フィリピン台風」カテゴリーアーカイブ

【フィリピン台風30号】救援ニュース No.26

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フィリピン台風30号(Haiyan) 救援ニュース No.26
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「被災地のクリスマス、私たちには希望がある!」
 国民の93パーセントがキリスト教徒のフィリピンでは、クリスマスが
1年で最大のイベントだそうだ。早朝に教会のミサに行き、聖歌を歌い、
家族、友人と賑やかにパーティーを開いて聖なる日を過ごすという。
 今日、クリスマスイブは、被災地の各地の教会では粛々とミサが行
われ、被災者の人たちの祈りが捧げられている。フィリピンのキリスト
教徒の間では、クリスマスイブまでの9日間、毎朝、祈りを続けていると
願いがかなうという言い伝えがあり、屋根の吹き飛んだままの教会で祈
り続けている人も少なくないという。子どもたちもガレキの中から拾っ
てきた木切れに色んな物をつるしてクリスマスツリーを作っているそうだ。
 まにら新聞によると、レイテ島タナワンという町では、台風で倒れた
樹齢100年のアカシアの木の根っこに支援してくれた団体や外国政府の
名前や感謝のメッセージを飾った「クリスマスツリー」ができているそ
うだ。そのツリーの真ん中には、「屋根なし、家なし、でも私たちには
希望がある」と書かれたボードが飾ってある。多くの被災者は「クリス
マスまでには家を!」と思っているが、仮設の住宅に入居できているのは、
ごくわずかである。この過酷な状況の中でもフィリピンの被災者たち
は、希望を持って生きようとしている。
(吉椿雅道)

【フィリピン台風30号】救援ニュース No.20

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フィリピン台風30号(Haiyan) 救援ニュース No.20
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「フィリピンの学校事情」(第一次先遣隊 現地レポート)
 皆さんが災害時に避難する場所と言えばどこでしょうか。おそらく大半の方は「学校」と答えると思います。日本では最も頑丈に作られている施設の一つです。フィリピンでも住民にとっては重要な避難の場となります。しかし、今回の台風被災地では、ほとんどの学校で非常に大きな被害が見られました。
私たちが訪れたセブ島北部の学校は、強風により屋根は飛ばされ、建物は大きく損壊し、ガレキと化している校舎もありました。一見無事だった建物でも窓枠サッシが捻れ、風の影響とは思えない窓が無くなっているという被害が見られます。フィリピンでは学校の強度基準が設けられておらず、耐久力の弱い校舎が台風で壊れました。
 一方で、学校に避難したくないという声も聞かれた。セブ島北部のタピロンという地域に住むある家族は、財政的な都合で兄弟の内で長男しか小学校へ行かせることができず、教育を受けていないことが恥ずかしいために学校での避難生活はしたくないと言います。教育格差が非常時の避難にまで影響を与えていることは、今後解決していくべき課題であると思います。
 授業が一部再開した地域もあります。しかし、校舎の一部が崩れていたり、避難所として使われたりしているために、まだ完全に再開することは難しく、限られた教室を学年やクラスごとにかわりばんこに使っています。また学校に避難している人たちは、授業の間は外に出ていなければならず、教育の場と生活の場がたいへん不足していることが伺えます。現地日本人のKさんによると、もともとフィリピンには子どもに対して学校の数が少ないそうです。
 
 セブ島北部のマイヤでお話を聞いた家では、子どもが台風の雨により濡れてしまった教科書やノートを乾かしていました。彼に早く学校に行きたいか訪ねると、元気に「Yes!」と答えてくれました。フィリピンでは教室に教科書を置いておくことが多く、そのため学校ごと教科書が吹き飛ばされてしまい、しばらく授業ができなくなってしまったところも多いそうで、早めの対策が必要です。そして災害に対する施設の強度や学校の数、教育格差など多くの問題を抱えていたフィリピンの学校事情を、この災害を契機に見直さなければならないのではと痛感しました。
(上野 智彦)
☆12月3日には報告会をさせていただきますので、ぜひお越し下さい。
→http://philippines2013typ.seesaa.net/article/380863022.html

【フィリピン台風30号】救援ニュース No.18

「知られていない広大な被災地」
 フィリピンの台風被災地へのご支援ありがとうございます。本当に多くの方々の助けを借りながら、10日間のフィリピン被災地への派遣を終え、24日に帰国いたしました。
 実際に被災地へ行くと、様々な面において日本で報道されている情報とのギャップを感じます。先のレポートでも紹介されている、略奪などの被災地の治安もその一つです。そして私が何よりギャップを感じたのは、台風による被災地の広さです。
 今回の台風の被災地として主に取りあげられるのはタクロバン市のあるレイテ島や高潮被害が甚大であったサマール島です。しかし実際には、台風の被災地はこの2島だけではなく、フィリピン中部ビサヤ地域の非常に広大な被災地で多くの住民が厳しい状況での生活を強いられています。
 今回私たちが訪れたセブ島、パナイ島でもセブ市、イロイロ市から車で北上するとすぐに倒れたバナナの木や屋根が飛ばされてしまった家が見られました。地図で確認してみると、台風の通った所から約50km以上離れた地域でも甚大な被害が発生していたということがわかりました。このようなあまり周知されていない被災地の中でも、特に町と町の間の集落に住む人たちは、さらに支援の手が届きにくい状況に置かれています。セブ島ダアン・バンタヤンの市街地から少し外れた地域に住むMさんは、「支援が少ない。今日の食べ物に困るわけではないが、十分とは言えない。特にこの地域は支援の車が停まることも少ない。」と述べていました。
 災害を風化させないために忘れないということは、東日本大震災でも取り上げられ、CODEでもシリーズ「災害を忘れない」を発信しています。そして、今回の台風では、日本で報道されているよりももっと広い地域で、もっと多くの人が災害によって大きな被害を受けていることを忘れないで欲しいと思います。
(上野智彦)
☆12月3日には報告会をさせていただきますので、ぜひお越し下さい。(18:00~20:00こうべまちづくり会館)

