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2014/10/29スリランカ・バッドゥラ地滑り速報2

2004年のスマトラ沖地震・インド洋津波が起こったときに、CODEがスリランカのヒッカドゥワにて幼稚園再建支援と漁業支援を行い、その際にお世話になったTilakさんから地滑りの現地のレポートが届いています。

「今回スリランカのバッドゥラ(ウバ州 州都)で起こった地滑りに関して、心配をしてくださった方に感謝したいと思います。私が住んでいる、ヒッカドゥワはスリランカの南の海岸沿い(南部州ゴール県)にありますが、スリランカ国内で流れている情報をお届けしたいと思います。

300人以上がこのコスランダ(Koslanda: ウバ州) とハルハルデュムラ(Haldummul: ウバ州バッドゥラ内の地域)の内陸地域で起こった地滑りで、行方がわからなくなっていると報道は伝えています。昨日の激しい雨と悪天候のせいで、現地に入るのは非常に困難な状態です。救助活動が行われていることを祈るばかりです。メディアは、地滑り現場ではすでに6人の亡骸が見つかったと伝えています。本日私たちは、ヒッカドゥワの地域を管轄している者に、地滑りに見舞われた地域の被害状況を問い合わせたのですが、彼らもまた悪天候のせいで情報を詳しく把握できていない状況でした。しかし、コスランダとハルデュムラに隣接している地域も地滑りを起こす可能性が大いにあるため、安易に救助に行くことはできないのではと皆で話しています。引き続き情報を集めたいと思います。」

2014/10/29スリランカ・バッドゥラ地滑り 速報1

昨日10月29日、スリランカ南部バドゥッラで大規模な地滑りが発生しました。土砂は付近の集落に流れ込み、100棟以上の住宅が土砂に巻き込まれました。AFP通信によると、これまでに16名の死亡が確認されており、さらに約100人が生き埋めになっているようです。軍などはおよそ500人体制で不明者の捜索を行っていましたが、現在も断続的に雨が降り二次災害の危険もあるとして、捜索は中断されています。

スリランカでは10月は雨期にあたり、今月初めから連日のように雨が降っていました。また26日からは雨が強くなり地盤がゆるんでいたようです。
バドゥッラは茶葉の産地としても有名で、今回の地滑りの被災地も茶農園地域でした。雨はおいしい茶葉を育てるために必要であり、雨が多い同地域は茶栽培が盛んに行われておりました。しかし丘陵地であるため、これまでにもたびたび土砂災害が発生し、政府は住民に移住を求めていました。

CODEは引き続き情報収集を行っていきます。

2014年10月7日発生 中国雲南地震ニュース

「雲南地震 被害が少なかったのは?」

7日午後21時50分、中国雲南省南部のプーアール市景谷県タイ族イ族自治県でM6.6の地震が発生した。現在のところ、死者1名、負傷者324名、倒壊家屋2000棟以上の被害が報告されている。雲南省では8月にも北部の昭通市魯甸県でM6.5の地震(魯甸地震)が起き、617名が亡くなり、地震の大きさ、震源の浅さ(12km)、人口密度、家屋の耐震性の弱さなどが専門家によって指摘されているが、今回の地震は前回の地震と同規模だったにもかかわらず、人的被害が少なかった。

これについて雲南省地震局の局長は、今回の地震の被害の少なかった原因をいくつか指摘している。現地の釘を一本も使わない伝統家屋が地震に強かったことや人口密度が低かったこと、被災地の植生が豊かだった事が地滑りなどのリスクを軽減したと語っている。

確かに魯甸地震の被災地では、人口密度がこの地震の6倍で、土レンガを積み上げただけの家屋も非常に多かった。

以前、雲南省に3年ほど暮らしていた際に、雲南省南部のタイ族やハニ族(タイではアカ族)の多くの人たちが、高床式の木造家屋に暮らしている姿を沢山見てきた。タイ族やハニ族の住居は竹楼(バンブーハウス)とも呼ばれ、壁や柱に竹が使われ、蔓などで接合部を固定し、釘や金具は一本も使っていな伝統構法で、屋根は薄い瓦で葺いているシンプルな構造である。気候が年中暑い事から高床式の二階が住居スペースやテラスで涼を取れるようになっており、害虫などからも身を守る。また、一階部は家畜小屋を設け、二階のトイレからそのまま糞尿が家畜の餌として落ちてくる効率的なシステムに驚いた事を思い出す。

