3月10日今回は(特非)ブレーンヒューマニティの主催するワークキャンプin Iranのバムでの復興支援活動としてイラン入りをしているが、日本を発つ前にケルマン州ザランド付近において地震が発生し、急遽ブレーンヒューマニティのほうでもこの地震に対する支援の街頭募金を行い、CODEとしても救援活動を始めることとなり、第1次としてカウンターパートであるAHKKスタッフを現地視察へと派遣していた。2月22日の地震から2週間が経った今の被災地を視察した。
<ダホイエ村視察>
朝7時半にバムを出発し、マイクロバスで約6時間かけてザランドへ到着する。(通常、普通乗用車で行けば4時間ほどでつく)幹線道路を走っていると、右手に山がつらなり、左手には砂漠が広がる。その山々の裾に点々と集落があるのが見える。報道でみていた山裾の村が全壊ということが理解できた。ダホイエ村は、ザランドの町へ行く手前にある。山の方向を目指して車を走らせると、テントが道沿いに点在してくる。中には10張ほどのテントが固まっているところもある。テントは比較的しっかりとしているように見え、地震直後には雨が降っていたことからか、ビニールをかぶせてあるテントが多い。固まってテントを少し広いスペースに張ってあるところでバスを降り、一番手前にテントを張っていた女性に話を聞かせていただけることとなった。
この地震によって両親と兄弟を亡くし、彼女自身も腕を骨折している。4姉妹のみが瓦礫の下から生きてでることができた。下の妹は2人はまだ高校生だった。
彼女たちが避難しているのは村の中ではなく、村を降りたダホイエ町の中の空き地を利用してテントを張っている。昔々ダホイエ村には2000人ほどの人口があった。しかし、12年前にも地震が起こった。その際に再建を村ではなく山を下りたところで行った人々が作ったものがダホイエ町である。ダホイエ村に留まり続けて今回の地震前まで村にいた人々は300人ほどで、今回の地震によって145人が亡くなった。ダホイエ町からは死者がいないために、あのとき移っていればという思いが被災者にはある。もう村での再建は行わず、このダホイエ町内に再建をしていくのが彼らの望みのようだ。
今回はバムのケースとは違い、地震発生後政府によって、国際的支援は必要ないという通達がでたために、国際NGOによる復興支援はほとんど行われていない。(2,3のNGOが配給を中心として短期的支援を行っている。また国連が支援を行っている。)イラン人NGOも入っておらずスペースを使って活動というものは皆無に近いようだ。子どもたちにしても、バムでは様々な活動が行われたがここでは、地震発生語の1週間福祉局によって子どもたちのテントが作られたのみとなったようだ。住民たちはバム支援と自分たちに対しての支援があまりにも違うことに対して政府に不満をもっている。しかし、かといってバムの人々に対してもねたみのようなものがあるかというとそうではなく、地震直後一番に助けにきてくれたのがバムの人々だったとうれしそうに話している姿があった。食事に関しての質問をしたときも赤新月社が配給をしているという話の前に、一番に届いた食事はバムからだったよねと話していた。多くのバムの人々がここに駆けつけたようだ。
その後町から10分ほど歩いた村へと移動する。山裾に広がる村は完全に壊滅状態で、確かにここを再建するよりは新たなところで再建したほうが早いというのがよくわかった。
木曜日だったために、多くの方がその村にあるお墓と横にあるモスクへ集まっておられた。
今後の支援のあり方を考える中でキーとなるのはこの村に存在するシューラ(評議会)の存在だと考える。しかも驚いたことにこのシューラの代表は女性だということを聞いた。その時おられず会えなかったのが残念だが、一度ぜひお会いしたいと思った。彼女たちにバタニさんからバムでの幼稚園のこと、ケアセンターのことを話をしてもらい、彼女たちもとても興味を示すもののやはり、自分たちだけでは何をやったらよいのかわからないという状況に見えた。子ども関係についての支援はバタニさんにもう一度来てもらい福祉局を間にいれながら行うのが一番いいのではないかと考える。
斉藤ザランド日記
村を見ている時、同行してくれたイラン人がある玄関のみになった家の前に私を呼び寄せました。玄関は鉄の扉でそこにはペルシャ語で何かが書かれあり、彼がそれを読んでくれました。「ザハラ、愛している。Z-M」と。ザハラは女性の名前でしょう。その頭文字のZと、Mは恐らくこれを書いた男性のイニシャルでしょう。このような田舎の町で公衆の場でこのようなことを書くのは大変まれなことです。しかし、その扉の前に立った男性が亡くなった彼女を思い、書かずにはいられなかった気持ちを想像すると、数万人亡くなったバムであろうと、数百人亡くなったダホイエだろうと一人の愛する人を突然に失った人の痛みは同じであると改め感じ、その人々を原点としながら、活動を続けたいと思いました。