投稿者「code」のアーカイブ

ジャワ島中部地震ニュース 第29報

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.12
最大の被災地、バントゥル県にイモギリという地区がある。中心部を通る幹線道路から少し入ったジャヤン村を訪ねた。外からはよく見えなかったが、集落の中に入って初めて被害のすごさに驚いた。多くの村は、このように屋敷林と呼ばれるヤシやバナナ、マンゴーなどの生活に有用な木々を家の周りに植えている。その為に外部からは村の全容が見えにくい。

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【写真】ジャヤン村の隣組長のカミジョーさん

このジャヤン村の第1RT(57世帯、250人)長であるカミジョーさん(55)は、ベチャと呼ばれる輪タクの運転手で17キロ先のジョクジャカルタの町まで自転車を走らせるそうだ。この日、カミジョーさんは見る影もない自宅のガレキの片付けに追われていた。「毎日、ガレキの片付けで夜は疲れてよく眠れるよ」と気丈な言葉を口にしていた。今はガレキの中から引っ張り出した資材で建てた掘っ立て小屋で6人の家族と親戚の2家族と共に暮らしている。また、このRT内では、4人の方が亡くなっているそうだ。「子供たちが余震で怖がってね。。。」とぽつり。。。
ほとんどの被災者の人々は、今なおガレキの中で余震に怯えながら暮らしている。その事を忘れないで伝え続けていく事もひとつの支援なのかも知れない。。。

ジャワ島中部地震ニュース 第28報

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.11
被災地バントゥル県は農村部で貧しいと言われる。が、実はもっとも貧しいのは、その東部のグヌンキドゥル県である。山岳部で土地がやせているのが、その所以だ。
バントゥル県からグヌンキドゥル県に入ると道は徐々に上り始める。木々の間を数十分走ったPATUKの町周辺は、断層に近いせいか、倒壊家屋が多い。

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【写真】グヌンクドゥルの山間部

県庁所在地であるウォノサリ市の保健局で働うく日本人の女性にお話を聞いた。地震の当日、たまたま旅行に出かけていた彼女は、1週間後にようやく戻って来たという。戻って来た頃には、職場の人々は疲れ果ててしまっていて、今、彼女は思うように動けないという。これから被災地を回ろうとする僕たちに同行しようとしたが、上司から「何かあったらどうするんだ」と反対され、断念せざるを得なかった その後、石灰岩のゴツゴツした岩肌の間を走っていると両脇に広がるキャッサバの畑が目につく。土の中から掘り出したであろう石を使って斜面に石垣を作り、やせた土地でも育つキャッサバを栽培していた。この事か。。
県内を一周するようにバントゥル県の断層のラインに近づくと再び被害がひどくなってくる。
PANGGANG郡では、2人が亡くなっている。役場前にはやはりPOSKOが設けられ、数人の職員とまだ若い学生らしき人がいた。声をかけてみるとやはりボランティアで、ジョクジャカルタ市内の大学から15人ほどで地震の翌日にここに入ってずっと活動しているそうだ。話を聞いた彼はあのスマトラ出身の学生だった。ともすれば取り残されそうなこの辺鄙な山間部にも学生ボランティアがいた。。。

ジャワ島中部地震ニュース第 27 報

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.10
インドネシアには今なお、王制が残る。その王様であるスルタンは、被災地のジョクジャカルタ特別州の州知事でもある。地震後、スルタンは被災地を回り、人々をはげましているようだ。そして地震後すぐにこのような事も言ったそうだ。「政府がお金を出して、住宅再建をすべてやる。その住宅は倒壊を免れた家屋よりもいいものは作らない。」、「雇用をつくるために地元の大工を使って建設する。」、「地域にある助け合いのシステム、ゴトンロヨンを有効的に使う。」と。これが、そのまま実現されれば、とてもすばらしい事である。

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【写真】役場の前に積まれた救援物資のお米

そして中央政府の副大統領も「食費(一人当たり)1日3000RP(約40円)、米10kg、被服費10万RP、支援金(月)10万RPを全被災者に支給する」と発表した。
が、しかし。。先週、いざ支給の段階になって政府は、「支給は全壊家屋の被災者のみ」と方針を変更した。それを知った多くの被災者から不満の声が上がっている。また、それを聞いて家屋を新たに壊している半壊家屋の被災者も出てきているという。
政府は、まず被災者に対してこれからの再建の道筋を示してあげるべきなのではないか。。まずは、「安心感」を与えてあげるべきではないか。。。尊敬の念を集めるスルタンこそがそれをできるのではないだろうか。。

