みなさまにはいろいろとご心配をおかけしています。これまでの多くの応援メッセージに心から感謝を致します。ほんとうにありがとうございます。
現地でレーズンの出荷のお手伝いをして下さっている彼(F・Lさん)から、少しずつ状況が伝わってきました。
F・Lさんは、いろいろな知恵を工夫し、国外退避を希望していることが伝わって来ました。こんな時には、複数の情報がF・Lさんに集まりますが、同時に情報が多いと混乱もされます。
CODEは、寄せられる情報をF・Lさんに伝えますが、あくまでも基本的には、F・Lさんが選択した方法を最大限支援すると伝えています。ただ、一番の困難と悩みは家族が多いということ、パスポートを持っているのが二人だけ、という国外退避を望むものの、ほんとうに退避できるのかという不安もあります。アフガニスタンの事情に詳しい友人の指摘では、「今、動く方がむしろ、リスクが大きくなるのでは?」というアドバイスも頂いています。日本人で唯一国外退避を実現された安井浩美さんとも交信ができました。現地の事情をよく知る彼女のメッセージには、勇気を頂くことができます。
「○○地域のぶどうは、しっかり育っていますよ!」と伝えてくれました。CODEは、ぶどうを通して、アフガニスタンとつながり、アフガニスタンの生活の一端に接し、いのちの水を供給するカレーズに潜り、少しでもアフガニスタンの暮らしに寄り添うことができたというわずかばかりの体験が蘇ってきます。
一方でF・Lさんの希望が叶えられるようにと、これまでCODEとつながっている人たちが、懸命に情報を集め、動いてくれています。ほんとうに有難く、嬉しいことです。
F・Lはじめ家族や親戚の方々が、一日も早く、少しでも安堵できるようなひとときが訪れることを心から祈りたいと思います。みなさま、これからも見守って下さい!!よろしくお願い致します。
(CODE事務局:アフガニスタン担当 村井雅清)
アフガニスタンからの贈り物に感謝!!—15
いよいよタリバンが新政権樹立に向けて、組閣に入ったようです。一方で、以前少し触れましたが、大変心配な事態が予測されます。今朝の毎日新聞朝刊には—タリバンと北部パンジシール州を拠点とする反タリバン勢力の間で続いていた和平協議が1日、失敗に終わった。-という記事が報じられていました。
もし、この報道にあるように、「内戦の可能性」(同紙)が現実のものになれば、このパンジシール州の南に位置するショマリ平原の地域は、戦場と化します。
本レポートNO3で、亡くなられた緒方貞子さん(国連難民高等弁務官)が、カブールに行かれて、このショマリ平原で作業をしている農夫の姿を見て、「この国は必ず復興する!」と確信したという話を紹介しました。先述したように、この地が戦場となれば、こうした農夫たちも、鍬を銃に持ち替え、闘うことになるのでしょう。もう、これ以上武力による衝突だけは、絶対に避けて欲しいと願います。
何故ならば、この地域は国連のレポートで「98%破壊された」と、1994年から1995年に報道されたのです。偶然、私は国連レポートでこのことを知り、「98%ということは、ほぼ全滅ではないか?」と、後にこの地域を訪ねたところ、ほぼ100%が壊滅でした。目の前の惨状を見て愕然とした記憶がよみがえるからです。しかも、その上で衝撃を受けたのは、この地域の植物や木々を根絶やしにしていたのです。「何でこんなことをするのか?」と聞いたところ、「首都カブールの周辺には人が住めないようにするのだ!」という説明だった。
今回の和平協議が失敗に終わり、報道にあるように再び内戦が勃発すれば、あの悪夢のような事態が再来することは間違いないでしょう。ほんとうに両者のトップが戦争だけは思いとどまって欲しいと切に願います。
(CODE事務局:アフガニスタン担当 村井雅清)
アフガニスタンからの贈り物に感謝!!—14
タリバンの完全独立宣言から一夜が明けた。早速タリバンは新体制の調整に入っている。加えて、カブール国際空港の管理について、トルコ政府と調整しているという報道もある。
日本政府としては、とにかく残された日本人関係者およびこれまで協力してくれたアフガニスタン人、そして同じく他の国でまだ国外退避を希望する者がいるならば、その人たちのことも含めて、すみやかに国外退避ができるようにタリバンとのしかるべき交渉や他の国との緊密な情報共有も忘れてはならない。
唯一日本人のジャーナリストの安井浩美さんの手記が発表されているが、「女性の人権を踏みにじり恐怖政治を敷いたタリバンを私は知っているが、以前とは違うようにも見える」とも。そして「私が愛するアフガニスタン。国際社会、そして日本は見捨てないで欲しい。」と訴えておられる。
