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不十分なコレラ対策で未だ脅かされるハイチの人々の命

不十分なコレラ対策で未だ脅かされるハイチの人々の命
情報源:MSF(国境なき医師団)
日付:2011年10月19日
ポルトー・フランス
ハイチで伝染病コレラが発生してから一年がたちますが、ハイチの多くの地域の人々は今なおコレラの脅威に晒されています。ヘルスケアサービスやコレラ蔓延を防ぐ手立てはいまだ確立していないと、国境なき医師団は警告しています。
ハイチ救援における国境なき医師団のリーダーであるRomain Gitenet氏は「ハイチ当局や国際援助関係者はコレラを治療し蔓延を防ぐためにさらなる行動を起こす必要がある」と述べています。「早急にヘルスケアを改善し、清潔な水を手に入れる術を提供し、適切な衛生環境を保証する必要があります。清潔な水や適切な衛生環境はコレラの蔓延を止めるために必要不可欠です。」
「国際社会がハイチを支援するために多額の金銭を寄付しているにもかかわらず、未だに毎週何千人ものハイチの人がコレラにかかり、また多くの人が亡くなっています。」
ハイチの厚生省によると、2010年10月に最初のコレラの患者が確認されて以来、46万5千人ものハイチの人々がコレラにかかり、6500人以上の人々が亡くなっているそうです。雨期が続いており、病気の蔓延を助長しています。
また、国境なき医師団は、ヘルスケアや水、公衆衛生に携わる国際組織がコレラと戦っているハイチから撤退する姿を目撃しています。しかし、依然として支援が重要な状況であり、緊急事態のままです。引き続き危険な状況であり、コレラの発生数も予測不能なほどに不安定な状態です。例をあげると、国境なき医師団は8月の第4週に281人の患者をポルトー・プランスで治療しているが、これが9月になると週当たり840人に劇的に増加しています。
ハイチでは今後何年にもわたってコレラは存在し続けるでしょう。最終的に、ハイチ当局がコレラ蔓延への対策の責任をとる必要があります。しかし、ハイチ当局はまだ全国的に有効な対策を打つことができていません。
国際援助関係者はコレラに対するケアへの緊急ニーズを十分に満たしつつ、ハイチ政府が迅速に医療施設に適切なコレラ治療を結びつけることや、予防計画を実施することへの支援をもっとするべきです。国境なき医師団は、国際援助関係者がサポートしているヘルスケア施設の管理業務を厚生省に移すために働きかけています。
同時に、あくまで焦点はハイチの人々の命を救うことに他なりません。Gitenet氏は「僻地では近くに経口再水和ポイントや治療施設がなかったり、ヘルスケア職員や福祉従事団体の職員を訓練することがされていなかったりするために、コレラ患者は脱水症状により死に続ける。これは容認しがたいことである。」と述べています。
コレラ及び感染症に対しての国境なき医師団の反応によると、コレラは主に汚染された水と食物、または人と人の接触を通して拡散する伝染病です。それは短期間で人を死に至らしめるものですが、もし適切な治療ができれば、対処するのは簡単です。さらに、清潔な水や定期的に手を洗う習慣、衛生的な食物の取扱いをすることで予防することも簡単です。しかし、農村地域や都市部のスラム街に住むハイチの人々の大多数は飲料用として適した水や適切な衛生環境、下水処理施設を利用することができません。
2010年の10月にコレラの流行が始まって以来、国境なき医師団は16万人ものコレラの患者を治療してきました。それは全国規模で報告されているものの35%になります。現在、国境なき医師団はポルトー・プランスのMartissant、カルフール、デルマ、Choscal、Drouilardの近隣、及び、Ouest、ノール、Artiboniteの一部でコレラの対策に努めています。
原文URL http://reliefweb.int/node/453867

