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ハイチ地震から5年を経て

2015年1月12日 で、ハイチ地震から5年が経ちました。5年 前にマグニチュード7.0の地震に襲われたハイチでは、22万人の尊い命が奪われました。黒人初の独立国であり、かつては「カリブ海の真珠」とも呼ばれていたハイチですが、今では西半球で最も貧しい国になってしまいました。

CODEは地震発生直後からこれまで、移動診療所の開設、現地NGOの 支援や露天商を営む女性のマイクロファイナンスを通した支援などに取り組んできました。2013年 にはハイチに30年以上滞在していたシスター須藤とともに被災地レオガンでの農業技術学校 (ETAL)の建設をすることになりました。2014年 夏に着工が始まり、現在では約8割が完成しています。現地からの情報によると、ETALは既に開校し、17名の生徒がCCFPL (地震後海外NGOによって 建てられた職業訓練学校)を仮校舎として授業を開始しているとのことです。ETALの校舎 が完成し次第、生徒たちはそちらに移り授業を受けることになります。昨年9月シスター須藤 を神戸にお呼びした講演会では、シスターは「希望が子どもを育てる」と仰っていました。この学校がハイチの子どもたちにとって未来への希望になることを願っています。

(小坂めぐみ)

シスター須藤 講演と対談 No.3

「ハイチの人の美しい心」

貧困やクーデター、国連による経済制裁という過酷な時期をハイチで過ごしたシスター須藤。そんな中で出会ったハイチの人の美しい心を感じるエピソードを語ってくれた。

ある日、シスターたちが子どもたちにパンを配っている時、一人の女の子は食べようとしなかったという。シスターが訊ねるとその女の子は、「妹がいるんだけど・・・」と言う。「もう一つ下さい。」が言えないでいるその女の子。パンをもう一つあげると飛び上がって喜ぶ姿を見てシスターは、「貧しくても自分の事だけを考えない」のその子の気持ちを感じた。

また別の日、山の中から死にかかった子どもを連れてきた母親がいた。治療の甲斐なく結局、その子は亡くなってしまったが、その後の母親の行動にシスターは驚いたという。数日後、その母親はお礼に大きな重いヤシの実を抱えて山からやって来た。「子どもは亡くなってしまったのに。しかも自分たちの貴重な飲み物を。。」シスターは、その気持ちで心がいっぱいになってその母親と一緒にヤシジュースを飲んだそうだ。「ハイチの人たちは貧しいながらも非常に優しい心を持っている。そういう経験をハイチでさせてもらった。」と語るシスター。

そしてある時、シスターは、警察がある事件で道を封鎖している事態に遭遇した。この道を通らないと帰れない状況で困っていると、村人たちが別の道へと通してくれた。その時、一人の女性がシスターの顔を見ながら「神様、この人を通してくれてありがとう。」と言った。見ず知らずの自分にしてくれた、その素直な気持ちを感じたそうだ。

シスターはこの三つのエピソードから物や金だけでない幸せをハイチで経験させてもらったという。「人間はどうしても一人で生きていく事はできない。心の支えが必要。物がなくても、あげられることが出来なくても、何もできなければ、微笑だけでも相手にうつせばいい。」日本人はそういう事を恥ずかしがるが、ハイチ人のように恥ずかしがらずに素直にその時の気持ちを言葉に表したらいいと言うシスター須藤だった。(つづく)
(吉椿雅道)

シスター須藤 No.3

シスター須藤 講演と対談 No.2

「経済制裁と貧富の格差」

シスター須藤がハイチに行った頃は、デュバリエ親子二代による独裁政権(1957~1986年)の渦中で非常に厳しい状態ではあったが、逆に政情が安定していたという。政権崩壊後はクーデターの連続で、町中で銃撃戦を行われ、住民も避難する状況であったという。そんな中で国連による経済制裁が最も苦しかったとシスターは言う。

経済制裁によって石油の輸入を止められた事で井戸から水もくみ上げることさえも出来ず、病人を多数抱えるシスターの病院では死活問題だった。国連のやる事がその国の人にどれだけの危害を加えたか、とつくづく感じたという。

また、この時、国民の2%と言われる大金持ちは、豪邸のプールに石油(重油)をため込み、病気になるとすぐに自家用機でマイアミまで飛んで行くそうだ。2%の最裕福層と80%以上の貧困層の厳しい格差を見せつけられたシスターだった。

