月別アーカイブ: 2006年8月

ジャワ中部地震第二次調査団レポートNo.4

「はじめの一歩」No.3                           
 私たちCODEは、今後、バントゥル県バングンタパン村ボトクンチェン集落で、耐震住宅再建プロジェクトを予定しています。近くで手に入る竹やヤシの木を使い、家という建物を再建するだけでなく、暮らしを再建するプロジェクトです。
 何人かの人を訪ね歩いた結果、”この人こそが・・・”と思う人に出会えました。彼はエコ・プラウォットさんと言う方で、今は亡きロモ・マングンの弟子の一人です。ロモ・マングンという方は、建築学を専門とする方で、以前は大学の教授をされていた期間もありますが、その後、自らの選択で大学機関を離れ、川沿いのスラム開発に取り組みました。スラムの町に魔法をかけるかのごとく、自然と共合したみごとに美しいバンブーハウスの町をつくりあげたそうです。ロモ・マングン氏の思想は、家の再建ではなく、暮らしの再建であり、そして、暮らしの再建を通して、そのスラムで暮らす人々が夢や希望を持ってその先の人生を生きていくことでした。
 彼の実績は、インドネシア国内で多くの人々に認められており、同時に作家活動をされていた方でもあったので、他界後は、街中の書店に”バンブーハウス”という書籍が軒なみ並んでいたそうです。きっと、ロモ・マングン氏も、スラムの中へ、住まい方の”はじめの一歩”を届けた人なのではないでしょうか。
 インドネシアは、素晴らしい学びの宝庫です!このプロジェクトを通して、私たちこそが言葉に換えられない貴重な収穫を得ています。

ジャワ中部地震第二次調査団レポート No.3


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「はじめの一歩」No.2                           
 バントゥル県イモギリ村の集落の中で、「この奥に、まったく被害を受けなかった住宅が1軒ある」と聞き、早速その家まで案内してもらいました。グシャグシャに崩れ果てた家々の中に、そこには、一軒、無傷の家があり、それは竹と木材で作られたジャワ伝統の家でした。
 その家の娘であるNapingさんは、日本語を勉強したことがあるらしく、”日本人が村に来ている”と聞きつけて、出先からバイクで駆けつけてくれました。「ジシンマエ、ワルイイエ、ジシンゴ、イイイエ」とNapingさんは語ります。ここインドネシアは、オランダ植民地時代のあおりがあり、上層階級がレンガの住宅に住んだことから、レンガ造りの家と竹・木材築の家とで税金が区別されるほど、住宅の資材によって社会地位が分けられてしまうそうです。
 そんな社会背景の中、地震前は、Napingさんも自分の家が竹と木材でできていることを恥ずかしく思っていた。でも、結果的に、竹・木材で築いた家だったからこそ、耐震性が高く、家はビクともせずに、家族もみんな無事だった・・・と大喜びで話すのです。とても明るく、ワッハワッハと笑いながら話す彼女の姿に、正直なところ、”周りでこんなに被災している人が居る前でこの光景は大丈夫なものなのか?”と日本人的な発想で心配してしまいましたが、周りの目も温かく、どうやら、大らかな文化のようです。
 住民たちは、社会的地位を選ぶのか被災時の命を選ぶのか・・・という選択の狭間にいるように見えます。こんな時、”はじめの一歩”で誰かのアドバイスと後押しがあれば、”耐震でより安全な家に住む”という道を選んでいけるのではないでしょうか。

ジャワ中部地震第二次調査団レポートNo.2


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「はじめの一歩」No.1                           
インドネシアは約17,000の島からできていると言われていますが、その一つ一つの島に独自性があるそうです。今回の地震被災地であるジャワ島は、とても大らかな人が多く、そして、心地よい距離間をもってくれる居心地の良い場所でした。まずは、今回の震災で最も被害の大きかったバントゥル県のレポートからお送りします。
バントゥル県に入ると、ところどころに、村人が自力で建てようとしている仮設住宅を目にします。村中がほぼ全壊の中、よく見ると、共通して壊れていないものがあります。それは、洗面所とトイレのスペースです。このような狭い空間だけが、崩壊されずにポツンと残っているのです。そして、村の人々は、その残されたトイレ・洗面所を中心に仮設住宅を建てていました。残ったものをできるだけ再利用しながら、仮設住宅を作っているようです。トイレだけでなく、再利用できるものは何でも利用しています。
レンガのつなぎが悪い建築方法が原因で崩壊した住宅がほとんどだったらしく、壊れた住宅の瓦礫の中には、無傷のレンガがたくさんあったようです。どこのうちも、壊れた家屋からレンガを拾い、もう一度、軒先に綺麗に並べています。まるで、他の町からレンガを購入してきたかのように見えました。
今、日本国内でも減災運動が推進されています。素人的な発送かもしれませんが、まずは、住宅の一番小さなスペースであるトイレだけでも耐震を強化するのも”命を守る”一つのいい方法なのかもしれません。

