日記」カテゴリーアーカイブ

No.16 ハイチ地震 (2010年1月12日発生)

2010年1月12日のハイチ地震から4年が経ちます。この地震で人口約1000万人の3分の1が被災し、犠牲者は約23万人にのぼりました。150万人以上が家を失い、今も約17万人の方が306ヶ所の避難キャンプでテント暮らしをしています。CODEは地震直後から支援を行ってきましたが、昨年(2013年)から新たに、レオガンという地域のNGO「GEDDH」(「ハイチの持続可能な発展のためのエコロジーグループ」)らが計画してきた農業技術学校の建設をサポートさせていただいています。昨年7月に着工し、今年の早い段階での完成を目指しています。
既に報告などで何度かご紹介しておりますが、GEDDHはハイチで医療活動を行っていた日本人医師・シスター須藤が育てた現地のグループで、レオガンを中心に全国300人規模のネットワークを持っています。今日は、GEDDHの活動を支えてきたもう一人の人物、カナダ・ケベック州在住のシルビオ・ブルジェさんのメッセージを紹介します。シルビオさんは森林工学者で、地元で環境にやさしい農業を実践しつつ、2006年から年1回ほどレオガンに赴いてGEDDHに農業技術を伝えています。
「ハイチでは森林破壊が深刻です。私は農家であるGEDDHのメンバーたちと一緒に山で苗床を育てることを通して、技術と環境問題を伝えてきました。これまでに周辺の10ヶ所以上の村が自分たちの苗床を育てるようになりました」山あいの村々はラバと徒歩でしか辿り着けないほどアクセスが悪いため、ほとんど外部の人が来ることは無いそうです。
それでもシルビオさんは、起伏の多いハイチでは山にこだわることが大事だと言います。「ハイチで行われている植林は、ほとんど平地でのことなのです。しかし私は、必ず山の植林が優先されるべきだと考えています。それはまず土壌浸食を防ぎ、保水力を回復するためです。土地が息を吹き返せば、都会で飢えに苦しんでいる農家が山に帰って作物を育てることができるようになります。農家が農業をすれば、都市にも食べ物を提供できるのです」
「最初竹を植えることから始めると、とても早く広範囲の森林を再生でき、素晴らしい成果が出ました。しかし農家たちの飢えを考えると、木の種類を変えざるを得ませんでした。そこで、アグロフォレストリー(樹木の植栽と農業を組み合わせること)に移行したのです。土壌の浸食を防ぐ強い根系をもち、なおかつ食べ物を生産できる木を植えるのです。成長が早くリンゴ状の実をつけるカシュー、根が強いマンゴー、そしてバナナ。栄養価が高く1年中豊富に実がなるパンノキも植えました」
ハイチの食糧危機は深刻で、現在60万人以上の人が厳しい食糧不足の状態に置かれています。5歳以下の子ども10万人が栄養不足で、特に2万人は重症の急性栄養失調に陥っています。
「このようにハイチの危機的な食糧問題に向き合うと、私たちは技術を教えるための農業学校を夢見るようになりました。GEDDHはこのプロジェクトの鍵です。GEDDHがレオガンの、そしてハイチの将来の問題を解決していくのです。ハイチのため、シスター須藤の夢のためにも、私にできることすべてをしたいと思います。私の夢は、子どもたちが元気に笑いながら道を走り回っている様子や、農業技術学校が生徒たちでいっぱいになっているのを見ることです」
GEDDHの夢、シスター須藤とシルビオさんの夢は、私たちの夢でもあります。
(岡本千明)

No.13 バングラデシュ・サイクロン・シドル(2007年11月15日発生)