インドネシア状況レポート 

情報源:Presbyterian Disaster Assistance(PDA)
※米国ケンタッキー州に本部を置くキリスト教系支援団体
日付:2010/11/4
2010年11月3日ムラピ山が再び噴火し、巨大な灰の雲が空に噴出した。インドネシアのジャワ中部地域で10月25日に始まったムラピ山の噴火では約7万人の人々が避難していた。
複数の国連機関の調査によると、国内避難者(IPDS)は75のキャンプに広がり、そのうちの9つが山から25㎞以内にあるジョグジャカルタ市内にある。5万人以上の人々が暮らしている残りのキャンプはジャワ中部から遠く離れたところにある。
全般的に見れば、政府の火山早期警戒システムはうまく機能しているように思われると、国連人道問題調整事務所(OCHA)の指揮官代理のKnarik Kamalyanは言った。
建物への被害は少なく、病院や食料マーケットは機能していると調査では示されたが、つい最近の噴火によって新たに38名の死者が記録され、28名のけが人が確認された。
PDAが支援しているACT AllianceのパートナーであるYakkum Emergency Unit(YEU)は、噴火被害にあった人々への医療支援を提供している。YEUと他のACT Allianceのパートナーはムラピ山の更なる変化をモニターして、人々が噴火の熱、ほこり、溶岩などから逃れられる避難所を建設している。
地震と津波
嵐と高波はいまだに津波に対する救援の妨げとなっている。PDAのパートナーでACT Allianceの共同メンバーであるChurch World Service(CWS)はパダンから津波に襲われたパガイ島まで13時間かけてボートに乗っていったが、それは普段の2倍以上の時間がかかるものだった。CWSは南パガイと北パガイの最も被害の大きい地域に最初に到着した組織だった。
先週インドネシアのムンタワイ諸島を危機が襲ってきた時には、十代の若者達が救援にやってきた。
最初の波はひざの高さだった。次に来た波と比べればそれは水の滴り程度のものだった。2番目の波は1.5mに急上昇した。3番目の波は3~4mの間の高さの巨大な壁となり、少なくとも450人の死者を出した。
父親が「津波だ」と叫んだ時、高校教師であるYeniはどうしたらいいかわかっていた。2008年、彼女はインドネシアのムンタワイ諸島のシカカップという町でどのように災害に備えるかを生徒達に教えていた。6ヶ月間にわたり、もし最悪の事態が起こった時必要となるであろう応急処置と捜索・救援技術の訓練を彼女は行った。地震と津波が起きたとき、ムンタワイのプロテスタントキリスト教教会中学校の生徒達は、周囲の混沌と恐怖を気に留めることなく、彼女の教えたことをそのまま実行に移した。
津波の翌日、生徒のHerlina, Deformalis, Parluhutanは管理事務所の指揮所に行き、Yeniと仲間のBerniとの間で調整を行った。三人の生徒達は住民を助けて家から瓦礫を取り除き、一時避難所へ移る手助けをした。
次の日、三人の生徒達はパダン市から来ていた捜索・救援隊を手伝って人々を町から高い所へ避難させた。翌日早くにはBeubukku村から住民を移動させた。それからも人々をより高い場所や避難所へ連れて行く活動をずっとしている。
PDAの地元のパートナーであるACT AllianceのメンバーのYayasan Tanggul Bencana di Indonesia(YTBI)によって行われたプログラムへの称賛の声が、はるばるパキスタンからも届いた。イスラマバードのLaksmita Novieraは、ムンタワイ学校トレーニングプログラムの元プログラムリーダーである。彼女は生徒達が活動しているところを写した写真を見たとき、「彼らに何が起きたのかを想像したら身震いがします。私達の活動が本当に役に立ったことを神に感謝します。」と言った。
PDAの地元のパートナーやACT Allianceのメンバーによる他の救援活動としては、ムンタワイ諸島への移動医療サービスの提供や、救急医や看護士の配置、地域の保健所や教会の避難、食料のパック、ベビーフードのパック、プラスチックシート、毛布、プラスチック合羽、生理用品や下着などの配給などがある。赤ちゃんへの愛情キットというCWSからの物資も配った。
これらの情報はYTBI, IRIN, ACT Alliance, CWSから得たものである。
原文URL:reliefweb.int

