ハイチ地震救援ニュース」カテゴリーアーカイブ

ハイチ地震レポートNo.29

レポート28号で、最新のクワテモックからの現地レポートをお伝えしました。彼が訪ねたLa Plaineという街は、Chachaさんの故郷だったのです。ハイチに入る直前に「可能なら尋ねて来て欲しい」とお願いしていたのです。ハイチに入ってから超多忙な毎日のようだが、忘れずにきちんと果たしてくれました。もちろんChachaさんにとっては、郷里に帰られご自分の目で見なければ・・・、というところでしょう。街そのものの被害は首都ポルトー・プランスやクワテモックが活動するレオガンの被害とは格差があるようですが、Chachaさんの姉と弟が亡くなっていますので、より胸中は複雑かもしれません。
お連れ合いの智子さんからお礼のメールが届きましたので、以下に紹介します。
「クワテモックさんからのメールを拝見しました。お忙しく活動中にもかかわらず、多くのラジオ局に足を運んでいただき、また夫Chachaの故郷にも訪れてくれたと聴いて、そのあふれる使命感に感動しています。Chachaの故郷は、被害がひどくないということで、比較的落ち着いているのだろうと安心しました。後は夫が現場に行って、いろんな意味での再建の可能性を探ってくると思います。
余談ですが・・・
以前、ハイチの首都で突然学校の建物が倒壊し、子供たちが亡くなったことがありました。建築現場を見ていると、この建て方で大丈夫なのかな・・・と素人の私でも感じてしまうことも多々あり、仰るように、再建するときには建築方法の確認も必要は不可欠だと思います。
以前、首都の主要通りデルマDelmaに住んでいたときに、ブロックを積み上げただけのような家々(これは庶民の家です。)を見ました。この家々の中に、みなひしめき合うように生きています。日本だからできる、日本にしかできないという視点での支援法があると思います。それは村井さんの仰るとおり「知恵」です。ハイチ人のためにその能力を生かせる真のエリート日本人たちを活用してもらいたいです。
(中略)ハイチという国を、その位置や国益だけにとらわれず、応援していただければ幸いです。」
皆さん、いましばらくハイチを見守って下さい。
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ハイチ地震レポートNo.28

本レポート27号を読んで、これまで数々の賞を受賞された神戸在住の一級建築士Kさんから賛同のメッセージを頂きましたので紹介させて頂きます。
「ご指摘の通りだと思います。台湾地震、イラン地震、四川地震、そしてハイチ地震、いずれも鉛直加重だけを考慮した構造で、地震という水平力に対しては、全く考えられていません。このことは、地震の経験がないヨーロッパでも、石や日干しレンガによる組積造が多く、近代の鉄筋コンクリート建造物も、日本の半分ほどの細い柱と梁でできています。オランダ・アムステルダムでは、湿地帯のためか至る所で傾いたマンション等がそのまま使われています。人の命は勿論のこと、多くの歴史的建造物や世界遺産も地震が来れば一発でアウトです。「国と地域によって建物の様式は違っても」、人命尊重は如何なる国にも共通する最優先課題で、次いで歴史的遺産も、その国々の宝であるだけでなく、世界人類の宝でもあります。」というものでした。
関連して11日の新聞に紹介された「読者欄」には、以下のような興味深い投書が寄せられていましたので続けて紹介させて頂きます。
「今回被災を受けたハイチの住宅を見ると、日本に豊富にある間伐材をハイチに送り、耐震性をしっかり考慮した簡易住宅をつくればよいのでは?」というものでした。
もちろんハイチの気候・風土などを考慮しなければなりませんが、日本の山間部は国土の70%を占めており、山林の整備が深刻な課題であることを考えると、とりあえず製材せずに丸太のままで送っても十分使い方道のあるアイデアではないかと思いますが、皆さん、いかがでしょうか?(直後に決断していれば、船で運んでもそろそろ着くかも・・・)
ところでメールが途絶えていたクワテモックからも近況報告が来ましたので紹介します。
「親愛なるCODEのみなさまへ
もっと頻繁に連絡が取れなくてすみません。ご存じのとおり、ここではまだ電気がなく、インターネットへのアクセスが非常に非常に難しいのです。
私はCODEからのメッセージと日本の人々からのメッセージを放送するために、何度かラジオ局に行ってきました。ラジオCaraibe、ラジオCool、ラジオBelval、ラジオAmicaleに行きました。近いうちに、もう何件か訪問するつもりです。
私はまた、La Plaineにも行きました。Croix des BouquetsとBon Reposも訪ねました。これらの場所は、ポルトープランスに比べると被害は非常に少なく、おそらく15%が破壊されているでしょう。私は写真を沢山とりましたが、インターネットへのアクセスの問題のせいで、あなたにそれらを送れていません。できるだけ早く送れるようにします。
私はここレオガンの仮設テントで、沢山手助けをしています。私はここの人々と、違ったプロジェクトについて議論を始めていて、今後のメールであなたにそのコメントを送れると思います。ここでの仕事は圧倒的で、私は毎朝6時に起きて真夜中まで動き続けています。私は元気で、あなたもそうであることを祈っています。
それではまた」
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ハイチ地震レポートNo.27