雲南省では、このような伝統的な暮らしが、地震から身を守った。だが、現在、著しい成長を遂げる中国では、その余波は雲南省の少数民族エリアにも及んできており、一見、高床式の伝統家屋のように見えるが粗末なコンクリートやレンガを使ったエセ伝統家屋も増えてきている。

災害を機に、今の暮らしを見つめ直す。これは成熟社会と言われる日本も、中国の少数民族の貧困エリアでも同じことである。(吉椿雅道)

タイ族の高床式住居(2005年吉椿撮影)

タイ族の高床式住居(2005年吉椿撮影)

 

フィリピン台風Haiyan:再建か移住か?

再建か移住か?
情報源:OCHA
日付:2013/12/9
子供達は学校へ行き始め、市場にはまた新鮮な果物がたくさん並ぶようになり、建築工事のにおいが町に漂うようになってきた。台風で切り裂かれた木からは新しい葉が芽生えだし、人々はフィリピン中央部の自分達のふるさとへゆっくりと戻ってきている。そこは1カ月前、台風Haiyan(地元ではYolandaと呼ばれている)が直撃し、400万人以上の人々が住む場所を奪われたままの場所である。
あれから、支援の取り組みは初期対応の段階から長期的な復興の段階へ移行してきている。1500万人の人々が被災して、この時期の主要な問題の一つは、この様な規模の破壊現象によって引き起こされる今後の災害をどのように防ぐかということである。
危険地帯からの移住
Augusto D. Corroはセブ島北部の Dan Bantayanの地区長である。彼のバランガイ(注:地区を表すフィリピン語)を今後の災害から守る唯一の永続的な解決策は移住であると彼は言っている。彼が危険だと考えている沿岸部から離れた高台の3地区へ200家族の家を建てる計画をしている。「私のバランガイでは、43%の住民が最低ラインの貧困生活をしている。彼らにとって島の中央部に近いところに本当の家を持つことは選択肢のひとつではなく必然のことだ。」とCarro地区長は言う。今のところDan Bantayanだけで15の海岸近くの危険地帯に5000人の非公式な住人がいる。
「私達の家畜はここにいる。私達の田畑はここにある。」
この様な不安があるにもかかわらず、この地域の家族の多くは別の考えを持っている。「私達は動きたくない。」とRebecca Piñarは言っている。彼女は31の家族と一緒に、倒木やトウモロコシ畑をひかえたBogolの郊外の遠隔地に身をひそめている。台風が彼らの家のほとんどを壊してしまったと彼女が説明していると、壊れた小屋の間の狭い隙間を通って家族がどんどん姿を現した。Haiyanによって、高潮や腰の高さまでくる洪水に抗えるくらい丈夫だったわずかに残った小屋に皆で住まざるを得なくなっていた。移住するより、以前の生活の残骸に囲まれて生活する方が良いとやはり彼女は思っている。「私達はこの土地を持っています。私達の家畜はここにいるし、私達の田畑はここにあります。私達はここに住んで、これからも何も変えない。」
と彼女は言った。
移住の課題
Medellin地区の地区長であるRicardo R. Ramirezは移住の計画には住民の生活様式を考慮することが必要だと説明している。
「もしも、ここを離れて安全になっても漁に使っていた舟を見られなくなり、作物を作っていた田畑を見られなくなるのだと言ったら、彼らは動かないだろう。」
多くの住民が以前の地域を離れることに抵抗しかねない一方で、一時避難所に移ることに及び腰になっている人達もいる。
「フィリピン人はテントに住むのを好まない。彼らは一時避難所に移ることをいやがって、何週間でも親戚と一緒に住む方が良いと言うだろう。彼らが必要としているのは、普通の生活をすぐに再開するための家を再建するのに使う建築資材である。」と地区長は言っている。
避難所での生活
多くの家族が再建か移住かについて議論している一方、他方では家が完全に崩壊してしまった50万の家族はわずかな選択肢しか持っていない。Haiyanが 中央Visayas地区を襲った後、セブ市はタクロバンやレイテの被災した家族の大部分を受け入れた。Tinago避難所はセブに6か所ある避難所の中で最も大きいのだが、災害直後には600人を受け入れた。避難所にいた人の多くは親戚と一緒に住む場所をみつけたり、以前の場所に戻って行ったりして、今は200人に住む場所を提供している。
「最初、Yolanda の直後に到着した4組の一団は恐ろしい様相だった。ここに到着した時には、彼らはまだ死臭を纏っていた。」とBarangayのリーダーで避難所の責任者であるJoel C. Garganeraは語った。
この避難所は最後の人が家に戻るまで残るだろう。多くの避難者は、もとに戻れることを期待してあまりにも早くタクロバンに戻ったもののまだ住める状態ではないとわかって、またセブの避難所に戻ってくることを強いられている。
11歳のJosephは家族の中の唯一の生存者で、まったくひとりぼっちでここへやってきた。彼はバスケットボールのネットにしがみついて、兄弟達が流されていくのを見ていた。
しかしこのような悲劇的な話の中に希望の瞬間もある
ふたりの子供を亡くしてしまったという思いに打ちひしがれて避難所にきた夫婦が、セブで子供達と再会した話とか、台風の直後の避難所で4人の赤ちゃんが生まれ、皆Yolandaと名付けられたという話をBarangayのリーダーのJoelは語った。誕生日を祝ったり、カラオケの夕べがあったり、寄贈された遊び場で子供達が笑っていたりするところで、ほんのわずかな時間、彼らもくつろいだ気持ちになれるとも言っている。
原文URL:http://reliefweb.int/report/philippines/rebuild-or-move
翻訳:Y.Kさん