ジャワ中部地震第二次調査団レポートNo.1

「はじめの一歩-序章」
 ジャワ中部地震第二次調査団のレポートとして、”はじめの一歩”というタイトルで、明日から数回にわたって発信させて頂きます。地震から2か月が経過し、いよいよこれから復興!という矢先に、西ジャワにまたしても、600人を超える死亡者を数える津波災害にも襲われてしまいました。残念ながら2004年の大津波の教訓が、必ずしも活かされていないようですが、ジャワ島のみならず大小1万7千の島からなるインドネシアは地震の巣でもあります。それだけに今後は、5月27日の地震、7月17日の津波を教訓として「減災」に力を入れて欲しいと願うばかりです。
 さて、地震の被災地に入って強く感じたことは、この地域には災害直後から「POSKO」という救援センターができるしくみがあること、その後の復旧の段階でもゴトンロヨンというすばらしい支えあいのしくみがあること、またワヤン・クリッというすばらしい伝統文化があること、さらには日本に昔から伝わる在来工法による木造住宅のように、竹やヤシの木を使ったジャワ伝統の住宅文化があること等々、今こそ日本がこのジャワから学ばなければならないこと
がたくさんあるのではないかということです。
 プランバナンヒンズー遺跡やボロブドゥール仏教遺跡から醸し出される悠久のときと合わせて、ジャワの人たちの持つやさしさや間の取り方が、よそ者には大変居心地のよさを感じさせてくれます。災害という厳しい試練を受けましたが、きっとジャワの人たちは、伝統文化を大切にしつつも、新しいものを創りだされるだろうと確信します。災害後の再建のすばらしいモデルとして、これから世界中の注目を受けるのではないかと期待が広がります。
 今年、24万人を超える死者をだした中国唐山地震から30年となり、その経済復興の成果を評して「唐山の奇跡」と報じていますが、災害後の自力再建のモデルとして「ジャワの奇跡」と有史に残るような気がします。しかし、スマトラ沖津波・パキスタン地震・そしてジャワ地震・パンダガラン津波と災害が相次いでいるために、ジャワ地震への関心が薄いような気がします。是非、もう一度西ジャワも合わせて、ジャワの人々の「暮らし」を少しだけ支えて下さい。それが”はじめの一歩”となることと念じています。最後に、今回の地震と津波災害に対して、ジャワ在住の日本人やそうした人たちを支える在日本人の人たちが少なくないことをお伝えしておきます。合わせて是非、こうした活動をもご支援して下さい。

ジャワ島西部沖地震・津波現地レポート No.3

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津波現地レポートの最終版です。村井は昨日ジャワから帰国しました。次回からジャワ島中部地震関連のレポートをお届けします。
<正確な津波の被害は?>
ところで今回の津波による死者は約700人と日本の新聞では報道されたが、どうも下方修正が必要なのかもしれない。津波の高さも50cm~1mという説と5m~8mという説もある。どうも被害の状況からは、最大2mくらいのようだ。死者の数は、最も被害のひどいバンガンダランで413人だが、その他の地域ではそれほどカウントされていない。ただ、被災地から300kmも離れたジョグジャカルタの海岸でも3名が亡くなったとこちらのニュースでは報じられたようだ。バンガンダランからジョグジャカルタへ100km~150km離れた同じ中部ジャワ州のチラャップ(CILACAP)の海岸を観ると、ここも小規模の海水浴場のようだが、海岸沿いの施設や海の家などが壊れていた。この海岸から数km手前の漁港は何も被害がなかった。こうして同じ時の津波でも被害の格差があることが、津波の怖さを物語っていると痛感する。
さてこの砂浜には「津波に注視しましょう!」という真新しい看板が立っている。内容は、津波発生時の兆候と対策が簡潔に記されている。果たして効果があったのか?接した日付を観ると津波のあった”7月17日”となっている。後から建てたことを証明しているようなものだ。とはいえ、いずれにしろスマトラ沖津波以来、大きな課題になっているのは「津波早期警報装置」の設置である。国連世界防災会議で先進国が約束してからもう1年半が過ぎた。今回の津波は完成間近というところで起こったようだが、とにかく急がなければならない。警報装置が設置されても次に重要なのは、その情報を住民にいち早く知らせる方法である。これは各国、各地域が主体的に取り組まなければならない。何故ならば、揺れを感じない地震でも津波は来るからである。
残念ながら日本でも、地震が発生した後、「津波の心配はありません」というニュース速報がでるまでテレビを見ている者がほとんどだそうだ。テレビを見ている数分間のうちに津波が来たらどうなるのだろうか?こうして考えると、いくら一人ひとりが対策を講じていても、地震があったということが伝わらなければ、逃げようがないのである。日本では昔から「地震・雷・火事・親父」という怖さの順番を表現した言い回しがあるが、是非「津波」をトップに持ってくるべきだろう。
■現地地方政府バンガンダラン対策本部での被害状況(7月28日午前6時現在)7つの集落で、死亡者413人、重傷171人、軽傷235人、行方不明者34人、避難者4514名。他に財産の被害として、バイクや力車そして牛・水牛・山羊・鶏・アヒルの被害まで詳細にあがっている。ちなみにこちらではバイクは大変高価なもので貴重な財産。(村井 雅清)

