月別アーカイブ: 2006年9月

第 3 次パキスタン訪問日記 No.13

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 今回の地震で、もっとも激震地であった北西辺境州バラコートも日帰りで見てきた。3月に駆け足で見たときと、全くといっていいほど変わっていない。変わっていると言えば、テントの数とトタン屋根の簡易小屋が増えたということだろうか?ムザファラから車で2時間くらい離れているせいか、あるいは州が違うせいか、何故こうも開きがあるのだろうか。市の中心街になるバザールが密集しているところから、川を挟んで向こう側の小高い丘にテント生活の一群がある。「何故、10か月もこうなの?」と首をかしげざるを得ない。一群の中を廻っていると、赤新月社の車が2台通った。「まだ、緊急のフェーズか?
ならば、何故トイレやシャワーが仮にも設置されていないのか?」次から次へと疑問が・・・・・。
壊れた学校跡地では、セーブ・ザ・チルドレンによるテントでの子どもプロジェクトが行われている。災害地のいつもの光景だ。向かいの壁には「子どもを人身売買から守ろう!」というポスターが貼られている。これはまるで難民キャンプだ。こんな状況にもかかわらず、「パキスタン政府が国連やNGOの8月末撤退を発表した。」という情報が聞こえてきた。噂であって欲しいと願う。私たちを案内してくれていたのは小学校の先生だった。それでも、寄り添ってきた子どもたちが、手を差し出して「ギブミー・マネー」という。災害後にはよく自立ということが議論されるが、このような現場では「保護とエンパワーメント」の関係を考えさせられる。心配なのは、後数ヶ月で厳しい冬がやってくることだ。
これを持ってパキスタン訪問日記は終了します。ありがとうございました。

第 3 次パキスタン訪問日記No.12

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<パワフルな女性たち>
ワード13に住む女性たち30人と懇談をした。窓のない小さな部屋に30人だから、ある種異様な空気だ。部屋には窓が無く、入り口に業務用の大型扇風機が一台廻っている。この懇談会は、CBOの代表はじめ男性は一人も入らずに始まった。正確には私一人だけが男性である。最初に神戸から来たことを伝え、あいさつをし、「今どんなことに困っているのか?」聞かせて欲しいと投げかけると、口々にしゃべり出した。言葉は全く分からないけれど、恥ずかしがり屋、気の強そうな人、リーダー的な存在、ゆったりとしているが大事なことをいう人など顔見ていたら大体分かる。
前の方にいた若い女性が「結局どんな支援をしてくれるのか?これまで何人もがこうして要望だけを聴いて、通り過ぎて行った」といきなり厳しい発言も。最も多いのは、「今のテントでは、冬を越せない。夏・冬兼用のシェルターが欲しい」という声だ。切々と訴えられるというより、何か詰め寄られているような雰囲気だ。同行した女性スタッフに、「何か聞きたいことある?」とふった。さすがNGOのメンバーだと思う。女性にしか分からない悩みを引き出していた。しかし、あれから10か月も経ち、しかもボロボロになったテントで生活していることを考えるともう人間としての生活を維持するには限界で、興奮するのは理解できる。しかし、だんだん話していると、厳しい顔が笑顔になり、パワフルな女性の顔が表れる。神戸から担いできた「まけないぞう」という阪神・淡路大震災の被災者が創っているハンドクラフトを配る。
一人の年輩の女性が静かに語る。「地震前までは、この地は平和で、安心な街だった。しかし地震後は何か不安がつきまとう。子どもや女性のために、あの平和な街に戻って欲しい」と。災害後からの復興というのは、やはり新しい市民社会を築くことに尽きる。だから仮設市街地構想の実現にも大きな意義がある。そしてその社会を創造する過程で、平和で、安全で、安心な街の要素が生まれると確信する。

