月別アーカイブ: 2012年9月

【2012年ハイチ訪問レポートNo.9】


8月、代表の芹田とスタッフの岡本がハイチ地震の被災地を訪れました。
カウンターパートのACSISを通して支援した女性の暮らしを、いくつかのレポートに分けてご紹介していきます。
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■2012年ハイチ訪問レポートNo.9
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*ミルベル・ローズ・セイントアニーさん(軽食販売)の話
広場の一角で、サツマイモを揚げたものやパイの中に卵や野菜を入れて揚げたもの(パティと呼ばれる)、豚肉料理などを売る屋台を営んでいる。サツマイモとパティ1つずつで15グールド(30円)であった。
500ドルを借り、様々な材料の仕入れに使って店を強化した。地震で材料や道具を失ったので、それを埋めることができた。返済も終わり、軌道に乗っている。子どもは4人(10代~20代くらい)で彼女の店を手伝っている。日に2000~2500グールド(4000~5000円)を売り上げる。
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*デセナ・マリー・カルメレさん(露天食堂)の話
「またローンを借りたいのよ。いつやるのよ?」それが彼女の第一声だった。これまでで一番パワフルな方である。デセナさんは初めに250ドルを借り、返済。次に500ドルを借り、これも返済した。彼女の仕事は露天食堂である。壊れた誰かの家の軒先に調理器具を置き、残った骨組みを店として利用している。
豆入りのごはんに、野菜の煮込みと肉を乗せたハイチの定番料理が80グールド(160円)。調理の際、ハイチでは炭を使うことが多い。ジュースは大きなクーラーボックスに氷水を溜め、冷やしてある。忙しく働くデセナさんの横で、娘さんの一人が手伝っている。
彼女には4人の子どもがいるが、夫はいない。教育費がかかるという。「私以外はみんな学校に行ったわ」と笑う。一日1500~2000グールド(3000~4000円)を売り上げる。
繁盛しているらしく、私たちがここで昼食を取っている間にも何組かの客が訪れた。外で働く人たちは、こうした食堂で昼食を取ることが多いようだ。「またローンを借りられたら、もっと店を大きくしたいわ」と微笑んだ。
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【2012年ハイチ訪問レポートNo.8】

8月、代表の芹田とスタッフの岡本がハイチ地震の被災地を訪れました。
カウンターパートのACSISを通して支援した女性の暮らしを、いくつかのレポートに分けてご紹介していきます。
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■2012年ハイチ訪問レポートNo.8
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*エバルス・マージョリーさん(日用品売り)
13歳の娘と夫の3人暮らし。夫婦そろって話に応じてくれた。見たところ、震災前から住んでいるという家は小奇麗である。震災で家にひびが入ったりはしたが、自力で直せる程度であった。
はじめに250ドルを借り、ドミニカとの国境の町マルパスで日用品を仕入れ、それを掛売りするという商売を始めた。この商売は近隣の女性何名かも行っており、比較的ポピュラーなようである。一人でトラックを借りるわけではなく、何人か集まれば業者がトラックを出し、乗合で走る。マルパスから積んでくる荷物の量に応じて対価を支払う仕組みだという。この商売がうまくいき、返済ができた上に貯蓄もできるようになった。
次に750ドルを借りて、35000グールド(約7万円)でオートバイを買った。このオートバイを夫が運転して、ハイチでよく見かける「バイクタクシー」業を開始。2人まで乗せることができ、客の希望でどこにでも行く。たとえばここリゾンからポルトープランスのデルマ地区まで(1時間弱)は250グールド(約500円)で走る。
この750ドルの返済も順調に完了し、新たに1000ドルを借りた。これまでの商売で築いた貯蓄と合わせて中古の大型自動車を6500ドルで購入。タプタプと呼ばれる乗合タクシーを経営している。自分が運転するのではなく、運転手に自動車を貸し、売り上げから一定の額をもらうという形である。商売が成功し、生活も安定した。
これほど大きな商売を行うのは初めてである。うまくいった理由は、「真剣に取り組んだからだよ」と自信ありげにバイクを見せてくれた。旦那さんはこれから果物を別の場所に届ける仕事があるらしく、大きな袋を後ろに乗せて走っていった。
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【2012年ハイチ訪問レポートNo.7】

