投稿者「code」のアーカイブ

ジャワ島中部地震ニュース第39報

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.21
ジャワに息づく伝統文化のひとつに「陶芸」がある。ジョクジャカルタ特産の赤土を使って作る陶器や土器は、国内外からも高く評価され、日本やヨーロッパから買い付けに来る客もいたという。

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【写真】陶芸の町、カソガンの惨状
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【写真】地場産業である「陶器」

陶芸の町で知られるバントゥル県、カソガン。ジョクジャカルタ市の南西に位置するこの町では、人口2900世帯のうち約1割の約300世帯が陶芸にたずさわるという。本来、素朴な作風のジャワ陶器にヒンドゥー教の神話をモチーフにした芸術的要素を加えて高く評価され、70年代以降発展してきた。それにともなって多くの人が近郊から働きに来るようになり、陶芸の町として有名になったという。
このカソガンは被害の大きい活断層エリアからは離れているにもかかわらず、多くの被害を受けた。町を通る道路沿いでは、倒壊した家屋の中に割れた陶器の破片が散らばる風景が広がる。そして工房、ショップのオーナや職人と思われる被災者の人々が、ガレキの中からまだ「売り物」として使える物を分別していた。
倒壊したショップ兼工房(70年代に建てた)のオーナーであるティティさん(30)も売り物としてまだ使える壺や花瓶などの陶器などを倒壊した店から取り出していた。8人の家族の中では軽傷者のみで、このRT(隣組)では死者は出なかったが、隣のRTでは4人ほど亡くなっているそうだ。今は、POSKOから食料をもらいながら敷地内に張ったテントで暮らしている。「陶器はね、ここで作って、ここで売っていたのよ。マレーシア、オランダあたりからも買い付けに来てたわよ。」
今後の見通しの立っていないティティさんは、同業者の協同組合のようなものはないので自分達で何とかするしかないと言う。「親戚同士で家を建て直して暮らすわ。。。」
ティティさんと話していると実は、このカソガンの町の陶器の多くは農村部のパンジャングルジョーという被害のひどいエリアから来ていることが分かった。観光地ジョクジャカルタの地場産業のひとつでもある「陶器」。それを支えるのはカソガンのような近郊の町である。そしてそれを支えているのは農村部のパンジャングルジョーである。
被災地はこうやってつながっている。。。

ジャワ島中部地震ニュース第38報

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.20
ジャワ島中部地震の被災地では震源地の海岸から北東に活断層が通っている。その断層上が大きな被害を受けた。ジョクジャカルタ特別州(DIY)のバントゥル県、そしてもうひとつ中部ジャワ州のクラテン県で甚大な被害があった。

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【写真】バトゥラン第1小学校の子供たち
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【写真】バトゥラン第1小学校の惨状
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【写真】再開した授業風景

クラテン県では、地震直後、救援物資の遅れが目立った。DIYのジョクジャカルタに集まってくる物資はたった十数㎞の州の違うクラテン県に届くのには時間がかかった。
DIYと接する断層沿の県の南部は、道路沿いの集落を除けば広大な田園地帯だ。クラテンのお米は、ジャワの中でも美味しい事で有名だという。そんな田園風景の中にあるガンティワルノ郡のバトゥラン第1小学校(生徒数119名)ではその日、子供達の歌声が響き渡っていた。
全壊してほとんど跡形もないガレキの山の中に散乱した教科書が、ここがかつて学校だった事を気づかせる。ほんの3日前にテントで授業が再開したばかりで子供たちはとても元気に音楽の授業を受けていた。校長先生であるカルティアニさんが言うには、政府やNGOなどからテントと教科書が配られ、ようやく再開出来たと。幸いこの学校の生徒の中に死者は出なかった。だが、未だ学校に来られない子供もいる。津波のパニックで8km先まで逃げたという子供もいたそうだ。
突然の外国人の訪問に皆、元気に唄って歓迎してくれた。が、校長先生が、「皆、元気そうに見えるけど低学年の子たちは外からは分かりにくいのよね。。。」、「ほら、あの子見て。ずっとああやってボーッとしているのよ。トラウマね。」と教えてくれた。教育局から配られた制服は、わずか40%のみで中には制服を着ていない子もいた。靴をなくした子はサンダルで来ているとも。。
学校再建を政府がやるという話しはあるが、まず国立の学校が優先される事になる。イスラム系の学校はイスラムの財団が再建するだろう。問題は、私立の学校である。世界一人口密度の高い島であるジャワ島では、子供が多い。被災者の4割は子供だといわれる。被害を受けた1000校ちかくの学校をどこまで再建できるか。。政府がやらない、やれない事をNGOがやるべきだろう。集落の中にある学校の子供たちが元気になれば親が変わり。地域が変わる。そんな相乗効果を期待したい。。。
【関連の動き】
(ジャワ島地震支援チャリティコンサート)
日時:平成18年7月30日(日) 14時30分~16時30分
場所:レストラン「ファサン」大阪市中央区谷町4丁目 電話06-6966-7621
料金:3,000円 (1ドリンク付、収益は全額義援金として寄付)
主催:NPO-KMWs
問合わせ・申込み:電話/FAX 072-427-7190 (NPO-KMWs 代表 沖野真)
イベント:
 第一部 ジャワ島をもっと知ろう
 ・インドネシア民族楽器 アンクロン演奏
 ・二胡アンサンブル演奏 茉莉花
 第二部 インドネシア舞踊(ジャワ舞踊・バリ舞踊)
司会:FM COCOLOのDJシャオチェンさん(毎週月曜日午前6時半~7時放送担当)