CODEはぶどう農家の再生支援をしているが、同じ地域で唯一一校しかない「女子学校」の建設も支援した。建設と言っても、実は広いグランドというか荒野のような荒地に、欧州の国が校舎を建てた。しかし、イスラム法の教えで、「女子学校には、外から絶対に見えないように壁がいる。」と言われた。「えっ、こんなに広い土地に壁を作らなければならないの・・・・・?」と天を仰いだ。そのためには相当な資金がいるだろうなぁと頭の中で電卓が動くような感じがした。「なるほど、わかった。しかし、それならセメントコンクリートで覆うような壁よりも、木を密植して植えれば、景観もいいし、生態系にも影響を与えないのではないか?それでどうだろう。」と交渉したが、「ダメだ。少しでも中が見えたらダメなんだ!」と、ガンとして受け入れてくれなかった。日本では考えられないことだが、イスラム法の教えと言っても、ここまでして女性を守るというのも凄いことだとなぁと思った。
恐る恐る見積もりを提示して貰うと「230万円」という金額だった。2度目の天を仰ぐことになった。
CODEの支援のモットーには「支援する相手国の宗教や文化を尊重する」と掲げてある。「泣きたいほどつらいけど、やむを得ないか。この地域の人の仕事になり、少しでも生活支援につながるし……。」と、自分を慰めるしかない。
すでに広いグランドに、小さなテントを10張ほど支援した。そのときの子どもたちの笑顔が目に焼き付いていたので、これで安心して勉強ができると思うと、この学校は子どもたちにとっては、かけがえのないことだ!と。
「ヨシ!この庭で女子生徒たちにぶどうの苗を育てて貰おう。ここで苗を一年~二年育てれば、ぶどう農家に売れるではないか?」と女子生徒ととりあえず記念植樹をした。この地に次来た時には、見事に苗が育っているだろうと思い描きながら学校を後にしたが、頭のなかでは電卓が動き続けていた。
(CODE事務局:アフガニスタン担当 村井雅清)
アフガニスタンからの贈り物に感謝!!—13
昨日2021年8月31日、アメリカがアフガニスタンから完全に撤退した。あらたな歴史の一ページが始まった。タリバンのムジャヒド報道官は、「米兵が去り、われわれの国は完全な独立を勝ち取った」と独立宣言を発表した。しかし、考えて見れば国際社会の中で、それぞれの国が国家を形成した時から、まずお互いがお互いの国を尊重するには、「それぞれの国の独立権を認める」というところから出発したのではなかったか?
今朝のマスコミの見出しから、「敗北から何を学ぶか」という論調が目につくが、「敗北から」ではなく、そもそも原点を見失った見識のなさであったのではないか?そして、大国の責任のみならず、世界中の一人ひとりが、20年だけではなく、アフガニスタンの長い歴史とあらためて向き合う必要があるように思う。特に日本は、太古の昔からシルクロードを経て、アフガニスタンとのつながりが深かったと言える。だからこそ、これからの日本の役割が大きいということではないだろうか?
ちなみに1988年にアフガニスタンは「ナジブラ政権」が政治を治めていた。そのナジブラは次のような声明を国際社会に提起していたことも頭の片隅に記憶しておきたい。
-ナジブラは1988年11月26日、国連においてアフガニスタンを恒久的平和と非武装国家にすることを示した。また89年9月、第9回非同盟諸国首脳会議においても、同じ趣旨のことを明らかにした。こうして大国の狭間にある小国や周辺国が、派手ではないが、冷戦体制下にあってもみくちゃにされながら、ただ自国人民の解放だけでなく、真摯に世界平和に貢献しようとしていた事実を、我々はそれとして銘記したいものである。これもアフガニスタンが、(一国だけではないが)現代社会に提起した課題であった。―
(佐々木辰夫『アフガニスタン四月革命』スペース伽耶2005.10より引用)
昨日のレポートで紹介したが、アフガニスタンのぶどうは4000年前からアフガニスタンの国でいのちをつないできた。CODEがぶどうにこだわるのは、アフガニスタンの人々の暮らしに触れることができるからでもある。そして、イランでは紀元前からあったとも言われる“いのちの水”カレーズがアフガニスタンにも伝わり、アフガニスタンの人々暮らしを支えてきた。
さて、とにもかくにも理屈抜きにいま、日本政府がやらなければならないことは、アフガニスタンからの国外退避を願っている人たちすべてに、「いのちのビザ」を発行し、そのビザが有効に使えるようにいかなるサポートも惜しまないということだ!