台風Haiyan後の緊急支援に取り組む若者達

台風Haiyan後の緊急支援に取り組む若者達
情報源:Women’s Refugee Commission
日付:2013/11/23
台風Haiyanの後、フィリピンの様子を伝える画像の多くには若い男女が被災した人々を助けるために集まってきているのが見られる。台風からわずか3日後のマニラ空港の仮設配給センターからの報告では、BBCが若い学生達にインタビューしていた。彼らは制服を着たままで、被災地へ送る緊急食糧を詰めるボランティアを夜通ししていた。その中には他の市からやってきている生徒も何人かいたが、夜遅くまで働いてそのうえで朝6時に起きて学校へ行くつもりだと多くの生徒達は言っていた。悲しい思いが動機となって、助けたいという衝動に駆られているのだと彼らは説明していた。
若者たちにうまく関わってもらえば、彼らのもつ才能と資源によって救援活動は大いに向上する。支援機関がフィリピンで緊急プログラムを立ち上げて仕事を始める時には、これらの若者達に率いられたものも含めた被災コミュニティによって行われる自発的、草の根的な救援活動を進めていくよう取り組むべきである。
それと同時に、国際援助団体は若い男女を安くて危険な仕事をする労働力として不当に扱わないようにすることが大切である。
両親との離別、学校生活の突然の途絶、貧困と不安定な生活の増大などによるこの危機的状況において大変な危険にさらされているにもかかわらず、彼らは重要で建設的な貢献をしようとしている。彼らの持っているたくさんのつながりや、ソーシャルメディアやモバイル機器などについての知識でもって情報を広め、不明になっているコミュニティの仲間の消息をたどり、仲間を動員するということで彼らは重要な資産となり得ている。若者達は自分のコミュニティの子供や若者のニーズに対する計り知れないほど貴重な見識を提供してくれる。その中には、障害のある若者、暴力や搾取の危険のある少女達、強盗団や犯罪活動に引き入れられる危険のある少年達など、言い換えれば救援活動のなかで取り上げられないかもしれないもっとも危険な状況にある人々も含まれている。
どの人道主義的な災害支援においても、若者達は救援活動に参加し、もっと言えば活動を引っ張ってきた。2004年のインド洋津波の後は、若者達がUNICEFに加わって仲間や隣人達の心理社会的なサポートを申し出たり、被害状況の調査をしたり、学校やコミュニティの再建を手伝ったりした。2010年のハイチ地震の後には、ボーイスカウトががれきの下に閉じ込められた人を助け、生存者のためにテントを立て、コレラ予防の教育を人々に行い、避難所の子供達に対してレクリエーション活動をした。そして2009年のイタリア地震の時には、若い赤十字のボランティアがクラウンセラピーを用いて、自分達より小さい子供達がゲームや笑いを通して感情を表現できるように働きかけた。これらの支援は、時にはボーイスカウト、ガールガイド、YMCA/YWCA、赤十字・赤新月社などの既存の若者の組織やネットワークを通じて行われる。しかし若者達が自分達で組織したり、個人的にボランティアを申し出たりすることもたびたびある。
災害や緊急時は若者達に新しいスキルを学び人間個人として成長する機会を提供してくれる。救命技術、応急処置、公共衛生促進、疾病予防などの訓練を被災した若者達にすることは、より広範なコミュニティに向けての利益と同じように若い男女にも大きな利益をもたらすことになる。この前向きな取り組みは、若者を「トラブルメーカー」としてとらえる誤解を払いのけ、世代間の前向きな関係を発展させていくことの助けとなりうる。
国際支援機関は台風Haiyanの後のフィリピンで湧き上がった若者の自発的な新しい取組みを無視しないでほしいと我々は願っている。その取組みで彼らは、若者と協働してニーズを調査しそれへの対応を計画しようとしている。また地元のコミュニティがすでに始めていることを進めていこうとしている。そしてもっと貢献するよう若者達を力づけるためのリーダーシップとスキルの訓練を提供しようとしている。
このような方法で若者へ投資することは、フィリピンのように災害の多い地域に重要な災害リスクの削減への投資にもなる。
原文URL:
http://reliefweb.int/report/philippines/engage-youth-emergency-response-typhoon-haiyan
翻訳:Y.Kさん