 ハイチ地震が発生してから、まもなく1ヶ月になる。ハイチの被災者に感動のメッセージを送って下さった大阪在住のハイチ人Chachaさんは、今月末一度ハイチに帰国されるようだ。新聞報道によると、Chachaさんの弟さんが瓦礫の下敷きとなり、お母さんの腕の中で息を引き取り、お姉さんも職場で亡くなった。残された家族は路上生活を余儀なくされている。
 一方新聞報道によると、8日倒壊家屋の下から28歳の男性が救出され、奇跡の生還を果たした。人間の生命力は凄い!
 しかし、倒壊しても隙間があればこうして助かる可能性が大となることは明白だ。記憶に間違いなければ、日本の建築基準法で1951年の改正時、「建物には粘りが必要!」と認識されたことを思い出す。それから44年後の阪神・淡路大震災で20万棟以上の建物が全半壊した。私たちは、いつまでこうした悲劇を繰り返すのだろうか?
 ところで、災害や紛争の被災者の生命と尊厳を維持する上で基本的に必要とされるものに関して規定している「スフィア・プロジェクト」というものが世界赤十字連盟・赤新月社連盟によって作られている。これには建物の構造については触れられていない。いよいよ建物の構造に関する取り決めもあっていいのではないだろうか?国と地域によって建物の様式は違っても、人類の叡智によって何らかの解決方法があるはずだ。
 テレビやインターネットなどでハイチの被災地の映像を見ると、9割近くの建物が壊れているが、その中にポツリポツリと壊れずに残っている建物もある。2003年のイラン地震でも、現地でそのような光景を見たが、壊れないようにするにはそれほどお金もかからないし、難しくもない。一日1ドル以下の生活をしている人たちが国民の半数以上という数字が表すように貧困の極にあっても、決して不可能ではない。必要なのは「智恵」だ!
 日本は災害大国として知られるだけに、そうした智恵の宝庫でもある。いまこそ、これまで培ってきた防災や減災の智恵を、ハイチに役立てるべきではないか?
 いうまでもなく、私たちは15年前に「人のいのちは尊い」ことを胸に刻んだはずだ。
*スフィア・プロジェクト:緊急人道支援の現場で活動するNGOが最低限守らなければならない指標であり、人道憲章をその拠り所としています。具体的には人道憲章と緊急人道支援の主要分野である給水と衛生、栄養、食糧、シェルター、健康に関する最低基準を保障しようというものです。

