スリランカではこの1ヶ月間で、紛争により200人を超える人が殺害されており、2002年の停戦合意が破棄され内戦が再開するのではないかという懸念が高まっています。5月11日には北西部で、「タミル・ イーラム解放のトラ(LTTE)」の船がスリランカ海軍に突っ込み爆発し、停戦合意以来、最大の衝突となりました。スリランカ問題担当の明石康・日本政府代表は、この衝突が起きたことについて「状況は非常に切迫しており、全面的な戦争が再開する危険がある」と指摘しています。
CODEはスリランカで現在3つの津波復興支援プロジェクトを行っています。その中の幼稚園・保育園再建支援のカウンターパートである、ティラクさんからのメールが来ましたので、報告します。ティラクさんは治安が悪化しているスリランカの東部に、4月27日から30日まで入りました。以下に添付しているティラクさんの報告の邦訳から、日本では伝わりにくい緊迫した現地の状況、そしてティラクさんの平和を願う思いがうかがえます。長文になりますが、ぜひご覧下さい。
-スリランカ東部訪問記-
コロンボの軍総司令部での爆発の後、状況はすぐに変わりました。私たちのスケジュールは、幼稚園・保育園再建プロジェクトを指揮するためにスリランカ東部のアカラパットゥとアンパラ地区へ行くことです。
私は27日の午後2時半にPettahからBandarawelaバスに乗りましたRathanapuraに近いKuruvitaのスリランカ軍のチェックポイントに5時半に着きました。軍と警察は荷物を慎重にチェックします。ムスリムとタミル人にはより多くの質問をします。彼らはいらいらした雰囲気でした。ある巡査はゆっくりと話し、私に「トラブルの心配はしないでいい。何をすべきかって?我々は義務を遂行しているのだ。面倒をかけて申し訳ない」と告げた。私はオーケーとだけ言った。
バスに乗り込むと、ある人が大声で何か言い始めた。35歳より下の若い男で、しっかりした体つきをして感じの良い青年だった。「私たちシンハラの若者は北東地域で死にたくはない。罪のない若者はただ仕事のために軍に入るだけなのだ。国家に特別な思い入れがあるわけではない。どうしてLTTEは分かってくれないのか。私たちはLTTEと調停を結びたい。」別の人が会話を続けようとしたが、バスの乗務員は彼自身の理由で話題を変えた。
Bandarawelaの町には8時半に着いた。私は三輪タクシーに乗ってLio Marga Asramに言った。センターの代表聖職者であるF氏に会い、早朝にアカラパットゥへ行く調整をした。
F氏はここ数日熱があった。車を運転する人もいなかった。だから三輪タクシーを使った。私は彼に、疲れたら車を拾うよと言った。センターの代表であるD夫人は旅をとても怖がっていたが、彼女も私たちに同行した。午前8時にBandarawelaを出発し、Beragalaジャンクションに着き、MonaragalaとWellawayaを通りアカラパットゥに抜けた。途上、軍と警察のチェックポイントを問題なく通った。Monaragala警察のチェックポイントでは一人の巡査が遠くから質問した。彼はなぜアカラパットゥに行くのか訪ねた。F氏は宗教的活動のために行くと答えた。巡査はF氏のIDをチェックし、通過を認めた。
Wellawayaの市場で私たちは新鮮な野菜と果物を買った。アカラパットゥの子どもたちの寄宿舎にあげるものだ。40人以上の津波で被災した子どもたちが教会の助けで暮らしている。この地域では生産不足のため野菜の価格がとても高い。アカラパットゥには1時半に着いた。
アカラパットゥ市内に入ると、そこは死んだ町のようだった。すべての店は閉まっていて、道に人影はなかった。特別任務の兵士だけが市の警備のためあちこち動き回っていた。私用のため石鹸を買いたかったが見つけるのは容易ではなかった。運転手がこの地域について説明した。アカラパットゥはスリランカの他のどの場所とも違う。金曜日にムスリムたちはお祈りのため、12時から2時までの2時間店を閉める。私たちがアカラパットゥに来たのは金曜日で、すべてのムスリムにとって神聖な日であった。それで、彼らは一日中町を閉めているのだった。彼らは、タミル人が店を開けることも許していなかった。営業していたのはバナナと果物の店だけだった。石鹸が欲しいなら、夕方には小さな店が開くと運転手は私に言った。
