8月29日 イラン バム
女性委員会のマネージャーであり、裁縫教室の先生である、ビーガンさん(Ms. Bigan)と話をした。ビーガンさんは1ヶ月くらい前からAHKKのセンターに来て、7人の生徒に裁縫を教えている。地震後は半年間赤新月社で裁縫を教えていたらしい。ビーガンさん自身も地震で頭をけがして、連れ合いの方は地震でトラックがつぶれて仕事を失い、今も無職である。しかし裁縫をしていると、いろいろないやな事をすべて忘れて裁縫に集中することができるらしい。地震を経験し、いまだ厳しい現実に直面している人々が、裁縫教室をとおして、他の人と思いを共有したり、気分転換したりする場になることを願う。
今後AHKKを地元の人たち自身で活動していけるようになってほしいと願っているけれど、何か提案はありませんかとビーガンさんに質問すると、女性の中には3つのタイプがあり、①ただ裁縫を習いたくて教室に来る女性②収入を得るための手段として裁縫技術を身につけたいという女性③裁縫とセンターを運営することに興味を持って参加をしてくれる女性がいる。その中で特に②③の女性たちと活発に話合いながら今後の運営方法を考えていかなければならないということだった。
今日のお昼のクラスは、コンピューター、作文、音楽がある。作文はペルシャ語作文のクラスで、バタニさんが教えている。コンピューター教室では、8人くらいの生徒がクラスを受けている。音楽教室では、4歳から15歳くらいまでの20人くらいの子どもたちがサイードの指導を受けている。ここで「しあわせ運べるように」のペルシャ語版を聞いた。この歌はもともと神戸の震災直後に神戸の小学校で生まれた歌で、子どもたちによって学校や仮設住宅で歌われ、多くの人々を励ました。この歌がペルシャ語に意訳され、イランのバムで地震を経験した子どもたちが歌っている。子どもたちが何回も繰り返しこの歌を歌うことで、子どもたちだけでなく、それを聞いている大人や地域の人々が元気になり、復興への足がかりになることを思ってやまない。ペルシャ語版の「しあわせ運べるように」は、亡くなった人の分もしあわせになろう、美しいバムがまたもとに戻りますようにというメッセージが込められている。
事務局スタッフ 飯塚明子
月別アーカイブ: 2005年9月
第8次イラン南東部バム地震支援 現地レポートvol.1
8月26日 イラン バム
飯塚、斉藤ともバムへ無事到着。AHKK(働く子どもを守る会)が運営をするチャイルドケアセンターへと到着した。翌日の朝から子どもたちの元気な声がコネックス(簡易仮設コンテナ)より聞こえてくる。今日は音楽クラスの日。午前中は最近入った新しい生徒や、小さな子たちを対象としたクラスが3回に分けて行われる。これまで音楽の授業は女の子が圧倒的に多かったが、今回新しい生徒には男の子が含まれていた。また顔の筋肉を使って歌うというような練習がされていた。そのためか数人の女の子でも大きな声で歌えるようになっていたことには驚かされた。今までの女の子はとにかく恥ずかしがり屋で、小さな口を少しだけ開けて声が聞こえるか聞こえないかというぐらいのところだったのが、今では大きな口を開けて歌える女の子が出てきている。訓練とはすごいものだと感じさせられた。新しい生徒の多くはこのセンターの近くに住んでいる子たちのようだ。
新しいスタッフの雇用があり、図書館司書と、コンピュータークラスの先生、女性支援のマネージャーが増えた。すべてバムの女性たちで、子どもたちも新しい先生を慕っているようだったので、今後のセンターの運営を担っていく人たちへの希望が見えてきたようで嬉しい光景だった。コンピュータークラスは女性支援の一つとしてCODEの支援で始められたものだが、子どもたちにも開放されてクラスが行われている。
バタニさんと話しをする中で新たな動きがテヘランのNGOを中心にあったことがわかった。APCLを含む13のテヘランのNGOや企業が集まって、防災・救助などのためのSHAHAB(Coordinating Council for Crisis Management)を作った。テヘラン事務所と、バム事務所を話し合いの中で設置をすることが提案されているが、13のNGOは現在話合って具体的にどのような活動をするかを議論中だという。バム地震をきっかけとして、それぞれのNGOが得意分野を出し合い運営していこうとするものでテヘランで近い将来起こると言われている大地震に対しての防災活動なども考えられ、今後の活躍が期待される。
午後からは初めてイランへ来たスタッフ飯塚を旧センター跡地や、これまでお世話になってきた教師夫妻のところへ案内をした。旧センター跡地へ行くと、そこにはまだ大型テントのコンクリート土台などがあり、多くの子どもたちのかけがえのない場であったセンターが懐かしく感じられた。残念ながら現在の新センターは土地が広いということと、土地の寄付をしていただけるということで保健省からの立ち退き指示が出されていた旧センターの場で活動を続けるのは困難になってしまったこともあり、移動せざるを得なかった。しかし、今日新センターのほうのコンピュータークラスに来ていた男の子が「ここは遠い、前のところに戻ってきてよ」と嘆いていた。旧センター跡地から歩いて教師夫妻のところへ行く途中には、よくセンターに遊びにきていた男の子たちと出会った。彼らもバタニさんを見つけると走ってよってきて、「今どのへんにいるの?」と聞いていた。やはりバタニさんも彼らを見ると彼らにも場所があればと考えるようだ。
事務局スタッフ 斉藤容子
今回、斉藤と一緒に初めてイランに来た飯塚の見たイラン報告です。
初めてイランに来る。イスラム圏の国に来るのは初めてなので、文化の違いにとても戸惑う。斉藤に言われたとおりに、イランに到着するまでに飛行機の中でコートを着てスカーフを頭に巻いた。女性はこれをしないとイランに入ることができない。私は慣れないので、頭に巻いたスカーフがつるっと落ちてしまったり、暑い中コートを着ているので、コートの中が蒸せて暑くなりくらくらしたり、慣れるのに時間がかかりそうだ。
首都のテヘランではさまざまな色やデザインのスカーフやコートを着ている女性が多い。コートとスカートの色を合わせたり、短めのコートを着ていたり。コートとスカートを着ることはイラン女性に義務づけられているが、そのルールの範囲内でできるおしゃれを楽しんでいるようだ。
2003年の12月に地震が起こったケルマン州のバムに来た。私自身海外の被災地に行くのはスリランカに次いで2度目。バムの被災地を見て驚いたことは、地震後1年と9ヶ月が過ぎたとは思えない町並みであること。外観は地震数ヶ月後と言われても信じてしまうだろう。ケルマン州のカリミ州知事は1月の国連防災世界会議に参加するために神戸に来たが、(10年が経っているとはいえ)外観は地震の形跡がまったく残っていない神戸の町を見てびっくりされたことだろう。バムでは、もちろん主要な学校や病院等は再建されているが、まだ全壊したままの家屋や再建されていない建物が多くあった。全壊したままになっている家はそこに住んでいる家族が全員亡くなってしまったのだろうか。多くの被災者は自分の元の土地にコネックスを置いて、それを仮の住宅にして住んでいる。バム地震の1年後である2004年にスマトラ沖で地震と大津波が発生してから、世間の目はイランのバムから離れつつあるが、バムの被災者にとっては復興という言葉はまだまだほど遠い。
事務局スタッフ 飯塚明子