どうすればこの国がよくなるのか、どうようにしていけばこの国の人たちがよくなるのかを考える事も出来ない、想像を絶する状態だったと当時を振り返る。その後、少しずつ状態が良くなりかけたハイチにM7.0 の大地震(死者22万人以上)が襲った。地震がハイチを元の状態に戻してしまったと語るシスターだった。

(つづく)(吉椿雅道)

「シスター須藤 講演と対談」  No.1

 先日、ハイチ大地震復興支援として「ハイチからの祈り~シスター須藤昭子さん 講演と対談」を開催し、70名の方にご参加いただきました。ハイチに37年滞在されたシスター須藤のハイチへの思いを語っていただきました。当日の参加費やカンパはシスター須藤と共に行う農業学校建設プロジェクトの運営資金として使わさせていただきます。ありがとうございました。今後ともご支援、ご協力のほどよろしくお願いいたします。「シスター須藤 講演と対談」  No.1

「神のはからいに限りなく、生涯私はその中に生きる。」シスター須藤の講演はこの言葉から始まった。シスター須藤は、今までこの言葉のように生きてきた、そしてこれからもこのように生きていきたいと語った。

かつて日本でも結核が死亡第一原因と言われた事さえも忘れさられようとしていた頃、ハイチでは結核で多くの人が亡くなっていた。当時日本で、結核治療に従事していたシスター須藤は、「日本で結核がなくなったのに何故、世界の中でこのような国があるのだろう。日本と同じような事をすれば、この国の状態もよくなるだろうと思って、どうぞそこに行かせてください。」と自ら修道会にハイチ行きを懇願したという。

1976年、そんな思いでハイチに到着したシスターは、思わずハイチの大地に接吻をしたい気持ちに駆られたそうだ。この新しい国の人たちとどう一緒に生きていけるのだろう、本当に心から愛し合っていけるのだろうか、と希望と不安と喜びに満ちた感情だったと振り返る。

だが、その思いとは裏腹に現実は非常に厳しかった。熱帯の暑気とほこり、人々の喧騒、そして水がないことに驚いたという。水の供給は一日、早朝の2時間のみで、病院にも炊事や洗濯の水さえなかった。また、ある日、市場に行った時に死にそうになっている2歳の男の子を見かけ、「お金がないんです」とその母に言われ、病院に連れ帰り、治療したところ、男の子は元気になっていった。この時、シスターはハイチに来て本当によかったと思ったそうだ。

結核の為に必要な事は、「安静」、「きれいな空気」、「栄養」だとシスターは言う。その必要な栄養がない。そのためには食を育てる学
校が必要だとシスターは長年、思い続けていた。2010年の大地震を機に、シスター須藤が地元のハイチ人と立ち上げたNGO、GEDDHとCODEが連携しておこなう農業技術学校建設プロジェクトが動き出した。

長年の夢が実現に向かって行っているのは、「不思議な神様のはからい」だと語るシスター須藤だった。(つづく)(吉椿雅道)

シスター須藤昭子さん 講演
シスター須藤昭子さん 講演の様子

 

【農業技術学校ETALの校舎建設がはじまりました】

ハイチ農業技術学校建設プロジェクトに新たな動きがありました。
農業技術学校(ETAL)の建設が、6月末より開始しました。校舎の完成は9月を予定しています。
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校舎建設作業のようす
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農業技術学校ETAL 看板
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農業技術学校校長になるブローさん(右)と実習担当のジョセフさん(GEDDH)(左)