ハイチ地震レポートNo.26

 ハイチのベルリーブ首相は、この度のハイチ地震による死者が21万人を超えたと発表しました。2004年のスマトラ沖地震津波災害では全部で13カ国に被害が及ぼし、22万人を超える死者となりましたが、ハイチのように1国で21万人を超える死者を数えるというのは、残念ながら過去最高の被害となってしまいました。
 映像を見る限りでは、阪神・淡路大震災と同様、倒壊した建物の下敷きになって亡くなったケースが圧倒的だろうということは、容易に想像できます。
 世界でも最貧国と言われてきた国なので、地震を想定しての耐震などほとんど考えていなかったのかも知れない。でも、「建物の耐震化」というのは、これだけの多くの犠牲を払って得た大切な教訓なので、ハイチ政府には是非復旧過程では耐震を必須条件とするくらいの住宅再建計画を打ち出して欲しいと強く提案したい。日本の専門家が安価な方法で「ローコスト耐震工法」というものも提案されているので、是非この機会に国連がこういう工法を採用して、無条件に近いほどの支援をして欲しい。また、南米コロンビアには、小口融資を伴って、低所得者向けの住宅建設を手伝うNGO(セル・ビビエンダ)もあるので、そうした経験を導入してハイチに技術移転を積極的に検討して欲しい。日本がハイチに貢献できることは、山ほどあることを現政権は気づいて欲しいものです。
 過去の資料を繰っていると、2009年4月に出された「ISDR国際防災戦略会議」からのトピックスに「素晴らしいカリブ人」という小見出しがあった。内容は、「国連ISDRは、2009年4月3日にカリブ海沿岸諸国と連携して開かれた災害リスク削減に関する特別委員会の第7回技術会合に参加した」というものです。この関連を調べようと思い検索すると、(手前味噌で恐縮ですが)なんと”CODE World Voice”の「長期的視点でのハイチ再建」という情報が出てきました。UNISDRの情報だから当然なのかも知れません。で、1月22日のUNISDRからの情報は、「UNISDRは、ハイチを災害に強い国へと変えていこうという活動を行う予定としている。減災への取り組みは、2005年に日本で行われた兵庫行動計画などのようにすでに国際的に行われている。」という内容です。
(詳しくは”CODE World Voice”を)
 先述の兵庫行動枠組みが採択されたのも、このKOBEの地で2005年に国連防災世界会議が開かれたからであり、そういう意味でもハイチ地震と日本およびこのKOBEの地との関連は大変意義深いものがあると言えます。一日も早い復興を願うものです。
以下は、23号から紹介しているニュース(THE JAPAN TIMES/Michelle Faulポルトープランス AP)の続きである。
-USAID(米国国際開発庁)の指導の下、外国政府は独自の事業を創設し、ハイチ政府の腐敗を避けるため、国際援助をNGOを通して実施することにした。そしてハイチでは、1万以上のそうしたNGOが少なくとも1970年代から活動をしているが、成果は少ししか出ていない、とVirginia大学のRobert Fatton Jr.(『ハイチの終わらない民主主義への移行』の著者)は言う。国際社会は、その資源をNGOに注ぎ込む代わりに、優先順位を変えて、ハイチ人による永続的な国家組織の創設を援助することに集中しなければならない、とFattonは言った。
 TexasのFassは、彼が考える解決法、つまり大規模移住計画は、米国やヨーロッパ、他の世界の国々が、300万から400万人のハイチ人に対して、その門戸を開けようとしないから非現実的だろうと認めている。救済が可能なら、それは主にハイチ国内で行われなければならない。とFassはいう。さもなければ、世界はより不安定になり、より多くの暴力が起こり、他のカリブ海の沿岸地域や米国へのボートピープルの殺到が起こるでしょう。
 ハイチの農業の基本であるキブツ方式を復興させることは、ハイチ人にとって親しみのもてることでしょう。ハイチではその伝統の「コンビット」*により、人々は収穫や植え付けや子供の世話や料理などの仕事を、相互に分かちあってきました。とSoukarはいう。ハイチの政府は早急に、ポルトープランスから郊外への大量脱出に抗う流れをつくる行動をしなければならない。人々に(ハイチに)残る勇気を与えるよう、資源を供給しなければならない。と彼はいう。「私たちはここハイチでの物事のやり方を抜本的に変えなければならない」とSoukarはいった。-
*ハイチの人は、どちらかと言えば単独ではなく他の人と一緒に働くのが習慣で、これを現地ではCombit(コンビット:協働)という。