強いコミュニティが復興を引き受ける

強いコミュニティが復興を引き受ける
情報源:World Vision
日付:2013/11/18
フィリピンセブ島北部のTrabugonでワールドビジョンの開発事業ボランティア地域リーダーとしてBonafacia-隣人たちは Pacingと呼んでいる-は近隣の子供たちの福祉について観察し親たちには責任を持って世話をするように励ましている。Pacingには5人の息子がおり、スポンサーチャイルドである15才のJadeもその中のひとりだ。
台風Haiyanは彼女のコミュニティに大変な損害をもたらした。しかし人々はそこで互いに助け合った。「私達は自分たちだけのために何かを持つことに我慢できないし隣人たちが困っていたら面倒を見ずにはいられない。私達は食べ物、避難場所、そして他の必要な物を分け合った。」とPacingは言う。
ワールドビジョンのスポンサーシッププログラムがこの困難な時のいたるところでコミュニティの団結を発展させたと彼女は信じている。このプログラムの中では、80人以上の地域の人達が毎月集まり、問題を共有し、解決法を話し合ってきた。「私達はここのハザードマップを作り、避難ルートと警報システムを計画した。」ワールドビジョンがコミュニティで促進してきた防災ワークショップのことをPacingは話した。
子供達は嵐による被害や洪水、土壌の崩壊などを木々がどれだけ防ぐかを学び、木を植えて世話をする役割を担ってきた。子供達の植えた木は流され、Haiyanが伴ってきた多くの物によって破壊されてしまった。それらの木は、極めて重要なココナッツやジャックフルーツ、ポメロ、バナナ、そしてスターフルーツなどだった。
「木が倒れてしまったので、もっと暑くなった。子供達は木に登ってその果物を取って食べるのが好きだった。今はどうやってあのような健康的な食べ物を彼らに与えることができるのだろう。」とPacingは言った。
彼らはまた木を植えるだろうか?「もちろん、私達ががれきや壊れた家をきれいに片づけたら子供達にも安全になる。そうしたら私達はまた木をうえます。」と彼女は答えた。
原文URL:
http://reliefweb.int/report/philippines/typhoon-haiyan-strong-community-takes-recovery
翻訳:Y.Kさん

