スリランカ第 7 次調査報告No.4

■女性組合
 漁業組合の代表と一緒に、「FCWU訓練センター」に向かった。FCWUとは、漁業組合のなかの女性委員会にあたるもので、女性や子どもたちが職業トレーニングを受けている。

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 センターでは、女性たちが職業に役立てるためにコンピュータや刺繍の技術を習うことができる。この町の女性たちは、夫がやっていた店が津波であらかた流されてしまい、自ら家事に加えて収入を得るための仕事を始めざるを得なくなった。職業訓練に加え、自営業の開業資金として融資を受けることもできるプログラム。ふと見ると、ある女性が、紙とペンを取り出し何かの図を描いている。聞いてみると、私たちに同行してくれた男性が着ているシャツの刺繍の模様を描き写していたのだ。デザインの参考にするのだと言う。
 家事は無償労働だからその価値が低い、というのは間違っている。けれど、それまで無償労働に従事してきた女性たちが自分で生計を立てられるようになると、離婚しても生きていけるという自信からか、家庭内やコミュニティ内で発言力が増したり、外に出た女性どうしの結束が固まったりするといったケースはいろいろなところであるらしい。家事の合間の気晴らしにもなり、いきいきしてくる(逆に負担が増えることもあるだろうけれど)。ここでコンピュータを学ぶ女性は、どのような仕事に就くのだろう。災害によって、ある一帯に住む人々はその人生の送り方を変えることを余儀なくされる。時が経ち、それは一時的な例外として再び何もなかったかのように鳴りをひそめるかもしれないし、次の世代にも受け継がれ、新たな文化として社会に定着していくのかもしれない。

スリランカ第 7 次調査報告No.3

■漁業組合

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翌日は、ハンバントータ県のクダワラという漁村にある漁業組合を訪れた。漁師さんたちは津波で漁業の道具を失い、生計手段を奪われた。CODEは漁師の組合を設立し、一隻のボートを支援した。この船を組合員が交代で使い、漁に出る。獲れた魚はゴールやマータラといった町からやってくる卸売業者に売る。お金を儲けた漁師は収穫の一部を組合に寄付し、皆で集めたお金で再び組合のために、夜間の漁ためのランプ等を購入する。
他にも、多くの船を支援している団体もあるが、CODEの支援について組合の代表はこう言った。「CODEは個人にではなく、この漁業組合というコミュニティに対してボートをくれた。もし個人に船をあげていたら、その人だけが豊かになり、社会に不和が生まれてしまうだろう。だから、たった1隻のボートだけれど、このようにコミュニティが協力して強くなれる方法は良かった。」

スリランカ第 7 次調査報告No.2

スリランカでCODEが津波後に支援している幼稚園・保育園と、漁業組合を訪ねました。その様子をご報告します(岡本千明)。
コロンボに着くと、味わったことのないじっとり水分を含んだ空気に包まれた。着いた翌日から、それまで乾季だったという大地に雨も降り始めた。コロンボから海に沿って南下し、南部のヒッカドゥワ、ウェリガマ、マータラという町にある3つの幼稚園に向かう。
■幼稚園

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スリランカには2万ほどの幼稚園があるが、そのほとんどは宗教法人やNGOが運営している。公営でないため政府の支援はあまり受けられず、再建はNGO等が中心となって行われているそうだ。島南部のヒッカドゥワという町にある幼稚園建設現場に着くと、子どもたちが首に花輪をかけて迎えてくれた。この地域では、ほとんどの家族が津波の被災者だ。鬱蒼とした木々を背後に、ブロックで一階の高さの柱と壁までができている。床、天井や内装はまだこれからだが、2月には開園する予定だ。70人の子どもたちが入園予定だが、そのうち24人が津波で何らかの被災をしたそうだ。30人は3~4歳、40人は4~5歳だ。子どもたちは、今は近くの寺で勉強している。しかし、寺が宗教の活動に使われるときには使えない。子どもたちはいつでも遊べる場所を待ち望んでいるそう。
この幼稚園は海から約1キロ離れており、安全地帯にある。それでも津波は地面から30センチほどの高さまで来たそうだが、園の裏が高い丘になっており、逃げ場になるのだと言う。

