月別アーカイブ: 2012年5月

【四川省地震4周年レポート】No.7

2008年5月に起きた四川省地震のレポートをお送りします。
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四川省地震4周年レポート No.7
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●支え合いと学び合い2(痛みの共有)
 2012年3月、四川大地震から4年を目の前に四川大地震の被災者の方々3名が来日した。2008年の震災直後からCODEが支援し続ける光明村の3名は、初めての外国に戸惑いながらも、ひとつひとつの事をしっかりと学んで帰っていかれた。
 金沢大学との協働で始まったこの企画は、2007年3月25日の能登半島地震や昨年の東日本大震災の被災地の方々と交流しようというものである。
 3月25日には能登で開かれたシンポジウムでは、インドネシア・アチェの津波の専門家に交じって、その難しい発表にもじっと耳を傾ける四川の3名であった。その中でも特に熱心に学ぶXさん(40代女性)は、「日本に来るのが夢だったの。日本の事を沢山学びたかったのよ。」と学ぶ事の楽しさを実感している姿が印象的であった。
その後、東北の被災地、宮城県七ヶ浜を訪れた。現地で1年以上活動を続ける名古屋のレスキューストックヤードの方々にお世話なり、被災者の方々と交流させていただいた。
拠点である「きずな館」にいつもお茶飲みに来る七ヶ浜の被災者のお母さん達が語り始めるや否や通訳を待たずにXさんは、涙を流し始めた。言葉を超えた何かを感じ取ったのだろう。その後、Xさんは「同じ被災者として、東北の皆さんをとにかく励ましたいという思いで日本に来たんだけど、話を聞いているとあの時を思い出して。。」とつぶやいた。
Xさん、七ヶ浜の被災者の方と.jpg
 岩手県大槌町の仮設住宅では、吉里吉里の被災者の方々と「まけないぞう」を一緒に作る事が出来た。吉里吉里のお母さんたちが先生になってPさん(60代)、Lさん(40代)の男性陣も慣れない手つきで、ひと針ひと針縫っていった。光明村でも有名な「まけないぞう」であるが、これまで作る機会がなかったXさんは、得意な裁縫で時間を忘れるくらいに没頭していた。東北の被災者が四川の被災者に寄り添うようにして教える姿は非常に感慨深いものがあった。
吉里吉里でまけないぞうを教えてもらうXさん.jpg
その後、いつの間にかXさんが手作りポーチの先生になり、編み方を教え始めた。そこにはもう言葉はほとんど要らなかった。四川の被災者と東北の被災者が支え合う姿に国を超えた新たなつながりが感じられた。
吉里吉里と四川の被災者の方々.jpg
最終日、17年前の被災地KOBEで光明村の人々との大交流会が行われた。これまで光明村を訪ねたボランティア、学生、研究者の人々など総勢56名の方々が集まり、歌、笑い、涙ありの再会を喜ぶ、暖かい集いになった。
中国と日本は、依然として様々な問題を抱えている。だが、震災を通じて普通の人と人が出会う。誰から支えられていたはずの人がいつの間にか誰か支え始めている。そこには目の前の人とどのように向き合い、つながっていくかしかない。震災は、そんな日中のわだかまりを少しずつ解きほぐしていくきっかけとなる。

