月別アーカイブ: 2013年6月

【2013年ハイチ訪問レポート No.4】

5月に代表の芹田と事務局長の吉椿がハイチ地震の被災地を訪れました。
引き続き、そのレポートをお送りします。
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■2013年ハイチ訪問レポート No.4
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「ハイチ?それはどこだ?」とニューヨークの空港職員に言われた。
ハイチを「裏庭」と呼ぶアメリカは、良質のコメなどハイチの食料の多くを自国に輸出させている。そしてアメリカによるプランテーションや大幅な関税引き下げがハイチの農業を崩壊へと導き、貧困に拍車をかけた。にもかかわらず、アメリカ人の多くがハイチという国の存在をあまり知らない。日本もまたしかりであるが、ハイチはまさに世界から「忘れられた国」なのである。そんな中、ハイチを襲った大地震は「史上最大の人道危機」と国連高官が語るほど甚大な被害を出した。地震が、ハイチという名を世界中に知らしめた。
3年を経た今、NGOや国際機関も徐々に現地を去りつつあるが、未だ36万人が496か所の避難キャンプで暮らしているように住宅問題は依然解消されないままである。また、昨年11月のハリケーン、サンディは、54名の命を奪い、1万8千戸の家屋に浸水、倒壊の被害を出した。農作物でもトウモロコシに42%、コメの30%がダメになったという報告もある。
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▲援助機関によって建設されたシェルター
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▲無数にある避難キャンプ
CODEのプロジェクトである農業技術学校(ETAL)は、シスター須藤が以前、農業大臣から譲り受けた土地に建設される。現在はGEDDHが、畑などを作って管理しているが、地震後、この土地にも住居を失ったたくさんの被災者が押し寄せてテントなどで住み始めたそうだ。そんな被災者を追い出す訳にもいかず、IOM(国際移住機関)の協力によって新しい住居を確保して去って行ったのがつい最近の事だとシスター須藤は言う。
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▲農業技術学校建設予定地
ハイチでは全人口の10%の裕福な人々がハイチの全収入の68%を占め、土地の90%を所有しているという。多くの農民は小作農で、育てた作物は地主に安く買いたたかれ、農民は農業に対してやる気をなくしていく。そして仕事を求め、都会へ流入していく。こんなアンバランスと悪循環がハイチの貧困を助長している。ハイチを忘れられた国のままにしてはいけない。 
(吉椿雅道)

【2013年ハイチ訪問レポート No.3】

CODE海外災害援助市民センターです。
5月に代表の芹田と事務局長の吉椿がハイチ地震の被災地を訪れました。
引き続き、そのレポートをお送りします。
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■2013年ハイチ訪問レポート No.3
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2010年1月12日のハイチ大地震の震源地にも近かったレオガン市は、首都ポルトープランスから西へ約29kmに位置する。超渋滞のポルトープランスの喧騒を抜け、車を40分ほど西に走らせるとレオガン市に到着する。3年を経た被災地レオガンでは、瓦礫はかなり撤去され、すでに新しい家も再建されているが、ところどころ倒壊したままの住宅や建設途中で放置されたままの住宅も目に入る。
現在、衛生状況の改善のためJICAによって下水道工事が町の中心部で行われている。だが、この時期、スコールのように激しい雨が降ると少し奥まった道はすぐに川のようになり、未だインフラ整備が不十分であることがうかがえる。
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▲雨の後の道路
レオガン市街の少し手前の国道2号線沿いに広大な敷地に囲まれた施設が見えてくる。そこが「国立シグノ結核療養所」と「Cardinal Leger Hospital」という病院である。地震によって療養所の入院病棟のほとんどは倒壊し、そこで亡くなった方もいる。その後、助かった患者さんの多くも1年以上もテントでの療養生活を強いられたという。現在は、日本政府の協力によって療養所は新しく再建され、まもなく開所される。
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▲再建された療養所
ここで37年間、結核治療を行ってきたのが、クリスト・ロア修道女会のシスターである須藤昭子さん(86歳、医師)である。シスター須藤の活動は、結核治療はもちろん、長い間ハイチで暮らす中で国民の4割が慢性的な栄養不足にある事が医療に影響していることに気づき、食を満たすための農業の必要性を訴えてきた。自らタイに出向いて「炭焼き」を学び、炭を焼く過程で出る木酢液や炭を利用した肥料や防虫剤などが農作物に有効だという事をハイチの人々に教えた。そんな活動の中からGEDDHという地元のグループが生まれた。彼らは、学んだ農業技術をレオガン周辺の農村の人々に教えたり、度重なる洪水によって奪われていく農地を植林によって守ろうとしている。GEDDHが、CODEの建設する農業技術学校(ETAL)の農業実習を担当し、一緒に土にまみれながら若者を育てていく。 
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▲土止めの為に植林された竹
(吉椿雅道)

