月別アーカイブ: 2013年9月

特別編 アメリカ同時多発テロ (2001年9月11日)

グランドゼロで想う
あの9・11から12年が経った。12年と言えば東洋では十干十二支や月日、方位のようにあらゆるものが一巡する刻の長さで節目でもある。
6月にハイチに行く際に、ニューヨークに立ち寄った。NYに来たらここだけは見ておかないとと思い、2001年9月11日に起きた同時多発テロのあった世界貿易センタービル(WTC)に向かった。
「グランドゼロ」と呼ばれるその場所は、テロによって崩落した世界の富の象徴であるWTCの跡地の事で、未だ再開発工事の最中で、周りを高い塀に囲まれている。長蛇の列に並び、数十ドルのドネーションを払った。すぐに厳重なセキュリティーを受け、工事の塀を抜けると広場に出る。そこには水の流れるプールが2つあった。これは、ツインタワーの北棟、南棟の地下の基礎のあった部分で、そのプールの周りに命を落とした犠牲者の人々の名前が刻まれている。どこかで黙祷を捧げようと思ったが、そのような事をする場所や人も見当たらず、プールに向かって一人合掌をした。
上を見上げると超高層の新しいタワーが建設されていて、12年前にこの上空に飛行機が突っ込んだと想像するだけで背筋がゾッとした。
広場には世界中の観光客が集っていて写真を撮ったり、座って語り合ったりするような何気ない日常の公園のような雰囲気だった。悲壮感はあまり感じず、唯一焼け残った1本の樹のみが何かを語っているようだった。
あれから12年を経てアメリカはシリアへと軍事介入をしようとしている。今回はさすがに議会や市民の承認を得られそうにもないが。
「グランドゼロ」という名は、元々、広島・長崎の原爆の爆心地を示していた。このテロによる惨状が広島・長崎を想起させることからこのWTC跡地もこの名で呼ばれるようになったという。原爆(HIROSHIMA/NAGASAKI)、テロ(WTC)、原発(FUKUSHIMA)が起きる根っこはどこかつながっている。
あの時、ここで起こった事実は何を物語っているのだろう、と思いながらNYを後にした。
(吉椿雅道)

No.8 ハリケーン・カトリーナ(2005年8月23日~31日発生、9月11日救援開始)

2005年の本日9月11日、CODEは「アメリカ南部ハリケーン・カトリーナ」に対する災害救援を始めました。
アメリカにおいて、未曾有の災害となったハリケーン・カトリーナは、日本でも大きなニュースとなりました。特にアメリカ・ルイジアナ州、ニューオーリンズは市街地の8割が水没し、その様子は大々的に報道されました。カトリーナの影響により当時45万5000人であったニューオーリンズの人口は現在36万9250人にまで落ち込んでいます。
CODEは2005年9月11日に救援活動を開始し、寄付などで集まったお金を全米災害救援ボランティア機構(NVOAD)とChristian Children’s Fund (CCF) に托し、CODEは救援活動を終了しました。
このカトリーナの被害の特徴は、黒人貧困層の被害が深刻であったということです。ニューオーリンズの移民の多くはアフリカ系アメリカ人であり、ハリケーン・カトリーナでは車を持たず、水のたまりやすい低地に住む黒人貧困層などの弱者が街に取り残され、大きな被害を受けました。彼らに対しての国や州の政府対応もずさんなものであり、避難所では食糧不足が発生し、一方衛生管理がなされない市街地では感染症が発生して避難所にも大きな影響を与えました。また、元々厳しい状態の黒人労働環境はさらに悪化し、ハリケーンを機に貧富の差が見直されるどころか、更に広がる結果となってしまいました。これらの政府対応の不備は後に強く批判され、当時のブッシュ政権の失墜を招くことになりました。
国や地域によって様々な人種や移民、障がい者、女性、子どもなど被害を受けやすく、支援が届きにくい弱者となる人たちが存在します。ハリケーン・カトリーナは特に多くの人々が弱者となったことで、このことがクローズアップされました。災害は人を選びませんが現実には災害は脆弱な貧困層を襲います。これはアメリカだけに限ったことではありません。日本では阪神・淡路大震災の折に弱者にあまり目が向けられず、後に「神戸宣言」において「希望の追求と怒りの声を高く上げよう。もっと被災の厳しい実情を声高に語ろう。外国人、高齢者、障がい者、女性、子どもを核に、人々のネットワークをつくり広げよう。」と「社会的弱者」声が届けられるように訴えました。本日9月11日で発生から2年半を迎えた東日本大震災の被災地では、順調に住宅再建や商売を再開する人がいる一方で、資金力の問題から家の再建が進まない人も多くいます。また文部科学省の発表によると、被災地の子どもたちの5人に1人が現在でも震災に関するストレスや「心の傷」を抱えています。阪神・淡路大震災、ハリケーン・カトリーナ、東日本大震災と何度も繰り返し社会的弱者が大きな被害を受け、復興から取り残されています。今後の防災、減災において、マニュアル的な避難方法などだけではなく、一人ひとりの状況に沿った対策を考えなければいけないことを改めて心に留めるべきなのだと思います。
(上野 智彦)

