チベット人の死に対する向き合い方には非常に学ぶ事が多い。
死者の書「バルド・トドゥル」についてはレポート18でも書いたが、チベットでは人が亡くなると、僧侶が死者のそばで7日毎に法要(モンラム)を行う。死者の魂が成仏すると言われる49日目まで法要は続けられる。人が亡くなったら葬儀をして終わりではない。現代医学で言う「心停止」というものが、チベットでは「死」ではないのである。
6月5日、玉樹の天葬台で49日法要の最終日をたまたま過ごす事になった。
玉樹では、人が亡くなると旧市街の丘の上にある天葬台で鳥葬(天葬)で葬られるのが、通例であるが、この震災では亡くなった方が多い事や感染症などの諸事情により、この天葬台で火葬にされた。この日、この天葬台では、結古寺(ジェグ・ゴンパ)など宗派を超えていくつかの寺院から僧侶たちが集まって死者のために読経をあげた。それを聴くために沢山の遺族も集まり、マニ車を廻す人、寝そべるように低頭して読経に耳を傾ける人、各々の祈りの姿が見られた。火葬する為に掘られた穴(抗)のそばでは、その場から離れようとしない遺族やひたすら五体投地で祈りを捧げる老婆の姿が今も目に焼き付いている。また、活仏(高僧の生まれ変わり)に手を合わせながら喜捨をする遺族の顔には、どこか安堵のようなものさえ感じられた。
いくつかのテントでは、ヤクのバターで作られた灯明の火は絶える事なく、灯し続けられた。どうやらこのバターは被災者のひとりひとりが持参してきたもののようで、その横では沢山の遺族によって灯明の芯が作られていた。僧侶だけでなく、被災者自らが当然のようにボランティアとして法要を支える姿がそこにはあった。チベット人はこうやって「死」のそばにいる事でいつか来る「死」への準備をしているように見えた。チベットでは、暮らしの中に仏教がしっかりと息づき、「死」といかに向き合うかを仏法が教えてくれている。