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より南部のウェリガマの幼稚園に向かう。「ウェリガマ」とは、「砂の村」という意味らしい。海が近く、たしかに砂はあるが、特に砂の村というイメージはない。幼稚園の建設現場となっている場所では、波が家の一階くらいの高さまで来て88人が亡くなったと先生が教えてくれた。園舎は9割方完成している。もうすぐ開園し、20人ほどの園児が通う予定だ。ブランコや滑り台などの遊具もある。私たちが着くと、歓迎のセレモニーを催してくれた。5歳くらいの園児たちが、ゆかたとタキシードで迎えてくれた。舞台を使って「おはしもの歌」に合わせて踊ったり、スリランカのジャングルに住む先住民のダンスをしてくれた。
13歳になる幼稚園の先生の娘さんが、日本語で挨拶をしてくれた。学校で習っているそうだ。「支援ありがとうございます。日本からスリランカに来る皆さんによろしく。私たちは手と手を合わせて挨拶します」と手を合わせ、最後に「なむあみだぶつ」と言った。

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最後に訪れたのはマータラの幼稚園。ここは、2006年1月に完成しており、約30人の園児が学んでいる。旗を立てるポールには、スリランカの旗と日本の旗が並んで翻っていた。到着すると、園児とお母さんたちが待っていてくれた。村井事務局長は、先生と子供たちにこう語った。「災害はつらいけれど、これからのスリランカを作っていくのは子どもたち。日本も災害を経験しています。世界のどこであっても、共通の経験や思いを共有することが大切です。その心のつながりが、国を越えて災害を乗り越えてゆく力となるのです」

スリランカ第 7 次調査報告 No.1

 災害史上最悪の事態といわれた「スマトラ沖地震津波災害」(2004.12.26)から20ヶ月が経った”輝く島=スリランカ”を、この夏、駆け足で廻ってきました。以下に簡単に報告します。(理事・事務局長 村井雅清)
 みなさまからのご支援を頂き、CODEは津波をたスリランカにおいて次のような支援活動を行っています。①防災共育 ②幼稚園・保育園建設 ③漁業支援です。CODEの支援はどれもスリランカ東海岸と南部地域の2ヶ所ではじめました。その理由を説明するには、少しスリランカの政治的背景に触れなければなりません。スリランカでは20数年におよぶタミール人とシンハラ人の民族紛争が続いていて、2002年2月、やっとノルウェー政府の斡旋により、停戦協定が結ばれました。その後津波が襲い、一時は相互協定を結び、お互いに復興に歩もうと締結されたのです。世界中からの救援活動が、和平を一歩近づけたのでした。ところが残念ながら、マスコミなどでも伝えられているように、2005年11月の新政権誕生とともに、再び両者の関係が悪化し、今はコロンボ市内の治安にも影響を与えています。
 従って北部ジャフナの幼稚園・保育園(すでに完成しスタートしている)、東海岸トリンコメリーの漁業支援、東海岸バッティカロアの幼稚園建設、同じく東海岸アンパラ県での防災共育に関しては、安定するまではモニターにも行けない状態です。支援しているカウンターパートナーである漁業組合のサラナプラさんは「次回は是非トリンコ(トリンコメリー)に行きましょう!」と行ってくれるのですが、現実は厳しいところです。今回の訪問も南部のゴール、マータラ、ヒッカドゥア、ハンバントータで実施している防災共育、漁業支援、幼稚園・保育園建設のモニターになっています。次回から順次詳細な報告をさせて頂きます。
 いづれにしろ、津波から20ヶ月が過ぎたが、各々のプロジェクトが進んでおり、いよいよ次の段階では、現地の当事者たちが主体的に事業を継続・発展させるべき継承をどのタイミングで行うかです。私どもの調査団が帰国した日に、実はスリランカYMCAから2名の若者が研修の一環としてCODEに来てくれました。2人の内一人が言われたのは「津波以降、スリランカYMCAは復興のための”種”を蒔いてきました。この種が芽が出るようにサポートして行きます。」と力強く言われて帰られました。ほんとうにCODEが行う支援は種まきであって、あと水をやり、施肥し管理するのは地元の人達の仕事です。
私たちにできるその後の仕事は、ただ祈ることだけかも知れません。
 次号から通訳として同行した岡本千明がレポートをお届けします。お楽しみに。