(CODE事務局:アフガニスタン担当 村井雅清)
アフガニスタンからの贈り物に感謝!!—12
首都カブールで、またIS国(ISホラサン州)の犯行声明をだした攻撃が絶える気配のない情勢下のもと、アメリカは「20年に及んだアフガニスタンでの米軍駐留は終わった」と宣言した。「あくまでも軍事作戦の終了」を強調しているので、国外退避を終了した訳ではない。同時に、アフガニスタンに取り残されたままのアフガニスタンの人々から、「タリバンに捕まったら殺される、助けてくれ!」という悲痛な叫びが、日本政府に寄せられている。他国の国外退避作戦と比べて、あまりにも日本政府の対応の不十分さが批判の的になっている。
ただ一人、日本人ジャーナリストが国外退避ができた。偶然だが、実は私は現地でその彼女と会ったことがあり、それは私たちが支援しているぶどう農家の住む地域であっただけに、彼女にその地域の状況を一刻も早く聞きたいのだが、メディアの取材攻勢に追われていることが容易に想像できるので、メディア攻勢が落ち着くまでは待つしかないか・・・・・・・。
さて2007年から2009年の3年間は、JICA草の根技術協力事業(地域提案型)に採択され、ぶどう農家を日本に招聘し、ぶどうの産地山梨県牧丘で、有機かつ不耕起での栽培方法を学んで貰った。農家はアフガニスタンに帰国して、すぐさま日本で学んだことを実践した。アフガニスタンは年間200mmの雨しか降らないほどの乾燥地帯であり、一方日本は湿度が高く、それこそ1日で200mmが降ることも少なくない気象だ。ぶどう栽培は昼夜の寒暖の差があり、水は極力少ないという条件に適している。
アフガニスタンでは、4000年前からぶどうが育っている地域であることが分かっている。ということは、ぶどうの栽培にはもっともアフガニスタンの気候が適しているということだ。日本のぶどうの産地では、全部棚式にして栽培しているのは、湿度が高いので、地面から離したところで実をつける工夫をしなければ、害虫が発生しやすくなりダメになるからだ。ところが、アフガニスタンの農家は「棚式にすれば実がたわわに育つ」と思ったのか、その地域のぶどう畑はほとんど”棚式“になっている。棚式の方が作業が楽であるといえるが・・・・?おそらくアフガニスタンのぶどう畑の中でも、棚式になっているのはこの地域だけだと推測でき、空から写真を撮れば圧巻だろう。
3年間の研修でのワークショップで、「10年後もぶどう栽培が続けられているための条件は何か?」と質問したところ、一人の農夫が間髪入れずに、「平和であることだ!」と言った時は、鳥肌がたった。日本のぬるま湯のなかで生活している私たちが言葉にする「平和」と、20数年間紛争の真っただ中にいた彼らが言う「平和」という言葉の重みが違うことを痛感した。
あの時の農夫たちは、今の状況下で作業ができているだろうか・・・・・?日々、落ち着かない。
(CODE事務局:アフガニスタン担当 村井雅清)
アフガニスタンからの贈り物に感謝!!—11
アメリカがタリバンに約束したアフガニスタンからの完全撤退の期限があと一日になりました。日本人およびこの間日本の事業に協力して下さった人たちが、まだ500人も残されているというのに・・・・です。もう天を仰ぐしかありません。“一縷の望みを!”と願うのですが・・・・、この間の日本政府の危機管理のなさを思うと、情けなくて涙がでます。ほんとうに残りの人たちの無事を祈ります。
さて、先般から紹介しているぶどう農家再生支援ですが、それまでの長い戦禍が一応終息を観た2002年、初めて私がアフガニスタンに入り、焼き尽くされたぶどう畑を見て、「きっと再生する」と決めた経緯は、すでにこれまでのレポートでも紹介してきました。