それから、私たちはアカラパットゥの教会に到着した。教会の人々は私たちに食事を出してくれた。少し休憩して、アカラパットゥ市から5㌔のところにある幼稚園の建設現場を見に行った。
人に会いに行くとなると、ムスリムとタミルの民族対立にとても緊張が走る。東部にあるOluvil大学の副学長の銃撃事件のことを耳にした。
アカラパットゥの津波キャンプはまだ続いている。人々はゆっくりと、海に近いもといた場所に移動している。ほとんどが漁師である。150メートルのバッファゾーンの法律によって、住宅を建てることには使えなくなった土地もある。教会は、アカラパットゥ都市部に近い土地を被災者に提供した。教会は幼稚園・保育園建設の土地も提供してくれた。しかし人々は、もと住んでいた場所で子どもをそばに置いておきたがる。他の地域では、彼らはムスリムとタミルの対立をとても恐れている。アカラパットゥ都市部に近いところで生活を始めたなら、衝突が起きたときに子どもにとって危険である。ある漁師は海に近い区画を幼稚園建設に提供を申し出た。しかし広さが十分でなかった。私たちは人々と話し合い、最終的に早く他の土地を選ぶことを決めた。
29日に私はアンパラとカタンクディ地区を訪れることにした。私たちのアンパラの代表にコンタクトはとってあった。彼は私に、状況が悪くなっていると伝えた。彼は私がアカラパットゥからアンパラやカタンクディへ移ることを許さなかった。地雷と銃撃のギャングがその地域を取り巻いている。私はコロンボへ戻ることに決めた。
F氏はアカラパットゥとBeragala間の道はコロンボへの夜行バスでの安全なルートだと私に伝え、席を取ってくれた。そして彼は私をPotuvilとArugambeの海辺に招待した。そこは東南アジアでもっとも美しい浜辺で、13㌔の海岸線がある。津波後、その場所は災害資本プログラムのもとでビジネスマンたちのために発展している。小さな店のオーナーたちと津波の被災者はこのプログラムに抵抗している。しかし政府は金のためにこれを続けたがっているのだ。それから、私はArugambeを訪問することに賛成した。運転手ともう一人が私たちに同行した。アカラパットゥを午前10時に出て、Sinnamotuwar、Motuwar、Kalawanchikudi、Potuvilを経由した。私たちは4つか5つのSTFキャンプを通過した。各所で私たちは誰か、どこに行くのか、なぜそこに行くのかと聞かれた。F氏は宗教者のIDを見せて簡単な答をした。彼はいつも、アカラパットゥ教会から来てPotuvil教会へ、宗教的な理由で行くのだと答えた。彼らは宗教者IDに敬意を払っており、車や私たちをチェックしなかった。Arugambeに着いたのは午前11時半で、午後1時半まで海水浴を楽しんだ。途上で、軽い昼食をとり、アカラパットゥには4時に着いた。教会で休憩した。F氏が三輪タクシーで私をバスまで送ってくれた。
コロンボ・プライベート・バスには午後5時に乗り込んだ。乗客を乗せるのに数分かかった。バスは5時半にアカラパットゥを出発した。途中でいくつかのチェックポイントがあり、いくつもの場所でバスを降りた。IDと荷物をチェックするのに20分ほどかかった。コロンボに入る前、Kuravita警察のチェックポイントがあった。午前3時頃だった。バスを全てチェックし終わるのに1時間ほどかかった。4時半にコロンボに着き、大きな問題もなく家に着いたのは4月30日の午前5時半だった。
これは私にとって大きな経験になった。東の州を何回か訪れたが、初めてタミルとムスリムの人々が、いつでも火を付けるほど互いを不審に思っているという状況を経験した。ムスリムもタミルも同じタミル語を話す。しかし、宗教と文化の違いはとても大きい。シンハラとタミルは似た文化を持ち宗教も類似しているが言語が違うために多くの差異を生み、ついには酷い殺し合いにまで発展した。平和を構築する市民とソーシャル・ワーカーは、スリランカのより良い未来のため社会を再統一する際のきわめて重要な役割となるだろう。 ティラク