岡本千明のパキスタンレポート(最終回)をお届けします。
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<バタグラム>
北西辺境州バタグラムを訪れました。北西辺境州にはパシュトゥン人という民族が多く住んでいます。パシュトゥン社会にはハーンと呼ばれる土地の有力者がいます。人々はハーンの言うことに従うので、コミュニティとNGOとの関係作りは彼らを通して行われるとのことです。また、宗教的指導者の影響力も大きいので、理解して協力してもらえると有効です。ただし、NGOの存在はあまり好ましいものとして捉えられてはおらず、外国の宗教を押しつけるものと思われ拒絶されたり、女性の地位向上を図るものとして男性優位の社会からは敬遠されてしまう傾向にあるようです。
■ 村々にて
バタグラム周辺の村では、米を作るきれいな棚田が広がり、トウモロコシも含め農業を生業としています。また、牧畜を行って牛乳を街に売っているそうです。この辺りの家屋は、柱に木材を使っており、壁は石をくんでモルタルを貼ったもので、屋根は木材をわたしてその間に土を埋めてあります。こういった家はほとんど倒壊しています。特に、壁は残っていても屋根が落ちてしまっています。また、家が密集しているので地震が起きて外に避難しようとしても他の家がどんどん倒れて逃げられず死亡するというケースもあったようです。
ある女性の話です。彼女は学校の先生で、24の学校の責任者でもあります。彼女の夫も教師です。テントには、火鉢のようなものにテーブルとふとんをかぶせたこたつがありました。2ドアの冷蔵庫とテレビもあるけれど現在は使っていません。テントは夜寒くて眠れない、他の教師たちに渡すはずの給料を持っているから泥棒が心配で眠れないと言います。多くの人がカラチ(パキスタン南部の都市)へ行ってしまったけれど、春には帰ってくるでしょう。また学校を始めたい、必要があれば人々を組織する気持ちもあります。家を再建したいけれどそのお金がない。家の作り方は知っている、と彼女は言います。
ハーン(土地の有力者)のアシフさん自身が考える復興計画も訊ねましたが、政府の援助を待つと言います。実は彼には特に大きな政治的権力はなく、財力もコミュニティ全体を再建できるには決して足りません。みな一面に散らばる瓦礫の山―かつて自分の家だったもの―を前に、自力ではなす術がない状態に置かれていると思っているようです。せめて重機が来て瓦礫さえ片付けば、そして家を建てる材料を買うお金さえあれば、自分で家を建て直すことだってできるのに、と、自分で早く何とかしたいという思いと、自分の力では抗えない文字通りの「壁」のはざまでジレンマを抱いているのかもしれません。
■ 村の代表者会議
村の代表や公務員、その他公的機関の責任者などが地元NGOの事務所に集まってくれました。まず、それぞれが自分の村の現状や問題点を述べました。大きな問題としては住宅へのニーズがあります。冬を越すため、家畜を保護するためには今のままでは十分ではないと言います。また、瓦礫撤去のため労働力が不足していることも挙げられました。みな賃金を求めて労働に出てしまうので、お金をもらえない自宅や集落の修復などがおろそかになるようです。
次に、今後の計画や防災への意識について聞きました。政府や、地震を経験したことのある人たちに、今後の計画を立ててほしい、耐震の建築方法を教えて欲しいという声がありました。また、いま人々は川の水を飲んでいて危険だから、安全な飲料水を得られるように自分が何かする意志があるという人や、病院などの施設はあるにはあるが機能していないのでそれらを機能させたいという人もいました。植林について言及した人もいます。ただ、男性のみ、「健康な人」、「若い人」のみのリーダー会議なので、どれだけ「災害弱者」と呼ばれる人々の声が反映されるかに注意しなくてはなりません。
■ 村の代表者会議2
数日後、再び村の代表の方々に集まってもらいミーティングを行いました。日曜であるにもかかわらず20名ほどの男性が来てくれました。みな平日は外で働き、休日に家の片づけなどをするので忙しいそうです。まずCODEのスタンスを伝えました。今後どのように命を守るか、リスクを減らすかが大切です。耐震と防災教育を柱に、神戸の10年の経験・知識・ネットワークを活かして、あなたたちが自分で立ち上がるのをサポートしたいと思っています。