第 3 次パキスタン訪問日記No.11

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<幻のローティー>
ナンというパンは、インドやアフガニスタンにもあり、主食に近いほど毎食についてくる。食べても食べなくてもでてくる。もちろん「いらない!」といえば引き上げるのだろうが。
さて、ナンの一種類で名前が「バックラハニ」というローティーがある。薄く薄く何層にも小麦粉を重ねて焼いており、ほんとに旨い。小麦粉の間にタマゴの黄身と油を混ぜ合わせた液体を塗布するのがミソのようだ。これを一度口にすると、贅沢だが他のナンはまずく、食べたいと思わなくなる。ところが、この「バックラハニ」を探し求めて街を歩いても見つからないのだ。現地の人曰く「それはこちらの人が、毎朝食べるものだし、どこでも売っているよ、ホテルの隣のショップにも置いてるよ!」とのこと。そんな筈がない、あんな店に置いているわけがないと、またあきらめずに探し回る。だが、ない! とうとう、騙されたと思って、ホテルの隣のショップで聞いてみた。「あるよ!」とのこと。「えっ?」と目が点になる。「置いている訳がない」とは失礼なことだ。なんと傲慢な私たちなのか?
しかし、店員が出してくれた「バックラハニ」は、私たちが描いていたものとは違っていた。二度目の「???」である。お店に悪いから、一つだけ買って食べた。確かにあの何とも言えない感触はある。一口かじると、ポロポロとはみ出した口からこぼれる。あのクロワッサンの大きめのパンを想像して欲しい。でも、私たちが追いかけているのはこれではなく、あのローティー風のパンなのだ。では、あんなにおいしいものが、どうして街中で売られていないのだろうか?「バックラハニ」は、ムザファラのオリジナルだよと教えてくれたのだが・・・・・。これを造っているところは、間違いなく「ワード13」に一軒は存在しているのだが。

第 3 次パキスタン訪問日記No.10

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<午前4時に第1回目のお祈り>
モスリムの助けあいで思い出したが、ここでは早朝4時にモスクからのアザーンが聞こえてくる。ホテルから見える山の斜面に、やがてホタルのごとく火がつく。考えてみれば、朝の4時から神に祈るという行為を毎日行うということは凄いことだと痛感する。どこかで昼寝でもしないと一日がもたないなんて想像するのは、俗人の考えなのだろうか?
街を歩いていても、ムザファラの人たちの目線は優しい。夕食に、川沿いにある屋台風のレストランに入り、食事をしていた。ナンを焼く職人さんが、途中で二回も暖かいナンに取り替えてくれるという心配りが憎い。気に入ってまた、翌朝遅い目の朝食で同じ店に行ったが、今度は冷たいナンしか出てこなかった。きっと朝は忙しく、大量にナンを焼くので、焼きたてのナンには間に合わなかったのだろう。店先の道路の鉄柱に羊が4匹つながれており、バイヤーが何やら羊飼いと話している。商談が成立したのか、その羊飼いはゆったりとタバコを吸いながら休憩をしていた。しばらくすると、ナンの材料となる小麦粉が運ばれてきた。重たいものは背中に乗せて運ぶ。30年前神戸の港湾で働いていた時を思い出す。ここムザファラバードの中心街では、ニーラム川にへばりつくように小さなお店が並んで商いを営んでいる。こうした姿を見ていると、10ヶ月前にあの大地震があったのかは想像がつかない。

第 3 次パキスタン訪問日記No.9

<前途多難だが・・・・>
実際にこうした仮設市街地構想が、都市の中心街の一画を対象に検討されるのは初めてのことだろう。ワード13では、これからの災害後のくらし再建における注目すべき、第一歩を踏みだしている。暫定的な生活の場における不自由さをどこまで耐えられるかが最大の課題である。今年の5月27日に地震のあったジャワ中部では、一部の村では「ミニ仮設市街地構想」が始められている。といっても。この村の発案者は、先の研究会の構想を知っていた訳ではない。たまたま、再建をする上で、経済的理由から、仮設→恒久住宅と行かないことがきっかけとなる。地域の資源を使い、地域の人材で再建するという自然の成り行きが、功を奏している。
インドネシア・ジャワの場合は、ミニ版ではあるが、ゴトンロヨンという相互扶助のしくみが定着しているため、実現しやすいが、こちらパキスタンではどうだろうか?パキスタンの被災地でも、このように地域の建築資材と人材によって、ローコストのまず一時シェルターが造られることが望ましいのだが。ある山間部の集落では、政府の配布する住宅再建資金をめぐってもめごとがおき、これまでのコミュニティがバラバラになったという話も聞く。本来モスリムにある助けあいの仕組みに期待したい。