【四川省地震4周年レポート】No.6

2008年5月に起きた四川省地震のレポートをお送りします。
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四川省地震4周年レポート No.6
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●支え合いと学び合い1(伝統建築)
四川大地震から3年を前に東日本大震災が発生した。
同じように被災した四川の人々は、この東日本大震災を決して隣国の他人事とは思えなかった。自分たちが震災で傷つき、苦しんだ事を思うと居てもたっても居られなくなったそうだ。2008年の四川大地震の直後からCODEが支援を続けている北川県光明村や他の被災地から28000元(約37万円)沢山の人々が1元、5元と想いを込めて寄付をしてくれた。ちなみに光明村の人々の肉体労働の日当は約50元(約660円)である。
 そんな想いの光明村の人々3名が3月に来日した。金沢大学との協働で能登半島地震や東日本大震災の被災者の方々と交流するという企画である。
初日、京都観光にお連れした。初めての異国の伝統文化を見る目は真剣そのもので、特に東寺、清水寺などの寺社の伝統建築に釘付けになっていた。四川大地震後、伝統木造家屋が倒壊せずにしっかりと残っていた事から建築の専門家の間でも「木造は強かった」という声もあがった。
綿陽市安県では170年の清朝の木造家屋、綿竹市遵道鎮で100年家屋、平武県でも100年の家屋がしっかりと残っていた。北川県の北部には数多くの木造住宅が今も残っている。光明村でも十数軒の伝統木造家屋は見事に残り、築55年の木造家屋のすぐ横の数年前に建てられたレンガの家屋は倒壊していた。
 CODEは、2008年の住宅再建の際に光明村で木造家屋の再建を推奨してきた。だが、「伝統木造家屋は古くさい。」、「みすぼらしい。」、「洋風な家が格好いい。」などの声も多かった。そんな中でも実際に木造家屋の再建を選んだXさん(40代女性)は、今回日本で京都の東寺を見て、肝心の仏像そっちのけで、「日本の寺は本当にすごい。こんな大きな柱は中国にはもうないわ。」と感慨深げに語っていた。
 清水寺の舞台の基礎を見学したPさん(60代男性)も「こんな建築は見た事もない。」とつぶやいた。本来、日本の伝統構法も中国から伝わって来たに違いないが、現在、中国全土で伝統木造家屋が少なくなりつつある。
この震災を機に伝統建築が見直されたが、実際に再建された所はそれほど多くない。それは、すべて木材が高価な事による。国土の広い中国と言えども活用できる森林は決して多くない。1998年の長江の大洪水が以降、上流域の四川省などの森林を伐採する事が制限され、その後国家プロジェクトとして「退耕還林」(畑を森林に戻す)が行われ、森林面積はこの10年ほどで20%(2010年)まで人工林を造成してきた。四川大地震後の復興でも農山村部ではこの「退耕還林」が重要視された。
光明村の3名は、村に戻って、伝統構法で建築された「老年活動センター」を見て改めて自分達の伝統文化に誇りに気付くのではないだろうか。

【四川省地震4周年レポート】No.5

2008年5月に起きた四川省地震のレポートをお送りします。
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四川省地震4周年レポート No.5
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●対口支援の課題4 「今後」
2012年5月12日。あの四川大地震から4年が過ぎた。
丸4年を待たずに2月に四川省政府は実質的な「復興宣言」を発表した。
「2012年四川省人民政府工作報告」によると、2万9692の復興事業は99%完了し、540万世帯、約1200万人の住宅を再建し、170万人の再就職支援も成功し、失業の問題も解決した。」と強調した。そして今後は「発展」に力を入れて行くという事だ。
 4年目を迎えた被災地には、大規模かつ真新しい街があちらこちらに広がる。対口支援の期間は3年という期限がある。ほとんどの事業を終えた対口支援の省市も間もなく撤退の準備も始まる事だろう。
多くの被災者は、新しい街に未だ馴染めないながらも早いスピードで綺麗な街や住宅が再建された事を喜んでいる。だが、これまで山間部の貧困地域に住んでいた被災者の人々は、見た事もないような新しい設備に戸惑っている。大幅に生活レベルが上がった事は喜ばしい事ではあるが、それを維持する為には当然これまで以上の費用を負担しなくてはいけなくなる。北川県の多くの農村住宅には、人間や家畜の糞尿から沼気と呼ばれるメタンガスを発生させる為のタンクを掘っていた。そのガスを炊事や電気として有効活用していた。だが、新しい街では当然、田畑もなく家畜を飼う事もできない。新しい暮らしの中では、すべてをお金で買わなくてはいけない。便利さを得た分、現金収入が必要になるのだが、新しい街にはまだ被災者を多く雇用できるほどの産業は生まれていない。
 学生、教師が1300名以上犠牲になった北川中学は、新北川県城(永昌鎮)に再建された。敷地面積約15万㎡(建築面積7,2万㎡)という大学並みの広大なキャンパス、教室、宿舎はもちろん様々な施設が整備されている。これは海外の華僑の支援によって通常の学校の10倍以上の2億元(26億円)資金が投入され建設されたが、2009年末には「豪華すぎる」との批判も起きている。
 対口支援の終了しようとする今、被災地に建設された豪華な街や施設を今後、地元だけでどれだけ維持、管理していく事が出来るのかが課題になる。
 成都市計画局のW氏に以前お会いした時に「通常は、西部大開発で数十年かかって行うべき事業をこの数年でやろうとしている。」と語った事を思い出す。凝縮された復興のしわ寄せは、被災地や被災者の暮らしに様々な陰を落としている。