ハイチ地震レポートNo.25

日本政府は、ハイチへの国連平和維持活動(PKO)に自衛隊を派遣することを閣議決定し、6日に第一陣160人が日本を出発した。
 地震発生から3週間が過ぎたが、いくつかの報道を見ても、まだ水や食糧、医療が届いていない被災者が数十万人もいるという。まだ、緊急救援を第一とする応急対応のフェーズと言える。
 先日、日本の国際緊急援助隊医療チームとしてハイチに派遣され、医療活動をされた看護師中井隆陽さんの現地報告会が大阪で開かれたので、聞かせていただいた。
 同医療チームは、スリランカの兵士に守られながら、看護学校の敷地にテントを張って18日から25日の1週間医療活動をし、534名の被災者の治療にあたられた。ほとんどが骨折などの外傷とのこと。これまでに充分な医療環境にないため、傷口が悪化し、大腿部から切断という大がかりな手術を必要とするケースもあったとのこと。乾季であることから朝方は20℃くらいで、日中は30℃を超す暑さにもなる。幸いこの看護学校は壊れているものの、水とシャワーは確保できたということで生活環境は最悪な事態を免れたようだ。そしてこの看護学校の学生が、献身的に手伝ってくれ精神的にも随分助けられたと中井さんは感謝されていた。
「レオガンの人は落ち着いている。」「持って生まれた明るさがあるようだし、自分たちで何とかしよう!というエネルギーを感じられる。」「生き抜く生命力を感じる。」などと中井さんはハイチ人のことを見ておられたが、ほんとに自分たちで変えて行くんだ!という振る舞いがあちらこちらで見受けられ、「勉強になり、感謝している。」ハイチの人たちにお礼を言いたいとおっしゃっていたのが印象的だった。「自助」「共助」で、次のフェーズ「復旧・復興」に早く移行できることを祈りたい。
以下は、23号から紹介しているニュース(THE JAPAN TIMES/Michelle Faul ポルトープランス AP)の続きである。
-ハイチ人が震災後の米軍介入を歓迎しているように見えるが、それが何の前兆なのかと心配する人もいる。「ハイチにマーシャルプランが必要だというのは事実です。しかし、何のために?」とソーカー氏は言う。彼はハイチのエリートを非難する。主に、明るめの肌の少数派だ。彼らには、競争力あるハイチを作ることへの関心はない。
 「これらの人々は、災害から私腹を肥やそうと、組織化する苦しみの中にいる人たちだ」とソーカー氏は言う。オバマ氏はこう約束した「1億ドルを彼らの手に」。
 ハイチ系アメリカ人で、ホテル経営者・ミュージシャン・コメンテーターであるリチャード・モース氏は、ワシントンとハイチ内の同盟者の利益は衝突すると言う。「ワシントンは民主主義を望んでいる。自由主義マーケットを、安定性を望んでいる。しかしこれらは、ハイチの90%の金を支配する同盟者の利益と相反するものである。彼らは独占によって富を蓄え、人口の80%を読み書きが出来ないままにし、安い労働力として提供しようとしている」
 ソーカー氏は米国の支援がかならず生産的な集団(例えば農家など)に渡るようにしなければならないと言う。外国の食糧を輸入し、農業生産を激減させ
てきたような輸入業者には渡してはいけないと。ハイチは、アメリカ産米の輸入業者が農民を強制的に都市に移動させるまでは、主要作物である米については自給自足してきたのだ。-