ジャワ島中部地震ニュース第 26 報

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.9
ジョクジャカルタは、4つの国立大学と64の私立、専門の大学があるという学生の街だ。今回、注目すべきは、ガジャマダ大学(UGAM)の学生ボランティアたちだ。震災後、たったの6人で始めたボランティアが、今や4000人という規模になっている。大学のPOSKOに集められた物資を手分けして被災地に運んだり、集落で地域住民と共に被害状況を調査したり、教育学部の学生達は、子供たちのトラウマケアを積極的に行っている。

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【写真】(上)子供たちのトラウマケアをする学生ボランティア/(下)被災者の男の子と遊ぶボランティア、Dさん

また、その他の大学も小規模ながら地道にボランティア活動を行っている。同じく市内にあるKERJA SAMA大学では、4階建ての校舎の1階が潰れた。その潰れた校舎の前でささやかなテントでPOSKOを作り、物資を配っている20人くらいの登山サークルのボランティアたちの事も忘れてはならない。
そして京都に住む日本人大学生O君(24)はこの3月までジョクジャカルタに留学をしていた。住み慣れた街の惨状に自分も何かと思い、今回同行してもらい、現地案内、通訳などの協力をしてもらう事になった。また彼の友達であるDさん(22)もボランティアとして毎日朝から晩までずっと同行してくれ、今もなお現地で様々な情報を調査して送ってくれている。毎日被災地へと車を走らせてくれたドライバーのA君(22)も同じく学生である。
今回のこの学生ボランティアの動きは、11年前の阪神大震災に全国から駆けつけたのべ130万人のボランティアを彷彿とさせる。まさしくインドネシアのボランティア元年だ。彼ら自身が自分達の国、地域を何とかしようという心意気のようなものを感じる。日本の被災地から、そして日本のボランティアからメッセージを送りたい。若い力を応援する事もひとつの支援であるように思う。。。
【報告会のお知らせ】
 日時/7月2日(日)午後4時~
 場所/土生神社社務所(岸和田市土生町1114番地・JR阪和線東岸和田駅より徒歩10分)
 報告者/吉椿雅道(海外災害援助市民センターCODE臨時スタッフ)
 参加費/カンパ制
 問い合わせ/電話072ー426ー7287(土生神社・阪井健二まで)
 協力/小さな友の会

ジャワ島中部地震ニュース 第25報

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.8


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【写真】瓦礫の街と化したバウラン村
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【写真】多くの人は、今もなおガレキの中の小屋で暮らす

バントゥル県のバウラン村のRT(隣組)長であるスーダルモンさん(53)は、他になり手がいなくて第4RT(33世帯)の長を1987年からずっと務めている。やはり政府からの方針はまだ何も聞いてないという。村の再建の事も今は何も考えられないと。スーダルモンさんの個人的な事はあまり聞かなかったが、RT長としての重荷なのか、自分自身被災したという悲しみからか、肩を落として元気がなく見えた。「夜になると悲しくなって眠れなくなる。。」「食べ物があれば食べるし、なければ我慢するだけだ。」と。「ただ今は自分の健康の事だけを考えている。」という言葉を何度か耳にした。やはり中高年の男性の事が心配される。すでにある村では自殺もあったという。
1週間後の被災地では食料やテントなどの物資がようやく落ち着きつつあるが、これからどうやって住宅を再建するのか、どうやって仕事を取り戻すのか、それには長い長い時間がかかる。だからこそ今、被災者の彼らにどういう「安心感」を与える事ができるのかを考えなくてはならない。。。
最後に、スーダルモンさんは、つい先日まで村の若者たちがやっていた路上での募金活動について「本当はお金がほしいが、自分たちから求めるものではない。相手から与えられれば頂くが。。」と言って若者の募金活動を止めさ
せたそうだ。つらそうなその表情の中にも清貧の誇りを感じた。。

ジャワ島中部地震ニュース 第24報

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.7


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【写真】全壊家屋の多いバウラン村
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【写真】ガレキの片づけを行う村人