すると、代表たちの反応はこのようなものでした。日本とパキスタンは同じではない。ここは貧しく、教育が不足しており、就学率も15%ほどしかない。8割の人が丘陵地帯に住んで農業をしている。月の収入は2,000~3,000ルピー(4,000~6,000円)である。もともと少ない資源しか持っていなかったのに震災でそれら全てを失ってしまいました。良い経験なのはわかるが、それに対して努力はできない、と言うのです。しかし、このようななかで、前向きに努力したいという意見も出ました。モデルハウスを作ってもらえば、それをまねて耐震の建物を建設することができる。ここには技術と人材と労働力があり、学ぼうとする意志があります。
最後にCODE側からこう伝えました。パキスタンの人々が貧困に苦しんでいること、この地震で資源を失ってしまったことがよくわかりました。耐震というものはただお金をかければよいというものではありません。この土地にある資源・土地の文化・そのなかにある知恵を活用できます。そこから私たちも学びたいと思っています。日本に帰って、あなたたちが困っているということを伝えます。日本も地震を乗り越え復興してきました。つらいとは思うけれど、日本の人々も決してパキスタンの地震のことを忘れてはいません。
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「第1次派遣」カテゴリーアーカイブ
パキスタン北東部地震 第1次派遣 vol.5
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<ムザファラバード>
アザド・ジャンム・カシミール州のムザファラバードという街の様子です。
拠点としている街マンセラからムザファラバードへの道は絶えず曲がりくねった山道です。カシミール州への入場ポイントでは警察による簡単なチェックがありました。途上の山道は壊れていませんでしたが、カシミールへ入ると家屋の損壊が目立つようになりました。
ムザファラバードでは、バラコットほど全壊している家屋は多くありませんが、やはりすべてと言ってよいほど損壊しています。かつて大学だった敷地に設けられたテント村を訪れました。大学は瓦礫も処理されて跡形もありません。テント村周辺には、瓦礫を集めてきて立てた掘っ立て小屋でチャイ屋、八百屋、果物屋、食堂などが再開していて賑わっています。もっと山の手の方に歩いていくとかなり崩壊しているところが多く、お墓を作っている人も見かけられます。偶然出会ったアリさん(29歳)という男性が通訳をしてくれることになりました。アリさんは政府機関のコンピュータ・オペレーターをしており、地震が起きた時は建物の外にいたので助かったそうです。
彼も家族を亡くしました。残った彼の家族は現在イスラマバードの親戚の家にいます。話してみると、ほとんどの人は、政府の指示を待っているのだと言います。何か今後の計画はありますかと聞くと、お金がないからどうすることもできない。できるなら帰って家を建て直したいという人もいれば、政府がここへ行けと家を用意してくれるのであればどこへでも行くという人もいました。
出会った人たちです。男性は働きに出ていて、テント村では主に女性や子どもたちが表で炊事をしたり遊んだりしていました。両親を亡くしておじさん家族と暮らしている姉妹。もとは学校を経営していたある男性。彼はけがをして左足が動かなくなりました。ここでは男性の職業は、トラックの荷の積み卸し、軍人、ホテルのレストランでウェイター、ずいぶん昔にインド側カシミールからこちらへやってきた絨毯職人なんて人もいました。労働者や自営業者の平均月収は4,000~5,000ルピー(約8,000~10,000円)ですが、アリさんのように政府系機関で働いていると10,000ルピー(約20,000円)以上になるそうです。
女性の職業は何ですかとある男性に聞いたらみな主婦だと答えたけれど、中学生・高校生くらいの女の子たちに聞くと、教師、医者、公務員なんかだよ、と言いました(この地域の就学率は高く80%だと言います)。それにこんな人もいました。シャミームさんという女性が、テントの中でミシンを使い縫い物をしていました。近所のテントの人の依頼で女性の服を作っているそうです。一着作ってあげると120ルピー(約240円)をもらいます。以前は他の女性3人と共に縫い物の学校の先生をしており、生徒も20名ほどいたそうです。1日4着のペースで作ることができると言います。