台風Haiyan後のレイテ島被災地での救援活動

台風Haiyan後のレイテ島被災地での救援活動
情報源:IFRC(国際赤十字・赤新月社連盟)
日付:2013/11/17
フィリピン赤十字の救援トラックがゆっくりとTanuanのメインストリートの角を曲がってきた時、大きな歓声が上がった。これから数日間生き延びていくための食料の包みを待ちながら、1時間以上の間千人を超す人々が忍耐強く列を作っていた。
5万人の町に支援が届いたのはこれが初めてだった。台風Haiyanの生存者にとっての状況が良くなり始めているという前向きな兆候である。台風に伴って高潮と猛烈な風が組み合わさってやってきた結果、すべての家が被害を受けた。波は進路の途中のすべてを粉砕し、壊れた家や車や人々の財産などのがれきは全ての通りをふさいでいる。店はまだ閉まったままで、地元の人々は飲み水を求めて、町中に点在しているわずかな手動ポンプに頼っている。
その日には物資配布をしている道の向こうでフィリピン赤十字が応急処置所を開設した。傷の手当てを求めて歩いてくるけが人の途絶えることのない流れができていた。すぐ近くの家から引きちぎられた金属製の屋根が飛んできてけがをした十代の若者の腕の傷を二人の赤十字のボランティアが注意深くきれいにしていた。「ほとんどの傷が裂傷によるものだ。」とLagunaのフィリピン赤十字支部からきたRudelly Cabutinは説明する。「適切な治療がされないで多くの人達が感染症になることが心配だ。この町の地元の医療サービスは崩壊してしまっている。」
市役所では23才の Golda Mayが5人の助産婦のチームと合流して小さな事務所を分娩室に整えていた。そこではタオルで覆った机をベッドにしていた。屋根の半分はなくなっていて、雨風をしのぐものは防水シートだった。床は泥水に浸かっている。「災害によるショックで多くの母親が早期分娩に入っている。私達には麻酔も痛み止めも抗生物質もない。」とGoldaは言っている。粗末な設備にもかかわらず、チームはこの一週間で13の分娩を行った。Goldaは自らの悲惨な話をしてくれた。嵐が起こった日、彼女は働いていた。しかし4才になる娘は高潮の進路内にある家にいた。「私の娘はまだ行方不明です。子供はみんな集団墓地に葬られたと人は言っています。何が起こったのか考えないようにするために今は忙しくしていなければならないのです。」と彼女は語る。彼女には他に子供はいない。
Tanuanの裏通りでJuan Coleasは自宅のがれきの中を丹念に探っていた。残っているのは彼や家族の持ち物で散らかった中で切れ切れになった材木の山だけだった。彼の息子のJoeyはすでに家の土台を作り始めていた。防水シートで覆った仮設の住宅を作るのだ。「ここの3軒の家に私達12人が住んでいた。私達は全てを失った。」とColeasは言った。外では妻ががれきや泥に囲まれた汚い水の中で洗濯をしていた。空気は腐敗した遺体の臭いで淀んでいる。がれきの中に何人の人が埋まったままなのかわからない。Juan Coleasは隣人の Felicisisimo Picaと共にいる。Picaはリタイアした土木技術者で、この通りで唯一建っている家の持ち主である。
「うちで約50人に家を提供している。私達は持っている食べ物を分け合い、一緒に料理をしている。フィリピン人にとってこれが地域社会として災害を乗りきる方法なんだ。希望もなく私に残っているものは何だろうか?」とPicaは語る。
台風が襲ってきてからフィリピン赤十字はとても困難な状況で驚くべき仕事をしてきた。タクロバン支部のスタッフも皆高潮の直接的な被害を受けた。この支部の17人のメンバーはどうにかこうにか波から逃げて屋根の上で4時間救助を待った。今赤十字は部分的に壊れているレイテパークホテルの敷地内に指令基盤を置いている。ルソンとミンナダオを含む国中の支部から136人をボランティアとして採用した。毎日赤十字の3台の給水車はそれぞれ本格稼働し、タクロバンで唯一機能している病院の隣に水の貯蔵袋を設置してそこへ水を届けている。町では水の供給がまだ断続的なため町の他の地域の地元住民へ水を届けるためさらに二つの水袋を設置した。ボランティアのチームは通りからがれきを取り除くのを手伝った時、遺体を回収するという陰惨な仕事も行った。
今日のTanuanでの支援提供は我々の任務の拡大を示すものである。「12の車列がタクロバンに到着するのに5日かかった。ここで大量の支援物資を届けるのがどんなに大変か見当がつくだろう。タクロバンに多くの注目が集まってきたが、今優先すべきことはまだ支援の届いていない他の町や村へ出ていくことだ。」とフィリピン赤十字業務責任者のRyan Jopiaは言っている。
原文URL:
http://reliefweb.int/report/philippines/relief-rolls-devastated-towns-leyte-after-typhoon-haiyan
翻訳:Y.Kさん