村の8割以上が全壊したバウラン村のUTOMOさんに案内してもらった。村は1950年代に建てたが、補修していない家が多かったという。しかもこれまでに小さな地震が何度もあっていたにもかかわらず。。。
ガレキの隙間に孫らしき男の子と座っているお母さん(56)に声をかけてみた。9人家族のうち、実のお兄さんは壁の下敷きになって亡くなったそうだ。地震直後は津波が来るという噂で向こうに見える小高い丘の方に逃げたという。娘さんは、地震の7日前に生まれた赤ちゃんを連れて今でも避難しているそうだ。「家族を亡くして精神的に辛いから何もやる気がしないよ。」というお母さんの向こうにガレキ山となった自宅が見えた。
別れ際、「あんたは日本人かい?」と聞かれて、そうだと答えると「この村には、ニッポンという名の人がいるんだよ。」と返ってきた。こんな所にも日本との歴史があった。

ジャワ島中部地震ニュース 第23報

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.6

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【写真】最大の被災地、バウラン村

バントゥル県の中でも最大と言われる被災地、バウラン村は、二つの集落からなる。そのバウラン第一集落に近づくにつれの倒壊した家屋が増えてくる。車を止め、村に足を踏み入れると唖然とした。ほとんどの家屋が全壊だった。半壊の家屋などほとんどなかった。「すごい。。。」という言葉しか出てこなかった。
このバウラン第一集落は260世帯(約1600人)、6つのRT(隣組)からなり、そのうち73人が亡くなったという。今なお病院にいる人も多い。ある人は、私立の
病院に行ったが、お金が払えずに治療をしてもらえず
帰って来たという。地震後、3日かかって
村の人達や軍の人によって遺体が出されたそうだ。
この1週間を人々はどんな思いで過ごしてきたのだろうか?

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【写真】築5年の家の細い鉄筋

やはりほとんどの家屋は鉄筋の全く入っていないレンガの家だ。鉄筋の入った5年前に建てたという家もガレキと化していた。
ジャーナリストでこの村出身のUTOMOさんが言うには、この村の多くは農業に従事しているが、田んぼを持たない小作農民がほとんどで小さな田を耕して暮らしている。また、昔は集落の中に沢山の竹などの木々があったが、建築用材として伐ったのでバナナやヤシの木ぐらいしか残っていない。そんな様々な状況が、この脆く安価な低品質のレンガの家を主流にさせたのかも知れない。。。
【学校でも報告します】
神戸学院大学と神戸工科高等学校の授業のなかで報告させていただくことになりました。他の学校でもご希望があればご連絡下さい。

ジャワ島中部地震ニュース 第22報

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.5
インドネシアには、ゴトンロヨンという相互扶助の精神が今もなお息づいている。農村部の稲作共同社会において人々は、田植えや稲刈りの際に互いに助け合う。労働を労働で返す事もあれば、稲刈りの労働を収穫の現物や金銭でもらう事もあるという。その共同社会を支えるコミニティーシステムにRT(近所との協調という意味)という隣組がある。約30から50世帯が集まって一つのRTを形成し、日頃の地域の清掃活動、冠婚葬祭の手伝いや役場の窓口業務も担う。このRTは、戦時中日本が持ち込んだ制度で「Tonarigumi」という言葉が今も残る。時に、五人組のように行動や思想の監視にも使われたという。

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【写真】トゥキディさんの孫娘と「まけないぞう」
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【写真】ゴトンロヨン(相互扶助)で皆で収穫

バントゥル県のスゴロヨッソ村のクロロン集落の第三RT長である、トゥキディさん(56)は、大工の手伝いなど何でもやる日雇い労働をやり、奥さんは野菜の卸売りをやって生計を立てている。ちょうど前日にRT内の被害状況を調査して村役場に提出したそうだ。また、地震後から目につく道路沿いにPOSKOを設置し、皆で物資の確保、配給にあたっている。
政府から何か話しはあったかと聞くとトゥキディさんは、「そんなもんはない、政府からの支援金もちゃんと届くかどうか。。。」 地域の人以外のボランティアは来てるかと聞くと、「ガレキの下にまだ財産が埋まっているので、親戚以外は入れさせないようにしている。身元の分からない人を入れるのは怖い。」という。コミュニティーが強い分よそ者への警戒も当然つよくなる。夜は皆で交代で夜回りをしているほどだ。このコミュニティーを上手く使えば、しっかりとした減災、防災への取り組みが出来るのではないだろうか。。。最後に「政府の援助無しには、再建ができない。ただ政府の方針を待つだけだ。」と、貴重なお茶を振る舞ってくれた。
  