フィリピンの台風災害についてレポートをお送りしておりますが、アジアは非常に水害の多い地域です。6年前にバングラデシュ南西部を襲ったサイクロン・シドルも、死者4234人、被災者は約900万人、被災家屋(全半壊)151万棟以上という甚大な被害を出しました。
この災害に対して、CODEは以前から協力関係のあるバングラデシュ防災センター(BDPC)と協力し、壊れた孤児院の再建を支援しました。建物はサイクロンシェルターとしても使われています。
支援の対象となった孤児院は、ベンガル湾に接する2つの川に挟まれた地域にあります。コミュニティの人々が自力で建設し、寄付で運営してきたこの孤児院は、サイクロン・シドルにより大きな被害を受けましたが、公立校ではないため政府の支援を受けることができませんでした。BDPCがこの孤児院と出会ったことがきっかけで、災害から約2 年後の2009年7月、CODEの支援によって孤児院の再建が始まりました。
コミュニティの人々はとても意欲的でした。作業初日から、コミュニティ全員が自発的に参加しました。皆、孤児院を地域の財産と考えており、当事者意識と貢献意欲を持っていたからです。リキシャー(三輪車)引きや貸しボート屋は無償で資材を運ぶのを手伝い、石工は無償で建設を手伝いました。大仕事となる屋根の取り付けに関わった人たちの半分はボランティアです。資金面でもCODEの支援だけに頼らず、コミュニティ内で約450米ドルを調達しました。資材を提供した人もいます。こんな声も聞こえて来ました「これはただのレンガではないんだよ、ここにたくさんの愛がつまっているんだ!」。こうして作られた孤児院は、単に外から与えられたものではなく、「私たちの作ったものだ」と地域の人たちの自信となりました。
建物は硬い基礎の上に建てられ、強い構造を備えています。大きさは縦約15m、横約8m、高さ約3mです。屋根の厚さの基準は12.5~15cmですが、約23センチあるため、将来2階が必要になったときに増設が可能です。このような構造の建物はこの地域にはほとんどありません。ひとつひとつ丁寧に作られているため、業者に丸投げして手抜き工事をされるよりも数段長持ちするだろうとBDPCは見ています。サイクロンを避けることはできませんが、質にこだわったこの建物をシェルターとして活用できることから、安全のシンボルにもなっています。
2010年5月の完成後、孤児院では67人の生徒が学びはじめました。地元の人は子どもたちに食事を与えるなど、引き続きボランタリーな活動で運営が支えられています。やがてここを巣立ちゆく子どもたちも、将来この孤児院を支えてゆくことでしょう。
フィリピンにおいてもこのように、復興・防災の支援を通してコミュニティの人たちの自信や地域の財産になるような活動を考えてまいります。
(岡本千明)

No.12 ボル・デュズジェ地震(トルコ・1999年11月12日発生)