【フィリピンの現地ニュース】ボランティアさんからの情報

ボランティアのH.Tさんが、フィリピンの英語メディアからニュースをピックアップして訳して下さいましたのでご紹介します。
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・パナイ島にあるIloilo-Capiz 道路は、倒木と電柱によりまだ通行止めとなっている。
11月13日10時25分(インクワイアラー)
・北方セブ島Daanbantayan町に避難所、水そして食料なしで、置き去りにされた住民が病気になり始めている。YOLANDA台風が襲来した何日か後に住居を奪われた人々の中で下痢や熱がよく起こっている。Daanbantayanの町長は「人々は基本的に必要不可欠である食べ物、水、テントを除いて、大変薬を必要としている」と述べた。また、「彼らは、ある場所からある場所へと避難所を求めている。避難が可能であった私たちの体育館は破壊された。私たちは大変困難な状況に置かれている」と話した。地元の政府と民間部門によって救済グッズが北方セブ島に送られているが、言うまでもなく十分ではない。
11月14日(インクワイアラー)
・バンタヤン島の住民は食べもの、水、援助を必要としている。ある男性一家は台風から五日後、破壊されたヤシの木の森林地帯の中で、政府の救済補助でかろうじて生き延びた。
(ABS CBN) 
・PCGによって伝えられるところによると、アジアの船積み会社が所有している小型内航用輸送船の乗組員の一人が、船がボホールのPOBLACION GUINDULMANの海の上に座礁した後、行方不明になっている。陳述のなかで、PCGは、「台風がVISAYAS地方に衝突したとき、船「ROGER」は、ボホールとセブ島に座礁した4船の小型内航用輸送船に含まれていた。一人も死傷者、けが人は報道されていないが、その行方不明の乗務員はまだ身元が確認されていない。」と話した。
11月9日(GMA)

台風の後も強い友情の絆で結ばれた支えあい

台風の後も強い友情の絆で結ばれた支えあい
情報源:IFRC(国際赤十字・赤新月社連盟)
日付:2013/11/16
Julie-Ann Benedict, Julius Steven, Valerie Jeanの三人はものごころついた時からお互いを知っていた。-一緒に遊び、一緒に学校へ行き、お互いに誕生日を祝った。この前の金曜日には多台風Haiyanに一緒に立ち向かった。
今、三人の十代の友達は、タクロバンで家族のために食料や水を探す試みをしながら日々を過ごしており、何が起こったのかを受け入れるためにお互いに支えあっている。「私達の三軒の家は隣同士だったのでいつも一緒にいました。私達も家族もみんな大丈夫だったことに感謝しています。みんなの家は被害を受けましたが、少なくとも眠るところはあります。」と15才のJulie-Annは言った。
カテゴリー5の嵐がレイテ島北部の町に激しく雨風を打ちつけていた時、三人の若者達は両親や兄弟達と避難していて、最悪の事態に対してお互いを元気づけていた。
「嵐が通り過ぎて、なにがあったのか見た時、ショックを受けました。」と14歳のJuliusは語った。「これからどうしたらいいのか誰もわからなかった。今もわからないけど何とか生きていきます。」
次の火曜日、彼女達は水が見つかる期待を持って、町の自分達の家から空港に向かって数キロ歩いて行った。がれきや洪水が作った窪み、Haiyanの残していった残骸からできる限りのものを持ち出そうと押し寄せている大勢の人々などの大混乱の中を数時間苦労しながらすすんだ後で、彼女達は細いパイプから地面の泥だらけの窪みにちょろちょろと水が流れ落ちているのを見つけた。三人がパイプの水を瓶にいっぱい満たし終えたところで、18才のValerieは言った。「この水がどこからきているのかはわからない。これで病気にならないことを祈るけど、私達にはほかに選択肢はありません。」
フィリピン赤十字の健康プログラム責任者であるRyan Jopiaはこの地域において清潔な水が皆にとっての最優先課題だと語った。「飲料水の不足はとても重要なことだから、水の貯蔵袋と給水車と浄水システムをタクロバンとレイテ島北部の他の被災した地域に配置する。」
国際赤十字・赤新月社連盟は台風によって被災した何百万もの人々への支援を求めている。その呼びかけは、台風によって家や生活を破壊されるという経験をした人々へ食料、水、避難所などを含めた緊急支援をフィリピン赤十字と協力して届けることにつながる。
原文URL:
http://reliefweb.int/report/philippines/finding-support-through-strong-friendships-after-typhoon
翻訳:Y.Kさん