スリランカ東部訪問記

スリランカではこの1ヶ月間で、紛争により200人を超える人が殺害されており、2002年の停戦合意が破棄され内戦が再開するのではないかという懸念が高まっています。5月11日には北西部で、「タミル・ イーラム解放のトラ(LTTE)」の船がスリランカ海軍に突っ込み爆発し、停戦合意以来、最大の衝突となりました。スリランカ問題担当の明石康・日本政府代表は、この衝突が起きたことについて「状況は非常に切迫しており、全面的な戦争が再開する危険がある」と指摘しています。
CODEはスリランカで現在3つの津波復興支援プロジェクトを行っています。その中の幼稚園・保育園再建支援のカウンターパートである、ティラクさんからのメールが来ましたので、報告します。ティラクさんは治安が悪化しているスリランカの東部に、4月27日から30日まで入りました。以下に添付しているティラクさんの報告の邦訳から、日本では伝わりにくい緊迫した現地の状況、そしてティラクさんの平和を願う思いがうかがえます。長文になりますが、ぜひご覧下さい。
-スリランカ東部訪問記- 
コロンボの軍総司令部での爆発の後、状況はすぐに変わりました。私たちのスケジュールは、幼稚園・保育園再建プロジェクトを指揮するためにスリランカ東部のアカラパットゥとアンパラ地区へ行くことです。
私は27日の午後2時半にPettahからBandarawelaバスに乗りましたRathanapuraに近いKuruvitaのスリランカ軍のチェックポイントに5時半に着きました。軍と警察は荷物を慎重にチェックします。ムスリムとタミル人にはより多くの質問をします。彼らはいらいらした雰囲気でした。ある巡査はゆっくりと話し、私に「トラブルの心配はしないでいい。何をすべきかって?我々は義務を遂行しているのだ。面倒をかけて申し訳ない」と告げた。私はオーケーとだけ言った。
バスに乗り込むと、ある人が大声で何か言い始めた。35歳より下の若い男で、しっかりした体つきをして感じの良い青年だった。「私たちシンハラの若者は北東地域で死にたくはない。罪のない若者はただ仕事のために軍に入るだけなのだ。国家に特別な思い入れがあるわけではない。どうしてLTTEは分かってくれないのか。私たちはLTTEと調停を結びたい。」別の人が会話を続けようとしたが、バスの乗務員は彼自身の理由で話題を変えた。
Bandarawelaの町には8時半に着いた。私は三輪タクシーに乗ってLio Marga Asramに言った。センターの代表聖職者であるF氏に会い、早朝にアカラパットゥへ行く調整をした。
F氏はここ数日熱があった。車を運転する人もいなかった。だから三輪タクシーを使った。私は彼に、疲れたら車を拾うよと言った。センターの代表であるD夫人は旅をとても怖がっていたが、彼女も私たちに同行した。午前8時にBandarawelaを出発し、Beragalaジャンクションに着き、MonaragalaとWellawayaを通りアカラパットゥに抜けた。途上、軍と警察のチェックポイントを問題なく通った。Monaragala警察のチェックポイントでは一人の巡査が遠くから質問した。彼はなぜアカラパットゥに行くのか訪ねた。F氏は宗教的活動のために行くと答えた。巡査はF氏のIDをチェックし、通過を認めた。
Wellawayaの市場で私たちは新鮮な野菜と果物を買った。アカラパットゥの子どもたちの寄宿舎にあげるものだ。40人以上の津波で被災した子どもたちが教会の助けで暮らしている。この地域では生産不足のため野菜の価格がとても高い。アカラパットゥには1時半に着いた。
アカラパットゥ市内に入ると、そこは死んだ町のようだった。すべての店は閉まっていて、道に人影はなかった。特別任務の兵士だけが市の警備のためあちこち動き回っていた。私用のため石鹸を買いたかったが見つけるのは容易ではなかった。運転手がこの地域について説明した。アカラパットゥはスリランカの他のどの場所とも違う。金曜日にムスリムたちはお祈りのため、12時から2時までの2時間店を閉める。私たちがアカラパットゥに来たのは金曜日で、すべてのムスリムにとって神聖な日であった。それで、彼らは一日中町を閉めているのだった。彼らは、タミル人が店を開けることも許していなかった。営業していたのはバナナと果物の店だけだった。石鹸が欲しいなら、夕方には小さな店が開くと運転手は私に言った。