No.7 トルコ・マルマラ海地震(1999年8月17日)

1999年8月17日にトルコ北東部コジャエリ県イズミット市を中心に発生したM7.6のマルマラ海地震、そして3ヶ月後の11月12日、マルマラ海地震の被災地の東方で発生したM7.2のボル地震、2つの災害で、併せて死者18243名、重軽傷者48901名、全壊家屋93152戸という甚大な被害が発生しました。
昨年11月、当時トルコ北西部地震・緊急救援実行委員会委員長でもあったCODEの村井理事(昨年11月時点では事務局長)がJICAのプロジェクトで被災地を約10年ぶりに訪れました。
当時の救援委員会のメインプロジェクトであり2002年に完成した”草地文化センター”は、当初は市民教育センターとして使用されていましたが、現在、デリンジェ市民病院の精神医療部門となっており、日々患者への心のケアが行われています。
この10年間で続けられてきた活動も少なくありません。救援委員会がサカリア県アザパザリのトルコ・日本村仮設で女性の自立支援として進めていた小物作りや縫製作業を2、3人の方が現在も続けており、それを仕事としています。またマルマラ地震救援で連携していた地元NGO・CYDDは、被災者支援プロジェクトの発展型として実施された、女性の生活向上のためのマイクロファイナンスを現在まで継続して行っています。
これらの活動の中から一つの反省も生まれました。救援委員会が支援に入っていた上述のトルコ日本村・仮設は約1100戸もの仮設があったにもかかわらず、その後バラバラに移住し、コミュニティが崩れてしまいました。もし、継続する力を持った地元NGOと結び付き、継続的な支援を行うことができていれば、コミュニティの維持を支援することができたかもしれません。
災害NGOの活動において、発災から時が経つにつれて被災地とのつながりが薄くなることが多くあります。地元NGOの力量を見極め、長く密な関係を維持し、支援を行っていくことは災害NGOの今後の課題となります。
マルマラ海地震からの復興で市民の力が発揮された事例があります。トルコでは地震前は借家に住んでいた600世帯からなる一つの被災者連絡会が現在も存続し、活動しています。この被災者連絡会のメンバーは、長いトルコ政府との交渉により全世帯が持ち家(集合住宅)として供与されることになりました。「本来、家の所有権を持たない借家住まいの人々が国から家の保障をされることは世界でも類を見ない」と村井理事は述べています。
マルマラ海地震をきっかけに始まった支援や活動の中で、14年後の現在までこうして残っているものは少なくありません。上述の”草地文化センター”やNGO・CYDDの活動は災害支援から形を変えながらもその活動は現在まで続いています。災害が発生すれば、災害そのものや直後の被害にだけ目を向け、すぐに忘れられてしまうことが少なくありません。しかし災害の後には応急対応、復旧・復興、被害軽減などが現在まで積み重なっています。災害は一時で終わる出来事ではなく、復興や支援から好例や反省が生まれ、救援活動は別の活動として生まれ変わり、現在まで続くことがあると意識することが「災害を忘れない」中で大切なことなのだと思います。
(上野 智彦)

No.6 パプアニューギニア地震(1998年7月17日)