【四川省地震4周年レポート】No.4

2008年5月に起きた四川省地震のレポートをお送りします。
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四川省地震4周年レポート No.4
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●対口支援の課題3「格差」 
 四川大地震の被災地は、四川省だけでなく甘粛省、陝西省、重慶市、雲南省などを含み、約50万㎡という広大な面積を占める。それは日本の国土の総面積約38万㎡をもはるかにしのぐ。約50万㎡の被災地には417の市県があり、被災の程度によって激甚災害指定地区のような極重災区、重災区、一般災区の3つに区分されている。被害の甚大な極重災区、重災区だけでも約13万㎡の広さがある。極重災区は、北川県、ブン川県、都江堰市、綿竹市など10市県、重災区は、四川省理県、江油市、黒水県などの山岳省少数民族エリアなどの29市県と甘粛省、陝西省の12市県、一般災区は、186県市に広がっている。
 四川大地震の復興の中で対口支援によって支援を受けているのは、全被災地417市県の内、四川省の10の極重災区と8の重災区の一部の18市県のみである。(甘粛と陝西の重災区は天津市と広東省によって支援されている。)ここで見落とされているのは、四川省内の29の重災区のうち21の重災区は対口支援がなく、一般災区は、何の支援もないという事になる。対口支援から漏れた被災市県は、ほとんど独自の財源のみで再建を行わなければならない。これは、2009年6月の全人代(全国人民代表大会)の常務委員会によって指摘されており、資金不足で優先的に再建されるべき学校、病院さえも手間取っているという。
 また、対口支援のしくみによる格差も起きている。ブン川県水麿鎮の禅寿老街は広東省仏山市の対口支援によって1800年代の清代の町並みを復元し、見事な復興を遂げた。伝統木造構法で再建された長屋はすべて無料で被災者に提供された。だが、一歩路地を入ると数十万元で自宅を自力再建した被災者もいる。
 一方、北川県内のほとんどの被災地では、個人の住宅はデザインこそチャン族様式で統一再建されたが、費用は、政府の補助金(世帯数によって1.6万~2.2万元)以外は、すべて個人が多額のローンを組んで返済していかなくてはならない。北川県の人々は、ブン川県の住宅が無料で提供されている事をしる術もない。
 被災地間でこのような格差が起きている原因のひとつには、復興プロジェクトは支援する省市が独自に計画、実施しており、被災地全体での調整、統一がなされていない。支援する省市が競う事で当然このような格差が生じる。また、支援する省市のGDPにも関係している。対口支援ではその省市のGDPの1%以上を使って行う。財政収入の多い省市はそれだけ多くの資金を使って復興事業を行う事が出来る。被災者一人あたりの援助を受ける額は、最も額の多い広東省の支援と黒竜江省の支援の間には40倍以上の開きがあると言われる。4年を迎え、復興宣言をした被災地だが、このような格差の問題はなかなか表に出てこない。