【2013年ハイチ訪問レポート No.4】

5月に代表の芹田と事務局長の吉椿がハイチ地震の被災地を訪れました。
引き続き、そのレポートをお送りします。
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■2013年ハイチ訪問レポート No.4
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「ハイチ?それはどこだ?」とニューヨークの空港職員に言われた。
ハイチを「裏庭」と呼ぶアメリカは、良質のコメなどハイチの食料の多くを自国に輸出させている。そしてアメリカによるプランテーションや大幅な関税引き下げがハイチの農業を崩壊へと導き、貧困に拍車をかけた。にもかかわらず、アメリカ人の多くがハイチという国の存在をあまり知らない。日本もまたしかりであるが、ハイチはまさに世界から「忘れられた国」なのである。そんな中、ハイチを襲った大地震は「史上最大の人道危機」と国連高官が語るほど甚大な被害を出した。地震が、ハイチという名を世界中に知らしめた。
3年を経た今、NGOや国際機関も徐々に現地を去りつつあるが、未だ36万人が496か所の避難キャンプで暮らしているように住宅問題は依然解消されないままである。また、昨年11月のハリケーン、サンディは、54名の命を奪い、1万8千戸の家屋に浸水、倒壊の被害を出した。農作物でもトウモロコシに42%、コメの30%がダメになったという報告もある。
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▲援助機関によって建設されたシェルター
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▲無数にある避難キャンプ
CODEのプロジェクトである農業技術学校(ETAL)は、シスター須藤が以前、農業大臣から譲り受けた土地に建設される。現在はGEDDHが、畑などを作って管理しているが、地震後、この土地にも住居を失ったたくさんの被災者が押し寄せてテントなどで住み始めたそうだ。そんな被災者を追い出す訳にもいかず、IOM(国際移住機関)の協力によって新しい住居を確保して去って行ったのがつい最近の事だとシスター須藤は言う。
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▲農業技術学校建設予定地
ハイチでは全人口の10%の裕福な人々がハイチの全収入の68%を占め、土地の90%を所有しているという。多くの農民は小作農で、育てた作物は地主に安く買いたたかれ、農民は農業に対してやる気をなくしていく。そして仕事を求め、都会へ流入していく。こんなアンバランスと悪循環がハイチの貧困を助長している。ハイチを忘れられた国のままにしてはいけない。 
(吉椿雅道)

【2013年ハイチ訪問レポート No.3】

CODE海外災害援助市民センターです。
5月に代表の芹田と事務局長の吉椿がハイチ地震の被災地を訪れました。
引き続き、そのレポートをお送りします。
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■2013年ハイチ訪問レポート No.3
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2010年1月12日のハイチ大地震の震源地にも近かったレオガン市は、首都ポルトープランスから西へ約29kmに位置する。超渋滞のポルトープランスの喧騒を抜け、車を40分ほど西に走らせるとレオガン市に到着する。3年を経た被災地レオガンでは、瓦礫はかなり撤去され、すでに新しい家も再建されているが、ところどころ倒壊したままの住宅や建設途中で放置されたままの住宅も目に入る。
現在、衛生状況の改善のためJICAによって下水道工事が町の中心部で行われている。だが、この時期、スコールのように激しい雨が降ると少し奥まった道はすぐに川のようになり、未だインフラ整備が不十分であることがうかがえる。
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▲雨の後の道路
レオガン市街の少し手前の国道2号線沿いに広大な敷地に囲まれた施設が見えてくる。そこが「国立シグノ結核療養所」と「Cardinal Leger Hospital」という病院である。地震によって療養所の入院病棟のほとんどは倒壊し、そこで亡くなった方もいる。その後、助かった患者さんの多くも1年以上もテントでの療養生活を強いられたという。現在は、日本政府の協力によって療養所は新しく再建され、まもなく開所される。
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▲再建された療養所
ここで37年間、結核治療を行ってきたのが、クリスト・ロア修道女会のシスターである須藤昭子さん(86歳、医師)である。シスター須藤の活動は、結核治療はもちろん、長い間ハイチで暮らす中で国民の4割が慢性的な栄養不足にある事が医療に影響していることに気づき、食を満たすための農業の必要性を訴えてきた。自らタイに出向いて「炭焼き」を学び、炭を焼く過程で出る木酢液や炭を利用した肥料や防虫剤などが農作物に有効だという事をハイチの人々に教えた。そんな活動の中からGEDDHという地元のグループが生まれた。彼らは、学んだ農業技術をレオガン周辺の農村の人々に教えたり、度重なる洪水によって奪われていく農地を植林によって守ろうとしている。GEDDHが、CODEの建設する農業技術学校(ETAL)の農業実習を担当し、一緒に土にまみれながら若者を育てていく。 
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▲土止めの為に植林された竹
(吉椿雅道)

