2022年10月22日付け毎日新聞に執筆されている伊藤智永さんの「土記」には、「(ロシア・ウクライナ)それぞれ世論の大勢は結束し、志願兵もいるようだ。一方で、逃げ出したい人も少なくない。『攻撃する』『守る』『解放する』『奪還する』。国が戦争を言い表わす動詞はいろいろだが、個々人が迎える結末は、兵士であれば、殺すか、殺されるか。非戦闘員でも国内に残れば、自分と家族は、死ぬか、生き延びるか。戦争が一人一人に突きつける意味は結局、『自分は祖国のために死ねるか』の問いに極まる」とある。
私は、本レポートのNO6,NO7で「殺す側に立つな!」と叫んだ。先述した伊藤智永さんのいう、「自分は祖国のために死ねるか」という問いには、「NO!」と答えたい。「殺す側に立つな!」ということは、「殺される側に立つ」ことの裏表の関係だろう。でも「お前は殺される側に立てるか?」と問われたら、正直「YES!」という自信はない。ただ、この問いには「誰に殺されるのか?」ということ、とも深く関連する。
本レポートの最初の頃にも書いたが、27年前の阪神・淡路大震災の直後、被災地のあちらこちらで「生きていてよかった!」「人間は一人で生きて行けない!」と涙しながら、つぶやいていたことを幾度となく聞いてきた。その都度、「人間しとってよかった!」と感動したことを覚えている。今、そのことを思い出すと、やはり「生きていてこそ」だと痛感する。
報道によると、プーチン大統領による部分的動員令で戦地に駆り出された兵士が、「(配属前の)訓練はないと告げられた」「ヘルソンに派遣される。砲撃経験も、その知識もない」「穴が開き、テープで補修された防弾チョッキ」「まともに寝るところもない」「持たされたのは支給された錆びだらけの自動銃だけだ」などとSNSに投稿したそうだ。まるで使い捨てのような形で「かけがえのない尊い人の命が扱われていいのだろうか?」、このような形で「殺される側に立たされていいのだろうか?」
CODEは27年前の震災がきっかけに誕生したが、この間被災地で大切にしてきたことは、「最後の一人まで救う」というメッセージだ。その背景には、CODEの前代表理事芹田健太郎(CODE名誉理事)は、神戸新聞客員論説委員として、同紙「21世紀への針路」で、「3年前の、あの1月17日、身を切る寒い闇の中の救出作業、その後の壊れた建物の中からの救出でも、最後の一人が助け出されるまで、我々は必死に祈り、助け出されて安堵した。その最後の一人の重さである」(1997年12月27日神戸新聞)と書かれたことが、その後の私たちの“羅針盤”ともなっている。
次号で、触れるが「最後の一人まで」というのは、阪神・淡路大震災がもたらした、人権に裏打ちされた大切な思想なのだ。
(CODE海外災害援助市民センター事務局 村井雅清)
*最後の一人までの記事はこちらから
https://www.facebook.com/328257977286826/posts/pfbid02x5KhA2NJfNtKGr8xBKjDWtwbx5vAD3x4Xi9qeksYvkXKHkBJ63eEhGf3Ge9iMDCcl/
●CODEが、ウクライナおよびロシアから神戸に避難している方々に、「MOTTAINAIやさい便」を届けています。この「MOTTAINAIやさい便」も、無数のちいさな橋をかける活動です。是非、応援して下さい。(9月2日づけ神戸新聞朝刊にCODEが行っているウクライナ支援の様子が掲載されています。)
●保育園に通わせているウクライナの一人の母親が、子どもを送り迎えするために、電動自転車がありませんか?と願っています。もし、提供できる電動自転車があれば、村井まで連絡してください。ただし、運搬の都合がありますので、勝手ながら神戸市内の方に限りますが、よろしくお願いします。