それから、私たちはアカラパットゥの教会に到着した。教会の人々は私たちに食事を出してくれた。少し休憩して、アカラパットゥ市から5㌔のところにある幼稚園の建設現場を見に行った。
人に会いに行くとなると、ムスリムとタミルの民族対立にとても緊張が走る。東部にあるOluvil大学の副学長の銃撃事件のことを耳にした。
アカラパットゥの津波キャンプはまだ続いている。人々はゆっくりと、海に近いもといた場所に移動している。ほとんどが漁師である。150メートルのバッファゾーンの法律によって、住宅を建てることには使えなくなった土地もある。教会は、アカラパットゥ都市部に近い土地を被災者に提供した。教会は幼稚園・保育園建設の土地も提供してくれた。しかし人々は、もと住んでいた場所で子どもをそばに置いておきたがる。他の地域では、彼らはムスリムとタミルの対立をとても恐れている。アカラパットゥ都市部に近いところで生活を始めたなら、衝突が起きたときに子どもにとって危険である。ある漁師は海に近い区画を幼稚園建設に提供を申し出た。しかし広さが十分でなかった。私たちは人々と話し合い、最終的に早く他の土地を選ぶことを決めた。
29日に私はアンパラとカタンクディ地区を訪れることにした。私たちのアンパラの代表にコンタクトはとってあった。彼は私に、状況が悪くなっていると伝えた。彼は私がアカラパットゥからアンパラやカタンクディへ移ることを許さなかった。地雷と銃撃のギャングがその地域を取り巻いている。私はコロンボへ戻ることに決めた。
F氏はアカラパットゥとBeragala間の道はコロンボへの夜行バスでの安全なルートだと私に伝え、席を取ってくれた。そして彼は私をPotuvilとArugambeの海辺に招待した。そこは東南アジアでもっとも美しい浜辺で、13㌔の海岸線がある。津波後、その場所は災害資本プログラムのもとでビジネスマンたちのために発展している。小さな店のオーナーたちと津波の被災者はこのプログラムに抵抗している。しかし政府は金のためにこれを続けたがっているのだ。それから、私はArugambeを訪問することに賛成した。運転手ともう一人が私たちに同行した。アカラパットゥを午前10時に出て、Sinnamotuwar、Motuwar、Kalawanchikudi、Potuvilを経由した。私たちは4つか5つのSTFキャンプを通過した。各所で私たちは誰か、どこに行くのか、なぜそこに行くのかと聞かれた。F氏は宗教者のIDを見せて簡単な答をした。彼はいつも、アカラパットゥ教会から来てPotuvil教会へ、宗教的な理由で行くのだと答えた。彼らは宗教者IDに敬意を払っており、車や私たちをチェックしなかった。Arugambeに着いたのは午前11時半で、午後1時半まで海水浴を楽しんだ。途上で、軽い昼食をとり、アカラパットゥには4時に着いた。教会で休憩した。F氏が三輪タクシーで私をバスまで送ってくれた。
コロンボ・プライベート・バスには午後5時に乗り込んだ。乗客を乗せるのに数分かかった。バスは5時半にアカラパットゥを出発した。途中でいくつかのチェックポイントがあり、いくつもの場所でバスを降りた。IDと荷物をチェックするのに20分ほどかかった。コロンボに入る前、Kuravita警察のチェックポイントがあった。午前3時頃だった。バスを全てチェックし終わるのに1時間ほどかかった。4時半にコロンボに着き、大きな問題もなく家に着いたのは4月30日の午前5時半だった。
これは私にとって大きな経験になった。東の州を何回か訪れたが、初めてタミルとムスリムの人々が、いつでも火を付けるほど互いを不審に思っているという状況を経験した。ムスリムもタミルも同じタミル語を話す。しかし、宗教と文化の違いはとても大きい。シンハラとタミルは似た文化を持ち宗教も類似しているが言語が違うために多くの差異を生み、ついには酷い殺し合いにまで発展した。平和を構築する市民とソーシャル・ワーカーは、スリランカのより良い未来のため社会を再統一する際のきわめて重要な役割となるだろう。 ティラク