8月、代表の芹田とスタッフの岡本がハイチ地震の被災地を訪れました。
カウンターパートのACSISを通して支援した女性の暮らしを、いくつかのレポートに分けてご紹介していきます。
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■2012年ハイチ訪問レポートNo.7
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*ベルフォート・アンナさん(日用品販売)の話
今回お会いした女性の中で、ひときわ厳しい状況に置かれた方であった。
住宅地のなかに、突然開けた場所が現れる。地震で壊れた住居の骨組みが残ったところに、テント、ブルーシートなどで小屋をつくり3世帯ほどが暮らしている。ベルフォートさんは5人家族。娘3人と、1歳になるかならないかの孫である。テントの側には井戸があり、別の女性が水を汲み上げ洗濯の真っ最中であった。水は十分にありそうだったが、雨の少ない季節には干上がることもあるという。
ベルフォートさんは200ドルを借りて商売を始めたが、その後、困難な状況に陥ってしまった。当初、ドミニカとの国境の町マルパスに行き、様々な物資を仕入れて地元で掛売りをしていたが、病気になり続けられなくなってしまったのである。高血圧と呼吸器系の病気だという。話をする表情にも笑顔は無い。娘さんも働いていないとのことだった。「昨日ごはんは食べられましたか?」と聞いてみたが、愚問を鼻で笑うようにうつむき「ノン」と答えた。
テントの中を見せてもらうと、5人が寝るためのベッドとちょっとした棚でいっぱいである。電気を引いているようでテレビと携帯電話があった。昼時だったが食器類は片付けられたままで、野菜のかけらがテーブルに転がっていた。隣の小屋の女性が外でスープのようなものを炊いていたが、ここに住む10数人がシェアできる量ではなさそうだった。ここには、ベルフォートさんの孫のほかに乳児がもう二人、それに2~3歳くらいの男の子2人と5歳くらいの女の子がいた。ここにいる人たちどうしの支えあいや、近所とのかかわりなどを頼りに、何とか生活をつないでいるようであった。
彼女たちの状況は、街なかの活気ある露天商たちとはまた違う。家はなく、健康上の理由や子どもがいるといった理由で働ける状態にも無い。自力で生活を維持することが困難でも、最低限の保障も無い。最も貧しい人たちの厳しい現実をつきつけられた。ACSISとは引き続き、随時こうした人たちを見守っていただけるようにコンタクトを続けていきたい。
(岡本 千明)

【2012年ハイチ訪問レポートNo.6】

8月、代表の芹田とスタッフの岡本がハイチ地震の被災地を訪れました。
支援地の人々の声を、いくつかのレポートに分けてご紹介していきます。
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■2012年ハイチ訪問レポートNo.6
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*ゲリー・ディウリンさん(軽食販売)の話
夫と4歳の息子と暮らす自宅の近く、住宅地の細い路地の一角で、パンとオムレツを売っている。幅2m、奥行き1mほどの小屋である。近くにある学校の子どもたちが主なお客さんだと言うが、「いま学校が休みだからねえ」と、店先で横になって昼寝していた。学校があれば、ひとつ25グールド(50円)で日に30~40個を売り上げる。250ドルを借りて材料費などに当て、すべて返済した。私たちの訪問で起こされたからか少し気だるそうに、「店の調子はまあまあね。また借りられるならもっと仕入れたいけど」と言いながら、彼女に甘えてまとわりついてくる息子をあやしていた。売れ行きはまずまずのようだった。
「こういうローンが無いとき、お金を借りるような仕組みはあるの?」と聞くと、近隣で互助組合があることを聞いた。グループをつくり、その各メンバーから毎月少しずつお金を集め、その中の一人に順番に集まったお金を渡していくという、いわゆる回転型貯蓄信用講である。その月にお金がもらえた人にとっては、ボーナスが入ったようなものである。これを商売の開店資金にする人もいるだろうし、冠婚葬祭や子どもの学費に当てる人もいるだろう。しかし、当然であるが、毎月の拠出金が工面できない人は参加することができない。彼女も参加経験があるが、いまはやっていない。近くに住む別の女性にも聞いたが、拠出金が払えないからやっていないという答えだった。
また、小規模金融の例として、私的な業者が人々に5人組などのグループを作らせてお金を貸す消費者金融のようなものもあるという。しかし、健康状態の悪化などで生活の危機が往々にして起こりうるハイチでは、「連帯責任」よほどの信頼関係が無い限り敬遠されている。当初、ACSISのローンでもグループ形成の案があったが、住民はこうした事情からグループ制には反対したという。コミュニティには様々な互助機能があるが、日本で私たちも経験しているように、都市ではその役割が希薄になりつつあるようだった。
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(岡本 千明)