ハイチの女性について

情報源:United Nations Development Fund For Woman(UNIFEM)
日付:2010/7/30
2010年1月の巨大な地震でハイチでは20万人以上が亡くなり、150万人が家を失ったとみられている。も
っとも被害を受けたのは、ポルトープランス、レオガン、プチゴアーヴとジャクメルで、インフラの広範囲にわたる崩壊と、避難所、電気、水道、交通、保健、治安などの基本的なサービスまでもが破壊されたという特徴を示していた。
女性は特にこのような災害で影響を受ける。貧しい家の状態のため死者のおよそ三分の二が女性であると、いくつかの指標が推定している。仕事、資本、そして経済力の大いなる損失は破壊的な地震に起因していた。自然災害の時、避難所や治安の不足から女性や少女には暴力、特に性的暴力の危険が増大する。現在、災害後6カ月たっても多くの人々がむさくるしくシートでできた一時的な避難所にいて、常に暴力の恐怖にさらされている。女性達は照明のない便所を共同で使わなくてはならず、公衆の面前で入浴し、家族との連絡が取れないのにもかかわらず見知らぬ人の隣で眠ることを強いられている。
正確な情報
女性はハイチの人口の52%を占め、家族の生存を確実にする大事な役割を果たしている。地震の前、政治的に不安定だった十年間においても、蔓延する貧困と男女不平等は女性の権利と安全に対して重い打撃を与えていた。家庭内暴力と性的暴力は高い率で国中に蔓延している。
‐2006年の国勢調査によると、三人に一人の女性が暴力を経験していた。
‐HIVとAIDSの率はこれらの事柄についての文化的なタブーと同様に高い。
ハイチの女性達は子供や他の扶養家族の面倒を見るという過度の負担をも負っている。
‐約45%の家庭で女性が家長となっている。
‐ハイチの非識字率はラテンアメリカやカリブ海地域においては一番高い。
‐UNDPの2009年人間開発報告によると、成人女性の識字率は64%という。
多くの女性達は公的ではない職場で雇われ、男性の半分以下の収入しか得られない。
‐UNDPの2009年人間開発報告によると、ハイチ女性の年収は626US$、それに対し男性は1,695US$
‐ハイチ女性は主に農家か小規模の実業家か市場の商店かの仕事をしている。
‐地震によって経済的活動が機能しなくなっている女性の小規模な農家や実業家に対する資本やその他の援助がもっとも重要である。
‐地震後の初期復興段階においてキャッシュフォアワークやフードフォアワークなどのようなプログラムによって約20万人の雇用が供され、そのうちの35%が女性であった。
‐もっと多くのことをしなければならない。急を要する必要性としては、経済活動を再開するための仕事の創出に取り組むということがある。特に家長となっている独身女性に焦点を当てる必要がある。
カリブ海諸島での厳格な性別役割や不平等はしばしば女性が政治的な意思決定に参加するのを阻止したり、性による暴力の危険性を増大させることになる。
‐ハイチの国会議員のうち女性は5%以下である。
‐公共の場での暴力は、公の生活に十分参加し貢献するという女性の能力を損なわせることになる。
‐多くの女性は政治的な活動に参加することは危険な行為だと思っている。
原文サイト:reliefweb.int