【2013年ハイチ訪問レポート No.2】

5月に代表の芹田と事務局長の吉椿がハイチ地震の被災地を訪れました。
CODEは、前回(2012年8月)の訪問時に、被災地レオガンで地元NGO「GEDDH」が計画してきた農業技術学校の建設支援を決定し、調整を進めてきました。今回は着工に向けて、最終の打合せを行ってきました。
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■2013年ハイチ訪問レポート No.2
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ハイチ大地震から3年を経た今も36万もの人が496か所の避難キャンプのテントやトタンなどの粗末な小屋で暮らしている。元々、首都ポルトープランスには仕事を求めて農村部から流入して来た人々がスラムを形成して暮らしているが、地震によってより過酷な状況に追い込まれている。
ハイチの人口約1000万人のうち、首都ポルトープランスには3分の1近い250万から300万人の人が住んでいるというからその密集度は容易に想像できる。ハイチでは国民の80 %が1日2ドル以下の生活をスラムで送っているという。ポルトープランスの南部にそびえる山の斜面にへばりつくように簡素な住宅がひしめき合っているところがスラムだという。また、ハイチの貧困を象徴と言われるスラム「シテ・ソレイユ」は元々、ゴミ捨て場だったそうで、そこに農村部から人々が移り住んで来て、現在は30万人が暮らしているという。周辺には地震後に簡易住宅が建設されているが、依然混沌とした雰囲気だ。
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スラムに住む多くの人々は、路上に物を並べて売る露天商が多いという。野菜、果物などの食料品から服、帽子、草履、炭、雑貨などの日用品までがずらりと並んでいる。しかも暑い中、働いているその多くは女性で、たくましさに満ちあふれている。町を歩く女性の多くは頭に籠やタライのようなものを乗せ、落とさずに器用に歩いている。遠い昔、アフリカから連れて来られた時の習慣が綿々と今に伝わっているのだろう。
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 街中を走る車の車窓から写真を撮っているとボディガードに「トラブルのもとになるから気をつけろ!」と言われ、一瞬ドキッとした。アジア系の顔が珍しいのか、車から外を見ているとよく目が合う。ハイチの人は目が合ってもじっと逸らさない。そんな風に見つめられるとこっちも一瞬目を逸らしそうになるが、恐る恐る手を挙げると「おう!」というような感じで手を挙げ返して、屈託のない満面の笑顔を返してくれる時がある。その笑顔の裏には、独裁政権とクーデター、アメリカの関税引き下げによる農業の崩壊、地震、洪水、ハリケーンなどの自然災害、コレラの大感染などの過酷な歴史を生き抜いてきた強さやたくましさがある。西半球最貧国と言われるハイチの希望は、この人々の何事にも屈しない「たくましさ」にあるような気がする。 

(吉椿雅道)

【2013年ハイチ訪問レポート No.1】

5月に代表の芹田と事務局長の吉椿がハイチ地震の被災地を訪れました。
CODEは前回(2012年8月)の訪問時に、被災地レオガンで地元NGO「GEDDH」が計画してきた農業技術学校の建設支援を決定し、調整を進めてきました。今回は着工に向けて、最終の打合せを行ってきました。
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■2013年ハイチ訪問レポートNo.1
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2010年1月12日、西半球で最も貧しい国と言われるハイチ共和国を襲ったM7.0 の地震は約22万人の人々の命を奪い去り、同年10月には洪水によるコレラ感染が拡大し、2013年3月24日までに全土で8053人(UNOCHA調べ)がその犠牲となった。また、ハイチはハリケーンの常襲地帯でもあり、毎年のように被害が出ている。
ハイチ大地震から約3年5か月。ハイチの首都であるポルトープランス空港に着陸する直前、空から見下ろしたハイチの大地は赤茶けた土肌がむき出しになっていた。話には聞いていたが、本当に山には森林がほとんどなかった。ハイチの森林被覆率は、わずか1,25%という。2005年までの15年間だけでも11000ヘクタールの広大な森林が失われた。ハイチという言葉は、先住民の言葉(アラワク語)で、山多き土地という意味だそうだ。昔は、その名の通り国土が森に覆われ、ヨーロッパ人の入植前の1500年頃は国土の75%が森林だったという。フランス植民地時代の大規模プランテーションのために、そして独立後は、98%の森林は燃料用の木炭を得るために伐採されてきた。1993年の国連の経済封鎖よって燃料輸入が止まった事が伐採に拍車をかけた。木炭は、ハイチでの燃料需要の75%以上を占めるというほどだ。
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ハリケーンでなくても、この時期、午後には必ずスコールのような大粒の激しい雨が降る。森林がなく保水力を失った山に降り注いだ雨は、土壌に浸透することなく一気に川へと流れ込み、川沿いの農村の田畑を侵食し、農地が減少していっている。
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そんな状況を見かねたシスター須藤昭子さん(37年間ハイチに滞在し、結核などの医療活動に従事してきた86歳の日本人医師)は、地元のグループとNGO「GEDDH」を立ち上げ、植林、農業、炭焼きなどの活動を行っている。シスター須藤は、「せっかく病気が治っても食べられなければ意味がない。」と農業の必要性を語る。
1804年の独立前は、ハイチは「カリブ海の真珠」と呼ばれるほど沢山の農産物を輸出していたという。CODEは、そんなハイチの農業と森林の再生を目指したGEDDHの活動を若い世代に伝えるべくレオガン農業技術学校(ETAL)の建設支援を行う。ハイチの未来を担う若者の思いを乗せて、まもなく学校の建設が始まる。