タルカバードという町から来た生徒たちは、毎日2時から5時に「学校」を開いていて自分は「先生」だと言います。集まって遊んでいるようです。主に話してくれた女の子は16歳で11年生。彼女のお父さんは10数年前にインド側カシミールに「ジハード」に行って以来音沙汰がないそう。今キャンプで女の子として困っているのはお風呂とトイレだと言います。トイレはあるけれども汚くて使いたくない、と嫌な顔をしました。これからどうするの?わからない。道がきれいになったら家に帰る、と言います。
知的障害のある中年の女性がいましたが、話しかけもしないうちにアリさんが、「彼女は異常(Abnormal)だから話すことないよ」とさっと素通りしました。語彙を知っていて言葉を選ぶことのできる彼があえて「異常(abnormal)」と言ったことや、そのときの態度が気になりました。後で私が別のテントの中にいるときにまたその女性が顔を覗かせたけれど、彼とテントの住人は彼女を帰してしまいました。
数日後、同じテント村を訪れると以前よりもテントの数が減っているのがわかります。テント村を移動したか、道が開けたため家に帰った人がいるのでしょう。先日キャンプで出会ったアリさんは、足が不自由になった教育関係者の男性とキャンプで話をしていました。テントには車椅子があります。今後マレーシアの友人が電動のものを送ってくれるそうです。3000ドルするそうです。前回渡した「まけないぞう(神戸の被災者の方が復興の思いをこめて作ったぞうのぬいぐるみタオル)」がテントの支柱にぶらさがっていました。使ってくれているようで嬉しいです。
シンポジウム「世界の1年を振り返って次の1年へ」
日 時:2006年1月8日(日)14:00~17:00
場 所:JICA兵庫 2階ブリーフィングルーム
参加費:無料(要予約)
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パキスタン北東部地震 第1次派遣 vol.4
大変遅くなりましたが、11/25~12/5のパキスタン第1次調査に通訳として同行したCODEのアルバイトスタッフ岡本千明(大学生)のレポートを数回に分けてお送りします。
「大切なのは、土地の文化こそがその土地で最適なやり方を実践してきたのだからそれを尊重して活かし、そこに住む人たちの知恵を使って人々自身が復興してゆくということだということを教わりました。村で話した人々にとってもCODEのこのスタンスは印象的だったようで、話し合いが終わった後にも関心を示してくれた人がいました。これは、土地の文化を利用するのが効率的で有機的だからプロジェクトが成功しやすいという手段としての意味だけではなく、それがコミュニティの自信につながったり、力関係を調整して自立を促したり、支援者側の価値観に一元化せず多様性を守ることにもなるのです。」という彼女の(被災地)初体験を読んで下さい。
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<バラコット>
被災が最も大きかった街バラコットの様子です。拠点としたマンセラという街からバラコットへの途上はのどかです。一面の段々畑に土屋根の家が点在し、子どもが遊び、女性が洗濯をしています。燃料用の家畜の糞を薄く丸い形に伸ばして干してあります。時折水瓶を頭に担いだ女性が通ります。羊の群れを連れた牧人ともすれ違います。しかしバラコットの市街地が近づくにつれて、モノクロ写真を見ているかのように色が失われます。一面瓦礫の灰色です。壊れていない建物はないと言ってよいほど破壊しつくされています。瓦礫を見ると何かが当たって砕け散ったようですが、「一枚」の壁が粉々になったというのではなく、もともと平たい石やれんがを積み上げてモルタルを塗っただけなのでそのひとつひとつがばらばらになっているのです。そこにかつて何があったか、外部者が想像するに足る面影はありません。
けれども当然のことですが、人々の暮らしはずっと続いています。壊れたモスクに入れ替わり立ち代り男性が礼拝に訪れます。なお信仰の中心なのです。瓦礫のなかですでに八百屋が営業しており、夕食の材料を求めてか、女の人が買い物に来ていました。テントでも自炊ができるようです。その他にも小売店がスナックやジュースを売っています。チャイ(ミルクティー)や、パコラと呼ばれる揚げ芋など軽食を出す屋台もあります。それらは男性で賑わっています。テントばかりのなか、木で家の骨組みを作っている家族を見かけることもあります。屋根型(三角形)や箱形に木を組んで、トタンを張り、自分で仮設住宅を作っているのです。
