8月、代表の芹田とスタッフの岡本がハイチ地震の被災地を訪れました。
支援地の人々の声を、いくつかのレポートに分けてご紹介していきます。
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■2012年ハイチ訪問レポートNo.5
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*マリー・アンジェ・ドゥソウさん(日用品売り)の話
この一帯はカナアンと呼ばれ、なだらかな山の麓にある。聖書にあるカナアンからとられたのだろうかと聞くと、ガードマンのウィルフリーさんはそうだと言った。山と言っても樹木はほとんどない。ハイチはもともと緑豊かな国であったが、圧制下の貧困を生き延びるため、人々は燃料や建材になる木を売るしかなかった。結果、山肌が見えるまでに荒れた土地はもはや保水力を失い、豪雨があるとたやすく崩れてしまう。
マリー・アンジェさんはこの地で、支援団体によって建てられた家に夫と妹と3人で住んでいる。広さは6畳一間ほどであり、奥にベッドを置き、手前は食事などのスペースにしている。壁と柱は木造、屋根はトタンである。雨に備えてだろう、30cmほどの高床にしてある。仕切られている敷地は広いが、水道は無く、したがってトイレ・風呂は無い。1ガロン(約3.8リットル)1グールド(2円)で業者から水を買って暮らしている。
カナアンにはもともと人は住んでおらず、何もない荒れ地だった。しかし、地震後に政府がキャンプからの立ち退きを推奨し、人々はこの地を開拓した。地面をならし、家を建てた。政府はこれを黙認した。ガイドのルシアンは、「地盤も、インフラの面でも、人の住めるような場所じゃないよ」という。他の集落からも遠く離れ、町としての機能を持たない寂しい土地だ。「乳と蜜の流れる地」と描写される「カナアン」とは皮肉な名前である。
山から取れる白く乾いた土が建築用ブロックの材料となるらしく、それを集めた小さな工場がところどころにある。それを除けば家とキオスクのような小屋だけが点在し、コミュニティと呼ぶにはあまりに閑散としている。マリー・アンジェさんによると、「近所の人とのかかわりはほとんどありません」。近所で子供たちがサッカーをすることがあるというので、まったく近隣の交流が無いわけではないが、暮らしを助けあったり悩みを話しあったりするような関係ではない。バプテスト系の支援団体が建てた教会――と書かれた小屋――が彼女の家の隣にあるが、それも寄り合いの場になることは無いのであろうか。
ガイドのルシアンが言うには、ハイチでも田舎に行くと、長年そこに住んでいる人たちのコミュニティがあり、そこでは結束のもとに暮らしが成り立っている。しかし、ポルトープランスのような都市に地方からやって来た人たちの集まるところでは、そのようなつながりの意識が無いことが多い。人々は、自分がその日生きるのに精一杯なのだという。
マリー・アンジェさんの場合、病気が暮らしの再建を阻んでいる。彼女は最初の融資200ドルで洗剤などの日用品の販売を行った。それはうまく行き、ローンを返済することができた。しかし、ふたたび200ドルの融資を受けて商売を行っていたところ、体調を崩し商売を辞めてしまった。消化管の病気で出血したという。「これから先のことはわかりません。体調はましになったけど、もう医療費は払えません。夫は不定期の日雇いで、安定した収入はありません。」
ここが仮暮らしとなるのか、あるいはここに根を下ろさざるを得ないのか、人々は見通しを持てず、その日を生きることにただ力を尽くしている。
(岡本 千明)