~無事、インドに到着しました~ 第4次現地レポートvol.1

 すでに出発前報告にて予定は書きましたが、4月21日、村井・斉藤は予定通りインドに到着しました。以下、現地レポートをご報告いたします。
4月22日 インド
 2001年のインド・グジャラート地震以降、出会った地元NGO=SEEDSの新しいオフィスを訪ねる。最近引っ越したようで、デリーの少し高級住宅街的な家並みの一角にある3階建てのビルを借りている。なんと今、スタッフは30名に膨れあがっていた。


代表のマヌ・ブクタとは今年1月、神戸で開催された国連防災世界会議で会って以来だ。「04・12・26スマトラ沖地震津波災害」後、いち早くインド・アンダマン諸島の被災地に飛んだことはメールニュースで知っていた。今回知ったのは、すでに津波発生の6ヶ月前に地震についてのワークショップのために現地に入った経験があったことだ。SEEDSは、グジャラート地震後、被災地の大工さんや石工さんたちをトレーニングし、技術者を増やしてきた。被災当事者でもある現地の技術者が、次なる被災地でも活躍できるように、こうしてワークショップを開いている。「ピア・トレーニング」とでも言おうか、すばらしい活動を展開している。
昨年、約140人で「SEEDS MASON ASSOCIATION」という組織を立ち上げたようだ。今回の津波災害で、延べ40人の技術者が現地リトル・アンダマンに入り、緊急救援から仮設住宅建設(約350戸)の活動を続けている。ポルトブレアには、現場オフィスも設けており、現在3名が派遣されている。私たちは今晩チェンナイに一泊し、明日ポルトブレアに入る。現場では、SEEDSのスタッフでMs.シバンギが待ってくれているとのこと。彼女もグジャラート地震以降の友人だ。私は三年ぶりの再会になる。
 さて、マヌの話では、アンダマン諸島も第二次世界大戦時に日本軍の統治下にあった時期があったとのこと。ポルトブレアには当時の砲台が戦争の傷跡を残すものとして展示されているそうだ。同様の話はこうした南アジアの各地で聞くが、アンダマンもそうだったとは知らなかった。気持ちを引き締め、緊張して向わなければならない。
アンダマン諸島には、テン ディグリー チャネル(Ten Degree Channel)というラインがあり、そこから南のニコバル諸島などへは外国人はもちろん、インド人も入島出来ないそうだ。震源地との位置関係で想像すると、おそらくほぼ全滅ではないかと懸念する。
※SEEDS…2001年のインド・グジャラート地震の時に知り合った建築家や都市計画の専門家の集まり。CODEとはグジャラート地震の時、被災地であるパタン県パタンカ村の再建で一緒に活動しました。SEEDSは、被災当事者である技術者を巻きこみ、当事者自身が他の被災者や他の地域で防災・減災を訴えるという活動を展開しているところが注目されます。
インド斉藤日記①~これがインド。~
 1年半ぶりにインド訪問。いつもはアフガニスタンへ行く際の乗換えのために立ち寄っていたが、2003年12月にイラン・バム地震が起こってからは、ドバイ経由かテヘラン経由でアフガニスタンに行くようになっていたので久しぶりに訪れる。数日間滞在となると、グジャラート地震復興の時以来となる。インドは何かとトラブルが多いが、今回も最初からトラブル続き。まだ到着して2日目だというのに、既に“なんでやねん”とツッコミたくなることが多々起きている。インド国際空港に到着すると、お願いをしていたはずの迎えはなく、電話で連絡をすると、自力でタクシーに乗ってこいと言われた。言われたままに乗ったタクシーは案の定、道に迷い、途中で旅行会社に道を聞こうと立ち寄ると、そこのお兄さんがホテルに電話をかけてくれた。すると、今度はそんな予約は聞いていないと言われる。“なんでやねん”。日本から何度もメールでやりとりをしていたじゃないか。しかも空港から電話で話したじゃないか。最後は旅行会社のいいお兄さんに助けられて、何事もなかったかのようにホテルに迎え入れられる。何なんだ。しかし、これがインド。ありのままを受け入れるしかない。インド斉藤日記ではなく、斉藤インドなんでやねん日記と名前をかえようかと悩み中。

理事・事務局長 村井雅清

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