ハイチ人どうしの助け合い

日付:2010/7/12
情報源:Trocaire
1月の地震がハイチの国土を引き裂いた時、150万人の人々が家を失った。約90万人の多くの人々は首都のポルトープランスに留まって、利用可能な土地にあるキャンプでいまだに暮らしている。
しかし60万の人々は首都を離れた。地震直後に離れた人もいれば、路上やキャンプでの生活が耐えられなくなって数週間たってから動いた人もいる。6ヶ月たった今では、これらの人々の多くは国中に散らばったままになっている。
この緊急事態での顕著な特色は、ハイチの人々がお互いに労をいとわずに助け合うことである。60万人のほとんどはホストファミリーのところにいる。ホストファミリーの多くは被災者の親戚だが、驚くことに、そうではない場合も多い。困っている人を受け入れるというささやかな方法に対するホストファミリーの犠牲や善意は計り知れない。
Alexandre Victoirは地震から3週間たって生活がとても苦しくなったのでポルトープランスを去った。彼女の姉と姪は崩れた家の下になって亡くなり、お金も食べ物もなく、5人の子供達と一緒に瓦礫の間で眠り、隣人が分けてくれる食べ物なら何でも食べて暮らしていた。
「寝るところをどこか提供してくれる人が誰かいるからと、お隣さんのひとりが言ったのでFonds Parisienに来た。」と彼女は私達に言った。彼女の夫には町から二時間の郊外にあるその場所に遠い親戚がいた。そのいとこは自分自身が貧しさから抜け出せないでいるのに心から温かく彼らを歓迎してくれた。
Trocaireが訪ねた時、Alexandreは娘と一緒に庭の木陰に座っていた。「ここには私達が必要とするのに十分なだけの場所も食べ物もない。夜にはとてもくっついて寝なければならない。」と彼女は言った。Trocaireはこの地区で活動していて、住むところがなくなった人々や彼らを泊めている家族に食べ物を渡したり、子供達を学校にやったりしている。
Sr Nuria Merono Otoiは陽気な73歳のスペイン人である。彼女は水も電気もないコミュニティーに住んでいて、そこでTrocaireのパートナーの組織と一緒に働いている。地震の直後には、彼女は小さなチームを作り、ポルトープランスに車を出して基本的な初期援助を行った。「私達が持っていたすべては、多くの絆と助け合いの善意です。」と彼女は言った。
彼女はRicardo の話をした。彼は一人でポルトープランスの路上をさまよっているところを見つけられ、彼女達のところへ連れてこられた8歳の男の子だった。「地震が起きた時、Ricardoは外で遊んでいて家に帰ったら家族全員が亡くなっていたというのが、彼が話せたすべてだった。」と彼女は言った。
「私達は彼が住所や電話番号や親戚がどこに住んでいるか思い出すように繰り返し繰り返し手助けしようとした。でも彼はできなかった。」彼は私達と一緒に三ヶ月暮らした。そしてある日、彼は電話番号の一部を思い出した。その後数週間かけて少しずつ彼がもっと思い出すように私達は毎日彼をうながした。ほとんどの番号を思い出した時から私達は他の人たちにきいて回り始めた。
「ある朝、連携して仕事をしていた時、一人の女性がある電話番号に出たので私達は自分達のことを説明した。電話に出た女性はRicardoの兄の奥さんだった。私達が彼らを電話で互いに話させると、Ricardoはひどく興奮した。彼の兄は生きていたのだ。彼らはすぐFonds Parisienにやってきて、その日のうちに彼を連れて帰った。
Fonds Parisienはかなり貧しい地区でポルトープランスからあふれ出した人々を助けきれなかった。Trocaireはその地区のグループと一緒に活動して、ハイチと自分自身の生活の復興に貢献する職業を若者達が学ぶような訓練プログラムを立ち上げている。
この地震は大工やれんが職人、電気技師のようなたくさんの技術者の命を奪い、専門知識の断絶は多大なものとなる。若者を訓練することは、彼らが自力で身を立てることであり、町の外に避難している人々を助けることでもある。そこの超過密状態は大問題であり、生活の質は悪い。
Alexandre Victoirのような多くの人々にとって、町はけっして戻る気にさせるところではないだろう。「私は戻れない。姉と彼女の赤ちゃんはまだ瓦礫の下のままだ。今、私はずっとポルトープランスを憎らしく思っている。」と彼女は言った。
原文サイト:reliefweb.int