(吉椿雅道)

ハイチ地震から3年

2010年1月12日のハイチ大地震から今日で3年となりました。この震災で23万人以上が亡くなり、150万人以上が家を失ったと言われており、今でも35万人以上がテント生活を送っています。
地震直後、被災地KOBEからの呼びかけで、ラジオ関西を通してメッセージを集めてこれをハイチのラジオ局から発信してもらいました。遠く離れていても心は寄り添っていることを伝え、痛みの共有をしたいとの思いからです。ハイチの困難は震災に始まったわけではありません。以前から深刻な貧困が問題となっていましたが、ハイチという国のことをあまり知らなかった方が多いと思います。私も恥ずかしながらまったくといってよいほど知りませんでした。世界中の地域や日本国内の種々の問題にも言えることですが、苦しみに対する無関心は、当事者にとって一層苦しみを募らせます。メッセージはお腹を満たす役割は果たしませんが、それでも思いを寄せることの大切さを、KOBEの人から教わったように思います。
さて、ハイチのマルテリー大統領が1月1日、次のような発表を行ったことを世界各紙が報じています。大統領は2013年を「環境の年」にすると言います。「自然災害に立ち向かうため、ハイチ人一人ひとりが1本ずつ木を植えてほしい」。彼は特に森林の再生に注目しています。ハイチの森林は国土の2%未満。毎年来るハリケーンですぐに川が溢れ、甚大な被害をもたらしています。雨も多く暑いこの地域は、かつて豊かなみどりに包まれていました。しかし独立後の外国の干渉や独裁政権下で命をつなぐ手立てが尽きたとき、人々は森に資源を求めるほかなかったのです。
首都から40kmほど西にあるレオガン市に「GEDDH」(ジェッド。ハイチの環境保全、改善のために持続して働くグループ)というNGOがあります。GEDDHは2005年から、日本人医師シスター須藤(※注)のもとで植林と炭焼きに取り組み、着実にその実践方法を広めてこられました。いまでは総会に全国から300人以上が集まるほどだそうです。一人が100本の木を植えるよりも100人が一本ずつ植えることが、目指す社会を築く上では大切です。まさに木の枝のように全国のGEDDHのメンバーがそれぞれの地域で活動を広げるとともに、しっかりとそれが根付いていっています。CODEは2012年8月、シスター須藤の紹介でGEDDHとお会いしました。さらにたくさんの人に農業と植林の大切さを伝えたい、とGEDDHが計画していた農業学校の建設をお手伝いさせていただくことになり、そのお話を進めています。
大統領はまた、「ハイチの食糧自給率を70%にする」とも述べています。従来から、ハイチの主要な産業は農業です。植林によって農地を確保し、そこから自分たちの食べるものと雇用が生まれる――長いプロセスかもしれませんが、このように自然とともに生きることがまさにナチュラルなあり方だと思えます。KOBEももうすぐ1.17を迎えますが、ハイチの復興から私たちも学ぶことがたくさんあります。
(※注)シスター須藤:ハイチで1976年から医療活動を行ってこられた日本人医師。医療を行うなかで、人々の暮らしと健康のために農業が欠かせないと考え、自ら炭焼きを学ばれ地元の青年に伝えたことからGEDDHが生まれました。
(岡本千明)