フィリピンの暮らし~ボランティアさんの体験から~

フィリピン・セブ島の孤児院で半年間ボランティアをされた経験のあるM. Iさんが、滞在先だった地域の暮らしや文化について教えて下さいましたので、許可をいただきここに掲載させていただきます。支援をする際には、その地域の暮らしや文化について知ることがとても大切です。コミュニティごとに暮らしぶりは異なると思いますが、セブ島の生活の一風景を想像してみて下さい。
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まず衣食住についてです。
フィリピンは亜熱帯気候のため、年間を通して暑く、現地の人々の服装は半袖にジーパンというような感じです。しかし朝晩は少し気温が下がります。私たちにとっては涼しい程度の気温でも、寒さに慣れていない現地の人々にとって、雨が降った時などは特に、身震いするほど寒く感じられるようです。
食事は米とおかずが基本です。おかずは肉・魚、野菜などの炒め物、煮物が多いです。ほとんどのフィリピン人たちが毎日三食必ずといってよいほどお米を食べます。食事はスプーンとフォークを使いますが手で食べることも頻繁にあります。おやつを食べることも食事と同様に当たり前のような風習があります。
住居は高級な家から雨風をしのげるだけのレベルのものまでさまざまですが、国民の80%が貧しいといわれているため、多くの人がセメントと石のブロック・木材などで建てたような家に居住しています。電気が通っていない家もあります。
トイレやお風呂に関して。基本的にお湯はありません。フィリピン人は朝にバケツに張った水をすくって浴びるという形で入浴します。トイレは、用を足した後、トイレットペーパーを使わず、手を使い水で洗います。洗濯は基本的に手洗いです。入浴、洗濯、トイレなどによる生活排水は海や川、家の周辺に垂れ流されている場合もあるので衛生的ではありません。
宗教は約95%がキリスト教(ほぼカトリック)です。教会の前を通る時や食事の前など十字架をつくるなど、非常に信仰心が強く、つらいことなどがあるとき、教会に行ってお祈りをすることで心が平和になるようです。いいことがおこった時なども神に感謝します。
病気については、狂犬病や赤痢などいろいろありますが、蚊を媒体にし感染するデング熱は雨が多く蚊が大量発生する時期に患者が増加します。栄養状態が良いと発症しないこともありますが、貧しく栄養のあるものを食べられない子供など、症状がひどかったのを見たことがあります。
防災教育などについては、日本のように盛んではないのではないかと思います。というのも、私は孤児院で半年間働いていたのですが、そのような指導・教育がされているのを見聞きしたことがないからです。またフィリピンは地震や災害が確かに多いですが、セブあたりの地域はどんな災害でも比較的被害が少ない場所なんだと現地の方々から聞いたことがあります。10月に起こった隣のボホール島での地震と今回の台風について、現地の人はこんなのは初めてだと言っていました。
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また、M.Iさんは、こうおっしゃっています。「セブ在住レイテ出身の知り合いがいるのですが、先日、家族と連絡がとれないため、家族がレイテ島で生きていることを祈りながら、レイテ島に帰省すると言っていました。本当にいたたまれない気持ちです。」
日本にいるフィリピン人の方々でも、ご家族と連絡が取れない方が多いようです。本当に、無事を祈るばかりです。