ジャワ島中部地震ニュース第37報

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.19
インドネシア、ジャワ島を襲った地震から5週間。約150万人といわれる被災者の人々は、今もなおガレキの中のテント、掘っ立て小屋に暮らす。
今回の地震は、人々の集落だけではなく、世界遺産のプランバナンにも甚大な被害をもたらした事は、マスコミなどの報道で知る人も多い。が、その北側にひっそりと農村の中に建つプラオサン寺院も被害を受けた事を知る人は少ない。プランバナンと同じ9世紀に建てられたヒンドゥー遺跡で南北二つの寺院からなり、壁に描かれたレリーフは目を見張るものがあるが、訪れる人は少ない。

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【写真】プラオサン寺院の前の避難テント
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【写真】物資を手にするスミナさん

プラオサン寺院の入り口にもPOSKOがテントで作られ、その横に数家族が避難生活をしている。
そこで寝泊まりするスミナさん(40)は、7人家族でプラオサン寺院のすぐ前で時折訪れる観光客を相手にささやかな商店を営んでいた。自宅も商店もやはり全壊である。このブキサン村では(120世帯、332人)3人の命が奪われた。旦那さんは頭にケガをしたが、息子さんは屋内で朝のお祈りをしていたが無事だったという。
「地面がゆれた。。」というスミナさんは、ちょうど料理を終えていたので、火事には至らなかったと語ってくれた。「バイクも家具も全部駄目になった。商店も商品も駄目になってしまったよ。。」と。。。
最後にPOSKOに詰めてい村の若者達にギターで唄ってもらい、お返しに11年前に阪神の避難所で唄った「花~すべての人の心に花を~」を唄った。11年前の阪神とジャワがダブって見えた。。。
プランバナンという光の裏にプラオサンという影があり、そこにも被災者の人々がいるという事を忘れてはならない。。
*ジャワ地震関連情報として、World Voice(http://www.code-jp.org/wv/)に「ここが私たちの家」をアップしました。併せてご覧下さい。

ジャワ島中部地震ニュース 第36報

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【写真】被害のあったジャワ舞踊研究所
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【写真】ここで子どもたちが舞踊を学んでいた