80%の小学校が青海省の地震で破壊された

情報源:UNICEF
日付:2010/04/21
UNICEFは教室用テントと学用品を被災した子供たちに大急ぎで運んでいる
マグニチュード7.1の地震が中国北西部の結古という町の近くを襲い、学校に大きな被害を与えた。地元の教育当局は、郡の80%の小学校と、50%の中等学校が深刻な被害を受けたと見積もっている。教育当局の、通常授業を4月の終わりまでに再開するという目的を支援することを目指してUNICEFは昨日、150の学校用テントを被災地域に発送した。玉樹は、中国の最も貧しい郡の一つである。
結古町の50%の生徒が寮生で、郡の周辺部のエリアから郡の首都に、勉強のために送りこまれた生徒である。玉樹郡には22719人の生徒と、1086人の先生がいる。災害後の、子供達の早い学校への復帰は、彼らが心理社会的なストレスを克服するのを助ける重要なステップである。UNICEFの72平方メートルの教室テントは、7500人の生徒が勉強を再開する空間を供給する。UNICEFはまた、学用品キット、黒板や発電機、暖かい衣類やブーツ、羊毛の毛布などを、昼間の学校と寄宿制の学校のために送っている。
「この災害の後に、子供たちが授業を再開するのを援助するために、政府の強力な取り組みがなされているのがとても嬉しい。」UNICEFの中国代表で国連災害管理チームの議長であるYin Yin Newは言う。「私たちは教育当局と、子供たちが学び続けるのに必要とされる基本的なニーズすべてを供給できるように働いている。」
4月20日の時点で、地震の犠牲者の数は2064人の死者、175人の行方不明者、12315人の負傷者となっている。食糧と衣類と避難所の不足は、高い標高と凍りつくような気温と困難な道路事情と相まって、救援活動を複雑にし続けている。最近の降雪、強い風と、救援トラックの交通渋滞もまた、救援活動を妨げている。
捜索・救援活動が縮小するに従って、UNICEFはその援助活動を、地域・国家の当局と協調して行っている。子供たちのニーズを評価するのに最も良いからである。
食糧の供給もまた、被災地域では深刻な問題である。国連機関は、援助を協調するため共に働いている。栄養の摂取を増やすために、ビタミンやミネラルのサプリメントの包みが、WFPが若い子供たちに供給する主食と共にUNICEFから供給される。
現在、民事部の当局が、片親もしくは両親を地震で亡くした子供の数を特定しようとしている。地震によって失われた命のことを考え、また住宅、学校やコミュニティに受けた広範囲の被害を考えると、子供達や他の被害を受けやすい人々への心理的な苦悩は、憂慮すべき心配事だといえる。
UNICEFは子供と女性のための国家作業部会が、被災児童に一連の心理社会的援助を供給するための「Child Friendly Space子供に優しい空間」を設立するのを助ける。UNICEFは90~95%の子供と女性が、地震後にコミュニティにあるサービスのみで回復することができるが、5~10%の人がより専門的な処置を回復のために必要とすると発見した。即座に適切に、子供たちのコミュニティの心理社会的なニーズに応えることが、回復するための彼らの能力に長期的な結果を与える。
UNICEFについて
UNICEFは150以上の国と領域の現場で、子供たちがその幼児期から思春期まで、生き延び力強く成長するのを助ける。世界の最も大きな、途上国へのワクチンの供給者であるUNICEFは、子供たちの健康と栄養、良い水と衛生環境、全ての少年少女への質の良い教育をサポートし、子供たちを暴力・搾取・AIDSから守る。UNICEFは全て、個人・企業・基金・政府からの自発的な寄付によって資金を得ている。
原文URL:reliefweb.int

地震被災で果たされるチベット仏教僧たちの役割

情報源:Reuters-Alertnetより抜粋
日付:2010.4.16
何千人もの兵士と政府による救助・復旧活動を行うオレンジ色のジャンプスーツを着た救助隊員たちは、何千とまではいかないにしても何百人もの深紅色の僧衣や上着を着たチベット仏教僧と協力していた。多くの僧は自らの取り組みを宗教的な誇りの表れだと述べた。
僧院から来た彼と何百人もの僧達は布で覆った台の上に遺体を集め、その何百もの遺体の中から地元の人々が親族を確認するのを手伝った。そうしている間、僧達はその前に座って死者のためにお経を唱えていた。
他のチベット人たちはオンライン上に集まり、死者を悼む詩を投稿し、結束を呼びかけ、伝統的なチベットのバターランプの画像を中国のチベット語のウェブサイトに載せた。あるチベット人向けの中国のポータルサイトは死者を悼み、白黒だけで編集された。
多くの僧達は何百キロもの道のりをバスやトラックの荷台にぎゅうぎゅう詰めになってやってきて、玉樹県の破壊された主要な町結古鎮で、生存者を探すのを手伝い、炊き出しをし、死者を弔った。
原文URL:reliefweb.int