【2012年ハイチ訪問レポート No.5】


8月、代表の芹田とスタッフの岡本がハイチ地震の被災地を訪れました。
支援地の人々の声を、いくつかのレポートに分けてご紹介していきます。
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■2012年ハイチ訪問レポートNo.5
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*マリー・アンジェ・ドゥソウさん(日用品売り)の話
この一帯はカナアンと呼ばれ、なだらかな山の麓にある。聖書にあるカナアンからとられたのだろうかと聞くと、ガードマンのウィルフリーさんはそうだと言った。山と言っても樹木はほとんどない。ハイチはもともと緑豊かな国であったが、圧制下の貧困を生き延びるため、人々は燃料や建材になる木を売るしかなかった。結果、山肌が見えるまでに荒れた土地はもはや保水力を失い、豪雨があるとたやすく崩れてしまう。
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マリー・アンジェさんはこの地で、支援団体によって建てられた家に夫と妹と3人で住んでいる。広さは6畳一間ほどであり、奥にベッドを置き、手前は食事などのスペースにしている。壁と柱は木造、屋根はトタンである。雨に備えてだろう、30cmほどの高床にしてある。仕切られている敷地は広いが、水道は無く、したがってトイレ・風呂は無い。1ガロン(約3.8リットル)1グールド(2円)で業者から水を買って暮らしている。
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カナアンにはもともと人は住んでおらず、何もない荒れ地だった。しかし、地震後に政府がキャンプからの立ち退きを推奨し、人々はこの地を開拓した。地面をならし、家を建てた。政府はこれを黙認した。ガイドのルシアンは、「地盤も、インフラの面でも、人の住めるような場所じゃないよ」という。他の集落からも遠く離れ、町としての機能を持たない寂しい土地だ。「乳と蜜の流れる地」と描写される「カナアン」とは皮肉な名前である。
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山から取れる白く乾いた土が建築用ブロックの材料となるらしく、それを集めた小さな工場がところどころにある。それを除けば家とキオスクのような小屋だけが点在し、コミュニティと呼ぶにはあまりに閑散としている。マリー・アンジェさんによると、「近所の人とのかかわりはほとんどありません」。近所で子供たちがサッカーをすることがあるというので、まったく近隣の交流が無いわけではないが、暮らしを助けあったり悩みを話しあったりするような関係ではない。バプテスト系の支援団体が建てた教会――と書かれた小屋――が彼女の家の隣にあるが、それも寄り合いの場になることは無いのであろうか。
ガイドのルシアンが言うには、ハイチでも田舎に行くと、長年そこに住んでいる人たちのコミュニティがあり、そこでは結束のもとに暮らしが成り立っている。しかし、ポルトープランスのような都市に地方からやって来た人たちの集まるところでは、そのようなつながりの意識が無いことが多い。人々は、自分がその日生きるのに精一杯なのだという。
マリー・アンジェさんの場合、病気が暮らしの再建を阻んでいる。彼女は最初の融資200ドルで洗剤などの日用品の販売を行った。それはうまく行き、ローンを返済することができた。しかし、ふたたび200ドルの融資を受けて商売を行っていたところ、体調を崩し商売を辞めてしまった。消化管の病気で出血したという。「これから先のことはわかりません。体調はましになったけど、もう医療費は払えません。夫は不定期の日雇いで、安定した収入はありません。」
ここが仮暮らしとなるのか、あるいはここに根を下ろさざるを得ないのか、人々は見通しを持てず、その日を生きることにただ力を尽くしている。
(岡本 千明)