防災教育プロジェクト ニュースレター創刊

 UNV(国連ボランティア計画)のスタッフとして、CODEがスリランカで行う防災教育をサポートして下さっている滝田さんが作成したプロジェクト ニュースレターをご紹介します。
このプロジェクトはUNVとスリランカYMCA、CODEが連携して行っています。
ニュースレターは英語で書かれているので、要約致します
 まずファーストエイド(応急処置First Aid)のクラスがSt. John Ambulanceとの連携でマータラの4つ地域で行われ、子どもたちがケガや蛇に噛まれた際の対処方法をレクチャーしました。次に、子どもたちが病院や軍の施設に訪れ(Hospital & Army Visit)、災害や緊急時の病院や軍の役割を説明しました。その他にも国際移住機関(IOM)との連携で、2人のボランティアが防災教育の半日プログラムを実施しました。最後は、ニューヨークとアラスカで学生とソーシャルワーカーとして10年間過ごした滝田さんの横顔についても書かれています。
防災教育プロジェクト ニュースレター(1.5M)
※Adobe社 Acrobat Reader7でご覧下さい。(一部バージョンではご覧になることができません)
こちらから無料でダウンロードできます。

ボランティア募集(スリランカ「共育」プロジェクト)

CODE事務局です。スリランカで行っている「共育」プロジェクトのスタッフ、滝田さんから下記のようなボランティア募集のメールが来ました。金銭的、語学的なハードルは高いかも知れませんが、興味のある方は事務局までご連絡下さい。
——————
ボランティア募集
途上国援助の現場で知識と経験を積んでみませんか?現在マータラにおいてプロジェクトの運営をお手伝いしてくれるボランティアを募集しています。年齢・性別・国籍は問いません。ただし英語またはシンハラ語で業務を行えること、そして途上国での援助活動に興味を持ち、将来にわたって同分野で活動することを志していることが条件となります。
ボランティアの方にお願いしたいのは主として以下の業務ですが、必ずしもこの限りではありません。
1)備品の調達
ここでいう備品とは文房具から機材まで、プロジェクトに関わる広範な物品の購入を指します。スーパーに行けば何でも揃っている日本と違って、市内の店を何軒も回り、時にはゴールやコロンボまで行くことも考えられます。
2)プログラム・コーディネーション
コーディネートには他団体(NGOや国連機関)とのスケジュール調整、ミーティングのセッティングおよび議事録の作成が含まれます。またプログラムに参加する子供の親への説明会、パンフレット・マニュアル作成、キャンプ地の事前調査・交渉・準備など、コーディネートの業務は多岐に渡ります。コンピューター(MS Word,Publisher, PowerPoint)の知識、および中~上級の英語力が求められます。プログラム・コーディネーションは途上国へ派遣される国際スタッフの仕事の中枢を成すものであり、その範囲がいかに広いものかを実感するでしょう。
3) 企画立案
新たな企画を立ち上げる想像力と柔軟性が求められます。また、プログラムの趣旨と目的を理解し、同時に現地の事情を考慮するための分析力・多様な文化への受容性も必要になります。その企画を実行に移すためのコミュニケーション、プレゼンテーション能力なども必要になるでしょう。
以上の業務はボランティア活動であり、生活費、宿泊費、食費、社会保険などは一切支給されません。現地マータラに自費で来ることができ、独立心の旺盛な方を歓迎いたします。マータラには日本人UNVが二人駐在していますが、常に行動を共にするわけではありません。スリランカ人とコンビで英語またはシンハラ語で活動する機会が多いと思います。
宿泊費を支給することはできませんが、市内のゲストハウス(1泊10ドル程度:トイレ・シャワー付)をご紹介することはできます。食費は一日5ドルもあれば十分だと思います。また業務に関わる宿泊、通信、および移動の費用はYMCAより支払われます。
Hiroyuki Takita
UNV Field Project Coordinator
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スリランカ防災「共育」プロジェクト 現地レポートNo.47