1998年7月17日パプアニューギニア北西部シサノラグーン沖約35kmの地点でM7.0の非常に大きな地震が発生しました。この地震により15mを越える大きな津波が発生し、6000人を超える死者を出しました。当時パプアニューギニアでは、97年から大規模な干ばつが続いており、CODEの前身である阪神大震災地元NGO救援連絡会議でもパプアニューギニア教会協議会をカウンターパートとしての緊急支援を行っている中での出来事でした。
その後、救援連絡会議の草地賢一委員長が現地を訪れ緊急救援資金を手渡しました。またその時、村民の強い要望により山間部へと避難した漁師の村、ウィポン村の小学校「ニマス・メモリアルスク―ル」の建設が行われることが決定、2000年7月に建設されました。しかし草地委員長は病に倒れ、この小学校の完成を見ることなく2000年1月にこの世を去りました。
ウィポン村は、もともと沿岸部に位置していたのですが、津波によって村を流されてしまいました。そこで山間部に村を移転することを住民自らで決めました。また当時の記録にこんな言葉が残っていました。「ここに学校を建てるのか、本当に必要なのか、自分たちで決めましょう。そしてその声を住民全員の声として、アイタペ地区復興委員会に届けましょう。」これは、当時の草地委員長がウィポン村住民との集会で述べた言葉です。被災地の住民が自ら考えての復興が大切であり、NGOや政府は住民がスムーズに復興を進めるためのサポートを行っていく。これによって、住民の考えがより反映された復興が実現するのではないでしょうか。これが、草地委員長の掲げた「復興民主主義」でしょう。
「被災者自らが考え、復興を進める」。同じく津波の被害を受けた東日本大震災の被災地ではどうでしょうか。陸前高田市の長洞集落では住民自らが土地の確保を行い、自分たちが希望する土地への仮設住宅の建設を行いました。このような事例もある一方で、多くの地域では本当に必要なことを自分で決めることがないまま復興を進めています。住民が声を発する機会が必要であるとともに、草地委員長が住民に問いかけたように、被災者自らが決めようとする意志を持つことが大切なのだと思います。その場所に愛着を持つ住民が自らの声を反映させようと立ち上がるべきだということを草地委員長の言葉から感じます。こうしてパプアニューギニア地震で草地委員長が示した「何が本当に必要で、それを自分で決めるということ。」東日本大震災の復興において問い直されているのではないでしょうか。
(上野 智彦)

No.5 メキシコ地震(1999年6月16日)

1999年6月16日05時42分(日本時間。現地時間で15日15時42分)、メキシコ中部でM7.0の地震が発生しました。震源は首都・メキシコシティより約230km南東のプエブラ州で、震源の深さは80kmでした。死者は19名、負傷者多数となり、建物の倒壊による被害がほとんどだと言われています。
なかでもプエブラ州のプエブラ市(震源から125km)の被害が大きく、100以上の建物が損壊し、5名の方が亡くなりました。モレロス州やイダルゴ州では、16~17世紀に建てられた教会や歴史的モニュメントが被害を受けました。トラスカラ州では、補強されていない石造りの建物や、日干煉瓦の小さな家が7000以上壊れたということです(※1)。
CODEの前身であった救援委員会は、阪神・淡路大震災をきっかけに知り合った現地NGOのリーダー、クワゥテモック氏と協力して支援を行いました。メキシコでは1985年にも大地震が起き、7千名を越える方々が亡くなりましたが、クワゥテモック氏はその際にNGOを組織して支援にあたった方です。アルジェリア地震(2003年)やハイチ地震(2010年)の際にも、CODEの一員として現地で活動していただきました。
なお、メキシコでは毎年、マグニチュード4.0以上の地震が90回以上起こっており、これは世界で起こる地震の6%にあたるそうです(※2)。ハリケーンも毎年のようにメキシコ周辺を襲っており、昨年カリブ地域やアメリカ東海岸を襲ったハリケーン「サンディ」は記憶に新しいことと思います。サンディによって100人以上
が亡くなり、500億米ドル以上の経済被害が出たと言われています。米国立ハリケーン・センターによると、今年は平年より活発なハリケーン・シーズンになると予想されています。メキシコは貧富の格差が非常に大きいことも社会問題となっていますが、他の多くの地域でみられるように、貧しい人ほど災害時により大きなリスクを背負わされています。メキシコの災害を考える際にも、貧困問題を避けては通れません。
※1
http://www.geerassociation.org/GEER_Post%20EQ%20Reports/Central%20Mexico_1999/Central%20Mexico%20Earthquake%20June,%201999.htm
※2
http://reliefweb.int/report/mexico/mexico-ready-its-next-big-storm-or-earthquake