一面に道を塞ぐ瓦礫を踏み分けて少し開けたテントの集落にたどり着きました。男性と、1歳にならないほどの赤ちゃんが椅子に座っており、話しかけると中を見せてくれました。台所用と寝室用のテントの他に、木とトタンで作った1.5m四方ほどの小屋があり、奥さんが薪で火を炊き食事を準備していました。奥さんは震災でけがをして、腕が痛いのだと教えてくれました。最初はしみかと思ったのですが、顔にも傷を負っていたのでした。気にしているようで2、3度顔の傷のことを言っていました。夜寒いので困っていると言います。彼女は主婦で、家事以外に仕事はしていません。学校には行かなかったそうです。しだいにうちとけてくれてチャイを勧めてくれました。ここでは親戚一同が寄り添って住んでいます。学校の先生をしているムニールさんは、日本の支援に感謝しており、それを日本に伝えて欲しいと言いました。ラジャ・ウィコス君(20歳)は、全壊した彼の家へ案内してくれました。彼のお兄さんは足を怪我して今歩くことができず、テントでベッドに寝ています。お兄さんの奥さんと子ども3人は亡くなりました。
ナディ・ムーシャさん(35歳)が話を聞かせてくれました。この辺りはガラット村というらしく、人口1万人ほどだったが800人ほどが亡くなったと言います。また、ムニールさんによると、川の上流のナラーン、カガーンという街の人たちがバラコットに下りて来ているそうです。イスラマバードなど大都市に行ってしまった人も多く、つまりそこにいる人がもともとの土地の人ではないという現象が起きています。なんでも、ナラーン、カガーンはパキスタンのスイスと呼ばれる美しいところで、その入り口であるバラコットも観光業がさかんだったようです。これを聞いて後日、上流の方の状況を見るためにカガーンまで行ってみることにしました。しかし途中、道が崖崩れで埋まっていてそれ以上先へは進めませんでした。雨などにより地盤がゆるんでいるので、このような二次的な被害も出ているようです。
市街地から車で5分ほど山手の方へ向かいました。収穫後のトウモロコシ畑をテント村にしています。地元の人ばかりでなく、周辺の山からも下りてきた人もいます。車から降りるやいなや手招きしてくれた女性がいたので近づくと、こんにちはも言うか言わないかのうちに私をぎゅうとすごくきつく抱きしめ、よく来たよく来た、というふうにテントへ招き入れてくれました。この家では親戚どうし50名ほどが7つのテントで暮らしています。つぶれた家がそのすぐ横にあります。男性たちはエンジニアやドライバーをしています。山羊と鶏を飼っていますが、ミルクや卵はその量からして自家消費用のようです。子どもはみな学校に通っていましたが、年長の女性では教育を受けていない人もいます。私が去ろうとすると、「え、行くの…」という期待はずれの空気が漂ったような気がしました。何かをくれるのだろう、提案をするのだろうという期待があったのかもしれません。ひとりの男性のあきれたような視線に居心地が悪く、思うことがあれば教えて欲しいと言うと、「どのような形で助けてくれるのか」と訊かれました。CODEの中長期的な支援の理念を話したけれど、あまりわかってもらえたようではありませんでした。
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パキスタン北東部地震 第1次派遣 vol.3
パキスタン北東部地震に対する今後の支援について調査するために先月25日から現地入りしているCODEのスタッフは、予定通り明日5日に帰国します。帰国前の今朝現地から電話が入り、元気な声で最後のレポートを送ってくれました。
吉椿さんは慣れているので大丈夫と思っていたのですが、初めてこんな厳寒の地に行く岡本千明さんのほうが心配でした。でも結局今回は現地のローカルNGOや日本のNGOのサポートもあり、マンセラのホテルを拠点に活動できたのでその心配はなくなりました。
さて今日のイスラマバード午後11時発成田行きで現地を後にするのですが、最後の一日にもう一度バトグラム近くの小さな村(バザール・ゲイ)に行くとのことでした。目的は、今後の本格的な復興に向けて村のリーダー達と話すためです。実は、2001年インドグジャラート地震での再建プロジェクトで連携したネパールのNGO=NSETが、耐震建築のプロジェクトのために事前調査で現地入りしていることがわかり、現地でコンタクトをとっていたのですが、昨日会えたようです。場合によっては、パキスタンでも住宅耐震建設のためのデモンストレーションは一緒にできるのかも知れないという可能性が出てきたこともあって、もう一度その小さな村のリーダー達15人と話すことになったようです。