ジャワ島西部沖地震・津波現地レポート No.2

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<10日後の避難生活>
さて、津波から10日経過した被災地は、一応に落ち着いた雰囲気ではある。ただ、家を無くし簡易テント(竹の支柱にブルーシートで覆っているだけ)で暮らしている人たちにとっては、もう限界だろう。不安の一つは、10月になれば雨期に入ることだ。10月までまだ十分時間があるのだが、このままのテント生活からいつ脱出できるのかという不安だ。災害直後は、ともすれば安全よりも安心感を与えることが大切だ。ある日本のNGOがこの状態を憂慮し、いち早くしっかりしたテントの供与を検討していると聞いた。まさに、被災地のニーズにあった援助の一つだろう。同じく日本から来ていて嬉しくなった。
帯の空間だが、みんなそれぞれでその場で煮炊きをしている。日本の災害時避難所では考えられない光景だが、災害救助法に「簡易調理施設」の設置が認められているのは理解できる。いわゆる「はじめの一歩」としての自立生活を促すという意味では、凄いことだなあと感心させられた。また乳飲み子を抱えたお母さんは、人目も気にせずオッパイをだして赤ちゃんに授乳させていた。
この村では死者74人、行方不明者7名、乳児が41名、6歳~15歳が70人だそうだ。こちらでは、こうした基礎的なデータがしっかりしているのが特徴だが、その原因は各地域にある「POSKO」という地域の最小単位にもある救援拠点のためだろう。また、このPOSKOは、被災地外の州政府のPOSKOというのもあり、赤十字関係者や警察関係者のPOSKOもある。今回程度の被害ならば、これほどPOSKOが張り巡らされていれば直後の緊急救援体制も、その後の復旧・復興もそつなく、網羅的に行われるだろうと推測できる。

ジャワ島西部沖地震・津波現地レポート No.1

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5月に起こったジャワ島中部地震の支援プロジェクトを決めるため、7月24日よりジョグジャカルタ入りしている事務局長の村井が、7月17日発生したジャワ島西部沖地震・津波の被災地を27日訪れました。現地レポートが届きましたので、3回に分けてお伝えします。
<砂浜だけでは津波の被害が見えない!>
「随分綺麗に片づけられている!」というのが、10日後の被災地に訪れた現地案内役のKさんの言葉。2004年のあのスマトラ沖津波災害の直後を見てきた私の目にも、「ほんとに津波があったのか」と思うほどの片付け方である。昨晩というか、27日の午前0時半頃にジョグジャカルタを出発し、午前6時過ぎには西ジャワ州パンガンダランの海岸に到着した。至る所で砂浜のヤシの木が倒れているというような光景は見えない。数千人の観光客や住民を一気に襲った海辺に打ち寄せる波は、決して穏やかとはいえないような荒々しさを感じさせていた。住民の証言では、「あの向こうの岬の先端あたりまで一気に水が引いた」ということらしい。砂浜から2㎞くらいだろうか。
同行した者が起きるまで、少し内陸部を見て廻った。中心街にちかい海岸はリゾート地らしく、平屋もしくは2階建てのホテルが林立している。津波のあった夕方には、きっとまだ砂浜で遊んでいた人たちも多かったのだろうと推測する。2年前にスリランカの海岸で見たのと同じように、住宅の基礎部分だけが残っているという更地のような状況があちらこちらにある。そんな中で、壊れたブロックと鉄筋とを分けている一団を見る。一方一人の50歳代後半くらいのおじさんが、ガレキの中を丁寧に片付けている。きっと大事なものを探しているのだろう。
砂浜に障害物がないほど、内陸部のある地点では津波の勢いが増すのだろうか。「何故、このブロック塀が壊れるの?」というところも見受ける。こういう状況を見ると、地震も怖いが、津波は瞬間に何もかもさらっていくという恐怖感がある。一瞬はかすかな生きる望みも断ち切られるのだろう。長年、その土地で、その海とともに暮らしてきた人たちでさえ、「もう海の側には住みたくない」という由縁かもしれない。(村井 雅清)