No.5 ジャワ島中部地震(2006年5月27日)

2006年5月27日、インドネシア・ジャワ島中部で起きた地震から7年が経つ。この震災は、死者5776名、負傷者3万8814名、避難者231万549名、家屋倒壊32万9899軒、家屋損壊27万6785軒という大きな被害を出した(インドネシア社会省)。インドネシアではその1年半前にもスマトラ沖で巨大な地震・津波災害が発生している(2004年12月)。また、西スマトラ州パダン沖地震(2009年9月)、ジャワ島のムラピ火山噴火(2010年10月)などをみても、大きな災害が多発している地域だといえる。
CODEは地震直後に被災地に入った。そこで、建築家でありアーティストのエコ・プラウォトさんと出会い、まず、彼を通してバントゥル県内のボトクンチェン集落で耐震住宅の再建を支援した。地元のヤシや廃材を利用した、現地の伝統様式による住宅である。建設は、業者ではなく住民自身が協力して、一つひとつ順番に自らの手で行われた。
ジャワ島のコミュニティには、ゴトン・ロヨンという支えあいの精神が根ざしている。農作業、集落の公共工事、葬儀や結婚式、その他共同体の全体にかかわることを協力して行うのが習わしである。小さい頃からこのような暮らしのなかで集落への所属意識が育てられるので、地域の人や環境を大切にするのは彼らにとってとても自然なことである。そして、ふだんから気にかけあう顔の見える関係は、いざというとき心強いセーフティネットになる。
エコさんから、久しぶりにこのボトクンチェン集落を訪れたと報告をもらった。住民の中には、震災後に皆で協力して建てた家に独自の工夫を施して暮らしている方々がいるという。例えばレンガで外壁を補強したり、ベランダを付け足したり、床にタイルを敷いたりといった具合に個性を表現している。ときどき家に手を入れていれば、傷み等に気付きメンテナンスにもなるだろう。
地震から7周年を迎えることについては、現地のメディアでもほとんど取り上げられておらず、集落でも特別なセレモニーなどを行う予定は無いとのことだった。「この地域の人たちは、悲しむよりも前を向いて歩いていこうという気質だ」と、ジャワに住む別の人から聞いたことがある。つらい思いをした人にとっては確かに思い出したくない記憶かもしれない。ただ、地震の多い地域だけに、「忘れない」ことの意味は大きいだろう。皆で建てた家が、あの日あったことを語り続けてくれることを願う。
(岡本千明)

No.3-2 四川省大地震から5年  ~四川大地震5周年レポート2~

四川大地震から5年が経った。
だが、5年を目前に4月20日、M7.0の地震が再び四川省雅安市を襲った。死者・行方不明者217人、負傷者約1300人、倒壊家屋16万戸という被害が生じた。
各メディアによって、再建された建物の耐震性や四川大地震の教訓などが取り沙汰されているが、公共施設は悉く倒壊し、避難所になりうる場所はほとんどなかった四川大地震に比べれば、この雅安地震では再建された公共施設も被害は受けているが倒壊には至っておらず、学校は避難所として使用されている。耐震基準も厳しいものを取り入れているはずだが、それが末端まで徹底しきれていない事が問題なのである。ましてや一般住宅にはなおさらの事、耐震性の普及には至っていない。
また、ボランティアが殺到して被災地で渋滞を引き起こしたとも言われるが、NGOもプラットホームを作り、被災地での支援のもれをカバーしようした。そして敢えて被災地に行かずに後方支援に回ったボランティアもいる。この5年でNGOもボランティアも確実に経験と実績を積んできている。
そして、寄付の価値も変化してきている。2008年の四川大地震の際は、多くの寄付金が国家的チャリティー機関でもある紅十字に集まったが、今回は紅十字にはあまり寄付金は集まっていないという。ネット上では、多くの人々が支援の見えやすい基金会やNGOに直接送りたいという声が多かったようだ。また、中国で有名なネットショッピング「淘宝」で形のない商品「サービスパッケージ」を購入する事で寄付をするという方法も生まれている。
この雅安地震の様子を見ていると、地震発生後にどのようにして自分の命を守るかといった事が5年を経てもまだまだ人々に伝わっていない。国際機関などによって「心のケア」や防災教育などの取り組みも行われているが、研究を受けた中国の人々が如何に農山村の末端にまで伝えきれるかが重要になってくる。
13億の民を抱える大国、中国で防災・減災、そしてNGO・ボランティアの動きはまだまだ始まったばかりである。四川大地震から5年を経て発生した雅安地震で活きたものもそうでなかったものもある。中国では様々な取り組みを末端まで浸透させるにはまだまだ時間がかかる。今後、日本は防災・減災の智恵を一方的に伝えるだけでなく、海外の国々の現場で生まれている様々な知恵を共に学び合っていく事が必要であろう。  
(吉椿雅道)