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【写真】危険な場所(赤)
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【写真】年長さんによる発表
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【写真】地図を食い入るように見ていました

(クキさんレポート40 ~防災マップ作成② トッタムナ村後編~)
全ての切り絵が地図の上におかれた時点で、各グループで村の「危険な場所」を赤色で「安全な場所」を緑色で地図の上にマークをつけてもらうことになった。そしてその理由も聞いていく。グループで決めた代表の子どもたちが一人ずつ地図の前に立ち検証した。検証の一部をここで紹介したい。
まずは、●「危険な場所」として、1、「川」:ワニがいるから、洪水になりやすい場所だから、深いから、水が汚いから、2、「メイン道路」:危険な運転をする車が多いから、歩道と車道の区別がないから、3、「四つ角」:事故が多いから、4、「木」:古い枝や弱った幹などが倒れてくるかもしれないから、5、「海」:岩場でケガをするかもしれないから、地震が起きると海の水が内陸に上がってくるかもしれないから(津波)、6、「ボート」:沈むかもしれないからなどがあがった。
次に●「安全な場所」として、1、「お寺」:避難場所だから、2、「学校」:村人にとって誰もが知っている安全な場所だから、3、「高台」:高い場所だから、4、「運動場」:フリースペースが多く、建物もなく、寝転ぶことも可能であり、地震が来ても倒れるものが何もないからなどがあがった。子どもたちの観察力、洞察力には感心してしまう。大人の目線からでは解りえないことが、子どもの目線により知ることができる。子どもによる「防災マップ」の検証の大切さを改めて感じさせられた。
  私たちの質問の中に、避難所まで障害者、高齢者や小さな子どもが一人で逃げられない場合、どんな方法で逃げたら良いと思うか?また、どんな手助けができると思うか?というものがあった。回答として、二人以上の人の助けを呼ぶ、車椅子で逃げる、「KADA」と呼ばれる、重たい荷物を運ぶ荷台を使って逃げる、おんぶしてあげる、肩を貸してあげるなどがあった。3つのグル-プ全部が、私たちが作成した全ての質問に回答をだした訳ではないが、かなり高い確率でみんなから回答を得ることができた。残念ながら全部紹介することはできないが、私たちが想像していた以上に子どもたちの知識は豊富であったように思う。今後この「防災マップ」をどのような形で子どもたちやコミュニティーで活用していくのか。村の様子は月日とともに変化していく、日頃から防災マップを活用して変化などがあったら、書き込んでいってほしいと付け加えて、トッタムナ村の「防災マップ」検証のプログラムは終了した。
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 スリランカ防災「共育」プロジェクト 現地レポートNo.46

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【写真】地図を広げて準備万端
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【写真】トッタムナ村 防災マップ作成
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【写真】お魚が、海ではなく、、道路に?