四川省地震4周年レポート No.3

2008年5月に起きた四川省地震のレポートをお送りします。
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四川省地震4周年レポート No.3
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●対口支援の課題2 「雇用」
5月12日14時28分、神戸の自宅でひとり黙祷した。
毎年、被災地でこの日を過ごしてきた。最大の被災地、北川県城へと続く山東大道(山東省の対口支援によって建設されたために名づけられた。)は、きっと今年も遺族に会いに行く多くの被災者の車で渋滞となっているだろう。この4年間で出会った数百、数千の被災者の人々の顔が目に浮かぶ。
 去年(2011年)のこの日、北川県光明村のLさん(40代女性)が、「新しい北川県城に仕事もらいに行ったんだけど、ダメだった。」と語った事を思い出す。
2008年の震災直後から始まった山東省各市の対口支援は、約1年間、北川県内の各郷鎮の支援に取りかかった。山東省青島市は北川県曲山鎮を、済南市は北川県擂鼓鎮を、溜博市は香泉郷をというような具合にカップリングをして、各郷鎮の中心の街の公共の病院、学校、庁舎などを再建した。だが、その下の「村」単位までの支援はなかった。先述の光明村のLさんは、これまでご主人の仕事を手伝いながら、肉体労働の単発のアルバイトを見つけては働いてきた。2009年3月頃に村内に3つのレンガ工場が外省の民間企業によって立て続けに建設され、「村で働ける!」と光明村にわかに活気づいた。だが、レンガの需要はそう長くは続かず、数カ月でことごとく閉鎖していった。
 2009年6月には北川県内に分散していた山東省各市の支援チームは新北川県城(永昌鎮)に集結し、山東省の総力を挙げて「新北川」の復興事業に本腰を入れた。整地、道路、橋などのインフラ整備、学校、病院、博物館、体育館、郵便局、銀行、官庁、ホテル、マンションなど街に必要なものすべてを山東省各市がエリア毎に建設することになった。建設に必要な資材、人材、労働力もほとんど山東省から運搬された。広大な敷地で進む197の復興事業(総費用約68億元=約884億円)にLさんのような被災者の雇用が期待されたが、実際にそこで働く人々のほとんどが、山東省からの出稼ぎ労働者ばかりであった。197のプロジェクトのうち、銀行や電力会社などの国営企業の独自プロジェクト以外は、ほとんどが山東省の対口支援によるものであり、Lさんのような被災者がありつける仕事は、地元の北川県や綿陽市が独自で行うわずかな復興事業のみである。
 震災からちょうど4年。復興事業をほぼ終えた被災地には真新しい綺麗な街が出現した。観光復興を謳う政府だが、現実には観光で収入を得ている被災者はごくわずかである。被災地には相変わらず仕事はそれほどなく、遠く出稼ぎに行く被災者も多い。光明村の半数は、今も家族と離れ離れで暮らしている。

四川省地震4周年レポート No.2

CODE海外災害援助市民センターです。
2008年5月に起きた四川省地震のレポートをお送りします。
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四川省地震4周年レポート No.2
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●対口支援の課題1 「スピード」
2008年5月12日に発生した四川大地震の救援にあたって中央政府は、「対口支援」という独自のシステムを用いて支援を行った。沿岸部などの経済発展を遂げた19の省市と被災地の18の市県がペアを組み、各省市の財政予算の1%を使い、3年間の被災地の支援を行うというものだ。日本でも昨年の東日本大震災後、広域災害の支援として注目され、「1対1支援」、「ペアリング支援」、「マンツーマン支援」、「国内版ODA」など様々な呼ばれ方をしている。
四川大地震の被災地でこの対口支援を使って当初3年の復興事業を2年に短縮し、短期間の復興を遂げた事は世界からも注目をあびた。2012年2月末には事業の約99%を完了させたと「復興宣言」を四川省政府は発表した。
実は、この対口支援は、鄧小平の唱えた「先富論」によって生まれたと言える。「先富起来!」(富める者から豊かになり、貧しきものを助けよ。)という改革開放政策がもたらした沿岸部と西部の格差を埋める為に考えられた「西部大開発」の一環である。1970年代後半からチベット自治区や新疆ウイグル自治区でもインフラ整備や教育などの支援が行われている。
また、1993年より16年の歳月をかけて長江流域に建設された世界最大級の三峡ダムも21省市の対口支援によって行われた。四川大地震後の青海省地震(2010年4月 玉樹地震)でも北京市などの対口支援で復興事業が現在も行われている。
四川大地震後の復興過程の中でこの対口支援は非常に効果を発揮したがその陰で様々な問題も生んでいる。2008年の9月頃より始まった住宅再建の際には、「対口支援」の重視するスピードによって被災者の多くは、「早く建てないと政府の補助金がもらえないんだ。」と住宅再建をじっくり考える暇もなく、再建を急がされた。それによって被災地の至る所に耐震性を十分に考慮されないままの住宅が現れた。
また、広大な被災地で同時に住宅再建が行われた事により、レンガ、鉄筋などの建築資材が約3倍に高騰した。震災前の農村住宅では、平均5~6万元(65万~78万円)だったものが、震災後には13万~15万元(169万~195万円)に跳ね上がった。
支援側の省市の幹部の中には「いくらいい計画でもスピード感がなくては意味がない」と語る人も出てくるほど対口支援では競争原理が働いた。
遅々として進まない東日本大震災の復興過程と比較すると中国政府の決断力の早さが多くの被災者に安心感を与えた事は評価すべきである。だが、対口支援による復興がスピードを重視し過ぎた為に様々な問題が四川の被災地で起きている事はあまり語られる事はない。
(吉椿雅道)