No.3-1 四川省大地震から5年  ~四川大地震5周年レポート1~

2008年5月12日14時28分、M8.0の巨大地震が中国四川省を襲った。死者、行方不明者約8万7000名の命が犠牲となった。
四川省政府は2012年2月に復興宣言を発表した。1兆7000億元(21兆6000億円)の復興資金を投じて、540万世帯の家屋再建と補修、3000校の学校の再建、1360か所の医療施設の建設を50万キロ平米という日本の国土面積(37万キロ平米)を超える広大な被災地の237の市県で完了させた。震災からわずか3年9か月でこれらの復興を遂げたことになる。成長目覚ましい中国の勢いを象徴するかのようなスピードと大規模な復興である。先日9日には、被害の最も大きかった北川県でも「5.12ブン川特大地震記念館」も正式にオープンした。
3月に四川を訪れた際に、震源地であるブン川県の映秀鎮に行った。再建された新しい映秀鎮では、倒壊した学校や共同墓地、博物館などの地震関連施設が整備されている。連日、たくさんの観光客が訪れており、それをあてにした被災住民たちは再建された住宅の1階部分でレストランやお土産物屋を経営し、2階に居住スペースと暮らしている。だが、皆が十分に利益を上げて生活を再建できている訳ではない。ヤク(毛の長い牛)の角で作った櫛などの工芸品を製作、販売するAさん(50代女性)は、「観光客はたくさん来るけど、皆すぐに通り過ぎていくだけだよ。」と語っていた。
映秀鎮の地震博物館である「5.12ブン川特大地震震中記念館」も長い間、建設中であったが、いよいよ開館した。広大な敷地に作られたこの記念館は、1階には政府による救援活動と功績の記録の写真や物品が展示されている。2階はブン川県、理県、茂県など被災地の再建された町や住宅の写真展示が延々と続き、防災・減災と書かれたコーナーは、避難広場や土砂ダム、避難訓練など数枚の写真のみで莫大な資金を投じて建設した割にはあまりにも乏しい展示と言わざるを得ない。だが、3階部分の地震の発生メカニズム、耐震工法のミニチュア模型、家庭で出来る防災、地震後の10分行動マニュアル、子供向けにクイズで災害を学ぶコーナーなどの展示は、明らかに神戸の「人と防災未来センター」などの展示を参考にし、今後の防災・減災を意識して設けられたことが分かる。だが、多くの観光客がこのコーナーを素通りしていく姿に伝える事の難しさを感じた。あの未曽有の大震災から5年、4月にはすぐ近くのの雅安市でも地震被害が発生した。被災住民はもちろん、観光客に防災・減災意識を浸透させるにはまだまだ時間がかかりそうだ。
(吉椿雅道)