(クキさんレポート39 ~防災マップ作成② トッタムナ村前編~)
  第6週目「防災マップ作成 ②」共育プログラムがトッタムナ村で実施された。このプログラムの目的は、防災マップの検証である。災害時に、敏速かつ的確に避難するためにも、村の様子、道路、建物、住民などをよく知っておくことが大切であるからだ。
 まず、模造紙に描かれた村の地図の下に同じ大きさの発砲スチロールを貼り付けた。そしてその地図を囲むように、子どもたちを年長さんと年少さんを混ぜ、年長さんが年少さんをリードする形で、3つのグループに分けた。それから私たちが用意した質問に各グループで考えてもらう。当初、このグループ分けが果たして適切なのかどうか、かなり迷ったのだが、結果は年長さんが年少さんにも解るように簡単に説明をし、また彼らの意見を聞いていた。スリランカに来てから感心することなのだが、本当にこちらの子どもたちは、自分たちよりも年下の子どもの面倒をよくみる。どの子どもに対しても、兄弟姉妹と同じように愛情をかけている。日本では少子化で今では二人以上兄弟姉妹がいると驚かれるが、こちらでは逆に少ないと驚かれる。昔の日本がそうであったように、兄弟姉妹が多くいるということは、年下の面倒をよくみるということになるのだろうか。
 次に切り絵を各グループに配り、それらを各グループごとに地図の上に刺していくことになった。ある男の子が魚の切り絵を、何の躊躇いもなく道路の上に刺した。えぇ?道路に魚?何故?その子どもによると、津波発生後、魚が村の道路あちこちに散乱していたからだとのことだ。この子どもにとって、魚は海にいるのではなく、陸の、それも道路にいる印象の方が強いのであろう。彼の津波の記憶は、この切り絵の魚が道路に置かれることにより、みんなの記録として残った。
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スリランカ防災「共育」プロジェクト 現地レポートNo.45

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【写真】安全な場所:緑色で○マーク、危険な場所:赤色で×マーク
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【写真】村歩きの時に写真を撮りました
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【写真】元気一杯に、は~い!

(クキさんレポート38 ~防災マップ作成② タララ村後編~)
 次に「防災マップ」の検証である。1.村の「安全な場所」「危険な場所」は何処か?2.避難所(お寺)の場所は何処か?3.避難する時の注意点は何か?(お・は・し・も)、4.災害時に優先される人たち(高齢者、障害者、外国人、幼児など)の避難の仕方は?又は彼らにどのような手助けが可能か?5.家や建物の構造として、津波で流されてしまった理由は何か?その対策方法は何か?6.備えとして、普段から何が備えとして必要か?
 これらの全ての回答を子どもたちからは得られなかったが、津波で建物が流されてしまった理由と対策に関しては各グループから回答を得た。全てのグループに共通しているのが、建物が強くないから、海の近くに建っていたから、水の威力が強すぎたからの3点である。またその解決策として、高台に家を建てる、平坦な強い家を作る、強い壁を作る、木を植えるなどがあった。
 安全な場所と危険な場所について一つ興味深い点がある。海や木を危険な場所としたグループと安全な場所としたグループがいたことだ。危険な理由として海は津波が来るかもしれないから、木は倒れてくるかもしれないからとした。安全な理由として海は近くに石の壁があるから、木は津波がきたら登れるからとした。このように同じ場所でも捉え方により、安全な場所、危険な場所が全く逆になる。
 各グループの代表者により質問の回答が発表されたのだが、あるグループの代表者(ボランティアリーダー)の男の子が発表する段階になって、頑なに彼は断った。国内UNVも他の子どもたちも何故なの?恥ずかしいの?と何回も聞いたのだが、彼は結局、前で発表することなく、他の年少さんが彼に代わって発表することになった。実は後になって、この男の子は読み書きが出来ないということが分った。スリランカでは識字率は非常に高い。この数値とこの現実のギャップが私の心を痛めた。数値は時に一人歩きし、実態を伴わないこともあるのではないだろうか。
 「防災マップ」検証のプログラムが終わると直ぐに子どもたちは、お寺の外の広場へと走っていった。「やっと終わった~!」と言わんばかりの早さだ。子どもは本当に正直である。しかしこの無邪気さが時には残酷にもなる。ある女の子が泣きながら国内UNVの所にやってきた。年少さんが彼女に「お前は毎日同じ服を着ている!」と言ったらしいのだ。私たちは彼女を宥めながら、タララ村のプログラムは終了した。子どもは時に残酷だ。
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