ハイチ地震レポートNo.24

いま、クワテモックが活動している病院の近くの人がインターネットを使えるようにしてくれたようで、「これで写真も送れるよ!」と言ってきました。以下彼からのメールです。
「私が活動しているところはレオガンのCardinal Leger病院の敷地です。この病院はカトリックのシスターによって運営されていました。病院は崩壊しましたが、国際スタッフによってテントでの治療が施されています。そのキャンプは”Ayuda a Haiti”(ハイチ支援)という名前のドミニカのNGOネットワークによって設置されました。最初はドミニカ人とハイチ人しかいませんでした。時間が経つにつれて、キャンプ内の人口は増え、現在はドイツ人、カナダ人、フランス人、アルゼンチン人、スペイン人、そして私たちがいます。多くは医者、看護師、救急医療隊員で、それ以外の人々は様々な活動を支えています。
キャンプはラファエル氏というドミニカ人が統括しており、現時点では私は二番目の責任者です。私は日々の活動の調整、キャンプ外の会合への参加などを色んな病院の人々と共に行っています。(病院というより医療キャンプといったほうが良いかもしれません。それら病院も崩壊しましたから。)国連人道問題調整所(OCHA)で市長との会合に参加しましたが、私は唯一、コミュニティーに通い、人々と結びつき、各種組織(例えば、農民、女性、組合など)を探している人でした。ですから、私たちはそういった組織を支援することや、ローカルな社会的ネットワークを再構築する支援ができると思います。
私は他の皆さんと同じようにテントで暮らしています。私たちの場所にはトイレや井戸があり幸運です!水があります!私たちの医療施設では、日々約700の診察が行われ、救急車サービスとして我々の場所にはない医療設備を持った他の施設に患者を移動させたり、自力では帰宅できない患者(けが人、高齢者、最貧困層・・・)をコミュニティーに送ったりしています。またモバイルクリニック(移動診療所)もやっており、レオガン周辺の多くのコミュニティーに直接でかけ、支援の届いてない地域や主要幹線道路から離れた地域であるが同じように重要な支援必要性があるところで支援をしています!
(中略) 土曜日に私が訪問したことがあるコミュニティーの代表たちと会合を開き、復興支援事業について話し合います。いずれにせよ、どの場所でも緊急に支援が必要なのはテント、食料、水です。プロジェクトについては、そのミーティングの後にあなたにお伝えできると思います。」        (現地時間 2月5日 クワテモックより)
以下は、23号で紹介している英字新聞(THE JAPAN TIMES)の続きです。
(Michelle Faul ポルトープランス AP-続き)
 米国のオバマ大統領は、ハイチを作り変えることを約束した。南米国際危機グループのマーク・シュナイダー氏によると、その誓約は米国が「ひとつの被災国に対するかつてない規模の金銭的支援」をすることを含んでいる。合計数十億(ドル)、10年以上にわたって。
 オバマのトップアドバイザー、元大統領のクリントン氏はこう言う「ハイチは過去の鎖を裁ち切り、真に現代的な国家を作る最高の機会を得たと、ハイチを見守っている人は信じている」。
 しかし、過去の米国のハイチへの介入は大きく失敗してきた。ワシントンは1915年から1934年に渡って政権を執った軍事政権を投入し、腐敗した残忍なデュバリエ一族を独裁者として支援した。デュバリエ政権は1956年から1986年まで続くが見て見ぬ振りをした。キューバの共産主義への防波堤だったからだ。
 1994年にクリントンは軍事政権追放のため、軍隊をハイチへ派遣。民主的に選出されたアリスティド大統領を復帰させた。元聖職者で、ハイチの貧しい人たちの救済者を自称するアリスティドはクリントンの政策が自身のクーデタをしかけたと非難、2004年国を追われることになった。
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ハイチ地震レポートNo.23

昨日、クワテモックに電話を入れて彼が今どのような活動をしているのかについて少し聞いてみました。彼はレオガンの壊れた病院の敷地を拠点にして、周辺7000人ほどのコミュニティの調査を始めたようです。近々、そのコミュニティにいる20人のキーパーソン(日本でいう町内会長)を集め、それぞれに現状などをヒアリングし、緊急にこのコミュニティには何が必要なのかを探りたいと言っていました。
 また、先日からラジオ関西から呼びかけている「神戸からハイチへ 応援メッセージを送ろうキャンペーン」に寄せて頂いているものを、随時彼に送信してきましたが、そのメッセージは、すでに2つのラジオ局で収録され、3つの番組で流されたとのことです。どなたのメッセージが紹介されたのかまでは確認できませんが、ご協力して下さったみなさま、ありがとうございました。その後の状況については、次回のメールを待つしかありませんが、クワテモックの安全もお祈りして下されば光栄です。
さて、一昨日、ある研究会で頂いた英字新聞(2010/1/28付)にハイチ地震の記事があり、「地震がハイチに変化のチャンスをもたらした」という小見出しが目についたので翻訳して貰いました。大変興味深い、かつ刺激的な視点で書かれており、こういう見方もあるという意味で知っておく必要があるのではないかと思いましたので、何回かに分けて紹介します。
(Michelle Faul ポルトープランス AP)
大地震は多くの国々を打ちのめすに足るものだった。しかしハイチの恐ろしい死者数と被害は、リーダーシップの弱さと外国勢力に導かれた悪政の歴史に原因を辿ることができる。外国政府と援助機関とが長くこの地を牛耳ってきたのだ。
ハイチにおける災害の歴史の中で最新となるこの地震は、この流れを変えるまたとない機会となる。研究者は革新的な解決方法を提示する。
 ハイチの政治コメンテーター、マイケル・ソーカーは、首都からの多数の航空便の利便性を活かして、イスラエルのキブツに習った農業コミュニティを創ることを提案する。
テキサス大学のサイモン・ファス教授は、19世紀のアイルランドの大飢饉による移住を例に挙げる。多数の海外移民が出れば、人口増加により悪化している環境から脱することができる。
 いずれの学者も、ハイチを事実上の暗黒時代から救い上げるためには、ハイチ人が自分達自身を助けることのできる、民主的機構を強化することだと考えを共にしている。