第 3 次パキスタン訪問日記No.8

<仮設市街地構想>
さて、シェルター支援を求めているもう一つの背景、「仮設市街地構想」とは何だろう。
 「仮設市街地構想」とは、阪神・淡路大震災の教訓から生まれた新しい概念であり、「東京都震災復興マニュアル」で、その位置づけが明確になったとされており、2004年新潟中越地震の一部被災地ではこの構想が実現しているものである。具体的な内容は、都市の大災害時には被害が広範囲に及ぶため、避難生活からただちに本格復興に取り組むことは困難であり、避難生活と本格復興が実現するまでの間に、暫定的な生活の場を設け、その場において本格復興のあり方についての協議・合意形成をはかって、本格復興に着手する、と解説されている。従って実は、ここのCBOがオリジナルで構想した訳ではない。
 この構想は、JICAが実施している「パキスタン国ムザファラバード復旧・復興計画調査」の関連として浮上してきたものである。そもそもの発案者である仮設市街地研究会(連絡先 東京)は、「仮設住宅ではなく、仮設市街地としたのは、暫定期間とはいえども暮らしや仕事の再開をしなければならず、そのために暮らしを支える諸施設(保育所、学校、診療所、店舗など)や、仕事の場(工事、事務所など)、復興協議の場(集会場、プランニング・ルームなど)を仮設建物によって備える必要がある」とつけ加えている。つまり、住まいと暮らしを含む総合的な「住まい方」を創造するために必要な、暫定的な仮の暮らしの場である。このCBOは、仮設市街地研究会の提案を受けて、この構想を実現するためにもCRC(復興委員会)を設置した。

第 3 次パキスタン訪問日記No.7

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<何故シェルターを要求しているのか?>
 CBOは、CODEに269世帯分のシェルター支援を求めている。それは、地震後10か月も経ち、ボロボロになったテント生活にも限界があるという切羽詰まった現状から出てきたことだが、実はもう一つの背景として、都市における大規模災害後の復興モデルを実現したいという思いも重なっている。それを「仮設市街地構想」という。この構想は、政府・行政・NGO・専門家・企業などその地域に関連するいろいろな人たちが連携しなければ実現しない構想である。
 中でも重要な担い手はCBOの組織下に設けられたCRC(復興委員会)だ。このCRCには、女性・若者・シニアの委員会があり、CBOはそれらをコーディネートすることと記録する役割として位置づけられている。女性の委員会もあるが、実際には男性ばかりの会議ではなかなか参加できないのが現状のようだ。CBOはこういうところも改善しなければならないだろう。実際に女性との懇談ではいろいろな声がだされている。CBOは、女性委員会からの要望を吸い上げ、優先的な課題を先に解決するような取り組みが急がれる。例えば、地震で90人も寡婦となった方々が存在している。精神的なダメージもさることながら、日常生活の困難さをサポートするシステムが必要である。

