月別アーカイブ: 2006年9月

第 3 次パキスタン訪問日記 No.3


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<5か月目にガレキの下から遺体が発見される>
 ガレキの影響で次のような悲惨な話しがある。もし、人命救助が適格に、早く行われていたら、助かっていたかもしれない。CBOが、関係機関にガレキ撤去を何度も申し入れたが、受け入れて貰えず、やっと自分達で3メートルほど積もったガレキを片付けると、なんとそこから女性の遺体が発見された。日本では考えられない話しである。日本のレスキューおよび医療関係者は、災害現場に置いて「もう一人の命を救えないか!」と日夜努力している。現地の関係者の話では、こちらではガレキの下に埋まっていて助かるかもしれない命よりも、すでに亡くなっている人の方が大切な扱いを受けるそうだ。それも年上の人から。複雑な思いに駆られる。


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 今でこそ、IMO(国際移住機構)のプロジェクトとしてガレキ撤去が続けられているが、それでも何時終わるのだろうか、夥しいほどのガレキである。日立のユンボが、日本からの支援というラベルを貼って活躍していたが、そのすぐ横で一軒の住民が半壊の家を壊しており、狭い道を塞ぐように、またガレキを出していた。また地域内の壁には、青いペンキで「IMO→」と描かれており、「あれは、何の意味?」と尋ねたら、「みんなIMOが好きだから、住民が書いたんだ」という。毎日毎日ガレキを片付けてくれているので当然かも。自分達でやっていた直後の頃は、ガレキを近くの小川に廃棄していたらしい。そうすると水がせき止められるし、地滑りが起きるとさらに下流にいる人たちに被害を及ぼすため、河川の堤防づくりに使われるようになったそうだ。その後はJICA提案もあって、プロジェクトとして行っている。一つ学んだのだろうか。
 余談だが、同じホテルに宿泊していた韓国の団体が、20数人でガレキ撤去ボランティアとして来ていたことを報告しておく。直後ならともかく、震災から10か月が経っても、こうしてわざわざ海外からガレキ撤去ボランティアにきていることが、なにをかいわんやである。

第 3 次パキスタン訪問日記No.2


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<瓦礫の中を歩く>
ムザファラバードの市街地は、ジーラム川とニーラム川に挟まれるように広がる河川丘陵地であり、山の斜面に家々がぶら下がっているという光景である。市街地の一区域「ワード13」を歩く。面積2平方キロメートルを擁するこの地区には、現在269世帯、2.258人が不自由な生活を送っている。全ての住民は、スンニ派モスリムに属している。地区内を歩いて、これが地震発生から10か月が経過した被災地なのかと目を疑った。生活道路(道幅は1~2m弱)はさすがに片づいているが、壊れた家々にはまだまだガレキが積まれている。おそらく道の上を歩いているのではなく、家が壊れてガレキの上を渡って隣家にいくという感じなのだろうか。


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 CBO(住民組織)のリーダーに案内されながら、ガレキの上から被災家屋を見る。リーダーは、私に訴えるように「この家も、この家も壊れた。ガレキは2階の高さまで積まれてあった」と繰り返す。また、同じくCBOの若手のメンバーは、ガレキの隙間に張られているテントを見るたびに「これは人間の住む環境ではない。この暑さは限界だ」と繰り返す。地区の最も北の方の丘に張られてあったテントで休憩した。この丘の片側は数百メートルに渡って崩れ落ちている。「このテントなら帆布を使ったテントなので、ビニールテントよりまだ過ごしやすいだろう。」と思いながらしばらく座り込んでいた。この生暖かい風は、阪神・淡路大震災時の公園でのボランティアキャンプ生活での真夏の空気を思い出す。住民の一人が「夜に毒蛇がでるんだ」と生け捕りにして空き瓶に入れてある蛇を見せてくれた。どうしてそんなことが分かるのか「この蛇は、2歳だ」といっていた。ここの住民も後にでてくるCRCシニアーメンバーの一人である。
彼は「まだ男は昼間仕事にでるのでいいが、家を守っている女性は大変なんだ」と訴えていた。家さえ壊れなければとつくづく思う。
*CBO;住民組織
*CRC:CBOの傘下にある復興委員会。