ハイチ地震レポートNo.22

被災地レオガンに入っているクワテモックからメールが来ました。停電があり、通信事情が劣悪な中で、わずかなチャンスを得てCODEに配信して下さいました。ここ2日~3日はメールが止まっていたので、今日4日11時頃(現地時間3日21時 )に電話を入れて元気であることを確認しましたが、その直後のメールです。
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親愛なるCODEのみなさんへ
 皆さんからついさっきお電話をいただけまして、とても嬉しいです。今回は、今までの救援活動と違ってかなり難しいです。その破壊は想像を超えています。津波の場合は、破壊は大きかったですが、海の周辺地域だけでした。ハイチの破壊はあちこちにあり、海の近くも遠くも小さなコミュニティーも都市も、全てが破壊されています。
私が見た破壊は言葉で表現することはできません。おそらく我々はこの巨大な破壊を言葉で説明することはできると思いますが、被災された人々、孤児たちや未亡人たち、そして愛するものを失った人々の痛み、失った家、失った仕事、彼らの生死の境目・・・それらを表現する言葉は見つかりません。国家の象徴であった国家宮殿、大聖堂は、そこら中の何千の家々や建物と同じように崩れ去りました。
 アメリカ大陸の最も貧しい国、そして世界で最も貧しい国の一つでこのような事態が起きてしまったのです。ですから自然災害に、このような地震の結果を説明するために、これら人々の極度の脆弱性を加えなければなりません。国連事務総長の言葉に「世界は第二次世界大戦以来の最悪の惨事を目撃している」とあります。私はレオガンを選びました。ポルトープランスを訪れ、そしてレオガンに来ました。ポルトープランスにも巨大な破壊があり、おそらく50%が破壊されたでしょう。キャンプやテントがあちこちにあります。それがこの国の首都の状態であり、それゆえに多くのNGOや国連がそこに注目しています。しかし震源はレオガンであり、約80%が破壊されているのです。ですから、私はこの場所を選び活動しています。発電器によって電気が点いた瞬間を逃さず、ドイツ人の友人の好意で無線LANに接続するパスワードを貸してもらっています。明日、あなたにこのようにメールを書くチャンスがあるように祈っています。
クワテモックより
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彼のメールにある「世界は今、第二次世界大戦の惨状と同じ光景を見ている」というフレーズは、2004年のインド洋地震津波災害のときにも確か同じような表現を聞いたことを思い出しました。残念ながら一国の被害では過去最大の惨事ではありますが、2004年の津波災害の犠牲者22万人を上回りそうです。
あらためて、亡くなった方々のご冥福を祈ります。