このリーダー達は、口々に「冬が終わったあと、本格的な住居再建が始まる。その時のために今準備できることは何なのか?」とCODEスタッフに聞いているそうです。彼らは今現在の緊急支援のみを要求するのではなく、この冬があけたあとの本格復興に向けての準備に目が向いているとのことです。阪神・淡路大震災の経験からは、やはり住宅再建をするときに
は「耐震技術」を取り入れた住宅再建ができるように願っています。
バラコットの中心地では、もうかなりの店舗も再開し、まちに活気が戻ってきているとのことです。また復興に伴うさまざまな仕事も発生してきているのか、昼間テントを訪ねても男性はほとんど仕事に行っているそうです。従って昼間は女性が留守番をしていることが多いようで、その分被災を受けた女性の話が多くヒアリングできているものと思われます。先日大阪で開かれたパキスタン報告会で緊急医療チームで入られた女性看護師の話では「女性の負傷者は、なかなか診療所には来れない。それで女性のために診療に特別の配慮をした」ということです。イスラムの習慣では、女性はほとんど外出できません。従ってその辺りは相当の配慮をしなければ実態が見えてきません。今回はその辺りも配慮して女性スタッフである岡本千明を同行させているので帰国すれば詳細が聞けると思います。
皆様、是非15日神戸YMCAで開催されるパキスタン合同報告会にご参加下さい。
日時:2005年12月15日(木)18:30~20:30
場所:神戸YMCA三宮会館1階チャペル
報告:柴田信也さん(日本基督教団兵庫教区被災者生活支援・長田センター主事)
吉椿雅道・岡本千明(CODE)
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パキスタン北東部地震 第1次派遣 vol.2
現地の通信事情が悪く、インターネットが使えないため、電話で報告を受け、
以下のようにまとめております。
27日から28日にかけてバラコットに入り、調査を行いました。バラコット
の町の通りでは、崩れた店舗を利用してチャイを販売したり、食堂や八百屋も少
しずつ営業を再開し始めています。男性は日雇い労働や車のドライバーなどをし
て働き、女性は縫い物などをしています。
また、ガレキの撤去が始まっていて、中には鉄筋を拾い、お金に換えて生計の足
しにしている被災者の方もいるそうです。
まだ仮設住宅の建設は始まっていないようで、テントでの暮らしが続いていま
す。
29日はムザファラバードに入りました。比較的大きい街なので、地震の被
害も大きく、政府機関の建物などは大きなダメージを受けています。モスクでは
仮設の診療所が治療を行っています。
これからバトグラムに入り、引き続き調査を行う予定です。
また連絡が入り次第、ご報告いたします。
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パキスタン北東部地震 第1次派遣 vol.1
すでに出発前報告にて予定は書きましたが、現地と電話で連絡がつ
き、吉椿・岡本は予定通りパキスタンに到着しました。2人はマンセラ
を拠点にバラコットで調査をはじめており、山間部では今でも支援がい
き届いていないとの報告を受けました。
詳細については後日、ご報告させていただきます。
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【お知らせ】 パキスタン北東部地震 第1次派遣 ~出発前~
CODE海外災害援助市民センターは、10月8日に発生し、死者8万7000人に達したパキスタン北東部地震支援のため、被災地NGO恊働センターの臨時職員の吉椿雅道とCODEアルバイトスタッフの岡本千明を11月25日~12月4日(予定)までパキスタン派遣を行います。
現地の動きは連絡が入り次第、ご報告させていただきますが、出発前の現在で決まっている予定をお知らせ致します。
<目的>
・現地の現状把握
・中長期支援に向けたニーズ調査
<日程>
11/25 日本発
11/25 イスラマバード着
12/4 イスラマバード発
12/5 日本着
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