「魚の釣り方」
14年前(1999年)の今日、11月12日にトルコ北西部のデュズジェ市(イスタンブールから東へ約170km)を震源としたM7.2の地震(ボル・デュズジェ地震)が起きた。この地震で死者818名、負傷者約5000名の被害が出た。この4か月前の8月17日には死者17262名、負傷者43953名という甚大な被害を出したイズミット地震(コジャエリ地震)が発生している。この二つの地震災害を総称して「マルマラ地震」と呼んでいる。
8月のイズミット地震発生の翌日、KOBE では49の団体が加盟したトルコ北西部地震・緊急救援委員会(NGO KOBE/CODEの前身)が救援活動を開始した。デリンジェ市では、現地NGOを通じて、女性の集まるテントやサポートセンターの開設や子どもたちの遊び場のテント「愛と希望のテント」の開所などの支援が行われた。また、地域の拠点として「市民文化教育センター」(通称:草地文化センター)が震災後、初の公共工事として再建された。震災前、地域住民はこのセンターで地域の人々に祝福されて結婚式を行うという習慣があった。だからこそ何よりも先にこのセンターを再建したかったのだという。4か月後に発生したボル・デュズジェ地震では、救援委員会はイズミット地震支援と並行して、現地でつながったNGOを通じてデュズジェ市の第5テント村で越冬支援も行なった。
 当時の報告書を読み返すと、「第5テント村には直接的な支援は何もしていない。むしろ住民代表にテント村の運営方法などのアドバイスをしているに過ぎない」、「暖かく見守り続け、何もしないことが、最大の支援になる。子ども達の自由な発想に基づいた活動に周辺の大人たちが学ばなければならない」(デリンジェ・愛と希望のテント)と書かれている。あるテント村のリーダーが、救援委員会のメンバーに対して「KOBEのNGOは、魚の釣り方は教えてくれたけど、餌はくれない。」と言ったという。何もしてくれないと非難しているの
かと思ったが、そうではなく、「それが本当の支援だ。後は自分たちでやれる。」という意味だったそうだ。
この「魚の釣り方」の話は支援活動の中でよく聞かれる言葉だが、同様のことわざは世界各地にある。起源は中国の老子の語った言葉、「授人以魚 不如授人以漁」が有力だそうだ。直訳すると「魚を与えることは、漁を教える事には及ばない」ということだが、「人に魚を与えれば一日で食べてしまうが、釣りを教えれば一生食べていける」という意味である。トルコの被災地でこの言葉が支援者からではなく、被災者(受援者)から発せられたことは非常に大切な事である。被災者が自らそう感じ、そう思ったという事は、自立への第一歩であろう。「自立」や「エンパワーメント」は、支援者との関係性の中から生まれてくるのだろう。14年前のトルコの二つの地震は、そんな事を教えてくれる。
(吉椿雅道)

No.5 ジャワ島中部地震(2006年5月27日)

2006年5月27日、インドネシア・ジャワ島中部で起きた地震から7年が経つ。この震災は、死者5776名、負傷者3万8814名、避難者231万549名、家屋倒壊32万9899軒、家屋損壊27万6785軒という大きな被害を出した(インドネシア社会省)。インドネシアではその1年半前にもスマトラ沖で巨大な地震・津波災害が発生している(2004年12月)。また、西スマトラ州パダン沖地震(2009年9月)、ジャワ島のムラピ火山噴火(2010年10月)などをみても、大きな災害が多発している地域だといえる。
CODEは地震直後に被災地に入った。そこで、建築家でありアーティストのエコ・プラウォトさんと出会い、まず、彼を通してバントゥル県内のボトクンチェン集落で耐震住宅の再建を支援した。地元のヤシや廃材を利用した、現地の伝統様式による住宅である。建設は、業者ではなく住民自身が協力して、一つひとつ順番に自らの手で行われた。
ジャワ島のコミュニティには、ゴトン・ロヨンという支えあいの精神が根ざしている。農作業、集落の公共工事、葬儀や結婚式、その他共同体の全体にかかわることを協力して行うのが習わしである。小さい頃からこのような暮らしのなかで集落への所属意識が育てられるので、地域の人や環境を大切にするのは彼らにとってとても自然なことである。そして、ふだんから気にかけあう顔の見える関係は、いざというとき心強いセーフティネットになる。
エコさんから、久しぶりにこのボトクンチェン集落を訪れたと報告をもらった。住民の中には、震災後に皆で協力して建てた家に独自の工夫を施して暮らしている方々がいるという。例えばレンガで外壁を補強したり、ベランダを付け足したり、床にタイルを敷いたりといった具合に個性を表現している。ときどき家に手を入れていれば、傷み等に気付きメンテナンスにもなるだろう。
地震から7周年を迎えることについては、現地のメディアでもほとんど取り上げられておらず、集落でも特別なセレモニーなどを行う予定は無いとのことだった。「この地域の人たちは、悲しむよりも前を向いて歩いていこうという気質だ」と、ジャワに住む別の人から聞いたことがある。つらい思いをした人にとっては確かに思い出したくない記憶かもしれない。ただ、地震の多い地域だけに、「忘れない」ことの意味は大きいだろう。皆で建てた家が、あの日あったことを語り続けてくれることを願う。
(岡本千明)