1,000人を超える死者を火葬するチベットの人達

1,000人を超える死者を火葬するチベットの人達
情報源:Reutersより抜粋
日付;2010/04/17
中国北西部の地震被災地で土曜日(17日)合同火葬によってチベットの人達は死者を弔った。
ここではほとんどの住民がチベット族で、独自の仏教の宗派を熱心に信仰している。
何千人もの人達が丘の上の火葬場に集まり、そこにはトラックの車列が地元の主となる寺院に安置されていた数百もの遺体を運んできていた。
深紅色の僧衣を着た僧がヤクの油と木や古タイヤで覆われた遺体の山に火をつけた時、多くの人々は泣き、お経を唱えていた。穴の上に炎が上がり、まっすぐたち上る煙が空へと送られていく間、何百人もの僧達はブーンという音に聞こえるお経を唱えた。
「人々はこれから長い間たいへん悲しい思いをしていくだろう。」と群集の中にいたDashiという中年の地元男性は言った。「チベット族はこのような災害をこれまで2,500年の間に経験したことはなかった。」
地震後、何千人もの仏教僧達が救命や復旧のために急いで駆けつけ、葬儀に集まったチベットの人々は彼らの働きを誇らしげに語った。
『鳥葬』
火葬の前に何人もの僧達は丘のより高いところで小さな『鳥葬』を見守っていた。それは遺体の一部をハゲタカに食べさせるものだ。そのハゲタカはその後の火葬の火からうねるように立ち上った煙の中を、輪を描いて飛んでいるのがみられた。
翼の幅が2メートルもあるハゲタカに体の一部を与えた遺体は地震で崩壊した家のなかで亡くなったおじのSuonaで、この儀式にたいして家族はお金を払ったと、Zhaxiというチベット族の男性は言った。
「もしできるとするなら、鳥葬は最善で最も純粋な方法だ。われわれの伝統が望んでいるのはこれなのだ。」とZhaxiは言った。
火葬を司った僧は1300の遺体をこの火葬で荼毘にふしたと語った。
ぐしゃぐしゃにつぶれた建物の下にまだ埋まったままの人達もいる。土曜の朝に何人かの人は瓦礫の下から生存した状態で引っ張り出されたと報道された。
玉樹の人々にとって葬儀は生活を再建しようと奮闘する中でのつかの間の出来事であった。
住民達と兵士と警察の救助隊も僧達と同様に崩れた家を丹念に調べ、死者や生存の可能性のある人を探し、それと同時に、テントや寒い屋外での生活を少しでも楽にするようなこまごまとした身の回りの品も探した。
よき輪廻
土曜の夜が明けてすぐ僧達は何百もの遺体を12体くらいずつトラックに積み、町の丘陵地帯にある合同火葬場に運んだ。
この儀式は優しさと感情を考慮しない現実的なものとが混ざったものだった。
僧達は布で包まれた遺体をトラックの荷台に横たえた。そこではそれらの遺体はまるで使い古された寝具の束のようだった。そして僧と住民たちはその上に座って、遺体が火葬場へ入れられる時祈りを捧げた。
「この祈りは彼らがよき輪廻を得て、苦しみから解放されるよう願うものだ。」と、この葬儀のためのトラックの一台を運転するボランティアをしているGansong Getaiという地元の役人は言った。
葬儀の群集はチベット族社会のあらゆる人達の行列だった。それは屈強な僧達であったり、日に焼けひび割れた顔をした遊牧民であったり、バイクに乗った長髪の若い男性であったり、役人であったりして、警官でさえも祈りをつぶやいていた。
警官はその場にいたが、群衆への対処はしないまま、深紅色の僧衣を纏った僧に遺体を渡していた。
「我々は皆チベット族、我々は皆同じ人間。」と地震の救援のために玉樹へやってきたチベット族の僧Laojiangは言った。彼の手は生存者を探すために瓦礫を掘って血にまみれた包帯に覆われていた。
「私はとても悲しいけれど、我々の最高の精神を示せたと感じている。」
原文URL:reliefweb.int