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.18
 ジョクジャカルタには伝統文化が息づいている。そのひとつにジャワ舞踊がある。ジョクジャカルタ市内にあるジャワ舞踊研究所は、今や市内にたった二つしかない民間の舞踊の学校である。それは、大通りから細い路地を入った集落の中にひっそりとあった。この地震によって生徒達が舞踊を学ぶ舞台の屋根の一部は落ち、別棟の事務所や舞台道具置き場も大きな被害を受けた。
 非常に穏やかな校長先生は、「TVで日本の地震の事を見たことあるけど、まさか自分が地震に遭うなんて。。」と肩を落として語り始めた。自宅の寝室の壁が崩れ、今でも怖くて、外のテントで寝ているそうだ。「この舞台は1900年に建てられて今年で106歳なんだよ。」、「この学校の卒業生の中には日本人やアメリカ人もいて、帰国して大学などで教えている人もいるんだよ。」とこの学校への思いをとつとつと語ってくれた。
 本来は先生10人、生徒は子供から大人まで100人近くの人たちが学び、舞踊の披露の際は、近所の子供達なども見に来ていたという。そう言われてみると周囲には、幼稚園があったり、子供が路上で遊んでいたりとどこか日本の下町を思わせる雰囲気だ。だが、今は、学校を再開できる状態ではない。
 この学校の修復には約70億RP(約8000万円)という莫大な費用がかかるそうだ。今、日本やアメリカ、インドネシアの卒業達が、基金を作って、この母校を修復しようとしている。地域に根ざした伝統文化を復興させる事で人々のこころも復興へと向かっていくのかもしれない。。。
 この日も生徒らしき若い人たちが校長先生の家の片づけの手伝いに駆けつけていた。。。
【関連の動き】
 ヴィッセル神戸ミリオンスマイル親子スポーツDay:親子バドミントン教室が7月17日にアシックス本社アトリウムで開催されますが、今回の参加費用の一部は、バドミントンが国技であるインドネシアのジャワ島中部にて今年5月に起きた大地震への被災支援募金となります。参加者募集中(7/13まで)。
詳しくはhttp://www.vissel-kobe.co.jp/whatsnew/wn_1632.html
または、株式会社クリムゾンフットボールクラブ ヴィッセル神戸スポーツビジネスカレッジ(担当:大山)TEL:078-685-5512(9:00~17:30 土日祝休) FAX:078-685-5502にお問い合わせ下さい。

ジャワ島中部地震ニュース 第35報


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【写真】「まけないぞう」を喜ぶラマーくん。
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【写真】ラマーくんと学生ボランティアの女性

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.17
 バントゥル県のJETIS地区に着いて車から降りた時、男の子が家の軒先でひとりで遊んでいるのを見かけた。
集落をまわった後、その男の子の事が気になって家を訪ねてみた。名前は、ラマーくん、7歳。生後8か月の時からダウン症になり、それからずっとこのJETIS集落にあるおじいちゃん、おばあちゃんの家で暮らしている。
 ラマーくんの家を訪ねた時、彼はどこかに遊びに行っていていなかったが、おじいちゃんが全壊した自宅のレンガを片づけていた。おじいちゃんは、地震当時のラマーくんの様子を丁寧に説明してくれた。辛うじて倒壊を免れた家の別棟で寝ていたラマーくんは、倒れてきたタンスと柱の間にサバイバルスペースが出来て無事だったそうだ。地震後も取り乱したりする事はなく、落ち着いてるとおじいちゃんは言っていたが、ラマーくんは、さぞかし怖かっただろう。。。
 その後、おばあちゃんが、ラマーくんを呼んできてくれた。ご挨拶に神戸からのメッセージ「まけないぞう」をプレゼントしたら、とてもいい表情で笑ってくれた。その後も「まけないぞう」を振り回したり、臭ったりして楽しそうに遊んでいた。そしてお礼におじいちゃんに促されて僕の手の甲にお礼のキスをしてくれた。自分の気持ちを思うように言葉にはできないが、ちゃんと大人の言う事がわかる賢い子である。この村にはラマーくんのような子供が他に2人いるという。深刻な状況の被災地の中で心温まるひとときの出会いだった。
 弱者という言葉はあまり好きではないが、ラマーくんのような弱い立場にある被災者の人々の小さな小さな声や思いを大事にしていきたい。そしてそういう声や思いがちゃんと反映される復興を切に希(ねが)う。。。

ジャワ島中部地震ニュース 第34報


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【写真】スグレッさんの自宅
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【写真】どっしりと立つバンブーハウス