【フィリピン台風30号】救援ニュース No.17 (EN follows)

(English follows)
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フィリピン台風30号(Haiyan) 救援ニュース No.17
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「支え合い~被災地から被災地へ」
2011年の東日本大震災の被災地からもフィリピンの被災地へ支援の動きが起きている。
当団体CODEも1995年の阪神・淡路大震災の際に世界約70カ国からご支援を頂いた事がきっかけで「困った時はお互い様」と被災地KOBEから世界の被災地へと救援活動を行って来た。
東日本大震災では、フィリピンは2週間後に岩手や宮城に食料パック1500個、カップ麺1万2000個、バスタオル1000枚、マット1000枚、防塵マスク5000枚の物資(外務省発表)を支援してくれた。また、宮城県に医師3名を派遣し、こころのケアなどを行った。宮城県石巻市を訪れたアキノ大統領は、市に対して7600万円の義捐金を贈っている。
2011年のデータでは、在日フィリピン人は21万人という。在日外国人としては中国、韓国・朝鮮、ブラジルに次いで4番目に多く、日本各地に住むフィリピン人たちもこの台風災害への支援を開始している。東日本大震災の被災地である岩手、宮城、福島の3県からも「あの時の恩返しがしたい」と様々な動きが起きている。
福島県(県内在住フィリピン人2160人、2011年データ)では、南相馬市の中学生たちが自主的に募金を行い、いわき市では小中学生が救援物資を集めている。また福島市やいわき市のフィリピン人コミュニティの人たちも祖国の大災害に心を痛め、募金活動を行っている。
宮城県(県内在住フィリピン人974人、2011年データ)では、県が200万円の見舞金を贈り、南三陸町では、カップ麺や毛布、カセットコンロなどの物資を独自に送り、気仙沼のフィリピン人コミュニティの人たち、七ヶ浜の仮設住宅の女性たち、みやぎ生協、石巻市雄勝、仙台市などで募金も行われている。
岩手県(県内在住フィリピン人885人、2011年データ)では、県庁に募金箱が設置され、盛岡・マニラ育英会や陸前高田のNPO、大船渡のボランティアグループなどもフィリピン台風災害への募金を呼び掛けている。
未だ復興途上の東北の被災地からフィリピンの被災地へと国を超えた支え合いの輪が着実に広がってきている。災害を通じて世界が確実に近くなってきている。
(吉椿雅道)
☆12月3日には報告会をさせていただきますので、ぜひお越し下さい。
→http://philippines2013typ.seesaa.net/article/380863022.html

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Support Each Other ~From the Disaster Area to the Disaster Area

The disaster area Tohoku where the Great East Japan Earthquake happened in 2011, also have supported the disaster area in Philippines.

CODE has been implementing supportive activities from Kobe to the disaster area in the world under the slogan, “to help one another when one is in difficult time” because Kobe has received supportive activities from 70 countries in the world when the Great Hanshin-Awaji Earthquake in 1995.

Philippines sent 1,500 of instant food packs, 12,000 of instant cup-noodles, 1,000 of towels, 1,000 mats and 5000 of dust masks to Iwate prefecture and Miyagi prefecture where are the disaster area from the earthquake in 2011 (According to the Ministry of Foreign Affairs of Japan). Additionally they sent three doctors to Miyagi prefecture for mental care. The President Aquino donated 76 million yen to Ishimaki city in Miyagi where he has visited.

There are 210,000 Filipino residents living in Japan according to the data in 2011. This is the fourth largest number of residents after the number of Chinese, Korean and Brazilian. Filipinos living in Japan started supporting the typhoon disaster. Iwate, Miyagi and Fukushima prefectures where are the disaster areas from the Great East Japan Earthquake started various supportive activities with the feelings of returning the favor.

In Fukushima prefecture (2,160 Filipinos living in Fukushima as of 2011), junior high school students in Minamisoma city had voluntarily fund-raising and elementary school and junior high school students in Iwaki city also have collected relief goods. People in the Filipino community in Fukushima city and Iwaki city have done fund-raising because they feel distressed at the typhoon disaster in their country.