チリ地震状況レポート#7

チリ地震状況レポート#7
情報源: United States Agency for International Development (USAID)
2010/03/07
-3月7日にマグニチュード5.8の余震がビオビオ地域を襲った。アメリカの地理調査団によると、3月6日にはマグニチュード5.1を含む7回の余震を確認している。
-USAID/DARTは、シェルターの構造などに関して地元の行政機関などど協議した。
-食糧に関しては、300,000食の簡易非難食を提供する計画である。
USAID/DARTから報告
-Chanco、Curanpine、Pelluhue、Maule地域では、地震や津波の影響によって47人が犠牲となった。地元行政は、Curanpineではおよそ350人、Pelluhueではおよそ825人、Chancoの都市ではおよそ2,185人、Chanco郊外では1,010人がひどく影響を受けていると報告している。
-USAID/DARTは、Chancoの地元行政と病院関係者とで3月6日に会議を開いた。病院には、ブランケットなどが提供され、薬や救急車なども提供されている。医師や看護士は、郊外に住む被災者に薬を提供するため、家々を回っている。

ハイチ被災者へのシェルターが不足

ハイチ被災者へのシェルターが不足
情報源: Reuters – AlertNet
2010/03/05
* 何万人もの人がいまだ仮設シェルターに入れていない
* 迫ってくる雨季がこれらの人たちを不安に追いやっている
ハイチの地震が起きてから約2ヶ月が経っているが、救援活動が思うように進んでおらず、いまだに多くの人が非難テントや雨風を防ぐ防水シートを受け取れないでいる。
結果、人間の尊厳が失われつつあり、4月には雨季が到来することも重なって、貧困や病気が広がる可能性がある。
現地で活動しているGadenne氏によると、「非難キャンプを訪れても被災者は何も持っておらず、テントや防水シートさえなかった。しかも、彼らには後に救援物資が提供される保証もない状況だった。」と語っている。
1月12日の地震から、配水や配給システムは改善されつつあり、商業やビジネス、政府機関も再開し始めた。
また、キャンプも改善し始め、多くの家族がテントで生活したり、電柱のような柱と柱の間に防水シートを張って屋根を作ったりしている。
連合国は、4月までに地震で家を失った全ての人々に仮設テントなどを提供することを目標としている。
現在は、何万人もの家族が仮設テントを提供されていないため、天気によって大きな影響を受けている。水曜日に一晩中雨が続いたが、そのときも彼らは夜のなか雨宿り出来る場所を探し回り、何時間も立っていなければならないような状況だった。
仮設キャンプ地でも、雨季が来れば様々な問題が起こると予想されている。そのため、人々は政府からの指示や救援グループからの手助けもなしに自分達が安心して住むことの出来る家を探し回っている。
政府や連合国は、脆弱な非難キャンプ地から人々を移動させようとしており、5つの可能な解決策を主張している。
・ もし、自分の家があまり被害を受けていなければ、自分の家に帰らなければならない
・ 家が崩壊している場合は、その場所に新しくシェルターを作る
・ 被害を受けていない土地に親戚がいれば、そこの移動する
もうすでに60万人の被災者はこのいずれかを行っている。
他の2つの選択肢は、あまり望ましいと思われいないが
・ キャンプ自体を改善し、質を向上させる
・ キャンプに住んでいる人たちを別の地区に移動させる
この5つである。
都市の郊外に新しく5つのキャンプ地ができる計画があるが、どこに作るのか、どれぐらいで被災者の人たちが住むことができるのかなどの詳細については全く知らされていない状況である。

マイアミの学校とハイチの子どもたち マイアミの学校とハイチの子どもたち

マイアミの学校とハイチの子どもたち
情報源:Agence France-Presse (AFP)
2010/1/22
フロリダ南部の学校が、地震の被害にあって避難してきた子どもたちの受け入れを始め、その子どもたちに対しては特別なプログラムが用意されることになった。
マイアミは、被害を受けたハイチからの人の流入を視野に入れ、新しく生徒を受け入れることができる学校として15校用意をした。
水曜までに、60人のハイチ人生徒が受け入れを認められたと発表されている。
被害にあったハイチの子どもたちの多くがフロリダ南部に来ることは確実であるが、問題は、いつ、どれくらいの子どもたちがくるのかということであるとしている。
マイアミの行政側は、このような子どもたちが出来るだけ早く学校に行けるように努力するとしており、今回の地震で身分証明紙をなくしてしまった場合でも受け入れると言っている。