だが、実は支援するための資金がゼロだったのです。それまでにアフガニスタン北部ナハリン地震を支援(私たちのスタッフが国連機関と共に現地に入る。)、2002年8月以降にカブールでの「女性センター支援」、ぶどう農家支援の前に「カレーズの清掃支援」などとみなさまから頂いた寄付は、ほとんど投入してしまっていたのです。そこで、“ぶどう基金”を設置し、全国の支援者にあらためて募金をお願いしました。一口3,000円コースと一口9,000円コースを呼びかけさせて頂きました。これが昨日のレポートで紹介した「ぶどう基金」のことです。何故9,000円コースを置いたのかというと、ぶどうは苗を植えてから換金作物になるまでに、3年がかかります。それで3,000円×3年=9,000円をお願いした次第です。このプロジェクトを行うのに、地域のシューラ(日本でいう自治会役員のような立場の人)に集まって頂き、村のジルガ(村会議員のような立場。ジルガで決められたことが上位組織にあがり、最高決議機関が国のロヤ・ジルガという)に承認して貰って、「コーポラティブ・シューラ(ぶどう生産者協同組合)」を発足し、ぶどう農家再生事業を管理運営するという形を確立しました。原資300万円を寄付で集め、マイクロファイナンス式で農家288世帯に貸付、2%の手数料をつけて返すというしくみです。現在550世帯(2021年3月時点)にまで広がりました。このぶどう基金に協力して下さった方は、延べ2929名にもなりました。おかげさまで、当初の原資300万円はすぐに集まりました。しかも、なんとこの20年間、このマイクロファイナンスがストップしていないのです。つまり原資が枯渇し、運営できなくなったという事態には陥っていないということです。
災害時のみならず、平時の「開発支援NGO」のプログラムでも同様のマイクロファイナンスを展開しているケースは少なくないですが、約20年間も続いてきたというケースは稀有な事例だと思います。現地にプロジェクト管理をするためのCODEのスタッフを置くわけではなく、メールでのやりとりで信頼関係を維持し、続いてきた要因の一つは、こちらから「紛争で世帯主がいなくなった家庭、もしくは障害者のいる家庭を、可能な限り優先して欲しい」ということをお願いした以外は、CODEから何の条件も付けなかったからでしょうか。つまり、私たちは26年前の阪神・淡路大震災で、「自立支援とは孤立させないこと」「あくまでも被災者主体での復興をお手伝いすること」「共に学び合い、支え合うこと」という理念を学び、実践してきたからだと思っています。
本レポートのタイトルを「アフガニスタンからの贈り物」としているのは、この20年間の大失敗の一端は、いうまでもなく私たちNGOにもあるからです。これを今回のことで、思い知らされ、教えられたということからの気持ちです。奇跡的にレーズンが届くと、あらためてこの原点がよみがえってくるでしょう。
(CODE事務局:アフガニスタン担当 村井雅清)
アフガニスタンからの贈り物に感謝!!—10
「政府が自衛隊の輸送機でアフガニスタン人十数人を隣国パキスタンに退避させていたことが28日わかった。政府は27日に航空自衛隊のC130輸送機で首都カブールの国際空港から共同通信員の日本人女性(57)をパキスタンに退避させたが、これに先立つ26日にもアフガン人を移送していた。パキスタンの首都イスラマバードには空自の輸送機3機が待機している。アフガン国内には、退避を希望する日本大使館などの現地職員とその家族が、最大500人残っているためだ。ただ、アフガンの治安は悪化している。政府はすでに退避支援のため、首都カブールの国際空港に派遣していた外務省職員と自衛隊員をイスラマバードに避難させた。防衛省幹部は、『退避作戦の継続は現時点では困難になっている』と語った。」(8/28(土) 10:26 読売新聞Webより)
これが日本政府の国外退避作戦の全容でしょう。政府の対応が遅く、不充分だという声もある。しかし、各国が国外退避作戦を終了していく中で、日本政府はイスラマバードに待機し、今後の機会を探っている。一方で国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、年内に難民が50万人を超えると発表している。
今はとにかく、今回の国外退避作戦で取り残された各国の関係者およびアフガニスタン人で退避を望む者すべてが無事に避難ができるように、全力を尽くして欲しいと願うばかりだ。
CODEが2003年にぶどう農家再生を支援してきた地域の人たちが無事でいるのか、確かめられないもどかしさの中でも、どうか無事にいて欲しいと願うしかない。
きっといつものように、ぶどう畑に出かけ、日本で学んだ棚式のぶどう農園で農作業をしている風景が目に浮かぶ。