No.2 青海省地震から3年

2010年4月14日に発生した青海省地震(玉樹地震)から3年を迎える。
被災地では8か月の冬の間、閉ざされていた再建工事も再開したようだ。最大の被災地、結古鎮には大規模かつ真新しいビル群が忽然と現れ、郊外には整然と並んだ住宅群が建設されている。
CODEは、これまでに3度被災地を訪れ、現地のNGOや被災者の話に耳を傾けてきた。その中で被災したチベット人たちにとって大切な家畜、ヤク(チベット高原特有の毛の長い牛)に注目し、「ヤク銀行プロジェクト」を行うことになった。ヤク銀行とは、ヤクを被災者に提供し、飼育、繁殖してもらった後、一部をバターやヨーグルト、現金などで返還してもらい、その資金を使って次の被災者にヤクを再び提供するというものである。
チベット人たちにとってこのヤクは非常に大切な家畜で、1頭1頭に名前を付け、家族の一員として扱うほどであるという。また、彼らは、ヤクの事をNOR(豊かさ)と呼び、所有しているヤクの数でその人の財産や豊かさを表すそうだ。昔は結納にもヤクを贈る風習があったように、まさに大切な財産なのである。
その豊かさの名の通り、ヤクは捨てるところのない貴重な動物で、田畑を耕すだけでなく、その毛はロープや衣類に、皮はテントやカバン、財布に、角は櫛などに加工される。また、その糞は暖炉の燃料となる。最終的にはヤクの肉も食されるが、そのミルクからはバターやヨーグルトが作られ、自家消費用だけでなく、寺院に喜捨する事でチベット人の心を支えている。このように万能の家畜が、ヤクなのである。
ヤクは本来、チベット高原の野生動物であったものを約3000年前頃よりチベット人によって家畜化されたといわれる。通常、遊牧民はヤクを連れて、夏場は5000mの高地まで上がりテントで暮らし、冬場は3000mくらいまで下りてレンガの家屋で生活している。1年に3回から8回ほど牧草を求めて移動を繰り返す。遊牧民とはいえ、牧畜の傍らチンクー麦(裸麦)を栽培する半農半牧の生活をする人や毎年5月に「冬虫夏草」という漢方薬材の採取に山へ出かける人々も多い。遊牧民でなくとも村で商売などを営むチベット人も数頭のヤクや羊などを飼っている人も多い。
近年、チベット高原では草原の土壌劣化や砂漠化が起きている。その原因は、温暖化や鼠が草の根ごと食べてしまう事などと言われるが、政府は遊牧民の過放牧によるものという理由で定住化政策を推進している。それによってヤクなどの家畜を手放さざるを得ない人々も増えている。この震災によっても定住化に拍車がかかっている。だが、遊牧民たちは、草原の再生サイクルを考慮した上で移動し、放牧を行ってきたからこそ脈々と数千年を経た今でも受け継がれて来たはずである。
このヤク銀行プロジェクトは、ただ単に被災住民に生業の糧としての家畜を提供するだけではなく、チベット人のヤクとの暮らしを支える事でチベットの自然、文化を支援する事にもつながっていく。 
(吉椿雅道)

No.1 イタリア・ラクイラ地震から4年

ラクイラ地震(イタリア中部地震)は2009年4月6日3時32分(M6.3)に発生した。死者301名、多くの歴史的建造物にも被害が及んだ。CODEは翌日に救援を開始し、23日から9日間スタッフの尾澤を被災地に派遣した。
被災地へと入った尾澤は「Ridere per vivere」という団体によるドクタークラウン(臨床道化師)の活動に参加した。
ドクタークラウンは道化師の恰好をしておどけることで人を笑わせ、被災者の精神的、肉体的負担を和らげることができる。イタリア政府はこの活動に対して年間2億5000万円の支援をしている。
「ドクタークラウンは言葉はいらない、子供と遊ぶという感じだ。誰でもできることだと思う。」と尾澤は活動を振り返った。当時尾澤は「一人の市民として自分ができることをやろう」と思った。イタリア語が話せない尾澤でもちょんまげのかつらを被ったサムライクラウンとなり、被災者やボランティアと笑い合うことができた。尾澤は東日本大震災の後、「誰にでもできる」ことをするボランティアバスを40回以上も出している。
ラクイラ地震から4年経った現在、被災地は一向に復興していない。多くの建物は金具で一時的な補強がされているだけで、立ち入り禁止区域も多くあり、街にはほとんど人がいないためゴーストタウンの様だ。イタリアの経済危機も相まって資金が不足し、復興の目途が全く立っていない。ラクイラ市は当初10年で復興をとげると発表したが、既に4年が過ぎている。果たしてそれは実現するのだろうか。 
(上野智彦)