「神のはからいに限りなく、生涯私はその中…に生きる。」シスター須藤の講演はこの言葉から始まった。シスター須藤は、今までこの言葉のように生きてきた、そしてこれからもこのように生きていきたいと語った。
かつて日本でも結核が死亡第一原因と言われた事さえも忘れさられようとしていた頃、ハイチでは結核で多くの人が亡くなっていた。当時日本で、結核治療に従事していたシスター須藤は、「日本で結核がなくなったのに何故、世界の中でこのような国があるのだろう。日本と同じような事をすれば、この国の状態もよくなるだろうと思って、どうぞそこに行かせてください。」と自ら修道会にハイチ行きを懇願したという。
1976年、そんな思いでハイチに到着したシスターは、思わずハイチの大地に接吻をしたい気持ちに駆られたそうだ。この新しい国の人たちとどう一緒に生きていけるのだろう、本当に心から愛し合っていけるのだろうか、と希望と不安と喜びに満ちた感情だったと振り返る。
だが、その思いとは裏腹に現実は非常に厳しかった。熱帯の暑気とほこり、人々の喧騒、そして水がないことに驚いたという。水の供給は一日、早朝の2時間のみで、病院にも炊事や洗濯の水さえなかった。また、ある日、市場に行った時に死にそうになっている2歳の男の子を見かけ、「お金がないんです」とその母に言われ、病院に連れ帰り、治療したところ、男の子は元気になっていった。この時、シスターはハイチに来て本当によかったと思ったそうだ。
結核の為に必要な事は、「安静」、「きれいな空気」、「栄養」だとシスターは言う。その必要な栄養がない。そのためには食を育てる学
校が必要だとシスターは長年、思い続けていた。2010年の大地震を機に、シスター須藤が地元のハイチ人と立ち上げたNGO、GEDDHとCODEが連携しておこなう農業技術学校建設プロジェクトが動き出した。
長年の夢が実現に向かって行っているのは、「不思議な神様のはからい」だと語るシスター須藤だった。(つづく)(吉椿雅道)