CODEが本レポートNO1を配信した直後に、東京に本部のある大きな組織の方から次のような電話が入った。
-先日のメッセージを読んでいて涙が止まらなかった。20年前にCODEさんからぶどう農家支援の呼びかけを受け、一口3000円のぶどう基金に組織をあげて協力させて頂いたことを思いだします。現地の方のご無事をお祈りするしかありませんが、みなさんが20年間も続けて来られていたことに心から敬意を表します」とー。
こうして連日、いろいろな方から問い合わせがあり、アフガニスタンのことを心配して下さっている。
何事もなかったかのように、追加のレーズンが届くことを信じたい。
(CODE事務局:アフガニスタン担当 村井雅清)
アフガニスタンからの贈り物に感謝!!—9
最悪の事態が起きた。カブールの国際空港近くで、自爆による爆発事故が発生し、警備中の米兵13人を含む市民も多く巻き込まれるという惨事となった。IS支部組織「イスラム国ホラサン州」(IS-K)が犯行声明を出している。こうしたことは米国の完全撤退が完了するまでは続くのではないかと懸念される。
こうした厳しい状況の中で、関係国の国外退避行動は終了した国もある。(ロシア・フランス・ドイツ・イギリス・オランダ・ベルギー・イタリア・カナダなど)他方、韓国・インドネシア・トルコは継続しているようだ。こんな時に、日本のことだけを考えるのはどうかと思うが、今のところ邦人1人、アフガニスタン人10数名と報道されている。でも日本政府は27日、国外退避活動を継続すると発表している。関係者は文字通り必死に関与している。さも恨みがましく見るのもどうかと思いながらも、韓国の退避作戦を紹介したい。
「『ミラクル作戦』韓国390人救出」という見出しで、28日付け毎日新聞に詳しく報じている。内容はこうだ。「米国が現地で契約するバスを6台確保した。タリバンと米国は事前に指定したバスは空港に入れることで合意してしていたからだ。大使館の連絡網を通じて、市内に散らばって待機させたバスの位置と集合時間を退避希望者に伝え、全員をバスに収容。さらに米軍兵に同乗してもらうことで、タリバンの検問を通過した」とのこと。
今回は、NGO関係者もそれぞれが独自で発信し続けた。それを各地のネットワーク団体も広いあげて声明としてまとめ、一方では個々にもさまざまなメディアを通して声を挙げられたようだ。きっとそうした声が、政府関係者の目に止まり、異例の速さで政府が動いたのではないかと思う。おそらく、誰もが「誰一人取り残さない!」と動いたのだろう。残念ながら現地には日本人も、国外退避を望むアフガニスタン人も残っている。まだ終わっていない。厳しい情勢だが、「誰一人取り残さない!」を実現するために、できることをしたいと思う。
(CODE事務局:アフガニスタン担当 村井雅清)
アフガニスタンからの贈り物に感謝!!—8
26日、カブールの空港入り口付近で爆発があり、自爆か?と今朝のテレビでのニュースでの報道が流れてきた。最悪の事態が頭をよぎる。すでに25日から日本の自衛隊輸送機はカブール空港と隣国パキスタンのイスラマバードとのピストン輸送の準備も万端整っていた。しかし、予測できたことだが、「空港まで自力で・・・・」という極めて困難な条件があるため、実際に空港まで辿り着いた対象者は極少ないとも報じられている。今回の日本政府の退避計画には、前提としてアメリカがアフガニスタンに駐留している間という条件も重なってくる。
昨日の本レポートで「菅義偉総理は、24日のG7会議で『出国を希望する全ての人々の安全な退避が喫緊の課題』と表明していることを紹介した。加えて『関係国との緊密な連携』をも強調しています。」と紹介した。他方、アメリカの退避対象については、空港までの道中でタリバンに警護をして貰いながらまず、空港まで避難しているようだ。しかも、一方で「米側はタリバンの指令官と毎日連絡を取り、退避対象者を開示するほか、証明書類の書式などについて説明している。通過を拒否された場合、タリバン指導部に掛け合っている」(朝日新聞 2021・8・27)との報もある。日本政府は、空港までのバス輸送も準備したようだ。しかし、予定通りにことが進まない。何故なのか?「関係国との緊密な連携」とは「絵にかいた餅」なのか?