傷つき、打ちのめされた被災者たちはいつもやさしい。。

ジャワ島中部地震ニュース第21報

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.4
被災地であるバントゥル県の人々は、多くは米やトウモロコシ、サトウキビなどを作って生計を立てている。その他、ジョクジャカルタへと出稼ぎに出る人も多いという。同じ集落でも主要道路沿いの家々は一目で被害が見えるが、細い道を入った奥の家の状況は見えない。また、主要道路沿いに作られた水田の向こうにある集落はなおさらの事である。それが物資配給の格差を生みだしたのかもしれない。 


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【写真】柱の中の細い鉄筋
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【写真】半年前に建てた家の屋根も崩れた

プレレット郡のウォノクロモ村に住むあるおばあちゃんの家は1985年に建てたが、全壊した。ガレキの中に柱の残骸があった。中には非常に細い鉄筋が二本だけ入っているのが見えた。そのガレキの中で旦那さんは使える資材を一生懸命に集めていた。その資材を使ってきっと仮設の小屋を作るのだろう。。。。
向かいの家は、半年ほど前に建てたが、この地震で屋根が崩れ落ちた。壁の部分は鉄筋コンクリートを使っていはいたが、構造や資材がいかに脆いかが容易に想像できる。やはり「耐震」である。人の命を守る為には。。。
【報告会のお知らせ】
被災地で撮影した写真を使って、被災地の生の声を報告します。
皆さまのお越しをお待ちしております。
 日 時 6月20日(火)18:30~20:30
 場 所 神戸YMCA 423教室
 報告者 吉椿 雅道(CODE臨時スタッフ)
*神戸YMCAへの行き方は、ホームページ
(http://www.kobeymca.or.jp/kobe/wellness/index.html)
をご参照下さい。お申込み、お問い合わせはCODE事務局までお願いし
ます。
*報告会を企画しませんか?
遠方でも交通費を出していただければ報告に行きますので、お気軽に
ご相談下さい。

ジャワ島中部地震ニュース第20報

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.3
ジョクジャカルタ市内から数十分も走ると最大の被災地、バントゥル県に入る。事前の情報では被災地への道は救援物資の運送や知人の見舞い、見物客などの車やバイクで渋滞だと聞いていたが、それほどでもなかった。

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【写真】レンガの説明をするエムダルスさん
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【写真】レンガのつなぎは土のみ

バントゥル県の断層の上にあるプレレット郡も大きな被害を受けた。ウォノクロモ村のジャティー集落(325世帯)に住む、エムダルスさん(64)とソウリキさん(66)の兄弟は、ガレキの山の中から使えるレンガを拾い集めていた。1953年に建てたという自宅は全壊し、後に91年に増築した母屋は鉄筋を使っていた為か、被害はあまりなかった。政府からの支援はないので兄弟、親戚で助け合って暮らしているという。辛うじて残った台所の壁を見てみると、やはりレンガとレンガのつなぎは土で、指でさわるとポロポロと取れてしまう。レンガも決して強いとは言えないのうだ。エムダルスさんはそんな僕を見て、「昔のレンガは強かったんだがな..最近のレンガは商業主義で質が悪い。昔は自分達で自分達の為にしっかりとした家を建てたもんだ。」と語った。
本来、ジャワでは木材を多くつかった伝統家屋が主流だった。70年代以降の木材の高騰により農村部では急速にレンガ造りの家屋に変わって行ったという。これは日本との関わりを考えざるをえないのではないか…
*関連団体の動き*
芦屋に住む、グラフイックデザイナーの小西雅さんが、ジャワ地震の直後から、ポストカードを作って支援活動をしています。小西さんは、偶然地震の2週間前までジョグジャカルタに旅行に行かれていて、この地の魅力に取り憑かれていたそうです。旅行中に撮っていた写真を材々にしてポストカードにし、販売した収益を「神戸新聞厚生事業団」を通してジャワ再建に使われます。
(http://www.sobani.net/jogja.htm)
ジャワ島中部地震救援募金にご協力下さい
 郵便振替:00930-0-330579 加入者名:CODE
 *通信欄に「ジャワ島中部地震支援」と明記してください。
募金全体の15%を上限として事務局運営・管理費に充てさせていただきます