前で胡錦濤主席ら国家級の人々が追悼の儀式を行った。綿竹の漢汪鎮や青川県などの被害の大きかった被災地はもちろん追悼の式典が行われたが、成都市内の天府広場にも多くの人々が自然発生的に集まって追悼したという。
約1万人2000人以上の方が亡くなった北川県城でもこれまで封鎖されていたゲートが開かれた。僕も前日の11日に北川県城に入る事が出来た。昨年の5月17日以来、約1年ぶりであった。5月の地震で廃墟と化した町に6月の塞き止め湖の氾濫と9月の土石流で埋まった家屋、車などがまったくそのままの状態で無残な姿であった。町の数か所に追悼の断幕や参拝の場が設けられ、この日は沢山の遺族がここを訪れ、線香、ろうそくが灯され、花が捧げられてあった。1階が潰されたビルの前にはひっそりと線香の煙が立っていた。被災地で約1万7000人の方が未だ行方不明と言われている。家族の亡骸を見ることも出来ずに、未だ死を受け入れられないのも当然だとその線香を見て思った。
町の中ほどを歩いていると大きな泣き声が聞こえてきた。水で流されたであろう木材やガレキの山の前に女性が泣き崩れていた。抑えきれない悲しみから石をガレキの山に向かって何度も何度も投げつけていた。どうやらご主人や子供さんを亡くされたらしい。ある日突然、家族を失った悲しみは1年経ったところで到底癒されるものではない。
CODEの支援する光明村の多くの人々も12日はそれぞれの思いを胸に北川県城へと向かった。この日の村は誰も居ず、とても静かであった。あの日から1年、北川県城を追悼に訪れた人は約27万人だという。
中国四川省地震救援ニュース 90
Yさんレポートで、「総合活動センター」を再建する香泉郷の様子をお伝えします。
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「総合活動センター」を再建する香泉郷は、北川県の南東に位置し、2200世帯、約7900人の住む農村地域である。そのうち約7500人(96%)が農民戸籍である。農村と言っても、郷内の森林被覆率は、80%で、標高が540m~780mと地形は決して平たんなものではない。日本の中山間地域のようなところである。山には杉、松、竹や茶木が多く、その下には斜面を利用して季節によってトウモロコシ畑や菜の花畑などが広がり、野菜や果樹が隙間を縫うように植えられている。最も低い部分では田んぼで米や小麦を作り、その水田にはアヒルが放し飼いにされている。そして自宅の裏には豚や鶏を飼っている。自分たちに必要なものを作り、食べる。余った分は売るか、親戚にあげる。時折くる移動販売で調味料などのわずかなものを買う。いわゆる自給自足の生活である。非常に豊かな暮らしである。
だが、当然、農村にも電気やテレビ、モーターバイクもあり、とりわけ子供の教育費に現金が必要になる。村には現金を得る仕事がないので多くの若者は遠く外省へと出稼ぎに出る。村に残っているのは、小学生と高齢者がほとんどである。
そんな農村に地震が起きた。地震の時、外に農作業に行っていた為、亡くなった人は少なかったが、郷の約1900戸(86%)の家屋が被害を受けた。住宅再建を余儀なくされた被災者の人々のほとんどが、多額なローンを組み、3年以内に返済しなくてはならない。これから返済に向けて頑張ろうとしているところに世界的な金融危機が起きた。「早く再建して早く出稼ぎに行って早く借金を返済しないと」と思っている矢先の出来事だった。この杞憂危機の影響で中国国内で約2000万人の失業者が出たと言われる。これまでのように簡単には仕事は見つからない。出稼ぎ人口の最も多い四川省の被災農村にも金融危機の暗い影を落としている。
そんな中でも少しずつ再建されていく自宅を前に被災者の人々はどこか嬉しそうにも見える。本来ならば、豊かであったはずの暮らしが、どこか不便で貧しいものと感じさせてしまう風潮。世界がこんな状況だからこそ四川の農村の被災者が、自らの暮らしにもっと自信を持ってもいいのではないかと思う。この「総合活動センター」はそのような暮らしを今一度、見つめなおす場になる事を願っている。
あれからもう1年。これまで寒々としていた被災農村に新たな春がやってきた。一面に咲き乱れる菜の花の黄色が、復興への希望を象徴しているように思えた。