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.16
 バントゥル県のJETISという農村部もまた大きな被害を受けた。第8RT(56世帯)長のスグレッさん(51)は、ゴトンロヨン(相互扶助)でガレキの片付けや落ちかけた屋根瓦の撤去作業に追われていた。スグレッさんは、子供さんとお孫さんの4人家族で暮らしている。自宅は96年に地元の大工さんを使って約2500万RP(約30万円)で建てたそうだ。当然ゴトンロヨンで村の人々の力も借りて。話を聞きながらじっくりと家の各部分を見ていると、壁には家を取り囲むように鉄筋コンクリートがちゃんと入っている。その為か壁自体はちゃんと立っている。(屋根はほとんど落ちているが。)という事は、もう少し補強の技術津や知恵があれば。。と思った。また逆にちょっとした工夫や知恵さえあれば、ゴトンロヨンで住民自らが住宅再建をやる事も出来るのではないかとも思った。
 スグレッさんは、「今は食料は十分にあるが、長期化すると心配だ」、また「今は政府からの住宅再建を待っている」と言って去っていった。
 JETISの集落の周りには田んぼや畑が広がる。その広大な田んぼの中に巨大な竹製の建造物が点々とある。近づいてみると縦15m、横5、60mの大きさに驚く。また中には太く長い一本の竹が無数に柱として支えてあり、数百本の竹が縦横に組んである。聞くとこの建物は、煙草や農作物を乾燥させる為に使う共同の小屋だそうだ。道の向こうの集落や学校はことごとく潰れているのに、このバンブーハウスだけは何一つ壊れる事なく、しっかりと立っていた。何かを語りかけるかのように。。。ちなみについ最近の情報では竹で耐震の住宅を建設しているそうだ。

ジャワ島中部地震ニュース 第33報

今回は、吉椿の「つぶやきレポート」はお休みさせていただきます。代わりに、<コンパス>という現地新聞を通訳で同行してくれた岡部さんが訳してくれましたので、お届けします。
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公共事業省は、ジョグジャカルタ特別州(DIY)と中部ジャワ州の182の村に4000以上の耐震の家を造るという、まず初めのプロジェクトを7月に始めることを決定した。このプロジェクトは再建をしようとする住民のモデルとなるだろう。
DIYでは被害がひどい112の村に2700戸が建設され、一方でクラテン(中部ジャワ州)の70の村では1600戸の家を受ける。
また、各村には井戸や灌漑用水のような基幹インフラ復旧のために2億ルピアが支給される。このプロジェクトには公共事業省、都市貧困対策計画
(P2KP)から資金が提供される。
「私たちはDIYと中部ジャワ州のために約2千万USドル(1860億ルピア)の予算を取り分けます。推定で、40m2以上の広さの家で最大3千万ルピア、それ以下の家は1平方メートルあたり75万ルピアで計算して支給します。」と、イモギリ、スリハルジョ村に耐震の家の建設技術の広報活動に来ていたダニー・スジョノ(P2KPユニット・マネージメント・プロジェクト長)の話。
しかし、スリハルジョ村は1239戸の家が全壊したが、政府からはたった10戸のモデルしか割り当てられない。一方で誰がその家を受け取るかの選考は村側に任せられる。
ダニーは住民がすでに示したような家の構造のスタンダードを従うように警告する。彼は、現在、耐震の条件を無視した、1000万ルピアから1500ルピアで安く建設できると言っている幾つかのNGOが存在することを例に挙げている。
「いい加減な建設ではなく、木造の家、壁の家、レンガを半分使った壁の家など、どのような条件で建設すればよいかという、技術の指針をここに私たちは持っている。」とダニー。
このモデルの建設は建設業者ではなく、完全に住民に任せられる。お金は段階的に家の援助を受ける人の銀行口座に振り込まれるだろう。建設は耐震の家のスタンダードの質を監視する建築技術者によって見守られる。(6月22日、コンパス紙)

ジャワ島中部地震ニュース 第32報


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【写真】震源のパラントリティス海岸。
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【写真】観光客のいなくなったレストラン。