In Miyagi prefecture (974 Filipinos living in Miyagi as of 2011), the prefecture donated 2 million yen for relief money and Minami-Sanriku cho (cho means a town) offered relief goods such as instant cups noodles, blankets and portable gas stove. And fund-raising activities have been conducted by people in the Filipino community in Kesennuma city, women who live in temporary house in Shichigahama cho, Miyagi co-op, Ogatsu cho (in Ishinomaki city) and Sendai city as well.

In Iwate prefecture (885 Filipinos living in Iwate as of 2011), prefectural government set donation boxes and Morioka-Manila Scholarship Foundation, a NPO in Rikuzentakata city and volunteer groups in Ofunato city appeals people for fund-raising to the typhoon disaster.

Tohoku where reconstruction still has been going on is steadily developing cross-border friendship with Philippines. The world has been surely getting closer through the disaster.
(Masamichi Yoshitsubaki)

Translation: M. K.
Article in Japanese (http://philippines2013typ.seesaa.net/article/381215474.html)

フィリピン台風30号(Haiyan) 救援ニュース No.2 (EN follows)

(English follows)

甚大な被害をもたらした台風30号は、史上最大級の規模の猛威を振ってフィリピン中部を東から西へと通過していった。ここまで被害が拡大したのは、暴風による家屋倒壊よりも高潮による事が大きかったよう
だ。「津波のようだった」、「2階まで水が押し寄せた」、「スマトラ津波の被災地のようだ」などという高潮の恐ろしさを語る被災者の声も報道されている。フィリピンでは、2011年12月にミンダナオ島では台風で死者
1200人以上の被害を出し、2012年12月にも同様に台風で死者・行方不明1800人の被害が出ている。報道を見ていると高潮被害から命を守り抜いた人々がずぶ濡れになって、何もなくなった被災地をさ迷い歩いている姿が映っている。フィリピンは熱帯気候で年中、高温多湿であるが、あのようなずぶ濡れの状態では低体温症にもなりかねない。そしてその後の高温による感染症も懸念される。一刻も早く生存者の落ち着ける場所や衣類、食料の確保が求められる。
今回、被害の最も深刻なタクロバン市は、毎年の台風で町の歴史を記す古文書さえも残っていないというくらい台風の常襲地域であるそうだ。東ヴィサヤ地方(レイテ島、サーマル島、ビリラン島の3島)最大の都市であるタクロバン市は、人口22万人の貿易港で、農業や軽工業の集積地でもあり、日本、韓国、台湾の外資も入っている。一般的にフィリピンの公用語のタガログ語が使用されているが、主要言語はワライ語であるといい、かつてスペインの植民地であった事からスペイン人と華僑などの中国系との混血も多いという。第2次大戦では米軍がタクロバンに上陸し、日本軍との激戦地となったのがこのレイテ島であることは有名である。また、東ヴィサヤ地方で政治、商業、観光、文化、教育の中心地でもあり、大学などの多くの教育機関も多く、市内の学生だけでも4万人いるという。
現在、CODEでは、各NGOや国連などの支援活動やフィリピンとつながりのある関係者などから情報収集を行っている。支援から取りこぼされるであろう地域、島々にスタッフの派遣を検討している。
(吉椿雅道)
☆フィリピン台風30号(Haiyan)救援募金にご協力下さい:
郵便振替:00930-0-330579 加入者名:CODE
*通信欄に「フィリピン」と明記してください。
CODEのホームページからもクレジットカードでご寄付ができます。
募金全体の15%を上限として事務局運営・管理費に充てさせていただきます。

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Typhoon No.30 “Haiyan” Philippine flash report

The killer typhoon No.30 “Haiyan”, one of the most powerful typhoon had passed the midland Philippine from the east through the west. It is considered that the areas have been damaged due to the storm surge but not collapses by the storm wind. Voices of the victims are reported; “It was like Tsunami”, “Floodwater surged into the 2nd floor”, “Here is like the attacked area when Tsunami hit Sumatra”. Past years in Philippine, over 1200 people were dead when the typhoon hit Mindanao in December 2011 and the 1800 people were dead and missing by the typhoon in December 2012. Media shows the storm surge survivors have got soaked and drifted around the attacked areas. It is worried if the soaked body will cause hypothermia even in the year-round steamy tropical climate in Philippine, and is also concerned the hot temperature will expand infection. Safe shelters, clothes and foods are immediately needed for the survivors.
The most damaged area, Tacloban city in Leyte Island, it is said there is no historical archives there as it is always hit by typhoons every year. Tacloban, the largest city in East Visayas consisted with three islands, Leyte, Samar and Bililan, is a trading port with 220,000 of the population also agriculture and light manufacturing gather, intakes of foreign capitals from Japan, Korea and Taiwan in the city. Winaray as the main language, besides the public language, Tagalog. There are many mixed bloods with Spanish and Chinese come during the colonial era under Spain. Leyte is famous as the bloodiest battlefield between USA and Japan during WWⅡ. Tacloban, the central of politics, commerce, tourism, culture and education has several educational institutes such as universities holding over 40,000 students.
CODE is now in the midst of collecting local information via Philippine related parties, NGOs and UN and under study of sending our staff to the hit areas where are minor thus major supporters would skip.