ハイチ地震レポートNo.21

 このCODEが配信しているハイチ地震レポートでも、再三再四伝えていることですが、ハイチ地震以後、被災地ハイチ全土で略奪や暴動が起きているかのような報道を目にするけれども、実はいろいろなレポートを見ると「意外に平穏である。」とか、「暴動は起きいていない」という指摘も少なくありません。
 去る1月25日、ハイチ前首相ミッシェル・ピエール・ルイが、「ハイチへの誇りと希望」というメッセージを出されました。(全文訳は、http://ow.ly/11K9B)
 このメッセージには、「私はポルトープランスに誇りが生まれつつあるのを感じます。自立への誇り。人々は、私たち自身が、私たちを掘り出さなくてはいけないんだと言います。文字通り・・・・コミュニティ・リーダーは市民を組織し、安全を確保するためのに重要な役割を果たしつつあります。暴動のニュースは誇張されすぎています。ハイチでは、部分的にせよ、自分たちでどうにかできていることを証明しようと
しているようです。もちろん援助は必要です。緊急援助と私たちの荒廃した国を前に進めるための計画が必要です。」とあります。
 ハイチの人たちは、「自分たちの国は、自分たちで再建するんだ!」という力強い決意を持っていることが伝わってきます。この前首相のメッセージを読んで思い出したことがあります。阪神・淡路大震災後の2日目に阪神大震災地元NGO救援連絡会議を立ち上げた故草地賢一が、同年3月にコペンハーゲンで開かれた国連社会開発サミットのNGOフォーラムで発表したアピール「生きることは分かちあうこと」の中で、「今この長田の人々が始めている市民参画型、市民提言型の復興プランづくりに私は言葉だけ知っていた”主権在民”の具体的な実現があるように感じています。」とスピーチしました。ハイチは、まだ50万人がテントなき生活を送っているという状況です。規模は違いますが、いま、ハイチの被災者は、15年前私たちがKOBEの地で「私たちのできることは私たちでしよう!大事なことは自分たちで決めよう!」と体験したことと同じステージに立っているのだと共感します。同首相は「(救助)という最初の段階の終わりにあります。」と認識されていますが、復旧→復興へと進むこれからが大変です。
 
 みなさん!ハイチに関するマスコミの報道は激減しています。でも、ハイチはこれからです。是非、末永くご支援をよろしくお願いします

ハイチ地震レポートNo.20

通信事情が悪い中で、クワテモックさんからメールが来ましたのでご紹介します。
-私はレオガンのラジオ・クールに出演し、神戸市民からのメッセージを伝えました。日本在住のハイチ人からとメキシコの被災者からのメッセージも伝えました。彼らは来週月曜日の私の生放送インタビューをポルトープランスのラジオ・カリブで流してくれる予定です。
 私のレオガンの拠点では、この地域の被災者を救うために医療ネットワークを確立しようとしています。現時点では我々はレオガンで活動する唯一のNGOです。
もっと書きたいですが、この地域は電気が無く、インターネットもありませんので、連絡し続けることは難しいです。いずれにせよ、少しずつですが、私は動きやすくなっています。10日間ほどの延長を追求します。-
というものです。さて、ハイチへメッセージを贈る活動を、ラジオ関西さんと一緒にしていますが、先日阪神・淡路大震災の被災者からも届けられ、早速現地語に翻訳して頂きクワテモックに送付しました。その中の一つを紹介させて頂きます。
-地震直後から半年間は、「なんで私たちだけこんな目に?」と「なんで私たちだけ生き残ったのか?」という二つの気持ちが衝突して、葛藤した日々でした。もし同じ気持ちを抱えていらっしゃる人がいれば、どうか一人ではないことを忘れないでほしいと思います。(Y・K)-
 今回、ハイチ地震の被災者の振る舞いを見ていて、阪神・淡路大震災でも注目された「自助」「共助」の意味が、より具体的で、身近なものとして捉えることができました。
 これだけの被害に遭いながら、自分たちの国のことだから自分たちでできることはしよう!という姿は、世界中の人々に感動を与えてくれます。KOBEの地から遠く離れていても、寄り添っている誰かを介していれば、こうしてつながり、共感もできるということを証明してくれます。いま、私たちが何をしなければならないのか?
このことをしっかり考えさせられる毎日です。
 15年前、私たちは「支えあいは自立から」と言ってきました。いま、このことを実感を持って言うことができます。15年前、私たちは誓いました。
-被災地の私たちは、自ら「語り出す」「学ぶ」「つながる」「つくる」「決める」行動を重ね、新しい市民社会を創造していく力を養っていくことから、私たち自身の復興の道を踏み出していくことを、強くよびかける。-(『市民とNGOの「防災」国際フォーラム』神戸宣言1995より)