【2012年ハイチ訪問レポート No.4】

8月、代表の芹田とスタッフの岡本がハイチ地震の被災地を訪れました。
支援地の人々の声を、いくつかのレポートに分けてご紹介していきます。
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■2012年ハイチ訪問レポートNo.4
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*マキュレーさん(洋服売り)の話
マキュレーさんは、大きな道路の脇に台を設けて洋服を販売している。ここは住宅地というよりは、郊外を走る車用の道であり、街中と違って他に露店もほとんどない。こんなところで服が売れるのだろうかと思うが、「順調ですよ」と話す。
マキュレーさんは地震以前、ここから少し離れたリゾンという地域で比較的大きな店を経営していた。しかし地震で家と店が壊れ、この地に移ってきた。ACSISから借りた約275ドルは露店の仕入れなどに使った。売り上げは好調で、ルールどおり6ヶ月かけてすべて返済することができた。卸店で100~200枚のストックをまとめ
て買い(5000~7500グールド)、それを小売している。昨日の売り上げは24枚。1枚あたり約約100グールド(約200円)である。日によって売り上げは異なるが、今日は、このとき11時の時点で5枚の売り上げである。これで二人の子どもを養っている。
ちなみに、事前に聞いてはいたのだが、ハイチの人はおしゃれだ。女性は、鮮やかな色のシャツやワンピースがよく似合っている。黒でクールに決めている人もいる。袖や襟の形、フリルやストラップなどの装飾も様々である。男性はカジュアルなポロシャツやスポーツ風のTシャツなどが人気のようだ。こうしたおしゃれ好きな人たちが、通りすがりに服を買っていくのだろうか。
マキュレーさんはこう話した「ローンはとても役に立ちました。もしまた機会があれば、仕入れに使って店を大きくしたいです。」
(岡本 千明)

【2012年ハイチ訪問レポート No.3】

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■2012年ハイチ訪問レポートNo.3
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「ハイチで生きるのは高くつくんだ」とガイドのルシアンは言います。
収入と支出が見合わないのです。収入源が無いこと、そして収入が無いときのセイフティネットが無いことが、人々の暮らしを不安定にしています。地震で生活の基盤を失った人たちが「自立」していくためには、雇用と社会保障が必要です。
ハイチにおける雇用とは何でしょうか。それは、自営業(セルフ・エンプロイメント)です。認可を受けた店や企業などに雇われて働いているいわゆる正規の「従業員」は少なく、自ら道路わきの露店でものを売ったり、乗り合いタクシーを走らせたり、靴を磨いたりと、スモール・ビジネスで稼ぎを得ている人がほとんどです。これらは、大きな店舗や企業などのフォーマルな経済に対して、登録したり、営業許可があるわけではないインフォーマル経済と呼ばれています。インフォーマルではありますが、これがある意味ここの主流であり、人々の生活を支える重要な経済です。
CODEがカウンターパートのACSISを通して支援したのは、こうした自営業の女性たちの開店資金です。40人の女性を対象に150ドルから500ドルを融資し、2%の利子で6ヵ月後に返済します。この数字は、地元の現状を反映してACSISが設定したものです。
ACSISは女性たちを対象に説明会を開いて条件を理解してもらい、各人の希望額と商売の計画、家族の状況などをヒアリングした上で2011年2月に最初の融資を行いました。セミナーも開いて商売のポイントを勉強しました。半年から1年後、融資によって商売が軌道に乗り、その後融資を返済できた人もいれば、融資は返済したが商売は辞めてしまったり、あるいは商売が続かず融資も返済できなかったという人もいます。初回の回収額は7割程度でした。
失敗した人は、事業自体の不振というよりは、病気で辞めざるをえなかったり、家で他に大きな出費があって元手を失い、その後仕入れができなくなってしまったといったケースが多いようです。ぎりぎりの生活では、ひとたび危機が起こるとより困難な状況に転落してしまい、そこから立ち上がることができなくなってしまいます。そんなとき、本来であれば生活保護のような形で暮らしが保障されなければなりませんが、ハイチの人たちはその基本的な権利を守られているとは言えません。
今回、融資を利用した何人かの女性から話を聞くことができましたので、彼女たちの現状を紹介していきたいと思います。
(岡本 千明)