【四川省地震4周年レポート】No.1

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四川省地震4周年レポート No.1
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2008年5月12日に発生したM8.0の四川大地震(中国では、5.12ブン川大地震)では、死者6万9226人、負傷者37万4643人、行方不明者1万7923人、総被災人口約4600万人、家屋被害(倒壊21万6000棟、損壊415万棟)という未曽有の災害となった。(2008年8月25日 国務院発表) 
被災地は、四川省だけでなく、甘粛省、陝西省、重慶市、雲南省などの10省市、417県を含む総面積約50万平方km、地震を引き起こした龍門山断層の長さ300km以上と広範囲に及び、少数民族の居住する標高2000mを超える山岳部から農村部、人口約1100万人の大都市、成都まで多様な地形、文化を有する地域に大きな被害をもたらした。四川大地震は、1949年の新中国成立以降、その規模から最も甚大な災害だと言われる。(死者数では1976年の河北省唐山地震が勝る。)
最大の被災地、北川県城(曲山鎮)では人口3万人の内、約2万人の命が犠牲となった。4年を経た今も約5000人の亡骸はガレキの下に眠ったままである。毎年、5月12日には国家級の追悼式典がここで開かれ、一般にも無料開放され、沢山の人が追悼に向かう為に数時間の渋滞が起きる。政府は、この甚大な被災地を地震の遺跡公園としてそのままの状態で保存する事と決め、現在、被災地の4か所(北川県城、ブン川県映秀鎮、綿竹市漢旺鎮、都江堰市虹口郷)に地震遺跡と記念館を建設している。北川県城などは昨年よりすでに一般公開されている。
町ごと移転を決めた北川県城は、20㎞ほど平地に下りた場所に新たに再建され、永昌鎮(新北川)と名前を変える事になった。北川県城で被災した人々は、この9平方kmの広大な新しい街、「新北川」に居住している。集合住宅、学校、病院、銀行、郵便局、博物館、体育館などすべては新しく、道や橋も広く、公園、広場も建設され、非常に便利な近代都市に見える。だが、どこか生活の匂いが感じられない。2012年に入って、商店や食堂などは増え、人の姿を見かけるようになったが、その多くは観光客である。また、中心の商店街に店を出しているのは被災者よりも外部から来た人々も多い。街は建設されたが、個人商店以外の仕事はあまりなく、住民の多くは外地へと出稼ぎに出て行く。
震災前この場所は、安県黄土鎮と呼ばれ、広大な田畑が広がる田園地帯だった。春には一面の菜の花が黄色く広がっていた。ここで暮らしていた約1万人農民は、再建期間中、別の場所へと移転を迫られ、再建が終わった2011年に戻って入居した。だが、ようやく帰ってきた故郷の風景はまったく違ったものになっていた。これまで土を作ってきた400平方mの農地はすでになく、あるのは約30平方mのマンションの一室のみである。数十年も土地を耕して生きてきた農民は、4年を経た今、どんな思いで暮らしているのだろう。
2012年2月、四川省政府は約540万世帯、約1200万人の住宅を建設し、失業問題も解決し、復興事業もほぼ完了したと実質の復興宣言を発表した。華やかな復興宣言の陰に沢山の見えない問題、課題がある。震災から4年を機に今後、少しずつ振り返っていく。
(吉椿雅道)
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再建された新北川の街
新北川の観光商店街.jpg
新北川の観光商店街