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.15
 ちょうど1ヶ月前に起きたジャワ中部地震の震源地は、ジョクジャカルタから南西に25kmの海中と言われいている。震源に近いパラントリティス海岸に行ってみた。 震源に近いにもかかわらず海辺の集落の被害はそれほどひどくはない。 きれいな海岸沿いには海の家やレストラン、お土産店などが並んでいるが、どの店にも客の姿はほとんどない。同行してくれた学生ボランティアの女の子が言うには、普段はジョクジャカルタから沢山の人が、遊びに来ていたという観光地だったそうだ。
 海岸線に一番近い海の家のお母さんに話を聞くと、地震の日の朝、お母さんはすでに起きていて店の開店準備をしていたそうだ。グラッと来てびっくりしたが、その場にいて逃げなかったそうだ。。「津波の心配はしなかったの?」と聞くと、お母さんは、スマトラの時のように津波が来る時は一度波が引く事を知っていて、今回は波が引かなかったから大丈夫だと思ったと答えてくれた。(ちなみに津波が来る時は必ず波が引くとは限らないそうだ。)
もし津波が来てたらと考えると。。また、今回の地震ではかなり多くの方が津波を心配して高台に逃げたり、海と反対の北の方へ避難したという話を随所で耳にした。ある人は20km先のジョクジャカルタの町まで逃げたという。やはり津波警報システムや津波に対する知識などの事前の備えを考えなくてはなるまい。
 海の家のお母さんは、ぽそりと「地震後3,4日は、沢山の人が見物に来たよ。でも今は、さっぱりだね。。。」とつぶやいた。。。

ジャワ島中部地震ニュース 第31報

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.14


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【写真】村の共同調理場
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【写真】ジャヤン村の人々

 イモギリ地区のジャヤン村のではブルーシートと竹で作った簡素な共同調理場で当番制でお母さん達が料理している。お米は近所の農家の人が米を持ってきてくれるという。また、すぐ横には井戸を使った共同の水浴び場も作ってあった。女性が浴びる時は、見張り番を置くという。そして家をなくした多くの村人はトイレを川で済ませているという。また、全壊の人は勿論、半壊の人々も今尚続く、余震の恐怖の為家の前の道路にブルーシートの屋根だけの掘建て小屋をガレキの中から取り出した角材などで工夫して作り、そこに寝ている。年中30℃近い熱帯の気候では、寒さの心配はないが、それでも長期化してきているこの生活にはかなりの無理がある。
 この村の第1RT長のカミジョーさんにお礼にほんの少しであるが、救援物資の食料を渡そうとしたらPOSKO(物資配給所)に入れてくれと言われた。個人が勝手に貰う訳にはいかないのだろう。村の掟である。
 別れ際に中学校の先生のムジマさんに神戸からのメッセージ「まけないぞう」を渡すと、「今まで外国人はこの村には来ませんでした。もしお金があるのなら子供たちの為に学校を建ててください。」と。そしてこんな言葉も。。「あなた達が来てくれて、希望が持てました。いろんな事を聞いてくれて、私も頑張ろうと思いました。ありがとう。」
 地震から一ヶ月。今なお、こうして人々は被災地で助け合いながら生きている。。。
*関連情報を「World Voice」(http://www.code-jp.org/wv)に挙げましたので、こちらもご覧下さい。

ジャワ島中部地震ニュース 第30報

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.13

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【写真】(上)ジャヤン村の中学校/(下)ムジマさんの全壊した自宅の前にて 

イモギリ地区のジャヤン村にある中学校には150人の生徒がいた。「今はまだ授業は再開してないわ。。。」とつぶやくのは、この中学校で教鞭をふるっていたムジマさん(34)。この学校は1980年代に建てられ、5人の教員と2人の事務員がいたという。職員室の建物は何とか残ったが、教室の壁は崩れ、屋根がすべて落ちてしまったチョークで字の書かれた黒板や散乱した机や椅子が地震前の子供たちの学んでいた風景を想像させる。まだ学校の再建の話はないが、ほんの数時間前に教育局の人が被害調査に来たそうだ。
ムジマさんは、学校の先生であると同時に妻であり、母でもある。そしてひとりの被災者である。ムジマさんが生まれる前に建てられたという自宅は、全壊してガレキの山と化していた。旦那さんの商売道具であるナタデココ(一時期日本にも輸出していたそうだ。)を作るプラスティックトレーをガレキの中から取り出してあった。
ムジマさんは、先生らしく、とてもおだやかな方で、突然来た外国人に救援物資の水を差し出してくれ、僕たちの質問にひとつひとつ丁寧に答えてくれた。そして最後に言った言葉が心に残った。「今は、自分の事で精一杯なんです。。」