【2012年ハイチ訪問レポート No.2】

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■2012年ハイチ訪問レポートNo.2
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ハイチの物価は決して安くありません。露店のペットボトルのジュースは1本25グールド(50円)。屋台で昼食を食べれば一人100グールド(200円)、町の食堂に入れば200グールド(400円)。洗濯用にと思って露店で買ったバケツは1つ100グールド(200円)でした。路上で売っている音楽CDは――明らかにCD-ROMにコピーしただけのものですが――1枚100グールド(200円)です。40歳くらいの「ヒラ」の公務員の給与が月500ドルだそうですから、物価の高さがうかがえます。ちなみに富裕層しか利用できないような冷房の効いた大型スーパーマーケットに行けば、クッキー1パックが80グールド(160円)、500mlの水1ダースで170グールド(340円)です。最も貧しい人はどうやって生きているのか?混乱しますが、ハイチには、幾通りかの物価の世界があるようでした。震災後、外国からの援助流入による影響もあり、物価は安定しないようです。
一方、IOMが避難キャンプからの立ち退き支援費用(家賃補助)として1世帯に渡しているのは500ドル。これは、つつましく食べていくだけなら1年間はもつ額だといいます。しかし、生活とは食べていくだけのことではありません。栄養状態が悪いため、病気にかかりやすく医療費がかかります。子どもの教育費は、ハイチでは生活を圧迫する大きな出費です。そして最大の問題は、働きたくとも仕事が無いのです。
他の支援団体の話では、キャンプは明らかに少なくなったといいます。「ここもテントだらけだったんですよ」と指し示されたところは芝生の広場になっていました。「でも、キャンプを離れた人がどこに行ったのかはわかりません。」
「アビエーション・キャンプ」と呼ばれる避難キャンプの側を通ると、ちょうど2年前にCODEの野崎理事が撮ってきた写真と同じ風景が目の前に広がったため、すぐそこだとわかりました。そのままの同じ風景だったからです。テントは減っておらず、敷地を埋め尽くしていました。「キャンプにいれば、食事ももらえるし教育も受けられる。本当は出て行きたくない人も多いんです。」
(岡本 千明)

【2012年ハイチ訪問レポート No.1】

CODE海外災害援助市民センターです。
代表の芹田とスタッフの岡本がハイチ地震の被災地を訪れました。
2011年3月にメキシコのパートナー、クワゥテモックさんがハイチを出たのを最後に、1年半ぶりの訪問となりました。日本からの訪問は2年ぶりで、これまでのプロジェクトの経過のヒアリングと、今後の新しいプロジェクトの打合せを行ってまいりました。
CODEは震災後に立ち上がった現地の住民団体「ACSIS」をカウンターパートとして、2011年1月から女性の起業支援のための小口融資事業を行ってきました。この融資を利用した人たちの声などを、いくつかのレポートに分けてご紹介していきます。
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■2012年ハイチ訪問レポートNo.1
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*地震から2年半の被災地
ハイチの日射しは、じりじりと肌が焼けるような熱さです。
首都ポルトープランスのダウンタウン中心部では瓦礫が既に片付けられている場所が多く、主要道路を車で走るだけではかなり復興したように見えます。一方、建物の9割が倒壊したと言われているレオガンでは、やはり瓦礫や更地が目につき、被害の大きさを物語っています。また、ハイチではほとんどの建物がブロック作りで、全壊を免れた建物も屋根や壁が部分的に崩れたままになっているのをよく見かけます。地震であれほど壊れたにもかかわらず、いま建てている建物もブロック作りです。一段積んではセメントを糊にし、また一段積み上げる――そうして2階建て、3階建てにします。木材がないことや、「ブロック作りの建物はステイタス」という感覚もあるようですが、もし再び同じ揺れが起きたらと懸念します。
街なかは多くの人が行き交い活気があります。2010年4月、村井事務局長が地震から3ヶ月後のハイチを歩き、「露天商のパワーがすごい!」と言いましたが、まったく同感で、隙間さえあれば店を構え、ありとあらゆるものが売られています。洋服、靴、家具、電化製品、食料、日用消耗品、食器、おもちゃ……。300mも歩けばデパートに行く必要はなさそうです。店番しているのはほぼ女性です。
大きなキャンプも残っており、家をなくした方々がテントやトタン、ブルーシートなどで作った小屋に住んでおられます。IOMによれば、575のキャンプに39万人が生活をしているといいます(8月28日)。ピーク時はテント生活者が150万人と言われましたが、キャンプを離れても、むしろキャンプ以下の貧困の暮らしから抜け出せないでいる人たちが少なくありません。こうした中、8月25日にもハリケーンが直撃しました。嵐の度にテントは水に浸かり、犠牲者が出ています。水害は感染症の原因ともなります。2010年10月頃から流行しているコレラは、最近少し収まりつつもこれまでに58万人以上が感染し、約7500人が亡くなっています(8月10日、OCHA)。
それでも確かに活気を感じるというのは、植民地時代、独裁政権時代、その後の弾圧の時代など、凄まじい権利の侵害と恐怖を生き延びてきた人たちの不屈の精神が受け継がれているように感じました。
(岡本 千明)