第 3 次パキスタン訪問日記 No.6

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<CBOに大きな期待がかかる>
 実は、ここワード13地区には、地震前から行っていた地滑り対策としての、自治組織としてCBO(住民組織)が組織されていた。CBOのリーダーは、ムザファラバードではちょっとした有名なサッカープレーヤーだったそうだ。聞かされなければ、全く地味で、静かな人で、想像がつかないほどである。CBOは15人のメンバーで構成されており、1ヶ月間ほどJICA緊急調査の社会開発調査の一環として「ガレキ撤去プロジェクト」を担ったそうだ。それをきっかけにCRCという復興委員会もできた。住民主体の復興の担い手になろうと頑張っているが、とにかく政府の復興計画が提示されないため、イライラもピークにさしかかっている。
 別の山間部の話しだが、政府が住宅再建のために出している資金も、まちまちのようで、そのためにコミュニティが分裂したところもあるそうだ。一体どうなっているのだろうか、疑問が募るばかりである。聞くところによると、政府内に新しく震災後の再建体制が敷かれたために、お互いの調整が上手く行っていないという指摘もある。その間、テントで暮らしている被災者はどうなるのか、最低限の応急対応が急がれるのではないだろうか?しかし、震災後10ヶ月も経って、まだ大規模にテント生活を余儀なくされているという実態はこれまでにはあまりない姿である。厳しい将来が予想されるが、CBOには大きな期待がかかっている。

第 3 次パキスタン訪問日記No.5

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<「また地震が来る」と噂が広がり、不安で眠れない>
CBOは、男性ばかりで組織されており、女性の声を聞くことができないために、女性だけ約30人に集まって頂き、率直にいろいろな声を聞かせて貰った。一人の女性が「また地震が来る」という噂が広まっているという。「地震は、ある科学的な根拠があり、来るものです。噂に振り回されてはいけません。そのためには私たち自身が正しいことを知るために勉強しなければならないのです。自分の命は自分で守らなければ、誰も守ってくれませんよ!」と答え、ちょっと大きな声で「地震が来ても何も怖くはありません。建物さえ壊れなければこんな苦労をしなくてすんだのです。家具が倒れてこなければ被害は少ないのです」と叫ぶように言ってしまった。
阪神・淡路大震災の悔しい経験がそうさせている。「繰り返して欲しくない!」という思いでいっぱいだ。いつも地震の被災地に行くとガレキの山になっている中で、共通した現象に気付く。トイレや洗面所などの狭い空間は他が全壊でも残っていることが多いのだ。先般訪問したジャワ中部地震の被災地でも見事にその光景を見た。CBOの若い一人に、「2階建てや3階建ての建物がこれだけ壊れているのに、何故あのように残っているか分かりますか?」と残っているトイレを指さして聞いてみた。「・・・・・」だった。日本でもとりあえずの応急耐震化のためにトイレ大のシェルター建設を各家庭に進めようかと思うほどだ。しかし、私たちもこんなえらそうには言えないのだが・・・・・・。

第 3 次パキスタン訪問日記No.4


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<一応鉄筋コンクリートなのに?>
 イランやアフガニスタンによくある泥を日干しで固めただけの「アドベ住宅」と[違って、今回の倒壊住宅は、一応鉄筋とセメントを使ったいわゆるRC構造なのだが、どうしてこれほどまでに脆くも壊れてしまうのか?耐震性の欠如なのか。これまでも、モスリムの国の被災地を見てきたが、被害の大きい場合でもモスクは比較的壊れずに残っているケースが多い。しかし、今回はある意味住民が最も利用するモスクが多く壊れている。マグニチュード7.6と発表されているが、もともと地滑りが多いことを考えると地盤の問題なのか?


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 「何故モスクは壊れたの?」と聞いたら、「1971年以降に建てられたものは建築基準が曖昧なので壊れた」という説明だ。阪神・淡路大震災の時は、1981年以前の老朽家屋が多く壊れたのだが・・・・。でも、あの時も日本の伝統的な在来工法による木造建築の家は、多くは壊れていないという調査結果もあるので、ありうるかと思い、「この地の伝統的な建物はないか?」と聞いたら、ムザファラバードにはないとのこと。一部ジーラム川沿いの集落で、60年ほど前からカシミール地方から移り住んで来たところがあったが、今はレンガやブロック塀のトタン屋根で、昔は木材を使用していたらしい。何かの資料で見たが、確かパキスタンでも北西辺境州の最も北部の辺りでは、見事な木造建築があったようだ。果たして、耐震性が満たされても鉄筋とコンクリート仕様に頼るだけでいいのだろうか?地域の資源を循環させ、環境に配慮するならば木材使用を見直してもいいのではないだろうか?