【2013年ハイチ訪問レポート No.2】

5月に代表の芹田と事務局長の吉椿がハイチ地震の被災地を訪れました。
CODEは、前回(2012年8月)の訪問時に、被災地レオガンで地元NGO「GEDDH」が計画してきた農業技術学校の建設支援を決定し、調整を進めてきました。今回は着工に向けて、最終の打合せを行ってきました。
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■2013年ハイチ訪問レポート No.2
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ハイチ大地震から3年を経た今も36万もの人が496か所の避難キャンプのテントやトタンなどの粗末な小屋で暮らしている。元々、首都ポルトープランスには仕事を求めて農村部から流入して来た人々がスラムを形成して暮らしているが、地震によってより過酷な状況に追い込まれている。
ハイチの人口約1000万人のうち、首都ポルトープランスには3分の1近い250万から300万人の人が住んでいるというからその密集度は容易に想像できる。ハイチでは国民の80 %が1日2ドル以下の生活をスラムで送っているという。ポルトープランスの南部にそびえる山の斜面にへばりつくように簡素な住宅がひしめき合っているところがスラムだという。また、ハイチの貧困を象徴と言われるスラム「シテ・ソレイユ」は元々、ゴミ捨て場だったそうで、そこに農村部から人々が移り住んで来て、現在は30万人が暮らしているという。周辺には地震後に簡易住宅が建設されているが、依然混沌とした雰囲気だ。
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スラムに住む多くの人々は、路上に物を並べて売る露天商が多いという。野菜、果物などの食料品から服、帽子、草履、炭、雑貨などの日用品までがずらりと並んでいる。しかも暑い中、働いているその多くは女性で、たくましさに満ちあふれている。町を歩く女性の多くは頭に籠やタライのようなものを乗せ、落とさずに器用に歩いている。遠い昔、アフリカから連れて来られた時の習慣が綿々と今に伝わっているのだろう。
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 街中を走る車の車窓から写真を撮っているとボディガードに「トラブルのもとになるから気をつけろ!」と言われ、一瞬ドキッとした。アジア系の顔が珍しいのか、車から外を見ているとよく目が合う。ハイチの人は目が合ってもじっと逸らさない。そんな風に見つめられるとこっちも一瞬目を逸らしそうになるが、恐る恐る手を挙げると「おう!」というような感じで手を挙げ返して、屈託のない満面の笑顔を返してくれる時がある。その笑顔の裏には、独裁政権とクーデター、アメリカの関税引き下げによる農業の崩壊、地震、洪水、ハリケーンなどの自然災害、コレラの大感染などの過酷な歴史を生き抜いてきた強さやたくましさがある。西半球最貧国と言われるハイチの希望は、この人々の何事にも屈しない「たくましさ」にあるような気がする。 

(吉椿雅道)

【2013年ハイチ訪問レポート No.1】

5月に代表の芹田と事務局長の吉椿がハイチ地震の被災地を訪れました。
CODEは前回(2012年8月)の訪問時に、被災地レオガンで地元NGO「GEDDH」が計画してきた農業技術学校の建設支援を決定し、調整を進めてきました。今回は着工に向けて、最終の打合せを行ってきました。
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■2013年ハイチ訪問レポートNo.1
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2010年1月12日、西半球で最も貧しい国と言われるハイチ共和国を襲ったM7.0 の地震は約22万人の人々の命を奪い去り、同年10月には洪水によるコレラ感染が拡大し、2013年3月24日までに全土で8053人(UNOCHA調べ)がその犠牲となった。また、ハイチはハリケーンの常襲地帯でもあり、毎年のように被害が出ている。
ハイチ大地震から約3年5か月。ハイチの首都であるポルトープランス空港に着陸する直前、空から見下ろしたハイチの大地は赤茶けた土肌がむき出しになっていた。話には聞いていたが、本当に山には森林がほとんどなかった。ハイチの森林被覆率は、わずか1,25%という。2005年までの15年間だけでも11000ヘクタールの広大な森林が失われた。ハイチという言葉は、先住民の言葉(アラワク語)で、山多き土地という意味だそうだ。昔は、その名の通り国土が森に覆われ、ヨーロッパ人の入植前の1500年頃は国土の75%が森林だったという。フランス植民地時代の大規模プランテーションのために、そして独立後は、98%の森林は燃料用の木炭を得るために伐採されてきた。1993年の国連の経済封鎖よって燃料輸入が止まった事が伐採に拍車をかけた。木炭は、ハイチでの燃料需要の75%以上を占めるというほどだ。
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ハリケーンでなくても、この時期、午後には必ずスコールのような大粒の激しい雨が降る。森林がなく保水力を失った山に降り注いだ雨は、土壌に浸透することなく一気に川へと流れ込み、川沿いの農村の田畑を侵食し、農地が減少していっている。
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そんな状況を見かねたシスター須藤昭子さん(37年間ハイチに滞在し、結核などの医療活動に従事してきた86歳の日本人医師)は、地元のグループとNGO「GEDDH」を立ち上げ、植林、農業、炭焼きなどの活動を行っている。シスター須藤は、「せっかく病気が治っても食べられなければ意味がない。」と農業の必要性を語る。
1804年の独立前は、ハイチは「カリブ海の真珠」と呼ばれるほど沢山の農産物を輸出していたという。CODEは、そんなハイチの農業と森林の再生を目指したGEDDHの活動を若い世代に伝えるべくレオガン農業技術学校(ETAL)の建設支援を行う。ハイチの未来を担う若者の思いを乗せて、まもなく学校の建設が始まる。

(吉椿雅道)