首都カブールで、またIS国(ISホラサン州)の犯行声明をだした攻撃が絶える気配のない情勢下のもと、アメリカは「20年に及んだアフガニスタンでの米軍駐留は終わった」と宣言した。「あくまでも軍事作戦の終了」を強調しているので、国外退避を終了した訳ではない。同時に、アフガニスタンに取り残されたままのアフガニスタンの人々から、「タリバンに捕まったら殺される、助けてくれ!」という悲痛な叫びが、日本政府に寄せられている。他国の国外退避作戦と比べて、あまりにも日本政府の対応の不十分さが批判の的になっている。
ただ一人、日本人ジャーナリストが国外退避ができた。偶然だが、実は私は現地でその彼女と会ったことがあり、それは私たちが支援しているぶどう農家の住む地域であっただけに、彼女にその地域の状況を一刻も早く聞きたいのだが、メディアの取材攻勢に追われていることが容易に想像できるので、メディア攻勢が落ち着くまでは待つしかないか・・・・・・・。
さて2007年から2009年の3年間は、JICA草の根技術協力事業(地域提案型)に採択され、ぶどう農家を日本に招聘し、ぶどうの産地山梨県牧丘で、有機かつ不耕起での栽培方法を学んで貰った。農家はアフガニスタンに帰国して、すぐさま日本で学んだことを実践した。アフガニスタンは年間200mmの雨しか降らないほどの乾燥地帯であり、一方日本は湿度が高く、それこそ1日で200mmが降ることも少なくない気象だ。ぶどう栽培は昼夜の寒暖の差があり、水は極力少ないという条件に適している。
アフガニスタンでは、4000年前からぶどうが育っている地域であることが分かっている。ということは、ぶどうの栽培にはもっともアフガニスタンの気候が適しているということだ。日本のぶどうの産地では、全部棚式にして栽培しているのは、湿度が高いので、地面から離したところで実をつける工夫をしなければ、害虫が発生しやすくなりダメになるからだ。ところが、アフガニスタンの農家は「棚式にすれば実がたわわに育つ」と思ったのか、その地域のぶどう畑はほとんど”棚式“になっている。棚式の方が作業が楽であるといえるが・・・・?おそらくアフガニスタンのぶどう畑の中でも、棚式になっているのはこの地域だけだと推測でき、空から写真を撮れば圧巻だろう。
3年間の研修でのワークショップで、「10年後もぶどう栽培が続けられているための条件は何か?」と質問したところ、一人の農夫が間髪入れずに、「平和であることだ!」と言った時は、鳥肌がたった。日本のぬるま湯のなかで生活している私たちが言葉にする「平和」と、20数年間紛争の真っただ中にいた彼らが言う「平和」という言葉の重みが違うことを痛感した。
あの時の農夫たちは、今の状況下で作業ができているだろうか・・・・・?日々、落ち着かない。
(CODE事務局:アフガニスタン担当 村井雅清)