状況は極めて困難な事態に晒されていることは理解できる。そして関係者が寝る時間もなく必死で対策に奔走していることも推察できる。しかし、アメリカは「いかなることがあっても、アメリカ以外の国も含めて、すべての国外退避を希望する者には、安全に国外退避意をさせる。」と、タリバンと交渉する必要があるのではないか。この緊急事態アだからこそ、関係国の緊密な連携は不可欠だ。いうまでもなく、8月末までに撤退完了はありえない。ブリンケン米国務長官は25日の記者会見で「国際社会と協力し、すべての外交手段、経済支援手段を使い、31日を過ぎても希望者が出国できるようにする」(先述の同紙)と語ってもいる。
偶然にも、海外で仕事をしている知人から、本メッセージを読んで下さり以下のようなメールをくれました。
<私は、目の前にいる人のことを思い、お一人おひとりが、一日一日をほっとできることを願うばかりです。目の前にいる人、アフガニスタンの方々もです。遠くにいて目の前にいないのではなくて、私には目の前にいます。レーズンが、私をつなげてくれたように思います。今のアフガニスタンの現状を聞きながら、そこで生活されている方の気持ちを考えると、みなさまの無事をお祈りし、想いをはせることしか今はできません。同じ「とき」、同じ「いま」を生きている私たちです。どうか、アフガニスタンのレーズン畑が再開できること、そしてアフガニスタンにいるお一人おひとりが、ほっとできることをお祈りしています>と。
「誰一人取り残さない!」というメッセージは、最近よく耳にする。今、まさに私たちの目の前の足下でも、このことが問われている。誰もが今、できることを実行するしかない!
(CODE事務局:アフガニスタン担当 村井雅清)
アフガニスタンからの贈り物に感謝!!—7
8月25日付け朝日新聞で、2001年タリバン政権が崩壊した後に、政府特別代表として武装解除の任に就いた伊勢崎賢治・東京外国語大学教授が、「アフガン人に『命のビザ』」をと訴え、「今回の海外への自衛隊機派遣は邦人保護というより、日本に深く関係し、迫害の下にある人々を救出する初めての試みだ。」と話しています。特にタリバンが誕生した1996年~2001年までの紛争の経緯を考えると、不安を抱えているアフガニスタンの人々が多数いるのも事実です。
いずれにしろ最悪の事態もありうると考えますと、本メッセージでもすでに書きましたが、「無条件に」国外退避を望む人には救いの手を差し伸べる必要があると思うのです。
昨日派遣された自衛隊機は、すでにパキスタンのイスラマバードとカブールとの輸送を始めたようですが、最大で500人との報道もありますが、対象者はその数倍に上ることは否定できないでしょう。菅義偉総理は、24日のG7会議で「出国を希望する全ての人々の安全な退避が喫緊の課題」と表明している。加えて関係国との緊密な連携をも強調しています。
とにかく、今急がれるのは希望者を迅速に国外退避させることが最優先ですが、もし日本への退避を望む者には、丁重にお迎えして欲しい。韓国政府は、「難民ではなく、『特別功労者』として受け入れる。」と表明しています。日本政府はこれまで難民受け入れに消極的だが、これを機に積極的にお迎えして欲しいと切に願うものです。
日本とアフガニスタンは昔から歴史的なつながりが多いのです。最も象徴的なのは、シルクロードの東端は日本の正倉院なのです。また、「奈良・高松塚古墳」の国宝の壁画「西壁女子群像」(奈良・飛鳥時代)に使われている藍色の顔料は、アフガニスタンでしか採れないラピスラズリーという鉱石なのです。他にもたくさんありますが、この二つだけでも日本とアフガニスタンのつながりが如何に深いかということが推測できます。だからこそ、今回のことで、他国にはできない、日本だからこそできることがあるのではないでしょうか。
(CODE事務局:アフガニスタン担当 村井雅清)